日本当局としては満州は抗日運動の源流で日本の朝鮮統治を脅かす危険地域だった。日本外務省は満州の韓人たちを監視するため1907年、在間島総領事館の管轄区域を吉林省の延吉、和龍、汪清、琿春の各県と決め、1909年には奉天省の撫松と安圖県を追加した。1925年吉林省の4県には領事館分館4つが設置されたが、撫松と安図県はその一つだった頭道溝分館が担当した。

 東邊道地域へ移住した韓人たちは、いろんな独立団体を組織して満州国境側に拠点を置いて上海臨時政府と連絡し抗日武装闘争を展開した。1920年から1926年頃までは民族主義系列団体の武装闘争が絶頂になる。彼らは日本の国境警備を潜り抜けて国内進攻作戦を開始して日帝の統治施設である警察署(あるいは交番)と村役場などを奇襲し、日本に忠誠した親日の金持ちたちを処断し、臨時政府や独立軍組織のため募金活動を行ったりした。

 洪範図司令官が指揮した独立軍は1919年8月、恵山鎮に進攻して日本軍守備隊を攻撃し、9月には咸鏡南道甲山郡の金井駐在所と日本官公署を襲撃した。10月には平安北道満浦鎮へ進入して日本軍と交戦して日本軍約70人を殺傷して国内進攻作戦で最大の戦果を記録した。

 独立軍が国境地域で展開した作戦の数を見ると1920年1,651件、1921年602件、1922年397件、1923年454件の戦闘を記録し、この戦闘に動員された独立軍は1920年4,643人、1921年3,148人、1922年2,127人、1923年2,797人で手ごわい勢力を形成していた。

 当時、国境地域で抗日独立軍の闘争を取り締まった日本警察の資料は“この頃、夜間に動き回る者は、警察と不逞輩と言われるほど物情騷然とした世の中だった”と記録している。日本側は、抗日武装部隊の有力な通過点でありながらも警備がずさんなところとして長白、臨江、集安の3県を挙げた。

 満州地域の韓人社会の独立意識が強化されるや朝鮮総督府警務局は、保民會と朝鮮人民会という韓人たちで構成された密偵ネットワークを組織した。彼らは日本官憲の力が及ばない地域の韓人社会の動向把握と独立運動家たちを弾圧する任務を遂行した。保民会の主要役員と幹部陣は全員が親日団体である一進会の幹部出身だった。

 延吉県と安図県の境界は白頭山から北へ伸びた老齢山脈(現在の英額嶺山脈)だが、頭道溝から西へ伸びたたった一つしかない道はこの山脈の窩集嶺という峠を越えて安圖に入る。撫松県は安圖県の西にある。撫松県は白頭山の北側裾である安圖県とともに中国での文化が最も遅れた地域で、交通が不便なところだ。さらに、一度も斧を入れたことがないと言われる原始の密林地帯がパノラマのように展開し、松花江とその支流の沿岸に若干の平野がある奥地だった。

 『滿蒙都邑全誌』には撫松県の人口が2,800人、安圖県は2,200人で、そのうちの韓人は撫松が30-40人、安圖が30人前後と記録されている。ここがわれわれが追跡する主人公の金聖柱(つまり金日成)のパルチザン活動の主な舞台になるところだ。

 満州の韓人社会に理念の竜巻が吹き荒らされ始まったのは1923年だ。この年にコミンテルン(国際共産党)傘下の組織であるコルビューロ(高麗局)内の韓人組織から派遣された朴允瑞と朱青松が延吉県にある東興中学校を中心として‘高麗共産青年同盟’の支部を組織しながら満州の韓人社会で共産主義運動の始動がかかった。

 1926年5月には、国内の朝鮮共産党の満州組織である‘朝鮮共産党満州総局’が北満州の寧古塔で発足した。朝鮮共産党満州総局と高麗共産青年会満州総局は東、南、北満州に区域局を設置して大衆運動を展開した。1927年、延辺地区の韓人たちは龍井と頭道溝一帯で5月1日メーデー(労働節)記念行進をし、10月2日には龍井で数百人の労働者と韓人たちがソウルで行われていた朝鮮共産党公判の公開を要求しながら示威をした。日本の警察は東満区域局の根拠地を襲撃した関係者29人を逮捕、ソウルへ押送して裁判にかけた。これが第1次間島共産党事件だ。

 中国共産党はこの事件より遅れて1927年10月、奉天に中国共産党満州省委員会を設立し、続いて中国共産党東邊道特別委員会、中国共産党の龍井村支部などを組織した。しかし、満州共産主義運動の中核は韓人たちだった。まさに満州に韓人たちを中心として赤い思潮が急流になって押し寄せていた。

 金聖柱の家系

 北韓指導者・金日成の本名は金聖柱で、中国ではジンジチェン、ソ連軍では‘タワリシチ(同志)キムイルセン’と呼ばれ、1945年9月18日、ソ連軍艦に乗って元山に到着した後は‘キム・ヨンファン’という仮名でしばらく活動した。彼は子供のとき親の背中に背負われて中国へ移住したため、韓国語より中国語がもっと堪能で満州の原野とソ連を転々した後、解放されてソ連軍大尉として故郷に帰還した。

 1945年以後、北韓では当局の主幹で金日成の公式伝記が何回も出版された。金日成に関する主要伝記および経歴に関連する出版物は以下の通りだ。

①朝鮮労働党中央委員会宣伝扇動部編『金日成将軍の略伝』、平壌、1952

②韓雪野、『金日成将軍』、平壌、1946

③白峯、『民族の太陽、金日成将軍』、平壌、1968

④李羅英、『朝鮮民族解放闘争史』、平壌、1958

⑤科学院歴史研究所、『朝鮮通史』(全3巻)、平壌、1958

⑥ソクダン、『金日成将軍闘争史』、ソウル、前進社、1946

⑦北朝鮮芸術連盟、『我々の太陽 - 解放1周年記念金日成将軍の賞賛特集』、平壌、1946

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 これらの伝記および各種資料と関係者の証言をもとに金聖柱の子供時代を追跡してみる。金聖柱は1912年4月15日、平安南道大同郡古平面南里(現在の万景台)で、金亨稷と康盤石の間で生まれた。その年は、日本が朝鮮を併合して2年目の年で、第1次世界大戦が勃発する2年前だった。金聖柱が生まれる1年前の1911年、中国で孫文が率いる民族主義者たちによって、ヌルハチが建てて中国大陸を支配した清朝が打倒された。

 彼は聖柱、哲柱、英柱の三兄弟の長男だった。幼い頃を万景台で過ごしたが、万景台は彼の母の康盤石の実家があるところだ。北韓の最高人民会議常任委員会の副委員長、朝鮮民主党党首、キリスト教連盟の委員長を務めた康良煜は金日成の母親系の祖父の従兄弟だ。(つづく)

