時 計
第三話
2008年上期の芥川賞を受賞したのは、中国の民主化運動を背景にして青年たちの昂揚した情熱とその挫折を描いた、楊逸女史著「時が滲む朝」であった。読みながらわが青春の刻を思い出した。
人生に偶然はいくつもあり、栄と三十年ぶりに再会したのもその偶然の中の一つであろう。
ネット上で、文学の話や日常の話を書き物にして読み交わす仲間の集まりで、投稿の常連となっていたある書き手の作品の背景は釜山であった。コケティッシュな釜山の方言と、どこか懐かしい釜山の地名や町の様子からふと、学生時代の思い出が甦ったのである。
思い立って、その書き手にメールを送った。「ひょっとしてK高校出身ではないか?」と・・・。 「どうして分かったのか?」とメールが返って来た。それは女の第六感だったのかもしれない。栄の事を訊ねると同窓会を通じて調べて、彼に連絡を取ってくれた。「栄君もあなたに会いたいと言っています。」とのことだった。
五十路を迎えた二人ではあっても面影は残っていた。私は、彼に会う前に空港免税店で購入したセイコー時計を、栄に渡した。
「これは何?時計?こんなの俺は要らないから他の人にあげなよ。親父さんだってまだ元気だろう。弟だっているんだし・・・。今は携帯電話もあるから時計はいらんからね。」と断る彼に、「あんたはマナーもないの?プレゼントは嬉しい顔して受け取るものでしょう?これは日本土産なんだから・・・。」と、無理に渡した。栄に会って昔の借りを返せたような気がして嬉しかった。二人の男の子の父親になっている栄は、平凡で良いお父さんになっているようだった。
栄とは高校2年生の修学旅行の列車の中で友達になった釜山(ぷさん)に住む同年の男子で、二人はそれから7年に近い歳月を共有した。栄はお金が出来さえしたら釜山(ぷさん)からの遠い距離を会いに来てくれた。大好きな友達以上ではあったが、恋人未満の二人だった。
1979年某月某日、高卒以上の液晶時計の組立ての工員を募集するという新聞記事を見て、私は履歴書を出した。
まだ賃金の安い労働力が豊富であった当時の韓国には外資系企業の進出も多く、世界の生産工場の一つになっていて、今の中国のように環境汚染が大きな問題となっていた。ソウルの外れの九老洞には首都圏最大の工業団地である九老工団があった。
その会社はそこにあった。整頓された工場の建物と周辺施設がとても印象的だったその工場で、当時では最新技術の電子時計が生産されていた。
韓国初の電子時計メーカー、その会社の名はオリンポス電子株式会社。従来の発条(ぜんまい)を巻いて針で時を刻む時計とはまったく異なり、電池で動きデジタル液晶の文字盤に時刻を数字で表わす。まさにモダンでシンプルな洗練されたデザインの時計を生産する工場であった。
面接日が決まり面接場に行くと、そこには数十人の若い女性が集まっていた。私は部屋の片隅の長椅子に小さく背を丸めて座った。
朝鮮戦争が終わって(1953年)から10年間の間に生まれたベビーブーム世代である。どの場面においても激しい競争は避けられない運命にあった彼女たちは、誰もが皆、緊張のあまりか表情がない。
エリートを思わせるどこか冷たい感じの若い面接官との、家族構成や応募の動機など在り来りの質問の後、私は彼の意外な試問に驚いた。高校教科書に載っている漢詩を暗唱して欲しいというのである。可憐な女の恋歌。李玉峰が書いた「夢魂」というものである。
近來安否問如何(근래안부문여하)
近頃如何がお過しでしょうかと安否を尋ねる
月到紗窓妾恨多(월도사창첩한다)
お月様が訪れる紗窓に切ない妾(おんな)の溜息多し
若使夢魂行有跡(약사몽혼행유적)
夢の中の魂が足跡を残すことが出来るなら
門前石路半成沙(문전석로반성사)
門の前の石畳の半分は沙になったはず
電子時計は、黒い基盤にメタルの時代に似合う液晶の文字盤とそこにくっきりと時の流れを数字で刻む。その新時代の時計に相応しく、洗練された身なりのその面接官が提示した2番目の試問は『最後の授業』や『星』という短編作品を書いたフランス人作家の名前を出してみろということだった。今考えてみれば、彼はハイテク会社の社員の割には文系だったようである。
「アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)」
答えられたことでほっとして面接室を出て、次の指示を待つ他の大勢の中で一時間程度経過した頃、「この面接結果は一週間後に会社の掲示板に張り出される・・・」とかの説明があった。
その後に、私一人だけが名前を呼ばれた。私は訳もわからず、再び面接官の向かい側に座った。
「あなたは私の質問によく答えてくれました。本来なら見せる事は無いのですが、面接の採点を見せます。今日の人達の中で最高点です。これから人事部で人選に入るのですが、あなたはたぶん採用にはなりません。」
唖然としている私を前に彼の話は続く。
「採用されないと貴方は納得できないでしょうけれど、私共が求めている工員はあなたのような勉強が出来て頭の良い人ではありません。はっきり言って、会社の言うことをよく聞いてくれて真面目であればいいのです。あなたは単純作業には向いてないかもしれません。こんなことあなたに伝える必要は無いとは思いますが、私個人としては、あなたと仕事が出来ないことを残念に思っていますので、此の事だけは伝えておきたいと思いました。採用者発表掲示板に名前が載って無くてもあまりがっかりしないでください。」
