善徳女王(そんどくじょおう、? - 647年)は、新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)で新羅初の女王である。参考までに新羅には3人の女王が存在し、新羅の以外の国では摂政としての実質的女性統治者はいても、それは王の名を借りての統治で、実際に最高の地位に座った女性はなかった。善徳女王の姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の娘であり、王母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王配は飲葛文王。

 3人姉妹(善徳女王は「三国史記」では長女として記録され、「三国遺事」と「花郎世記」では次女とされている。天明公主は「三国史記」で次女、「三国遺事」では娘、「花郎世記」では長女。三女の善花公主は「三国史記」と「花郎世記」では存在が伝わっていない)であり、男兄弟はいない。先王が632年1月に死去したときに男子がなく、また父母ともに王族である聖骨の男子がいなくなっていたために、徳曼がその呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。即位して後に聖祖皇姑の号を国人から奉られた。現代の韓国においては善徳女主とも呼ばれる。
 百済と高句麗との同盟(麗済同盟)によって当時の新羅は国際的に孤立した状況にあり、それを打開しようとして唐に積極的に近づき、朝貢を重ねて635年には父の真平王に与えられていた〈柱国・楽浪郡公・新羅王〉の爵号を継承することができた。
 
 
 慶州市月城公園の瞻星台善徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた。帰国した慈蔵法師の発願で645年3月には皇龍寺の九層塔を創建したほか、女王の時代に芬皇寺や霊廟寺が完成している。霊廟寺の建立と同時に、瞻星台(天文台)を築いたとも伝えられている。また640年には王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文化が新羅に流入するきっかけとなったように、新羅の文化発展への貢献が知られている。


善徳女王の神秘性・聡明さの表れとして、3つの予知を行なったことが伝えられている。

第1は、唐の太宗が牡丹の花の絵と種を贈って来たときに、その花には香りがないであろうと言ったこと。理由を尋ねられて、「花の絵には蝶や蜂が描かれていない。どんな美女でもその色香で男たちが群がるので、花に群がる虫がいないことから香りがないと解った」と答えた。

第2は、宮殿の西の玉門池に蛙がたくさん群がって鳴いたときに、西の国境付近に賊の潜んでいることを知り、角干の閼川らとを派遣して賊を滅ぼさせたこと。これも理由を尋ねられて、蝦蟇(蛙)の怒った目は兵士を表し、西の国境付近には女根谷という地名があるので、玉門池に蛙が集うのは女根谷を兵士が侵そうとしていることだと解ったと答え、庚信や毗曇ら家臣を感嘆させた。

第3は、自分の死の年月を予測して忉利天の中に埋めるように、と言ったこと。群臣は忉利天の場所がわからず尋ねると、狼山の南であると答えた。後に毗曇の内乱が起こったときに女王は予測した通りの月に亡くなって狼山の南に葬られたが、さらに十余年後に文武王によって女王陵の下に四天王寺が建てられた。忉利天とは須弥山の頂上にある帝釈天のすむ世界であって、帝釈天が四天王を従えていることから、四天王の上にある忉利天の世界に葬られることを言い当てた、と理解されたものである。

これらの説話のうち第3のものは、仏教的説話集の性格をも有する『三国遺事』紀異・善徳王知幾三事だけが記しているが、第1・第2の説話は『三国史記』新羅本紀・善徳女王紀にも記されており、女王がシャーマン的な王であったと考えられる根拠にもなっている。

今、朴槿惠さんが次期大統領に決まったところで、善徳女王が統治していた地から誕生した女性統治者について語られている。歴史に名を残す名君になってほしいと願うばかりである。

添付画像

写真↑韓国TV放送局 MBC 創業48周年記念ドラマ善徳女王より


2013/01/23 15:56 2013/01/23 15:56
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