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 これら複数の金日成の存在についてソ連派として入北して一時期、北韓の高位職にいたソ連系朝鮮人の林隱(*許眞=許雄培)は、自著の『金日成正傳』で上に列挙した人々は1930年代後半から1945年解放されるまで、日本軍と警察が討伐するため必死だった、北韓の最高指導者となった金日成でないと主張する。

 上に紹介された複数の金日成の中で東北抗日連軍の金日成として推論し得る人物は金光瑞(金擎天)だ。ところが、林隱は金光瑞は1930年代に中国の東北地域に行ったことがなく、東北抗日連軍傘下の武装部隊に加担したこともなく、ソ連では1920年代に金光瑞を金副尉(副位は中尉という意味)と呼んだと主張する。

 林隠が主張する金光瑞の履歴だ。1930年代前半まではウラジオストクで‘韓族軍人グラブ’を組織して抗日力量を結集しようと努力したが成果を上げられず失意の日々を過ごし、極東朝鮮師範大学で軍事教官、日本語講師として勤務した。彼はソ連当局に招聘されて軍事専門家として赤軍創建を助け、1933年から3年間投獄されたが釈放されて1937年に中央アジアのカザフスタンへ強制移住された。

 金光瑞はカザフスタンでコルホジュの作業班長という末端職で労働をして1939年に再度逮捕された後、消息が途絶えた。一説によれば、彼は1939年に逮捕されたが、第二次世界大戦が勃発するや志願して独ソ戦争に参加したという話もある。彼はロコソープスキー将軍の下で大佐の階級に師団を指揮し、1945年初めに戦死したという説があるが確認は難しい。

 このような証拠をあげて林隠は“北韓の執権者の金日成は1930年代後半に東北抗日連軍で楊靖宇、王德太、魏拯民などの指導の下で2軍3師長として(あるいは1路軍の6師長として)、第1路軍第2方面軍の指揮官として活動した人物であり、普天堡戦闘の組織、執行者と見ることができる”とし、金日成が複数人だったという李命英の研究内容を反駁した。

 林隠の主張は‘ありのままの金日成’を見るべきだということだ。金日成は中国共産党の一員として抗日パルチザン活動をしたのは事実だが、彼は特出した人間でなく卓越した功績を立てた人でもない。今日、北韓が宣伝するような傑出した「霊将」ではなおさらないということだ。

 林隱はその理由として、金日成の活動地域が東南満州地帯だったという点、関東軍が中国大陸への侵略を本格的に始めた時期であってため国庫から軍事費を最大限に引き出す目的で大々的にマスコミを利用して強敵と戦っている印象を与えるため、金日成の活動を誇張したためだったと分析する。林隠は、取るに足りない普天堡戦闘と甲山光復会事件などが金日成を一躍抗日闘争のスターにしたが、そのように金日成をスターにしたのは日本軍国主義者たちと関東軍だったと指摘する。

 聖公会大学の韓洪九も、抗日英雄としての金日成の評判は植民地朝鮮の特殊な状況の中で、多分に誇張された側面があるのは事実だが国内の一部の学者たちが主張するようにとんでもない嘘ではないと反駁する。

 韓人たちの間島への移住史

 では、本当の金日成は誰なのか。解放後、ソ連軍大尉の軍服を着て現れてソ連軍政の後援を受けて北韓の指導者になった金日成という人物の本当の人を追跡する前に、韓人たちの間島移住史を先に調べて見よう。

 間島とは満州吉林省の南東部地域で、中国では延吉道と呼ぶ地域だ。満州族が建てた清は、山海關を超えて北京を都として定めた後、満州族の神聖な発祥の地を保護するという名目で1677年、興京以東、伊通以南、鴨緑江と豆満江以北の地域を封禁地域と決めて中国人や韓国人の進入を禁じた。これによって清と朝鮮の間にある島のような地という意味から由来した地名が間島だ。

 19世紀半ばからロシアが東南進を開始しながら青・ロの間で1858年の愛琿条約と1860年に北京条約が締結されて、ロシアが清の領土だった沿海州を手中に入れる。こうなるや清はロシア人たちに対抗する緩衝地帯の建設のため1875年から満州一帯に設定した封禁を解除し、辺境地を開拓する必要性が生じた。

             <1920年代の西北間島の武装独立軍部隊>

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 19世紀半ば、韓人たちが飢餓と貧困に耐えらず鴨緑江と豆満江を越えて西・北間島と沿海州に移住した。特に、1869-1871年に咸鏡道と平安道地域が大凶年で多くの人々が川を渡った。間島への移住初期に韓人たちは茂山、鐘城、会寧などから豆満江を渡った後、水辺の谷に沿って海蘭江以南一帯に集落を形成して稲作を始めた。

 清が1875年封禁令を廃止するや多数の韓人たちが西間島に渡り、佟佳江流域の通貨県を中心に定着した。また、中国の山東、河北地域の飢饉で流民たちが満州に押し寄せてきた。清は封禁政策を解除した後も、在満朝鮮人の土地所有権を認めず小作権のみを認たため朝鮮人の土地所有は非常に不安定だった。

 1920年代になると、毎年80万から100万人の中国人が万里の長城を越えて満州へ移住し1923年から1930年まで満州の純人口増加は約278万人、満州地域の中国人は約3,000万人に達した。

 間島は白頭山を中心に北間島(あるいは東間島)と西間島に分けられる。西間島は鴨緑江と松花江の上流地方である白頭山一帯で、集安、通貨、柳河、懐仁、寛甸、臨江、長白、撫松、興京、海竜県が位置している。北間島は琿春、汪淸、延吉、和龍の四縣に分かれる豆満江北部を指す。間島といえば普通は北間島を指すが、広くは額穆、敦化、東寧、寧安、安図県までを含む。

 1919年の3.1運動後、多数の韓人たちが中国の安東省、奉天省、吉林省、間島省に移住したが、この地域を東邊道と呼んだ。民族運動家たちの北間島への亡命は1908年頃から始まって1930年には東邊道地方を中心に定着した韓人が80万人となった。満州国が建国された1932年以降は、朝鮮総督府が農耕地が不足している朝鮮南部の農民を半強制的に鮮滿拓殖会社などを通じて満州へ移住させた。その結果、1945年満州在住の韓人は216万人に増加した。

 日本軍の討伐を避けて韓半島から満州地域に移動した独立軍部隊は、間島に移住してきた同胞たちと一緒に荒蕪地を開墾して生活の土台を作った。そして祖国の独立を勝ち取るため、独立運動団体(耕学社、重光団、新民会など)を組織し、独立軍を養成するため教育機関を設立して対日抗争力量を培養した。北間島へ亡命した李相卨、李東寧、鄭淳萬などは教育を通じて独立思想を鼓吹させるため吉林省延吉県龍井村に瑞甸書塾を設立した。このように独立志士たちが満州一帯に学校を設立し、大小の団体を作って武装抗日独立運動を展開した。

