亡命
フランツは逃亡中偶然会った大学の経済学教授と共にソ連軍に追われる身になってしまった。そして彼はその教授と船に乗り込みハンガリーから抜け出し大西洋へと脱出に成功する。ソ連軍に追われてその船に乗った者は全部で28人。船長の助けを借りて西側の各国に向けて亡命を要請する無線信号を送った。幸いにもアメリカ政府から亡命者を受け入れるという返事を得て、船はニューヨーク港へと向った。しかし、フランツには上陸が許されなかった。彼が未成年者であっため、亡命には彼の後見人になってくれる養父母を必要としたのである。フランツは船から降りられないままアメリカ国内のハンガリー民主運動支援組織が養父母を探してくれるまで待つしかなかった。一週間ほどすると彼を引き取ってくれる養父母が見つかり、アメリカは彼の亡命を受け入れた。英語を話せなかったフランツはそれから1年余り養父母のもとで英語の勉強をしながらアメリカ生活に適応する訓練をしたのである。その間、国の両親や兄弟たちに自分の安否を伝えようとあらゆる方法を探したが見つからず、家族の消息すらわからなかった。
入隊
19歳になったフランツは自分のこれからの行き方を考えなければならない。祖国ハンガリーの風習と違い、アメリカと言う国は18歳を過ぎると自立を求められるのである。そしてフランツは養父母から独立を決心し、アメリカ軍に志願入隊をすることにした。まだ英語が自由に話せないフランツにとって入隊は、アメリカ市民として自立して生きて行くことができる数少ない選択肢の一つだったからだ。
朝鮮戦争が終わってから未だ十年にもならない当時の世界は、イデオロギーの対立でアメリカを中心とする資本主義の西側とソ連を軸とする社会主義の東側の二つに分かれていた。 1960年代のソ連はスターリンの時代が終わりフルシチョフの時代に突入であり、アメリカは若い大統領ケネディの登場でアメリカの国民だけではなく、西側陣営全体が沸き立っていた。その後まもなくキューバ紛争の勃発でアメリカとソ連の神経戦は頂点に達したし、人工衛星の開発競争にまで及んだ。
1959年に入隊したフランツは新兵訓練を終えると、当時、緊張が高まりつつある韓国へ配属された。フランツが韓国に派兵されて暫らくすると、韓国で軍事クーデタが起きた。それは1961年5月16日のことである。そしてケネディ大統領とフルシチョフの間で首脳会談が開かれたが、それは当時の朝鮮半島の緊張を加速させる要因と受けとられた。それから約2年、フランツは軍事境界線(MDL)あたりでケネディ暗殺のニュースを聞いた。当時の軍内の緊張は頂点に達し、軍には高いレベルの非常態勢が発動され、フランツは非常待機組みに組み込まれた。
軍事境界線は1953年7月27日に成立した「韓国軍事停戦に関する協定(停戦協定)」に規定された休戦の境目を意味することで、これがいわゆる休戦ラインである。その総延長は155マイル(約250km)に達し、西には礼成江と漢江の川口の喬棟島から開城南方の板門店を通って中部の鉄原・金化を経って東海岸高城の名号里までに至る。当時、境界線を決めることにあたり両軍の主張が対立し、現実的に両軍の戦いの地、つまり最前線を軍事境界線と定めることで休戦協定が成立した。そして両軍は軍事分界線後方で南北両方2Kmに非武装地帯(DMZ)を設置していた。軍事分界線は200m間隔で設置された黄色表示板で示されていている。表示板は南側から北に向けたものにはハングルと英語で、北側から南に向けて設置されたものにはハングルと漢字でそれぞれ表記されている。その数は1292個に達し、この中には国連司令部が696ヶ所有り、フランツもそのなかの1ヶ所に配属されていたのである。その軍事境界線は国連主導の中立国監視団の監視の下で今日に至る。
希望を託した冒険
ある日、フランツは偶然にも中立国監視団の立場にあるソ連軍側監視団の中にハンガリー出身の兵士がいるという噂を聞いた。彼はハンガリーに残っている家族に自分の消息を伝えることができる唯一のチャンスだと考えたので、旧ソ連軍と接触する機会を狙っていた。ハンガリーでロシア語を学んでいたこともフランツを勇気付けたのである。板門店周辺巡回の当番だったある日、親しい仲間と意気投合したフランツはハングルとハンガリー語とロシア語で作ったメモを北側の兵士に秘かに渡した。
「私はハンガリー出身で国の家族に安否を伝えたい。ソ連軍監視団の中にはハンガリー出身の人が居るという噂を聞いたので誰かその人に伝言をしてくれる人を探している。私は明日も今日と同じ時間に同じ場所を通る予定である。誰か助けてほしい。良い返事があることを祈る。」
若い北朝鮮兵士は驚いた様子で、フランツにとっても大きな賭けだった。翌日、緊張して硬くなった表情で板門店を見回っているフランツに若い北朝鮮兵士がすれ違いながら落としたメモ紙にはハンガリー語でこのように書いてあった。
「家族の住所は? 何を伝えれば良いか?」
次の日、フランツは昨日と同じ兵士に会えた。震える胸を押さえながら準備していたメモを胸元から出してそっと落とした。胡麻粒のような細かい字で書かれた両親宛の短い手紙と住所を書いたものである。そして二度とその兵士に会う事はなかった。