時 計
第一話
亡き祖母が大切にしていた時計がありました。それは、家族の未来を背負い22歳の若さでアメリカへ渡った叔母、つまり私の母の妹から、祖母へ贈られたものでした。10年ぶりの帰国に際し、彼女が母親へのお土産に選んだ腕時計は、うれっこ女優のマニキュアをした美しくしい爪のような楕円の形をしていました。それは上品な金色で、輝く小粒のダイヤモンドの飾りが眩しい豪華なものでした。
物にも運命(さだめ)というのがあるのかと思うときがあります。アメリカから遥か遠いアジアの東端に来る事になってしまいましたこの時計も、それからその時計が出会うことになる主になる人も、きっとそれぞれの運命(さだめ)の中で出会と別れを繰り返すのかも知れません。ニューヨーク5番街を優雅に歩く素敵な貴婦人の色白でしなやかな腕にふさわしそうなこの時計が、代わりに戦争で夫を亡くし、行商で三人の子供を養ってきた黒く日焼けした太い腕の祖母のところにやって来たのも。
叔母の里帰りは私が小学4年になった春の出来ことでした。上を向けばそこには満開した桜がいっぱいで、ちらほらと顔におちてくる花びらで頬がくすぐったかった、叔母と手をつないで見ていたあの花見を私は覚えています。
その豪華な叔母の贈り物のおかげで、私は生まれて初めて自分の時計を持つことになりました。祖母が今まで持っていた、叔父が初めもらった給料で母親にプレゼントした思い出の品を、娘である私の母ではなく、未だ小学生の孫娘(まご)に譲ったのでした。
田舎町の小さい学校の中で、自分の腕時計を持っている子供は私一人だけでした。私はすぐに『時計をはめた子』と呼ばれるようになりました。35年ぶりに行われた同窓会で私は隣のクラスの子に「あなたはもしかしたら時計をはめていた子じゃない?」と聞かれました。何だか懐かしくて、亡き祖母を思い出し、涙が出そうでした。とにかくその当時は時計が貴重品とされていたのです。
祖母から譲ってもらったその時計を、私は翌年の夏休みが終わる頃、失くしてしまいました。エアコンのないあの頃の暑くて長い夏を、子供たちは町の近くを流れる川辺で水遊びをしながら過ごしていて、私も兄弟と一緒にほとんど毎日のように泳ぎに行っていました。水遊びに夢中になっている間、私の時計を羨ましく思った誰かが、脱いでおいた私の服のボケットから、それを持っていったのだと母は推理していますが、私も物をきちんと管理できる、しっかりした女の子ではありませんでした。時計を川に持っていかなければ良かったと後で後悔しました。エアコンはおろか、冷蔵庫もそれほど普及していなかった時代で、もちろん我が家にはテレビもありませんでした。 ブローバ(BULOVA)のブレスレット時計、叔母(祖母には次女)から贈られたアメリカ土産のこの時計を祖母は片身離さず、大切にしていました。
ブローバの時計は当時のアメリカを代表する名品でして、1875年、チェコからの移民であったジョセフ=ブローバ Joseph Bulova (ジョセフ・ブローバ)という人がニューヨークの Maiden Lane にジュエリーショップを開いたのがブローバの起源だそうです。彼の商売は順調に推移し、ジュエリーと共に扱っていた時計も売れ行きが良かったので1911年より掛時計や置時計などの製造をアメリカ国内でスタートしました。それから懐中時計の開発や製造する一方、腕時計の製品開発に取り組みました。
1926年、ブローバはクロックラジオを製品化、世界から多くの引き合いを受けたようで、日本にその名を知られたのもこの頃のようです。1930年代から40年代にかけては腕時計のメーカーとして黄金期を迎えます。次々と発売した金張りスクエアケースの腕時計が爆発的に売れたことで、ブローバ(BULOVA)はメジャー時計ブランドとして知れ渡ります。
とにかく後日、私がアンティークショプで見かけた祖母の時計に似たようなブレスレット時計は14Kで17万円の値が付いていました。下手な英語しか話せない二十歳そこそこの娘はこの時計を買うために、一日何時間ミシンに向かい、どれほど頑張ったことか。そして故郷(くに)の家族への仕送りの為に、口に合わないハンバーガーで空腹をしのぎ、どんな思いで我慢の日々を過ごしてきたのか、幼い私にはもちろん、故国(くに)の大人達も全くわかっていませんでした。