 1919年に国内で3.1運動が起きるとその余波が満州地域に波及してそれまで構成されていた各独立運動団体が武装して独立軍を形成し始めた。1919年の年末まで東滿地域には、大韓国民会議国民会軍(司令官・安武)、軍務都督府(司令官・崔振東)、大韓独立軍(司令官・洪範図)、北路軍政署(司令官・金佐鎮)などの独立軍が結成された。南満地域には、韓族会議西路軍政署(司令官・池青天)、大韓独立団(司令官・朴長浩)、大韓青年団連合会義勇隊(総裁・安秉瓉)など、30以上の独立軍部隊が創設された。1919年4月、中国の上海で大韓民国臨時政府が樹立された。(つづく)

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 李命英は、北韓の指導者になった金日成は自分の本名を‘金成柱’と主張するが彼の本名は‘金成柱’ではなく‘金聖柱’と言った。これは彼の小学校時代の友人と青年時代の友人と知人たちの証言、日本の吉林総領事館の資料からも確認できる事実だという。それだけでなく、解放後、北韓側もしばらくは金日成の本名を‘金聖柱’と認めたことがある。

 李命英は、金聖柱の漢字表記が‘金成柱’に変わった事情には重大な理由が隠されていると主張する。李命英の主張によれば、金聖柱は満州で中共党遊撃隊の第6師長・金日成(第1の金日成)と第2方面軍長・金日成(第2の金日成)の部下だった人物だという。ところが、A-1、A-2、B-1、B-2が全員死んだ後、解放されるや金聖柱はこの四人の人物が行ったすべての活動をすべて合わせて自分がやったように捏造した。この偽者の人物を‘伝説的な抗日闘争の名将・金日成’であると持ち上げたのが北韓駐屯ソ連軍政のロマネンコ民政司令官だった。

 東京の朝総連傘下の朝鮮大学校教授として北韓原典を通じて金日成を深く研究した許東粲は1931年から1936年までの5年間、2人の金日成が活躍したと主張する。1人は中国共産党汪清遊撃隊政治委員だった金日成だ。彼は1932年7月、延吉県依蘭溝遊撃隊員だった。当時、彼の年齢は30歳、1934年1月には中共党東満遊撃隊汪清大隊の政治委員、1935年3月から9月までは東北人民革命軍第2軍独立師の汪清連帯中隊長だったが、この年の年末に彼の名前が漢字で‘金日成’であることが明らかになった。

 もう1人は北韓の指導者になった金日成だが、彼は1932年7月には吉林省蒙江県にいて当時の年齢は21歳で中共遊撃隊員でなかった。彼が汪清連隊に包摂されたのは1934年8月だった。彼は1935年7月から1936年1月まで琿春連隊に派遣されたが、彼の当時の漢字名は‘金一星’だった。許東粲は以上の根拠で1937年6月4日の夜、普天堡を襲撃した金日成は、北韓の指導者になった金日成とはまったく関連のない事件だったと主張する。

 許東粲はまた、北韓の指導者になった金日成が‘金日成’という通名を使い始めた年代が政敵の粛清、唯一思想体系の確立、後継者の金正日の確立のように権力維持の手法が極端化していくのにつれて、1932年から1930年、1928年に遡る奇妙な現象を発見した。

 本名である金聖柱の漢字表記の3つ(金聖柱、金誠柱、金成柱)は金日成が解放後、これが自分の本名であると1回以上言及した事実があり、また文献にも記録されている名前だ。分かりやすく言えば、金日成は公式的には漢字で成柱と表記しながらも暗黙的には聖柱と誠柱を認めている。それでは、本名の漢字表記は果たしてどちらが本物なのか。

 許東粲は私見と断って次のように推理する。金亨稷が満州で得た三男の名前が永住だったが、これがあいにく弟の金亨禄の息子の名前と同じだった。そのため、母方の祖父の康敦煜が1923年ごろ、金亨稷の息子の名前を金聖柱、金哲柱、金英柱に変えたという。

 金聖柱は1929年5月、吉林の毓文中学在学中の朝鮮共産党青年会事件のため逃げた後は、聖柱を成柱あるいは誠柱と変えて危機を免れた。聖柱は中国語で読めば‘センジュ’で、成柱と誠柱は‘チェンジュ’と発音されるためだったという。

 李命英は、1920年代後半と1930年代初めにA、Bタイプの外に、金一成(キムイルソン)という名前を使う2人の存在を見つけた。1人は北京で活躍した金一成で、1926年10月に発足した韓国独立唯一党北京促進会の発起人名簿の中にあった。

 もう1人の金一成は1930年代初め、ソウルで文筆活動をした金璟載だ。この人は前回に紹介した5番と同一人物だ。金璟載は水原農高を卒業して東京に留学し、植物病理学を勉強してから上海を経て南北満州とロシアなどを放浪しながら民族運動をした。帰国してから火曜派共産主義者たちの重鎮として活動したが、1925年に朝鮮共産党第1次党事件で投獄された。出獄後『朝鮮之光』などいくつかの雑誌に多様な筆名で執筆活動をした。

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 ‘金日成伝説’の実存人物である金光瑞

 李命英は、咸鏡北青郡で1887年生まれ日本陸軍士官学校を卒業した金光瑞が‘本物の金日成’だと主張する。彼は金日成という仮名の外にも金擎天と仮名を使用し、日本側の資料や国内の新聞には‘日本陸士出身の金擎天’あるいは‘日軍中尉だったが不逞団の首領になった金光瑞’などと記されている。李命英が究明した金光瑞の履歴や活動は以下の通りだ。

 金光瑞は日本陸軍士官学校を1911年卒業(23期)、日本陸軍少尉として任官した。3.1運動が起きたときは東京第1騎兵連隊にいた。東京の朝鮮人留学生たちを中心に万歳運動が起きる気運が成熟するや、彼は病気休暇を得てソウルに戻って日本陸士3年後輩である池錫奎(池青天、李晴天)、李應俊などと共に満州へ亡命して抗日武装闘争を展開する計画を話し合った。

 ソウルに来た金光瑞は、憲兵の監視を避けるためソウルの有名な妓楼や中華料理店を出入りして放蕩な生活をするように偽装し、一時は義親王・李堈の恋人と浮名を流した。金光瑞は1919年6月、池錫奎と一緒に新義州を経て満州へ亡命した。2人は南満州の柳河県孤山子にあった独立軍養成所である新興武官学校で青年たちに軍事学を教えた。

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 この学校には旧大韓帝国軍官学校出身の申八均もいた。この3人は祖国光復のため闘争することを約束し誓いの意味で共に‘天’の字が入る号を作ったが、申八均は東天、池錫奎は靑天、金光瑞は擎天だった。後に彼らは‘南滿三天’と呼ばれた。

 1919年の冬、武器購入のためロシアに渡った金光瑞はそこの韓人たちがシベリアに出兵した日本軍に虐殺される現場を目撃した。彼は韓人青年たちを集めロシア赤軍と連合して日本軍と戦った。1920年代前半の海外独立運動に関する記録には金光瑞に関するものが多い。代表的な記録は次のようだ。

