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家名を表わす名字は、日本の歴史においていかにして発生し、変遷していったのか。


武士の移住と名字

 名字の分布を調べる際に、一番目につくのは、鎌倉武士の移住と名字の関係である。鎌倉武士の中でも北関東の小山等の豪族は、白河関を越えて陸奥の地方に移住発展している。しかし南関東の武士が本領をはなれて遠隔地に移住したのは、やはり幕府の政治力であった。将軍の頼朝は、平氏を平らげて後、平氏一族とその武将の所領を没収し、部下の将士に賞として与えた。なかでも、西国に分布していた平家の没官領の多くを源氏の御家人に分与したため、その地方には意外に多く鎌倉武士の植民地ができた。豊後国の所領を大友氏等、安芸国の所領を小早川・熊谷・吉川・毛利等の諸氏、越後にあった平家関係の所領を三浦・毛利・大見等に与えたのは、そのあらわれである。


■鎌倉武士の地方移住
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 つぎに頼朝の奥州征伐にあたり、功労のあった諸将は、それぞれ所領を奥羽の地に与えられているが、なかでも多くの所領を海道ぞいにもらったのは千葉氏であった。千葉氏では、常胤の次男師常が相馬郡を本領として相馬氏を賞し、陸奥では行方郡内村々の地頭職を与えられたが、相馬の名字は移住後も使用し、移住の地をも相馬と呼ばせた。これは移住地が未開発の地方で相馬氏の権力が圧倒的であったためである。三男の胤盛は、千葉郡の武石郷を領し、文治五年宇多・伊具・亘理の三郡に所領を賜ったが、その曽孫に至って亘理氏を称した。四男の胤信は大須賀保を本拠とするが、岩城郡に移っても大須賀氏を称した。なお、葛西七郡と称される地域にも千葉頼胤を始祖とする千葉氏の一族が居住しているが、この頼胤は常胤の改名とする説と常胤の七男とする両説があって、明らかではない。いずれにしても、葛西氏の重臣として千葉の一族が繁延し、その名字もこの地方一帯にひろがっている。葛西氏は郷里の地名をそのままに発展したが、居住地の地名を変えることはなかった。

 梶原氏の場合では、気仙郡唐桑村石浜に梶原景時と景季を祭ったお堂がある。これは景時の兄がこの地方に下向したとき、居宅のそばにお堂を立てたのがはじめであろう。梶原の名字もこの地方に多い。 本吉地方には熊谷氏が勢力を伸ばしている。その史料は系図だけであるが、この地域一帯の豪族となっている。安芸に下った熊谷氏は三入薗の地頭として発展していったが、近江と陸奥の熊谷氏も今後の研究で明らかとなることだろう。

 なお、北関東の小野寺・阿曽沼・小山の諸氏もそれぞれ所領を与えられ、一族が移住している。 関東武士団の地方移住として、つぎに大きな契機となったのは三浦氏の宝治合戦であろう。三浦氏は北条氏に対立する最大の武将であっただけに、その与党の没収せられた所領は大きく、北条氏に近い南関東の武士がその所領を与えられて、それぞれに移住した。三浦氏のなかで北条氏に近かった葦名氏が会津荘の地頭代、渋谷氏が薩摩の入来院の地頭に任命されるなど、地方でも北条氏、とくに得宗家の勢力がいよいよ増していった。この中でも注目されるのは、北条氏の御内人と称される伊豆の武士たちである。工藤・南条・曽我・狩野の諸氏がそれであり、ことに工藤氏は、北条氏の得宗領のあるところに必ずといっていいほど、代官として派遣されている。津軽・南部・寒河江・若狭等々、工藤の名字のあるところは、北条氏の勢力圏であったところということができるようだ。



●諏訪氏の場合
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 信濃の諏訪氏も北条氏の発展にともなって、各地に活躍した。諏訪の上社の祭神建御名方の子孫は後世神家とも、諏訪氏ともいうが、本来は三輪氏であろうか。上社の社家には、神・小出・矢島・伊藤・長坂・花岡などがあるが『太平記』には神家の一党三十三家が挙げられている。下社の社家のは国造家の流れを汲む大祝金刺氏があり、このほか今井・志津野があり、さらに源氏の流れを汲むという滋野氏もいつのころからか諏訪の一族とまじわって行った。こうして諏訪氏の一族は約百四十氏ともいわれるが、諏訪とか神とか本来の姓よりも他姓を名乗るものが多い。北条氏は信濃に多くの得宗領をもち、諏訪の大祝を有力な味方にしていたから、東国各地の得宗領にも諏訪の一党が代官として派遣された。津軽に神の名字が多くあるのは、このためである。
………
諏訪氏の代表紋/梶の葉
 

 

●鈴木氏の場合
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熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。