結局、私は採用されなかった。友人は団地内の別の会社に応募し履歴書と面接を上手く潜り抜け、偽装就職が出来た。彼女は労働現場で労働者達と一緒に労働環境改善と労働者の権利の為に労働組合を作り戦った。
私は現場に潜り込んで労働者を煽動して、労働組合を作るためにその会社に入りたかったわけではなかった。結果、学費が払えず、その春に休学届けを出し、そのまま学校には戻らなかった。
貧しくても労働者にもなれなかった。当時、私は何も出来ない自分にただただ苛立っていた。
オリンポス電子株式会社は1980年5月に不渡りを出し倒産する。同じ年、5月18日、光州事件注1が発生した。光州は封鎖され全国に戒厳令が布かれた。
その時に兵役中の栄(えい)は戒厳軍の一員として漢江の河口に待機していた。
光州の人々に哀れみを感じた私は、教会に集まった仲間と共に「光州の市民に役立つ事は何か?」と神父様に尋ね「献血だ。」と教えられ、集団で赤十字社に献血に出向いた。
その年、クリスマスに合わせて休暇が取れた栄が釜山の実家に帰る前に私の所へ立ち寄った。下士官の階級章(かいきゅうしょう)を帽子と肩と胸に付けた、オリーブ色の軍服姿の栄は、肌が逞しく日焼けしていて、胸板が厚くなり、大人の男になっていた。
彼が差し出した小さな包み。開けてみると中には電子時計が入っていた。 「何?これ?」と聞く私に「軍隊で給料貯めてPX注2で買った。」と答えた。私の誕生日に合わせてくれたとは言われなくてもわかっていた。兵役の義務を背負っている韓国の若者は、誰もが二十歳から二年間、お国のために務めなくてはならない。今も昔もそれは同じである。給料といっても一般兵で一ヶ月五千円程度。
「これって高いんでしょう。下士官の月給じゃ無理じゃないの?こんなもの買ってこなくたって・・・。」
照れくさくて素直に有難うとは言えず、ついこんな口調になってしまったのはなぜだろう。
「PXで買ったからそれほど高くないよ。軍隊の中じゃ金を使うところないし、時間もないからさ。」と栄は笑って言った。
その後、たった一度だけ彼のところまで面会に行った。除隊まであと半年を残した、秋が深まってきた日だった。
「おれ、それから色々と考えたけど、除隊したら俺達結婚しよう。色々あったけど、俺もお前も色々あったけど、やっぱりお前しかないと俺は思うんだ。」
私は断った。彼はとても好きだけど、胸に燃える情熱を感じない。それに、私はまだ若すぎた。他の人が好きになっていたのである。
その冬私は、警察に追われ地方を転々とする、とある社会革命家を夢見る男について行く為にソウルを離れた。好きな男の元に行った。
その後で、栄は除隊した。実家へ帰る前に、いつものようにうちに立ち寄ったと弟が伝える。経済的に大変だった家庭の事情の中で大学を受験していた弟に励ましの言葉と幾らかのお金を置いて栄は帰ったと聞いた。その後30年間、互いに消息も知らずに生きた。
あの電子時計をその後どうしたのか、あんまり覚えていない。 恐らく、そのうちに壊れて使えなくなったのだと思うが、栄の事はこの30年間胸の奥に重くのし掛かっていて、いつか返さなければならない借りとして尾を引いていた。
色々と話を交わしてから帰り道の飛行機の中、見も心もとても軽くなった。それはまるで快感。「さようなら栄君。何時また会える日が来るかはわからないけど、元気で達者で何時までもお幸せに・・・」
近來安否問如何(근래안부문여하)
注1.
光州(こうしゅう)事件は、1980年5月18日から27日にかけて韓国の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生した。民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件である。全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥の新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した(五・一七非常戒厳令拡大措置)。金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。 また、鎮圧部隊の空挺部隊も、かつては韓国軍のエリート部隊であったが、全斗煥の警護部隊的な位置づけに格下げされ、兵士たちには鬱憤がたまっていた。 5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊と学生が自然発生的に衝突した。軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体も学生から、激昂した市民に変わっていった。市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は地域の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
注2.
PX [post exchange]軍の基地内にある売店。税金が負荷されない。