 ○“1922年2月中旬以降、東部シベリア、特に沿海州で白軍が衰退して赤軍が台頭するにつれて金光瑞が率いる約6百人の鮮人團が赤軍に加担した。最近、イマン付近で白・赤両軍が衝突した際に、彼らは皇軍(日本軍)に抵抗したが、その勢いは恰も武力復興を感じさせる。”(朝鮮軍参謀部の沿海州方面情勢報告文書<朝特報>第17号、1922年5月23日)

 ○“近来、ロシア領沿海州およびウスリー地方での金光瑞の勢力は次第に文昌範や李東輝の勢力を凌駕するだろうという。彼は今はイマン付近に約1千人の一団を編成して屯田組織による軍事訓練を実施しているという。だが、この部隊が果たして赤軍の一部であるかそれとも赤軍の諒解のもとで成立した純粋な不逞鮮人団体であるかは確実でない。”(朝鮮軍参謀部、<朝鮮内の一般情況を報告>、1923年7月5日)

 東亜日報は1923年7月29日付に‘氷雪のシベリアで紅白戦争の実地経験談。俄領の朝鮮軍人金擎天’という見出しで金光瑞とのインタビュー記事を掲載した。他にも1979年にモスクワで出版された金マトウェイの著書『遠東においてのソビエト主権樹立のための闘争においての韓人国際主義者たち』という本にも金擎天の経歴が紹介されているが、李命英が主張する内容とほぼ同じだ。(つづく)

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第1章 金聖柱時代

 複数の金日成たち

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 日本に国を奪われる前の1907年に義兵たちが決起したとき、そして1919年の3.1運動直後から解放されるまで、東南満州と北韓の国境地域一帯には‘抗日闘争の名将、金日成将軍’の物語が広く流布していた。白馬に乗った将軍が縮地の術を使って鴨緑江と豆満江を渡りながら神出鬼没の戦いで日本軍を打ち破ったというのが主な内容だった。特に、‘金日成将軍’の噂は解放される10年前からさらに広く流布された。追跡してみると、事実と伝説が入り混じって巨大な神話が作られたのだ。(*左写真は日本陸士出身の金日成。1877年生まれ、本名は金光瑞。騎馬中尉のときの写真)

 興味深い事実は、金日成将軍の漢字表記は4つ(金日成・金一成・金一星・金日星)もあることだ。学者たちの研究を総合すると、金日成の存在を究明する作業にはいくつかの流れが存在する。

 第一、北韓の御用学者たちの金日成関連著作物らだ。この著作物らは中国の東北抗日連軍の活動や成果を金日成個人の役割として捏造して人為的に金日成を偉人化している。

 第二に、在米韓国人学者である徐大肅教授が1968年、『朝鮮共産主義運動史』という著書を通じて、北韓の金日成が北間島の中国共産党遊撃隊に入ってかなりの地位に上がり、1937年6月4日の普天堡戦闘をはじめ、多くの戦功をあげたと主張した。いわば‘金日成1人説’を主張したのだ。

 第三に、南韓の一部の学者たちの観点で、本当の金日成は大昔に死亡し、北韓の指導者になった金日成は偽者という観点だ。

 第四に、‘金日成’と呼ばれた複数の人が存在したという‘金日成多人説’だ。まず、金日成を研究した学者たちが究明した複数の‘金日成’の存在を追跡すると、次のような記録らが発見される。

①“伝説上の金日成は日本陸軍士官学校を卒業し、朝鮮の独立のため勇敢に戦った男と同一人物で、この金は1922年満州で凍死した。”(以北、『金日成偽造史』)

②“金日成は1920年代に満州一円にあった民族主義の戦闘組織である正義府に加担して1931年に病死した。”(金昌順、『北韓15年史』)

③“金日成は伝説の金楊寧という韓人だが1937年、日本軍との戦闘で戦死した。”(金昌順、『歴史の証人』)

 金日成研究家であるハワイ大学の徐大粛教授は、金日成という名前を持った共産主義活動家を次のように紹介している。

④“第1次党(高麗共産青年会)から東方共産大学へ派遣された21人の学生の中に金一星という人がいた。この男は慶尚北道金泉出身の金琮洙(ラストキン)と同一人だ。金は1928年に東方共産大学を卒業した後、朝鮮に帰ってきて第4次党の共産主義活動に参加した。”

⑤“1930年代に『彗星』、『第一線』その他の主導的な朝鮮雑誌に金一星というペンネームでいくつかの記事が掲載された。この記事は当時のいろんな問題に関する記事で、共産主義活動を回想したものもある。この人は金璟載で、第2次党事件に連累されて検挙されたことがある。彼はかつて『朝鮮之光』の編集者でいろんな名前で記事を書いた。”

⑥ “M・L党の文書綴りには第4次党の北京支部に金日成という人がいたという記録がある。彼は支部長で、金ソクリンの指導のもとで仕事をした彼と一緒に仕事をした人々の中には李ヨウンシク、崔ファン、元フン、金ヨンチャンなどがいた。後に金日成という人が北京で高麗共産青年会のために『革命』という雑誌を編集し出版した。”

⑦“第1次間島共産党事件の後、没収された文書には金日成という人が延吉県の小さな共産主義一線組織である修養会の教育委員長だった。この組織の責任者は李仁秀だった。”

⑧“第1次間島共産党事件後、朝鮮共産党満州総局の北満局組織部長の金殷漢(火曜会員)は、法廷で次のように証言する。彼は1926年に初めて満州の共産主義運動に加担し、委員長の姜ファインの命令で高麗共産青年会のメンバーである金一星という人と一緒に阿城縣地区に派遣された。そこで彼は金日成と一緒に1927年1月から3月まで2ヶ月間、共産主義を宣伝した。”

⑨“1920年満州とロシア領沿海州には金一成という人がいた。彼は当時30歳で、中国服を着て1920年12月27日、元山を経て朝鮮に入った。この金一成は1920年12月10日から20日まで沿海州のイマン(Iman)で行われた小規模の韓人共産主義者の会議での決定によって朝鮮に派遣された。金と一緒に派遣された人々は金チャンウォンと李ルンだった。

⑩“満州の共産主義機関紙の一つである『赤旗』の1930年3月号には金一星の死を追悼する記事が掲載されている。 "

⑪“第4次間島共産党事件、あるいは‘5.30事件’のとき、金一星と呼ばれる者が共産主義者の一団を率いて龍井市街地を破壊した。”

 さらに不思議なのは仮名であるキム・イルソンを表記する漢字が4つもあり、本名である金聖柱の漢字表記も金聖柱、金誠柱、金成柱など三つもあるため非常に混乱させる存在がまさに金日成だ。このようにいろんな本名と仮名が存在する理由はいったい何だろうか。

 金日成の研究で有名な李命英は著書の『金日成列伝』で金日成将軍の伝説に登場する‘金日成’という人物は確然と異なる2つのタイプがあると指摘した(これを便宜上A、Bタイプと呼ぼう)。Aタイプは祖国の光復のための武装抗日闘争、Bタイプは中国の共産革命のため闘争するという口実の下、共産匪賊的略奪と殺傷を恣行した人物だ。