 源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。

 伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。北上・鳴瀬などの大河川の流域にも熊野神社が建てられ、上流の宮崎には大崎氏によって大崎五郡の総鎮守である熊野神社が勧請され、その神輿は祭のときはるばる桃生郡にまで巡行したという。陸前唐桑の網主鈴木家も熊野系図に記しているが、その隣村に梶原堂のあるのは、鈴木と梶原が共に活動していたことを物語っている。また、熊野と鈴木氏の関係は北陸にも及んでいる。加賀山内の白川別宮ももとは熊野宮、城主の鈴木出羽守は藤白郷の出身という。

………
鈴木氏の代表紋/稲 



●佐藤氏の場合
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 佐藤氏も鈴木氏についで天下の大姓であり、鈴木が関東にもっとも多かったのに対し、佐藤姓は東北のすべての県で一位を占めている。その理由の一つに、佐藤基治のとき、阿武隈の上流の肥沃な信達地方をおさえ、平泉藤原氏政権の有力な武将として、各地に一族を分封させ、相当な地盤を形成していったことがあげられる。第二に佐藤一族が頼朝に降伏したあと、各地に発展したのは、その実力を各地の有力者に認められたためであろう。

 降伏後の佐藤氏の発展については、以下のように考えられる。
 第一、その本拠地信夫郡の佐藤一族では、基治の子隆治・継信・忠信・重光などがあり、継信・忠信の兄弟は義経に従って活躍し、戦死した。文治五年基治は許されて信夫庄に帰ったが、伊勢佐藤氏の系図をみると、基治の子継信の子孫は摺上川上流飯坂を中心として、信夫庄北東部にひろがっている。南北朝の内乱期、一部は葛西氏に従い、本吉郡馬籠に移った。

 第二、信夫の佐藤氏が移住した馬籠と津谷の両村は、早く佐藤庄司の妻の湯沐の地といわれ、ここに佐藤氏の所領があったのであろう。佐藤一族は、この地方を中心として大いに発展した。

 第三、出羽最上郡豊田邑に移住した佐藤一族、さらに田川郡にものび、酒田を経て、新潟・秋田等にひろがった。また一部は同じ出羽の長井庄に移り、最後に伊達氏に従い、仙台伊達の主流をなした。

 第四、宮城郡西根にも、戦いを避けてこの地に土着した継信・忠信の兄七郎の系統が伊達氏の家臣に取り立てられている。なお佐藤は宮城地方の豪族留守氏の執事にもなっているから、馬籠の佐藤氏が葛西氏の重臣になったこととあわせて、佐藤一族の繁栄を考えるべきであろう。

 また、湯の庄司といわれた佐藤氏が青根や秋保温泉の草分けになっていることも面白い。さらに、相馬藩の侍の約二十%は、伊達氏に追われた佐藤氏の流れを汲むものといわれ、全国でも珍しいほど佐藤姓の集まるところとなっている。

………
佐藤氏の代表紋/源氏車




名字の固定と混乱

 名字がさかんにつくられたのは、武士の移住と開墾の行われた鎌倉時代のことである。南北朝の内乱後は、相続制も庶子の分割相続から単独相続に変化し、集合家族から、家父長的な直系家族がかたまってくる。嫡子以外の庶子が土地をもらって分家を構える率は少なくなる。分家創設の際も、住地の如何に拘わらず、長く本家の名字を称するようになり、しぜん新しい名字の続出もなくなった。

 しかしその反面、庶民の成長にともなって、庶民にして名字を名乗るものも多く、有名な名字を詐称するものも現われた。ことに戦国末期以降、下克上によって一城の主となったものは、系図をつぎつぎに改編し、氏素性を尊貴名物とすることに苦慮した。一方、戦乱によって主家が没落すると、その一族は名字を変えて領内にひそみ、また多少これを改めて他家に仕官したりした。

 たとえば、肥後の菊池氏のように戦国の末、その一族のなかに酒田や秋田に亡命するものもあり、先に南北朝内乱期、病身のため家督を譲って東北の各地を流浪したという菊池武士の子孫とともに、東北の菊地姓姓のもとをなした。安房の里見の一族や家臣も盛岡付近に亡命している。名字の移動と混乱は、戦国末期にその頂点に達したといえよう。

 名字が混乱すればするだけ、一家を象徴する名字の価値が加わってくる。永亨以来、御番帳には土岐何々とか、佐々木何々とか、有名な氏の同苗にあたる者の名が記されているが、これはその苗字によって政治上儀式上ちがった待遇のあることを示すものである。熊野の御師は佐々木名字とか里見名字とかを全国一円に檀那の対象とし売買している。

