あなたに贈る歌



                                                                   森下愛理沙

 淑子は6年前、自分がブログに書いていたエッセイに気になる書き込みがあるのを最近見つけた。エッセーは淑子が女学生時代に有名だったある歌手との思い出についてである。何年も続けていたそのブログも最近はあんまりしなくなっていて、いまはもっぱら‘ツイッター’か‘フェイスブック’といったソーシャル・ネットワークに活動拠点を置いているので、ブログはほとんど放置状態になっていた。

 そのエッセイには書いた当時から、その歌手のファンを名乗る人たちの書き込みが不思議と続いていた。そのほとんどが自分も彼のファンであったとか、彼は今どこで何をしているのか知りたいなどであり、一年ぐらいすると書き込みも少なくなっていたが、けれども絶えなく書き込みは続き、この三年の間にも少なくとも10個ぐらいの書き込みがあった。淑子はレスポンス(response)をつけるのも面倒くさいと思っていたので、そのまま放っておいた。

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 小学校を群馬県の前橋で卒業し、東京で仕事を見つけた父とともに家族は東京に移り住んだ。生活は東京では比較的に家賃が安かった荒川区のある下町から始まった。教育熱の高い父は私の将来のためと思い、東京で仕事を見つけ、同時は有名大学への合格率の高い上野の私立中学校に入れてくれた。私は京成線に乗って上野公園に近い中学校まで通った。

 故郷の前橋では秀才と言われ、小学校では卒業生代表だった私も中学では成績がグラスの中の下で、なんの変哲もないただの普通の子供で、私に期待を掛けて東京に引っ越す決心までしてくれた両親をがっかりさせた。何より私がショックをうけたのは大都会の中学校とのカルチャーショックであった。政治家や学者や芸術家などを親に持つ子供たちがたくさんいて、平凡なのは子供の私だけでなく、立派だと思っていた自分の親も一庶民にすぎなかったことだった。誕生会に招待されて訪れた学級の友達の家には二人の家政婦がいて、お母さんは運転手つきの車で買物に出かける。そして友達の部屋は、外国出張の折お父上がみやげに買ってくれたきれいなフランス人形や置物でいっぱいだった。
 こうして私の思春期は、両親の期待に応えられない自分に対する一種の平凡コンプレックスと、友達に対する劣等感で覆われた暗いトンネルのど真ん中で、何処に向かって進むべきか迷う時期でもあった。

 その時、私が唯一心のより所にしていたのが歌で、毎日のように深夜のラジオ番組宛に葉書を書いた。私の葉書を読んでくれて、暖かい慰めの言葉を掛けてくれたのは深夜番組のDJを担当していた歌手の伊藤玄二。テレビの音楽番組で馴染みの顔を想像しながら彼の暖かい声を聞きながらジェーン・エアを読み、時にはリルケの詩に心捕らわれた。私は伊藤玄二を思うだけで胸がキュンとするほど好きで、これが私の初恋である。

 会いたいと思って彼が出演する番組の放送局の入り口をうろついたり、小遣いを貯めてシングルのレコードを買い求めたりした。そして少しずつ成長し3年も過ぎると東京にも馴れ、親も私に対する過度な期待を求めなくなった。そして私も雲の上のひとである伊藤玄二をあきらめ、学校の先輩に思いを寄せる普通の17歳になっていた。先輩と同じ大学に進学したいと思う一念で大学受験のために勉強に精を出しているある日の事、伊藤玄二に偶然出会ったのは谷中小下通りを過ぎたところにある喫茶店「乱歩」である。

 ご主人が江戸川乱歩が好きでお店の名前が「乱歩」となったというこの場所に時々寄り、冷たいものを頂くのがその同時の私の贅沢な時間で、少しだけ大人ぶった頃の事であった。初夏の休日の昼下がりの茶屋、いつもは混んでいた店がその日に限って閑散としていて、客は私だけ。片隅にすわり、カバンを隣の椅子において、その頃読んでいた詩集を取り出した。客が店に入ってきた。無心に振り向くとそこに伊藤玄二が二人の男性と立っていた。胸が高ぶった。まさかこんなところで芸能人に会うなんて、それも私の初恋の人に会うなんて、奇蹟にも近いできことに凍りついた私。もちろん彼は私が送った葉書の事など覚えているはずもない。目が会うと彼はにっこり笑い、声を掛けてきた。
 「お一人ですか?学校はこの辺ですか?それは凄い良い学校に通っているんですね。東大を目指しているの?」など。私は小さい声でそんなことないですよと顔を赤く染めながら返事していたけど、あんまりの緊張に声が震えていた。アイスコーヒーを飲んで三人はまもなく店をでたが、私は自分が食べていたアイスクリームの味がわからなかった。もちろん読んでいた詩など頭に残るわけもない。