祖母は「いずれ、あなたが大学生になったらこの時計を譲るからね。その時までおばあさんが大事に持っているよ」と口癖のように言っていました。大人になればその時計が自分のものになると思い込んでいた私は、祖母の時計とはいえ、私にも大切なものに思われました。自分のものを、祖母に預けているつもりでいたのです。
わが家にもモノクロではありましたが、テレビがやってきた頃、叔母の2度目の帰国があり、今回も叔母は帰国土産に腕時計を買ってきました。今度の時計は丸いフェイスの婦人用オメガでした。 雪の結晶を思わせる、透明感のある澄んだ14金ホワイトゴールドで、やはり名品中の名品といわれるものでした。しかし私の関心は、祖母の手首に3年半の間、休むことなく時を刻んできた、ブローバの時計の行方で、きっとお祖母さんはこの時計を私にくれるものだと信じていました。
いつになれば、その時計を貰えるのか待ちに待っていたある日、叔父と結婚したばかりの光枝おばさんの手首からキラキラと輝くダイヤモンドの飾りがついたその金色の時計を見て私は自分の目を疑いました。そして私はショックのあまりに泣いてしまいました。
「おばあさん、あの時計は私にくれると約束したじゃないのよ」と泣いて抗議する私に祖母は言いました。「まだ中学生のあなたにあの時計は相応しくないから今回は光枝さんにあげたけど、このオメガ時計は何れあなたにあげると約束するから、もう泣かないでね」と。私は祖母のブローバ時計が本当に好きだったのです。
それから父は中学生の私にシチズン(CITZEN)の時計を買ってくれました。今にして思えば、父と母が何件もの時計店に足を運び、慎重に選んだのに違いないそのシチズン時計はブラックフェイスのロレックス型で格好良いものでした。けれども、心の底からブローバに惚れていた私にはそれ程うれしくはありませんでした。それでも毎朝欠かさずシチズンのゼンマイを巻いていました。たまに忘れて遅刻をすることもありましたが、もちろん、時計のことばかりが原因で遅刻をしたわけではありません。
それからの私はブローバの時計はあきらめ、オメガ(OMEGA)に希望を託す事にしました。他のひとからブローバよりオメガの方が格上だと聞かされ、多少慰めにもなりました。やはりこれからはブローバよりオメガの時代だと自分に言い聞かせながら、街の時計店のショーウィンドウに出ている看板を見掛けるたびに祖母のオメガを思い浮かべました。『ロレックス・オメガ修理専門』 『ROLEX』『OMEGA』
大人になって分かったことですが、1970年代、ブローバは音叉(おんさ)式の腕時計を開発した事で技術的に世界の時計業界をリードしました。しかしながら、このことが逆に仇となり、この技術に固執したため水晶発振の実用化で日本のメーカーに遅れをとってしまったのでした。すなわち音叉機構のパテントを公開しなかったために、セイコー(SEIKO)は水晶発振の開発に向かわざるを得なくなり、このことが結果としてブローバの衰退を招いたことになったというわけです。NASAの公式時計の納入においてオメガ社のスピード・マスターと競うことになりました際、結果的に採用されることはなかったようです。後にオメガ社のスピードマスターでブローバ社のメカニズムを採用する機種も存在したと聞くとなんだか皮肉に思われます。
それから、二十歳になった私は恋愛も思うようには行かず、希望していた大学への進学にも失敗し、大人には裏切られ、傷だらけになりました。何もかも信じることが出来ず、どうやって生きていけば良いのか迷っていた頃、祖母は脳溢血で倒れてしまいました。光枝おばさんの献身的な介護のお陰で、寝たきりでは有ったが3年間生き、それからあの世に旅立ちました。
祖母のオメガはそれ以来、見たことがありません。おそらくブローバ同様に光枝叔母さんに渡されていたことでしょう。けれども、光枝叔母さんの三年間に渡る献身的な介護は誰にも出来るとではなく、もしもオメガの時計が彼女の介護に対する祖母のささやかな気持ちであるならば、当然のことだと今の私には思われました。ねえ、おばあさん、そうでしょう?