 こうして名字は家格を示すものとなり、すべての名誉や財産の象徴として尊ばれ、名字をつぐことが家督相続の大事な要素となったのである。毛利元就は、三子をいましめた自筆の書状に「毛利と申名字之儀涯分末代までもすたり候わぬように御心づかい肝心までにて候」と記している。長宗我部元親がその百箇条で名字を改めるのを禁じているのも、家来をして家の観念を重んじさせるためにほかならない。有力な武将は、一家の権威を高めるため、同じ名字をもつ部下にはその改名を命じ、部下も主家に遠慮して自発的に改名した。常陸の江戸氏が徳川氏の江戸に遠慮して、水戸氏に改めたのがそれにあたる。

 一方、主家は恩賞として部下に苗字を新しく与えた。豊臣秀吉は有力大名に羽柴姓を与え、徳川家康は島津など二十九家に松平姓を与えた。形式的にその一族たる処遇を与えて、その心をつなごうとしたのである。

 このように社会の混乱期には、名字を固定化しようという動きと新しい名字を創造しようとする動きがあったが、結局、後者はそれほど多くはなく、鎌倉時代につくられた武士の名字が大半を占めて、明治に至ったのである。


<終>



2010/06/12 14:16 2010/06/12 14:16
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家名を表わす名字は、日本の歴史においていかにして発生し、変遷していったのか。


名字の発生

 家名をあらわす苗字という語は、草木の苗の意味で、戦国の末から江戸時代にかけて多く使われ、普及した言葉である。その以前には「名字」が用いられている。この名字は律令時代、正式の姓氏に対し、略式に用いられた「あざな」(字)から起こっている。「あざな」というのは、男子が成年後、実名のほかに付ける別名であり、漢学者などはよく「字(あざな)」を使った。それとは別に地名を字とするものがあった。『日本書紀』の仁賢天皇の条に、億計天皇「諱大脚、字島郎」とあるのがそれである。この地名を字とするものは、十一世紀の半ばころからにわかに増加してきた。それは地方の富農層が多年世襲耕作していた口分田を私有地化するとともに、未開地や荒廃地の開発に乗り出し、その私有地に特定の名称を付し、自らもこれを「字」として用いるようになったからである。国衙はこの「名」を新たに徴税賦課の単位として帳簿に記載し、名主もその名を事故の称号とした。名田の名には久延・吉則・貞利・福富など縁起のよい名をつけることが多く、これが地名となった。

 国衙の役人であった在庁官人や郡司などもその権威をもってさかんに田畠を開発し、百姓の開墾した田畠をも買得、兼併し、両者を私領として獲得し、それに特別の名をつけた。その名には土地の状況などに基づく名が多く、それが地名となり、さらにその地名に基づいて名字の多くが生まれた。

 しかし、在地領主が名字とした領地は、私領のなかでもとくに開発の拠点とした本領である。領主はこの本領に本宅を設けて付近の開墾を進めると同時に、その一族・郎等および従者としての農民に土地を支給して移住させ、さらに開発を広げていった。在地領主は、その本領を「名字の地」として、一族の団結をはかる重要な拠点とした。

 こうして、名字には地名からとったものが自然大きな部分を占めることになったが、地名からとった名字には、その地形によるものがもっとも多い。山に関係したものでは、山の尾根をさす長尾・横尾・高尾などがある。山口は山の物と里のものを交換する場所または山手(入会料)徴収の地である。泊瀬は遡江する船の泊まる瀬、江戸や水戸は海から河にはいる入り口で交通の要地、水口・樋口は灌漑水の出る場所で、水口祭などが行われる。

 一方、地方に国司として下り、そのまま土着したものや、介などの有力な在庁官人の中には、国名と出生の氏とを結びつけて、新しい名字をつくりだした。遠藤氏が相良氏と祖を同じくする遠州発祥の氏であることは、相良氏の祖が遠藤介と称したもとからも知られる。一国の守護に任命されたものが、その国名を名字とすることもあった。鎌倉時代の伊賀氏などがそれであろうが、室町時代になうと、それがことに多くなった。足利氏の一族の斯波氏が尾張守に補任された関係で、尾張氏を称したのは、その一例である。しかし、大体一代限りのものが多い。摂津氏などは定着した例である。平安末期以来、郡司に任命された開発領主が、郡の名を名字とすることは、いたるところにその例が見られる。

 庶子家ではその下の郷の名を付けることが多い。一例として常陸平氏といわれる常陸大掾家では、十二世紀初頭から十三世紀初頭にかけての約一世紀の間に、中世的郷名を名乗る五つの支族と、さらにはそのそれぞれから、中世郷名を名乗る庶子家が分立した。

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 荘園の下司や預所の場合には、荘の名が用いられた。武蔵国男衾郡の畠山荘司は畠山氏、上野国新田庄の下司源義国は、新田氏を名字とした。庶子家では分割相続した庄の一部が名字となった。さらに若党や郎等らに至っては、さらに小字や小さい名田の名が名字となった。