 帰るときマスターに精算を頼むと、伊藤玄二さんが払ってくれたと言うのではないか。お礼を言いたくて昔のように葉書を書こうとしても伊藤玄二の深夜の音楽番組は既になくなっていて、私は彼と連絡をとる方法を知らなかった。

 それから30年の時が流れ、人々の脳裏からも彼は忘れ去られた。時々昭和に残す歌100選に彼の歌が撰ばれる事はあるけど、歌うのは別の歌手で彼は芸能界を去ってから一度もマスコミに登場しない。私も伊藤玄二を忘れていたけど、この歳になって時々彼の事を思い出し、彼は何処で何をしているのだろうか。二度と彼に会うことはないだろうけど、今更ながらお礼を言いたいと思う。

 「いろいろとお世話になりました。本当にありがとうございました。私の青春はあなたです。何卒お元気で・・・」
 
 エッセイに書き込まれた内容によると、書いた人は伊藤玄二さんの親友である事と、連絡を取りたいとの事だった。その前からも親戚と名乗るひとや、後輩と名乗るひとやの書き込みを何回か見て、掲示板上の書き込みを通じて話はしたが、本当の事なのか、単なるいたずらに過ぎないのかも判らなかったので淑子は適当な返事をしたり、時には無視したりしていたが、今回はなんとなく気になり、彼の書き込みの下にメールアドレスを残した。その後、淑子のもとに届いた彼からのメールには今でも自分を記憶してくれたことに対するお礼としてサインとCDを送りたいとの伊藤玄二からの伝言が書かれていた。 淑子は多少のためらいもあったがそれより嬉しい気持ちが大きかった。スキャンした職場の名刺をメールに添付して返信すると、翌日会社の事務室に彼からのサイン入りのCDが届いた。伊藤玄二の友人と名乗る人のメールによると本人がいつかもう一回あなたに会いたいと言っていると、だけど今は会えないと。

 それから淑子は伊藤元二のために、ツイッターで「伊藤元二のファン倶楽部」を立ち上げた。今のフォロワーは21名、昔のファンが集まり、本人が見ていると思いツイットし続ける。つぶやきに彼が交わる可能性に賭けて。

 友人と名乗ったのは伊藤玄二自身であった。暇つぶしに自分の名前で記事検索をしていて淑子のブログを見つけた。玄二は懐かしかった。あのお下げ髪の女の子を玄二は意外と鮮明に覚えていた。あのように頭の良さそうな純な子を持つ親が羨ましいと思ったことを思い出した。玄二は同じ芸能界の女優と結婚をし、10年後に離婚した。子供はいなかった。離婚した女房は今は中年演技者として活躍している誰もが知っている女優だ。

 玄二はある事件に関連して芸能界を退いた。兄弟のように育った親友がヤクザになって、玄二が芸能界に入るときその繋がりで有名な芸能プロダクションに入ることが出来た。それから玄二は組織と手を切ろうとあらゆる努力をしたけど出来なかった。そして玄二はそれが原因で芸能界から引退を決心した。玄二は再び歌を歌いたい。一度でいいから昔のようにファンの前で歌いたい。けれども還暦を迎える今、昔の伊藤玄二を思うファンの前に出る勇気もない。いまも他人を装い「伊藤元二のファン倶楽部」のフォロワーの一人にはっているが、自分が伊藤元二だと名乗れない。だけど何もかもあきらめ老いて行く勇気もないのがとても悲しくて辛い。玄二は最近になって以前に増して昔の仲間が他界した事をマスコミを通じて知る。そして自分に残された時間を測り、ため息をつく日が多くなっていることに気づく。

                                   終わり

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2012/09/26 18:53 2012/09/26 18:53
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