 まず、Aタイプには二人が現れる。A-1は1907年の義兵闘争のとき、実在した人物だった咸鏡南道端川出身の義兵長・金一成で、本名は金昌希だ。1926年に死亡した。A-2は1919年から武装抗日闘争をした日本陸軍士官学校出身の金日成である。二人の抗日闘士の活躍が混同されて一つになって恰も一人のことのように伝説と化してAの神話が作られた。

 Bタイプは、満州の中国共産党遊撃隊で活動した人々だが、ここにも二人の金日成が登場する。B-1は1936年初めから満州の東北人民革命軍第2軍第3師だったが、しばらくして東北抗日連軍第1路軍第2軍第6師に変わったが、その師長の名前が金日成だった。李命英はこの日とは1937年11月、満州軍討伐隊に射殺されたと主張している(これを便宜上、第1の金日成と呼ぶ)。

 第6師長の金日成が射殺された後、その地位を承継した人がいて、その人は第6師長の肩書だけでなく、前師長の‘金日成’の名前まで承継した(B-2)。この2代目の第6師長の金日成は1937年初めに部隊の改編によって東北抗日連軍第1路軍第2方面軍の軍長となるが、1940年12月に討伐隊に追われてソ連領へ逃走し、1944-45年の間にソ連で死亡したと李命英は主張する。

 北韓の指導者になった金聖柱は1945年10月14日、平壌市群衆大会の時から‘金日成将軍’として振舞ってきた。李命英は、金聖柱がAタイプの武装抗日闘争履歴を名乗ろうとしたが20-25年の年齢差のため不可能になるや、Bタイプ、つまり中国共産党遊撃隊の第6師長の金日成とその名前を承継した第2方面軍長の金日成の活動期に合わせたと説明する。(つづく)

2016/10/23 03:06 2016/10/23 03:06

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プロローグ 金日成の抗日武装闘争神話は真実なのか

第1章 金聖柱時代

 複数の金日成たち / ‛金日成伝説’の実在人物・金光瑞 / 韓人たちの間島移住史 / 金聖柱の家系 / 鴨緑江を渡って満州へ移住 / 記録ごとに異なるミステリーの学歴 / 母・康盤石の再嫁 / 金聖柱、共産主義と出会う / 韓人たちの満州移住 / 金聖柱、一星という号を得る / 抗日パルチザン闘争に投身した金聖柱 / 日本の満州侵略 / 民族主義系列の抗日武装闘争 / 多様な勢力が満州でゲリラ戦を展開 / 韓人たちの中心となった東北人民革命軍の出帆 / ソ連のボルシェビキ革命 / ソ連の裏切りで全滅した韓人武装独立軍 / ソ連の二度目の裏切り-中央アジアへの強制移住 / 中国共産党内の韓人パルチザンたちの運命 / 中国共産党に捨てられた韓人共産主義者たち

第2章 金聖柱から金日成へ

 ‘金日成’という人物の登場 / 第1の金日成の物語 / 統一戦線戦術で東北抗日連軍が出帆 / 普天堡襲撃事件の真実 / 北韓が普天堡襲撃事件の美化・称えに全力投球する理由 / 第1の金日成(第6師長)の射殺説 / 第2の金日成の登場 / 東北抗日連軍を支援したスターリン / 満洲国、東北抗日連軍討伐に出る / 野副昌徳の討伐作戦 / 金日成の抗日闘争の実像 / 抗日運動なのか略奪殺傷なのか / ソ連へ脱出した金日成 / ソ連88特別偵察旅団時代 / ソ連軍の対日戦開始

第3章 金日成、北韓に共産衛星国を建てる

 ソ連軍、北韓で軍政実施 / 民族主義者の曺晩植の存在 / 金日成、ソ連軍艦で元山に上陸して帰国 / スターリンの極秘指令、“北韓に共産政権を樹立せよ」 / スターリン、金日成面接して北韓の指導者として指名 / 恐怖統治機構を設置 / 玄俊爀暗殺事件の波紋 / 朴憲永と金日成の秘密会合 / 北朝鮮民主基地建設論の登場 / 北韓歴史の決定的な転換点、朝鮮共産党北朝鮮分局 / 金日成将軍が平壌に出現 / 金日成歓迎大会は失敗作でかつ成功作 / 貨幣改革で‘赤い紙幣’を乱発 / 韓人出身88旅団所属のボルシェビキ党の‘3巨頭’ / 曺晩植、朝鮮民主党を結党 / 新義州で史上初の反ソ反共義挙発生 / 延安派のみすぼらしい入国 / 朝鮮義勇軍鴨緑江支隊が武装解除される / 金日成政権創出の1等功臣はソ連派 / モスクワからの信託統治決定 / 金日成と朴憲永の食い違う対応 / 曺晩植の命をかけた抵抗 / 共産単独政権樹立を催促したスターリン / シュキン報告書の登場

第4章 すべてはスターリンの思惑通りに

 北朝鮮臨時人民委員会が発足(事実上の共産単独政権) / ソビエト化のための‘民主改革’実施 / 金日成を暗殺せよ / 第1次米ソ共同委員会の破綻 / 宿命のライバル、朴憲永と金日成 / スターリン、金日成と朴憲永をモスクワに呼んで面接 / スターリンが金日成を北韓の指導者として選んだ理由 / 北朝鮮労働党の誕生 / 朴憲永の永久越北 / 第2次米ソ共同委員会も破綻 / 北朝鮮人民会議(国会)の創設、北朝鮮憲法制定工作 / 軍と保安隊を掌握 / 南北指導者連席会議の工作 / 第2次南北連席会議 / ソ連軍政、北韓内閣を構成 / ‘スターリンの思惑通りに’

第5章 6.25戦争の戰犯・金日成

 南侵戦争の準備 / 満州で国共内戦が再開される / 金日成の南侵要求をスターリンが拒否 / 金日成の執拗な国土完征の夢 / スターリンと毛沢東の不快な関係 / 訓練に偽装して38度線へ武器と兵力の移動 / 南侵関連情報を米諜報機関は知っていた / ナメクジのように這ってきた人民軍の戦車 / 米国の素早い参戦 / 南侵初期に人民軍の成功と失敗の理由 / 国連軍の仁川上陸で戦勢が大逆転 / 金日成の平壌脱出 / 中共軍が鴨緑江を渡る / 敗戦の責任転嫁のため心労 / 適当な線で休戦 / 血の粛清、政敵掃討作戦 / ソ連共産党20次党大会の波紋 / ‘主体の王国’完成する

第6章 朴正煕と金日成を輩出した満州

 ヨーロッパに開かれた窓、満州 /第1次世界大戦と日本 / 満州は日本の生命線? / 満州国の韓人たち、2等国民としての可能性と限界 / 満州産業開発5カ年計画を推進 / 朴正熙と金日成の対決 / 南北国力の逆転