 しかしその地が、「名字地」として定着するためには、そこに直接開発にあたった先祖の墓所や葬堂ないし一族の祭祀の中心である神社のあることが必要である。なお、またその名字の地は、その名字を名乗る一族が相伝世襲するところでなければならない。一代限りのものや、個人の勝手に名乗るものであってはならない。加賀介を歴任した林氏のうち林新介成家は、林の嫡流から分かれ、その子成景から板津を名乗るようになった。これは成景がこの板津にはじめて屋敷を構え、それを彼の開発本領=名字の地としたことを意味する。

 名字の地は、こうして一族結合の中心となったが、それが子々孫々に相伝されるには、嫡系の男子による相続の制が確立されていなければならない。一族を代表して、名字の地を惣領し、管理する体制は、十一世紀後半以来、在地領主である地方武士の間にほど成立しやものと思われるが、これを惣領制的な一族結合の体制と呼ばれている。それは一族・一門・一流・一類などと呼ばれる同族的な結合であって、従来の氏とは根本的にその性格を異にする。一族の中、同一世代のものを輩行といい、吉とか、親とか名前の一字を共通することによって、同族の意識を高めた。名字はまたそうした一族の意識を象徴するものとして、惣領制の形成と深い関係をもっている。

 公家の世界でも、古代以来の伝統をひく氏族の統制がゆるみ、そこに多数の門葉・門流が分岐して来た。平安末期には、閑院流・日野流・勧修寺流など、藤原氏の諸流が、その本宅や山荘に菩提所を営み、その地名や菩提所の名を門流の称号とし、故実作法の上にも独自の伝承を形成していった。徳大寺実能が洛西衣笠に邸宅を構え、徳大寺堂を菩提所としたのはその一つである。称号の地はやがて名字地ともいわれ、山科家では祖先の墳墓のある山科の地を名字地とも称号の地とも呼んでいる。

 名字が字名から起こり、地名に多くの起源をもつことはこれで知られるが、この中でとりわけ多く普及したのは、藤原氏と源氏・平氏を本流とする名字であった。地方に下った藤原氏では、秀郷流の佐藤が下野を根拠として東北に広がり、利仁流の斎藤が越前、林・富樫が加賀に発展した。これに対し、賜姓皇族の平氏は、坂東八平氏として、早く関東の南部に根を張り、源氏は摂津・河内・近江から、うややおくれて甲斐・信濃に勢いをひろげた。

 この場合、注意すべきことは、これらが地方の豪族として、何故、群少の武士を従えるようになったかということである。一般に貴種の崇拝から地方の土豪がこれを迎えたように云われるが、やはり地方の国司として、また鎮守府将軍としての権威をもって地方の武士を統合していったものと思われる。

 また、地方豪族の中に貴種の出であると称するものが多いが、はたして系図通りに信用していいものかどうか疑問である。地方の武士たちは、貴種の出である藤原氏などの姻戚となることを願い、その姓をも工藤・斎藤など、何々藤と改めた。津軽の安藤氏が、安部氏の出身でありながら、安藤を名乗ったのも、藤原氏の権勢と結びつくためであり、藤原氏の勢いの衰えとともに、安東姓に復帰したものと思われる。斎藤別当実盛も『尊卑分脈』によると、藤原氏の出身ではなく、在原姓であったという。藤の字を冠した名字が西国に多く、下に付けた名字が東国に多く、両者あわせて、藤原氏の末流と称するものが名字の中でもかなりな部分を占めるのは、こうした関係からであろう。



初期の武士団と名字
 

 地方の武士は、こうして次第に社会的にも進出し、独自の名字をもって、身分的にも庶民と異なった待遇を受けるようになった。ふつう、武士の身分は名字と帯刀の二つを表識としている。しかし、武士が帯刀を特権としたのは、庶民が武装を禁止せられた兵農分離以後のことである。それまでは、百姓もまた武装することができた。ところが、この名字だけはその以前から武士の身分的表識として、鎌倉・室町時代を通して重視されていた。そえrは武士が庶民と違った身分を国家から認められて以来のことである。十一世紀以来、朝廷や摂関家にあっては、戦闘集団としての在地領主を、滝口ないし北面の武者として登用しはじめたが、地方にあっても、国司はそれを国ガ軍として編成した。国ガには、一国内の武士の注文すなわち名簿が備えつけられてあり、それが中央に注進せられたといわれる。国ガに備えられた文書の中には、武士の家系と過去の経歴を記した『譜第図』なるものもあったという。これらは、武士の身分の決定が国ガへの登録という方法によってなされたことを示すものである。

 鎌倉幕府の創立とともに、武士のあるものは幕府の御家人・非御家人とを問わず、庶民と区別された。御成敗式目の第十五条は「謀書罪科を犯した場合、侍に於いては所領を没収せらるべし」とし、「風下の輩に至っては、火印を其面に捻さるべし」と規定している。侍と庶民の間には一線を画されていたのである。

 この区分は、室町時代になっても依然として続けられている。東寺領山城上下の久世庄では、長禄三年の徳政一揆にあたり、連署の起請文が出されているが、それには「侍分と地下別紙也」とあって、庶民は別紙に書き、名字を記さないのが普通であった。応仁直前と見られる小早川弘景置文においても、「中間は名字無きものにて候間、時の器用干要にて候」と見えている。名字は、中間の様な所従にも名乗ることを許されなかったのである。

 なお、鎌倉時代には、地方豪族の間で、古代以来の名があわせ用いられていた。荘園の本所や国に提出する正式の書類には、紀とか泰とかの氏を用いるのが例であった。また、移住先で新しい名字を名乗る際でも、惣領家の名字をその上に冠して、出自を明らかにするのが慣習であった。三浦和田とか佐々木加地とか、この時期から南北朝時代にかけて、複姓が好んで用いられたのは、まだこの時代の土豪が惣領の下に武力行動の行われていたことを語るものである。

 惣領制の進展にあたって注意されるのは、惣領となる家督家の権限が強化され、惣領家の名字が庶子家に使用することを許されなくなったことである。室町時代になってとりわけこの傾向が強くなった。将軍家の号である足利姓が一族に許されなかったが、豊後の大友氏にあっても、庶子家の被官化が急速に進められた時期に、将軍義詮が、大友名字は能直以来惣領の号であるところ、庶子等が自称するのは自由の儀であるとして、これを禁止する御教書を氏時に与えた。

 本家の名字を簡略化する場合もある。結城の名字が惣領家だけに限られ、他の庶子家は吉成姓を名乗った。肥後の菊池も、その本流が水偏の菊池を名字とするに対し、地方、とくに東北地方に発展してきた菊地が土偏を書くのも、こうしたことからであろう。

 もっとも、戦いに敗れたり、没落したりしたときには、本家の名字と違った別の名字、しかしもとの名字によく似た名字が用いられる。陸奥の岩井郡奥玉村の金氏は、その系図によると、室町の中期永亨の頃までは金であったが、嘉吉の頃には金野、永正以降今野、元和には紺野を称し、いまは金姓に復している。これは「降をなすによって世間を恐れ、紺と改む、出世の節は金野・今野どちらを用いてもよい」と見えている。名字を改めるのにはそれ相当の事情が働いていたのであろう。それにしても改名は、本家の惣領にあやかりながら、庶子家でなければならぬものを要求している。

 惣領制のもとにおける名字として、いま一つ注意されるのは、同じ一家でも夫と妻の名字が別々であることである。これは鎌倉時代、夫と妻の財産が別々に保持され、処分されることから起こった。妻は自分の名義の財産である所領を処分するときは、生家の惣領の許可を必要とした。妻はこのた嫁しても夫の名字を名乗らず、生家の名字をとなえた。将軍頼朝の妻政子は、平氏である北条氏の出であったため、常に平政子を称した。これは中国の慣習にならうものとされるが、事実は中国の宗族と日本の惣領制家族の間に共通な性格があったためである。夫と妻とは名字・財産、そして墓地をも別にすることが多かったのである。この夫婦別姓の慣習は、惣領制の解体した室町・戦国はもとより、江戸時代から明治の初年にまで引き継がれた。江戸時代、武家の妻はすべて里方の姓を名乗った。高禄の武士はふつう妻のほかに何人かの妾をもつのが例であったから、どの腹の子供かをはっきりさせるために、里方の姓を名乗らせたとう説もあるが、疑問である。やはり、保守的な傾向をもつ武士の家族生活に惣領制家族の時代の慣習が残っていたと考えたほうが自然なようだ。

 

<続く>

2010/06/12 14:03 2010/06/12 14:03
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相馬氏
九 曜
(桓武平氏千葉氏流)
 


 相馬氏は、桓武平氏千葉氏の一族である。千葉氏の家紋は妙見信仰から生まれた月星紋として有名なものである。伝承によればむかし平将門とともに兵を挙げた先祖の平良文が窮地に陥ったとき、空から星が降ってきて、それに力を得た良文は戦に勝利したことにちなむという。

 千葉氏は星と月を組み合わせた「月星紋」は嫡流が用い、庶流は「八曜」「九曜」「十曜」など「諸星紋」を家紋にしたという。『見聞諸家紋』には千葉氏の紋として「九曜」が載せられて「月星」の名が付けられている。また、『羽継原合戦記』にも「月に九曜」は千葉介とみえている。相馬氏も千葉氏の庶流の一つとして、「九曜」を家紋に用いるようになったのである。