金日成年譜

参考文献

金日成の主な活動地域図


著者(金容三)のプロフィール

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 中央大学校文芸創作科卒業、朝鮮日報記者、時事月刊誌『月刊朝鮮』の編集長、京畿道代弁人、京畿コンテンツ振興院の監事など歴任。月刊朝鮮の記者として世界50カ国を取材、現職国家元首4人をインタビュー。現在、東元大学校特任教授、『未来韓国』の編集長、延世大学校李承晩研究所の客員研究員、全経連「自由と創意教育院」教授。
 黄長燁亡命事件を特ダネ報道して第1回大韓民国言論賞を受賞、多数の著作で市場経済賞など受賞。
 主な著書としては『李承晩と企業家の時代』、『李承晩のネーション・ビルディング』、『大韓民国建国の企画者たち』、『漢江の奇跡と企業家精神』、『面白く読む朝鮮王朝実録』、『朝鮮500年歴史大探検』など。

2016/10/20 23:34 2016/10/20 23:34

ベリヤの推薦でソ連占領軍が作り上げた神話

 1945年8月15日、日本が降伏しソ連軍が北韓に進駐して軍政を実施する過程で、北韓地域に共産衛星政権を樹立するため指導者として立てる人物が必要になった。平壌駐屯ソ連軍第25軍司令部が状況を把握して見たら、朝鮮共産党の指導者である朴憲永はソウルにおり、38度線の以北地域には信頼できる共産党員が見つからなかった。

 指導者候補として複数の人物を物色していたところ、自分たちがハバロフスクで 軍事諜報工作員として養成した金日成、つまり金亨稷の息子の金聖柱を発見する。ソ連軍政司令部の諜報局と特殊扇動部は、金聖柱の出生地から家族、学歴、成分、中国共産党入党や活動内容、パルチザン活動など、彼に対する一切の身元調査を終えた。

 ソ連軍政は、彼の本名が金聖柱で、満州地方で抗日パルチザン運動をしたのは事実だが、赫々たる功績を立てたのかについては根拠を発見できなかった。そして、本当に抗日パルチザン闘争をして功を立てたもう一人の‛金日成将軍’がいたという風聞が朝鮮人民の間に広く広まっており、朝鮮人民たちは解放された祖国にその将軍が凱旋することを待ち兼ねていることを知った。

 ソ連軍政司令部で勤務した朴吉龍の回顧によると、頭脳回転の速かった政治司令部の若い将校たちはこの風聞を利用して‛未来の首領’を作り上げる作戦を立てるべきだと指導部に建議した。この渦中に金聖柱と呼ばれる者は、普天堡を襲撃して有名になった金日成の本名である金成柱と発音が同じで、ロシア語やローマ字で書けば完全に同じであることを発見することになる。

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 ベリヤ(*ソ連の政治家、スターリンの右腕として数多くの人々を処刑した秘密警察の責任者)のソ連諜報部隊は年齢差を無視し金聖柱を金成柱にすり替え、彼を‛金日成将軍’だと捏造する。スターリンに金聖柱を北韓の最高指導者として積極推薦した人物は当時の実力者ベリヤだった。

 スターリンは1945年9月初め、ベリヤが推薦した金聖柱をモスクワに呼んでクレムリン宮の別荘で4時間も面接してから即座で“この人がいい。これから頑張って北朝鮮をうまく導いて行け。ソ連軍はこの人に積極的に協力せよ”という指令を下した。

 1945年9月18日、ソ連軍は金聖柱にソ連軍大尉の階級章をつけた軍服を着せて平壌に連れて行って、朝鮮人民たちの心の中で‛伝説の抗日闘争の英雄’と言われた金日成将軍として登場させて北韓の首領になるようにした。それで、彼の本名は金聖柱から金成柱に、仮名は金日成将軍に化けることになる。

 彼がソ連軍の肩車に乗って入北して北韓の実権を握って朝鮮労働党を創建しながら、彼は3重国籍と3重党籍者になった。彼はソ連軍政下でソ連軍大尉およびソ連共産党の下級党員として主人であるソ連軍とソ連共産党の指示を受けて、北韓にソ連の衛星共産国家の樹立に先頭に立った人物、それ以上でも以下でもない。

 これが金日成が遂行したという抗日武装闘争の隠せない素顔だ。この程度の粗末な宣伝扇動に対してまともな研究もせずに無防備状態で放置したことで、われわれは共産党の偽の抗日闘争主張に簡単に騙され、彼らの扇動に嵌って道徳的権威を毀損されてきた。

 ソ連軍に負んぶされてきた金日成は、ソ連軍指導部とソ連共産党党中央(スターリン)、そしてソ連共産党政治委員会の指令を受けて、分断された北韓に共産衛星国家を樹立してその首領にのぼり、スターリンに強請って同族を討つ戦争まで起こした。この戦争が国際戦に発展して数百万人の死傷者を出す悲劇をもたらし、38度線は休戦線として分断が固着され、分断の歴史は今日まで長く残酷に続いている。

 わが社会は金日成という存在を無防備に放任したため、彼が捏造した‛巨大な神話’が恰も事実のように横行するように助け、彼の主体思想を信奉する精神疾患者たちが量産されるように放置した。

 われわれは未だに金日成という人間が一人だったのか三人だったのかも分かっていない。彼は普天堡襲撃を指揮した人物だったのかどうかも論難を重ねている。おそらく明確に彼の存在の真実を立証する資料は中国共産党とソ連共産党の秘密文書庫の中で眠っているだろう。

 怪物のように突然変異を起こした一人の人間の限りない権力欲が北韓という国全体をパルチザンのアジトへと変貌させ兵営国家にして、地球上で類例を見られない社会主義王朝の世襲が続いている。

 金日成の神話はその出発から死に至るまで、すべてが虚偽、嘘、操作、捏造、横取り、誇張だらけだ。この恐ろしい嘘の森から資料と証言を通じて真実を追跡した結果がこの本だ。

 追跡作業の過程で多くの方々から身に余る激励と支援を受けた。金日成と関連する様々なアイデアや学問的好奇心を刺激し暇のとき焼酎とおつまみで激励を惜しまなかった李東湖さん、柳錫春延世大教授、本が出る前に本を買ってくださった鄭美鴻さん(元KBSアンカー)、この研究に協力してくださった李孝九LIGネクスウォン副会長、洪ソンミン安保政策ネットワークの代表、李フイチョン教授、そしていつも勇気と激励を惜しまなかった皆さんにも深く感謝する。

 2016年6月、著者

2016/10/15 05:48 2016/10/15 05:48


 1933年9月、東寧縣城戦闘に共産遊撃隊の一員として参加しながらパルチザン生活を始めたこの青年はときには金聖柱、時には金日成という仮名で活動し、中国人の直属上司たちの寵愛を受けたはずだ。なぜなら当時、共産遊撃隊活動に従事した人々はほとんどが文盲だった。中学教育を受けて中国語と漢文を読み書きができる金日成の存在は非常に貴重な役割をしたはずだ。