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【掲載家紋:月に九曜/月星/七曜】


 一方、相馬氏には「繋ぎ馬」なる勇ましい紋があった。
 江戸時代、荒馬を繋ぎとめた形の「繋ぎ馬」の紋は、平将門の紋であると広く信じられていた。平将門は関東で旗揚げし、謀反を起こした。しかし、関東では逆賊と思われていない。平安貴族が京都で安逸をむさぼっているために、義兵を挙げたということになっている。いわば東国の盟主である。天もこれを嘉し給うて、その謀を愛で、天から黒馬を下し、将門をはげました。しかし、この馬は、天与のもので普通の馬ではない。将門以外は乗ることができなかった。それで繋いでおくことにした。これが「繋ぎ馬」の由来である。

 将門十一代の孫を師常といい、下総国相馬を支配して、相馬氏を称し「繋ぎ馬」紋を用いた。千葉氏流相馬氏は、将門流相馬氏のあとを継いだものである。当然、「繋ぎ馬」紋も継承した。

 今日も「相馬野馬追い」として、相馬氏戦国の風が伝えられている。捕えられた荒馬は「勇力の輩相共に力を合わせ、これを捕え、柱を建て、これを繋ぐ。その馬手足を踏み立て、歯をかみ鳴らし、羈を解き、逃れんと欲するの勢い、その勇猛なり」(相馬古事秘要禄)と、まさに「繋ぎ馬」の家紋の様を実見することができる。

 相馬氏は、「九曜」「繋ぎ馬」のほかに「亀甲に花菱」紋も用いていた。これは、相馬氏発祥の地である下総国の位置の一宮である香取神宮を信仰したことから、その神紋である「亀甲」を家紋として用いるようになったのだ、と伝えている。



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【掲載家紋:繋ぎ馬/亀甲に花菱】

2010/05/31 11:43 2010/05/31 11:43
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小笠原氏
三階菱
(清和源氏義光流)
 
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  小笠原氏は甲斐源氏武田氏の一族で、家紋は「三階菱」である。『見聞諸家紋』にも「三階菱」が小笠原氏の家紋として記されている。また、『羽継原合戦記』には「三文字松皮は赤松と小笠原」と見えている。いずれにしろ、小笠原氏が菱紋であったことは疑いをいれないものである。

 その由来を『寛政重修諸家譜』には、建武の新政で信濃守護に任ぜられた貞宗は、後醍醐天皇のとき、「弓馬を師範したてまつり、叡感の余り王の字を家紋とすべきむね、勅命あり」として「王」の字を受けた。しかし、はばかりのあることとして、ひそかに王の字をかたどり松笠菱の下太と称して家紋にしたと記されている。松笠菱の下太とは、小笠原氏の定紋「三階菱」にほかならない。

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【掲載家紋:四つ割菱(武田菱)/花菱/松皮菱】

 小笠原氏の本家にあたる武田氏は、「四つ割菱」を用いていた。「四つ割菱」は武田氏の専用なので、やがて「武田菱」の名で呼ばれるようになった。武田氏の「菱」紋のいわれはさまざまに言いならされているが、かなり古くから武田氏は菱紋を用いていたようだ。塩山市にある菅田神社に伝えられた武田氏重代の「楯無の鎧」は平安時代の作とみられ、これに割菱・花菱ともに付いている。これをただちに家紋と断定はできないが、菱文様が平安時代より武田氏に密着した紋様であったことはうかがわれる。
 武田氏の一族はこぞって「菱」を家紋として用いたが、宗家武田氏の「四つ割菱」をはばかって、家紋の形を変えている。たとえば、「四つ割菱」の線を太くしたり、「花菱」にしたり、菱を減らして「三つ菱」にするなど、さまざまに意匠を工夫している。その結果として、武田氏の一族一門が増えれば増えるほど、菱紋のバリエーションも増えていった。小笠原氏もはじめは「四つ菱」であったものを「三つ菱」とし、やがて「三階菱」に変化したものと考えるのが自然である。
添付画像
写真:葵祭走り馬神事の幔幕


 ところで、小笠原氏に仕えた溝口氏が著した『溝口家記』に記された小笠原氏麾下の紋をみると、「御家中添文」は、そのほとんどが、松皮菱に別の紋を組み合わせている。「御宿老衆幕之文」は、それぞれ独自な紋を用いていることから、武家における一族・一門、被官の紋のありようがうかがわれる。すなわち、一族・一門は宗家の紋を基本に自らの家紋を工夫し、被官はそれぞれの出自にふさわしい家紋を用いているのである。

添付画像
【掲載家紋:赤沢氏の松皮に十文字/溝口氏の松皮に井桁/坂西氏の丸の内松皮】

 
2010/04/13 15:35 2010/04/13 15:35
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武田氏
四つ割菱
(清和源氏義光流)
 
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 武田氏の家紋は「四つ割菱」である。すなわち「武田菱」として有名なもので、武田氏の専用なので武田菱の名が起こった。武田氏は割菱ほかに「花菱」も用いたが、花菱は裏紋または控え紋として用いたようで、女性などがやさしさを表わすために多用したようだ。この花菱も菱形を花の文様に変化させたもので、武田氏とその一族の家紋は「菱」で代表されている。

 「武田菱」のいわれはさまざまに言いならされているが、かなり古くから武田氏は菱紋を用いていたようだ。菱文様自体は正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏が古くより菱文様を紋として用いていたとおぼしき証拠が残されている。それは塩山市にある菅田神社に伝えられた武田氏重代の「楯無の鎧」で、この鎧は平安時代の作とみられ、これに割菱・花菱ともに付いているのである。これをただちに家紋と断定することはできないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味があり、平安時代から菱文様は武田氏に密着した紋様であったことはうかがわれる。

 楯無の鎧と菱紋のいわれについて 『見聞諸家紋』には、

●● 頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。

と記されている。すなわち「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領した、それに菱文様が付いているのだから、これは家紋とみてよい」というものである。

 では、武田氏の割菱紋は何を表現したものであろうか?植物の菱からきたとする説もあるが、文様紋からきたものと考えられる。また、武家の家紋は名字をシンプルに表体化したものが多いことから、武田の「田」の字をビジュアル化したものとも思われる。そして、ひしゃげた菱形にすることで武家らしく鋭さを表現したのではなかろうか。武田信玄で知られる戦国大名武田氏は割菱紋を用いたが、宗家は四つの菱の間の白線が細く、一族のものはやや太くして宗支を区別していた。さらに、やさしく花形にした「花菱」のほか、「三階菱」「松笠菱」というように武田氏の支流・庶流は、宗家に遠慮をして少しづつ意匠を変化させた菱紋を用いた。
 
 甲斐武田氏からは多くの支族が派出した。割菱を用いた家は石和・浅利・加賀美・上条・穴山等の諸氏、花菱は柳沢・於曽・油川・長坂・駒井・入戸野等の諸氏が用いた。その他にも数多くの武田一族を名乗る家があり、そのいずれもが菱紋を用いている。さらに花菱紋を功を挙げた部下に与えることもあり、菱紋は甲斐を中心におおいに広まったのである。
 また、甲斐武田氏からは安芸・若狭・上総の武田氏をはじめ、小笠原氏・南部氏・松前氏などの戦国大名が分かれ、かれらもまた菱紋を使用した。なかでも小笠原氏のものは「三階菱」紋として知られるもので、小笠原氏から出た秋山・三好・赤沢・今井らの諸氏も三階菱、あるいは松笠菱紋を用いたことで、こちらも世に広まった。その結果として、武田氏の一族一門が増えれば増えるほど、菱紋のバリエーションも増えていったのである。

 さきの『見聞諸家紋』には武田氏の松笠菱・花菱、小笠原氏の三階菱をはじめ、秋山氏の松笠菱、大草氏の轡の内に三階菱が記され、『羽継原合戦記』には、武田氏は割菱、小笠原氏は松笠菱、板垣氏は地黒菱と武田一族の紋が記されている。菱紋が必ずしも甲斐武田氏の専用紋ではないが、割菱・花菱・三階菱、松笠菱紋を使用されている家の場合、甲斐源氏と何らかの縁りがあるかも知れない。



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【掲載家紋:花菱/三階菱/松笠菱】
2010/04/02 17:01 2010/04/02 17:01
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1901年 油彩/カンヴァス
©2008 - Succession Pablo Picasso - SPDA (JAPAN)
©Photo RMN - ©Beatrice Hatala/distributed by DNPAC


 「青の時代」を代表するピカソ20歳の自画像。1901年初頭、パリに同行した親友カサジェマスが悲恋が原因で自殺した。その悲しみによって、ピカソの「青の時代」は始まる。憔悴(しょうすい)した画家の表情や、喜びを失った眼差しが、悲哀の色「青」によって強調される一方で、不敵とも言える芸術家としての自負心が垣間見える。