 中国共産党遊撃隊内の韓人幹部たちを大々的に粛清する民生団の嵐から彼が生き残ったのは、同僚や上司たちをすさまじく密告したか、中共党の絶大な信任を得る走狗の役割を忠実にしたためだ。

 李命英をはじめ何人かの研究者たちの研究通り、金日成が複数人だったという多人説によれば、普天堡襲撃の栄光は、金亨稷の息子で今日の北韓の‘敬愛する首領様’ではなく、モスクワ共産大学へ留学しソ連共産党から派遣されてきた人物に回さねばならない。また、普天堡を襲撃した主人公は1937年11月、満州軍の討伐隊に射殺され、第2の金日成が再びソ連から派遣されてきた。

 第2の金日成は、龍井大成中学出身であり、間島で起きた5.30暴動のとき行動隊長で、牡丹江一帯で隠れていて金佐鎮将軍を殺害した後、ソ連へ逃走して赤軍士官学校を卒業した人物だ。彼は、第1の金日成が討伐隊によって射殺された後、ソ連共産党の指示を受けて満州に派遣される。

 彼は満州で討伐隊に追われてソ連領へ脱出、オケヤンスカヤの野営学校の責任者兼軍事政治課教官として勤務し1944年、病気で死亡する。

 李命英など何人かの学者たちの主張通り、ソ連赤軍士官学校を卒業し、ソ連共産党の命令で満州に派遣された‘第2の金日成’が1944年秋までオケヤンスカヤ野営学校の責任者だったが死亡したなら、ハバロフスク近くのビヤツクで訓練を受けて北韓に帰って‘最高尊厳’の地位に就いた金日成は‘第2の金日成」ではなく、金亨稷の息子金聖柱だ。

 金日成多人説によれば、高東雷小隊を皆殺しし、あちこちに隠れて生きていた金聖柱は、命を維持するために1933年9月22日、中国救国軍の呉義成部隊と東満州共産遊撃隊の汪清遊撃隊 (隊長梁成龍)が合同作戦した東寧縣城戦闘に梁成龍部隊の一個小隊として参加して共産パルチザン運動に正式に身を投じる。この時から抗日パルチザン隊員として活動して最後まで生き残ってソ連領へ逃走してビヤツクまで行ったと見られる。

 一方、金日成1人説の立場を取るなら、彼は1936年に東北抗日連軍第1路軍第2軍第6師長になり、1937年6月4日には普天堡を襲撃して自分の首に巨額の懸賞金がかけられるほど有名になった。彼が一人だったら1937年11月13日、撫松県楊木頂子の山中で満州軍討伐隊によって射殺されたのは金聖柱ではなく、別の人物だったはずだ。

 討伐隊の執拗な討伐作戦によって急激に勢力が縮小された東北抗日連軍は部隊を改編した。この時、金聖柱は第2方面軍長に任命されて再び活発な活動を再開して討伐隊を衝撃に陥れた。射殺された金日成が蘇ったからだ。

 1940年12月、野副昌徳討伐隊の強力な討伐に押されてソ連領へ逃走するまで、金日成が一人であれ数人であれ、金日成という名前を持つ人物たちの満州でのパルチザン活動期間は約7年だ。この期間中、金日成がやったという抗日武装闘争は、祖国の光復とか朝鮮の解放とはあまりにもかけ離れたものだった。終始一貫、満州軍の討伐に追われ逃走、食料獲得のための民家襲撃や略奪、良民拉致がほぼすべての活動だった。

 しかも、彼が指揮した部隊は100人から200人を超えない中隊級規模で、正規戦でもなく小規模単位で動きながらパルチザン活動をしたのがすべてだ。金日成の公式・非公式伝記らが口を窮めてほめる‘普天堡戦闘’の指揮者が、北韓の指導者となった金亨稷の息子・金聖柱の作品であるとわれわれが認めることにしよう。

 戦闘とは相手となる敵がいなければならないのに、当時の普天堡には対応する敵がなかった。したがって、これは戦闘ではなく一つの事件に過ぎない。100人未満の兵力で、対抗する日本軍もいない、駐在警察5人に過ぎない小さな国境の山村に現れて銃を乱射し放火し食糧と金品を略奪して去ったのを‘戦闘’と美化賛美する。これが金日成最大の傑作だというから、残りの彼が満州の大地で行ったという抗日戦闘ないしは遊撃戦の実状は見なくてもその実体が明らかだ。

 これが金日成が全生涯の中で最も輝く抗日闘争という‘普天堡戦闘’の辛い実状だ。軍事専門家の張浚翼は、金日成の抗日闘争を軍事的に評価すれば“日本軍の討伐作戦に対して小規模に分散して浸透、逃避および逃亡に長けた”と整理する。

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 ソ連へ脱出してソ連軍傘下の88特別偵察旅団の時代にも金聖柱はその地域のKGBの責任者だったソ連極東方面軍司令部の偵察局長ジョルキン少将の寵愛を受けた例から見て、親ソ連的な意識構造へ自分の情緒を素早くフォーマットしたと思われる。ビヤツクで88旅団時代の金日成と一緒に生活した朴宇燮はこう証言する。

 “ソ連人たちはわれわれ抗日連軍の人々を信じず、頻繁にトラブルが起きたが、金日成は一度もソ連人たちと衝突したことがなく、ソ連人たちは金日成に特別待遇をするようだった。”

 今日、北韓側が大げさに宣伝する金日成は、その存在が一人であれ数人であれそれは重要な事実(fact)でない。最も重要な核心は、彼がどういう抗日闘争をし、韓民族の歴史発展の過程で順機能をしたのかその逆なのかである。

 金聖柱は子供の頃から満州という荒い環境と疾風怒涛の渦巻きの歴史に裸でさらされて国家観や歴史観が正しく確立されなかった状態で、中華思想に支配され満州一帯の共産主義の影響を受けて馬賊や人命殺傷に明け暮れた。中国共産党遊撃隊のパルチザンとして入山した彼は、満州地域一帯を殺人者として逃げ回った時期に体得した乱暴な暴力性を遺憾なく発揮して中国共産党幹部たちに忠誠を尽くし、自分の国籍である中国に忠誠し、中華祖國の擁護と失地東北の回復のため昼夜を問わず活動した。

 中国国籍者として中国共産党に入党して中華祖国の擁護と失地東北の回復闘争の先頭に立ったが、中国を脱出してソ連へ逃げてソ連軍所属になった彼は、素早く事態の本質を把握する。自分が仕えるべき上国と忠誠を尽くすべき相手を中国と中国共産党からソ連とソ連共産党へと素早く変えたのだ。(つづく)