《招魂・カサベスの埋葬》1901年




《ラ・ヴィ(人生)》 1903年




《セレスティーナ》1904年




《海辺の貧しい人々》1903年




《The Old Guitarist》 1903年



《海辺の母子像》1903年




《盲人の食事》1903



《ブルーヌード》1903年




《シュミーズ姿の少女》




■青の時代 1901〜1904

ドガの影響が見られる。

2枚の死者の顔を写生した《カサベスの死》1901年夏、さらに《招魂・カサベスの埋葬》から、作品が〈1流〉〈1流〉〈1流〉になっている。〈象徴界〉の美術。液体美術。
この《招魂・カサベスの埋葬》は、以前にグッケンハイム美術館の『1900年展』で見た記憶があるのだが、ピカソの作品らしからぬスタイルの絵だが、非常に印象深い作品。
この作品以後、作品は〈1流〉になっている。カサベスの死に立ち会ったことが、作品の〈格〉を上げているのである。

女性とのセックスを漫画風に描いたドローイング4点は、《6流》《6流》《6流》で、〈想像界〉の作品。しかも実体的な作品である。

《ソレル一家》1903年も〈1流〉〈1流〉〈1流〉。〈象徴界〉の美術、液体美術、〈非−合法性〉〈非−実体性〉がある。

◎《セレスティーナ》1904年という片目の女の肖像から、青の時代の絵画は、
〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉となる。〈想像界〉〈象徴界〉〈現実界〉の3界同時表示、固体・液体・気体の3様態同時表示。
これは名品である。

以下〈超1流〉〈超1流〉〈超1流〉で3界同時表示/3様態同時表示の名品だけを上げていく。

◎《海辺の貧しい人々》1903
◎《セバスティアン・ジュニェル=ピダルの肖像》1903
◎《貧者の食事》1903
◎《酒場の2人の女(酒場の娼婦達)》1902
◎《盲人の食事》1903
◎《人生》1903

青の時代には、名品が多くある。
貧者に視点を当てた社会主義性のある主題が重要な意味を、絵画そのものの〈格〉を上げることに影響を与えたように思える。
〈格〉というのは意識の水準なので、画家がどのように世界と向き合っているのか、その意識の水準そのものの拡大が重要な意味を持つのである。
画家が、自分の作品の内側だけに向かえば、作品は《8流》に転落していく。《8流》から始まったピカソの制作は、最晩年に再び《8流》に転落するのだが、《8流》から〈1流〉に〈格〉を上げるきっかけに《カサベスの死》があり、そして〈超1流〉に〈格〉をあげる主題が、貧者たちを描くことであった。

2009/09/03 00:00 2009/09/03 00:00
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『ピカソ』 戦争と平和

ARTS 2009/09/02 16:33 kawa

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『戦争と平和』は、画家パブロ・ピカソが、1948年から1955年まで南フランスのカンヌ近郊にある町ヴァロリスに滞在していた時代に制作した巨大な壁画である。1951年、ピカソ70歳の誕生日を祝福した町の人々に応えて、翌1952年に完成させた 。

『戦争と平和』は、『戦争』 (La Guerre )と『平和』 (La Paix )という二つの絵を組み合わせた作品である。二つの絵は、ヴァロリスのピカソ美術館内にある礼拝堂の壁面とアーチ状に曲面を描く天井の全面を使用し、向かい合わせに配置されている。礼拝堂の正面から向かって左側が『戦争』、右側は『平和』となっている 。二つの絵は、それぞれ高さ4.7メートル、幅10.2メートルに及び、非常に大きい 。



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Guernica 1937

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Masacre en Corea  1950

2009/09/02 16:33 2009/09/02 16:33
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347シリーズはピカソ晩年86歳の年に204日という短い期間で作家の驚異的な集中力と激しい情熱を注ぎこんで完成された347点の連作銅版画。

女性への愛をテーマに、様々な人間の感情が織り込まれ、天才芸術家の壮大なイマジネーションのもと描かれたこの連作は、ピカソの版画作品の集大成として世界的にも大変有名。




347シリーズNo.251
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347シリーズNo.205

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347シリーズNo.238 Eau-forte 3 aout 1968III
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347シリーズ #310
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347シリーズNo.200
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347シリーズNo.90
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2009/09/02 11:52 2009/09/02 11:52
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ミスト中

VOICE 2009/09/02 10:30 kawa


降り注ぐミストの中を ミニチュアカーが走り、
乳母車に乗った赤子が叫ぶ 
球場に歓声が響き、船尾に白波が踊る。    

ミストの純粋さに 打負かされないうちに、
現世のあるうちに 猶予の不透明さが眼に見えないうちに 包まれる。

水の中にいながら 喉が飢える、
生に渇きを来す 浮かぶことを忘れ、
縋る物を追いかけ 宙を漂う。

誕生の喜びは ミストからの開放。
 
心地よく降れ! 生の源。

「いかづち」を以て 生の喜びを叩きつけてくれ。


                    混沌



Wassily Kandinsky's Composition VII, 1913. The Tretyakov Gallery, Moscow. Painted in 1913 when Kandinsky lived in Munich, Germany.

2009/09/02 10:30 2009/09/02 10:30
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