2016/10/13 15:21 2016/10/13 15:21

-金聖柱、ジンジチェン、キムイルセン、金日成として生きた一人の人間の生涯

 プロローグ

 金日成、彼の抗日武装闘争の神話は真実なのか

 今日、韓半島の南北対決の哲学的根っこは‘抗日’だ。抗日をしたのか、しなかったのか。ここで守りに追われれば、一方は抗日勢力が建てた国家という正統性と民族的権威を先取りすることになり、反対側は親日民族反逆者たちが建てた国家という烙印と汚物をぶっかけられる。抗日をやっても外交的、文化的、教育的にしたのか、それとも熱く鮮明に武装闘争の方法でやったか。これは後者が絶対的に道徳的に権威を勝ち取る手段として活用される。

 今日‘抗日’という問題をめぐる理念戦争で、李承晩と朴正煕の大韓民国は金日成の朝鮮民主主義人民共和国に完敗を喫した。1980年代以降、ほとんどの大韓民国の学者、知識人、ジャーナリスト、そして一般人たちは満州の大地であらゆる苦難を味わいながら熾烈に展開したという金日成の抗日武装闘争の鮮明性と熾烈さ、雄大な気性にうなされたかのように尻尾を巻いてしまったからだ。また、彼らのレーニンとスターリン式の宣伝扇動に騙されて単独政権を樹立したのは李承晩と南韓であると信じてしまったからだ。

 そこから、金日成=抗日武装独立闘争の主人公でかつ民族の英雄、李承晩=米国という外勢を引きいれて親日派らと野合して分断をもたらした売国奴、朴正煕=日帝の走狗で抗日武装独立運動家を打倒した親日派という偶像が作られた。

 今日、主体思想を受け入れて韓国社会を親北、あるいは従北の巣窟にするのに決定的な役割をなしてきた主思派の左翼運動圏、左翼言論人、そして‘国史’という名で抗日武装独立運動家たちに月桂樹をかぶせた国史学者たちのためその偶像はますます‘歴史的事実(historical fact)であるかのように化石化されている。

 満州での抗日武装独立運動は誰もが否定し難い神話になり禁断の領域となった。この部分を誤って触るかその精神を毀損すれば容赦なく‘親日’の緋文字が張られる。そのため、この主題はほぼ宗教の領域のように神聖不可侵の領域だった。

 金日成を修飾する用語を分解してみると‘満州’‘抗日’‘武装独立運動’など三つの塊に意味が文節される。私は歴史的記録を通じてこれら3つの塊の実体を追跡してみることにした。無駄な先入観や価値観を捨てて、その意味を追跡しながら驚くべき事実を発見することができた。

 これは満州という空間でほぼ同時期に韓半島の南と北の運命を分けた指導者グループが形成され、共産主義者と民族主義者(あるいは自由民主主義者)たちの間でイデオロギーの対立による分断の遺伝因子がすでに1920-1930年代から芽生え始め、イデオロギーの陣営対立に外勢が介入して複雑な様相を帯び始めたということだ。

 したがって、われわれの複雑な近現代史は南と北の観点、つまり一国史的観点ではなく世界史的、北東アジア関係史的観点から眺めてこそ、真の絵が描かれるようになる。

 北韓の指導者になった金日成という存在を追跡する過程でぶつかる壁は、金日成をいったい何人かという点だ。金日成と名前の漢字表記は4つも混在(金日成・金一成・金一星・金日星)するのだけでなく、本名である金聖柱も漢字表記が3つ(金聖柱・金成柱・金誠柱)もある。

 複数の学者たちの努力の末、旧韓末の大韓帝国滅亡期から日帝のとき満州一帯で活動した金日成という名前を使用した抗日独立運動家や共産パルチザン活動家を見出したものをまとめると計11人である。この中から北韓の指導者になった金日成として推論できる人物群は三人程度に圧縮される。

 学者たちの見解があまりにも違うため金日成が一人だったのか、それとも三人(第1の金日成、第2の金日成、金聖柱)だったのかを明快に結論を出せる史料は現在までに発見されないため混乱を来している。いずれにせよ、金日成が一人だったのか、三人だったのかはさほど重要でない。なぜなら、今日の北韓は金日成という名前で活動したすべての人物の行跡を北韓の指導者、金日成一人の業績にしたからだ。

 われわれは、さほど重要でもない問題で数十年も議論をしてもったいない時間と労力を浪費した。そのようにつまらない真偽論争をしてきた間、金日成の本質に対する研究を無防備に放置したことで、北側らの歴史捏造を助けたことになった。

 筆者は、北韓の指導者になった金亨稷の息子・金日成が一人なのか、複数人なのかという点については現在としては結論を下せないと思う。その結論を出せる決定的な資料は、中国共産党とソ連共産党の秘密書庫に保管されているのみで世の中に公開されていないためだ。

 したがって、この本では北韓が‘敬愛する首領様’に仰ぐ金日成の足取りを追跡する方式で構成した。その総和としての金日成の生涯は次のように整理される。

 彼は子供の頃、親に添って中国に行った以来、平壌の彰徳学校での2年間、独立軍が建てた樺成義塾での6ヶ月を除いてはすべての教育を中国の学校で受けた。父のお陰で子供の頃、中国国籍も取得した。そのため子供の頃から自然に中華思想の洗礼を受けた。中国の学校で学び覚えた中国語は満州一帯で馬賊や共産党活動をする上で有用な武器になったはずだ。

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 民族主義的性向の活動をした父の金亨稷が共産主義者たちのテロで死んで、母の康盤石(康盤錫)が幼い三人の息子を養うため満州の公安隊長(*警察署長)に再婚しながら思春期の少年、金日成の人生が大きく狂い始める。中国人の養父の支援で吉林の毓文中学に入学したが、共産主義サークル活動に巻き込まれて中退した後、彼は李鍾洛一派に加担して軍資金調達の名目で強制徴税、テロと殺人に耽り、独立運動家の梁世奉将軍が派遣した高東雷小隊を皆殺しして逃走した。この渦中で生き残る道は共産抗日部隊に加わることが最善と判断し、その人生が転換することになる。(つづく)

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 『金日成、神話の真実』(金容三著)を翻訳して連載します。分厚い本(888ページ)です。

 この本は歴史上最悪の封建暴圧体制によって、その悪魔のプロパガンダによって捏造された金日成と金氏王朝の本当の姿を暴いています。

 韓半島の北半分を「支配」している金氏王朝はどのように建てられたのでしょうか。金日成の登場には20世紀のアジアに悲劇をもたらしたスターリンと毛沢東という魔王たちの巧みな指図と全面支援がありました。

 金日成が匪賊から稀代の独裁者になる過程には韓半島の植民地化、日中戦争、太平洋戦争、スターリンの陰謀など帝国主義日本の近代史が背景に繰り広げられます。

 今まで日本で紹介された数多くの金日成に関する書物などとこの本の内容を比較してみて下さい。金日成の伝記を書き換えるということは韓半島の現代史の多くを書き換えねばならないということです。

 歴史というものは人によって立場によって意味が異なってくるのが当然と言えるでしょう。訳者の事情で翻訳のペースが遅くなるときもあるでしょうが、読者の皆さんと一緒に20世紀の東アジアの歴史を勉強して見ましょう。(2016年10月11日)

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