滝田洋二郎監督の作品で本木雅弘主演の映画「おくりびと」が、第81回米国アカデミー賞外国語映画賞部門にノミネートされた。日本の映画としては、山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」(04)以来、5年ぶり、12作品目のノミネートだという。
「この映画を見に行きたい。」と思ったのは、この映画がアカデミー賞にノミネートされたからではない。最近身近に起きた知人の死とその葬儀が、「おくりびと」の存在を知らしめ、「死」を別の面から捉えている私に気付いた事による。
若い頃の私は(私が齢をとっているという意味ではない。数字を用いて言えば、30歳過ぎた頃までの私)「死」に対して、恐れよりむしろ憧れに近いものを持っていたように思う。まだ現実の死と対面した事のなかった私にとっての「死」とは、文学作品の中にしばしば登場して、悲しくはあるが清らかであるがゆえに、まだ若い胸を締め付け、しばしばときめかせた。
実際、文学作品の多くに「死」は登場し、「源氏物語」や「罪と罰」「ハムレット」のように、ストーリーの端々に死を用いる作品。「若きウェルテルの悩み」や「オイディプス王」のように、死の強烈なイメージを中心に展開する作品や推理小説のように意味と無意味の境界として、死をテーマ化するものがある。
死の風景は時代と場所によってその描かれ方にある種の類型が見られて面白い。ギリシャ叙事詩にでは、戦士達の誇り高き死が頻繁に表われる。近代フランス文学では「ゴリオ爺さん」や「ボヴァリー夫人」に見られるように、ベッドの上での死の情景と、それとは裏腹に、陰で遺産の計算をする看病人逹の冷やかな様子が頻繁に描かれている。ところが、その頃の私は死んだ人(遺体)を見たことがなかったので、遺体に対しては概念的に「怖れ」を持っていたに過ぎない。私にとって死というものは抽象的な想像の産物に過ぎなかったからだ。
歳を重ねる毎に身近な人が一人・二人とこの世を去っていった。
最愛の祖母、好きだった人、人生観を共有していた親友、etc.
その頃の私は、死ぬという事はその人の存在が消されてしまう事。その人の思いや知識、その人の喜怒愛楽のすべてが泡となり、そして消える。そうして、時と共に人々の記憶の中からも薄れていき、いずれは何もなくなるものだと思うことで自分を納得させてきた。
先週、同じ会社に勤めている呉さんが急死された。
当初は死に至るとまでは御本人も思っていなかったようだ。ところが、その三日後に帰らない人となってしまった。
ある新年会に取材を兼ねて参席し、帰宅途中に駅のホームから転落。その場は駅員に助けられ、御本人は無事で済んだと思ったようだ。病院には行かず、単身赴任の一人住まいに戻ったそうだが、実は肋骨と鎖骨が10箇所も折れていたとは・・・・。翌日、異常に気付いて駆け込んだ病院で判明したが、結局それが原因で御他界されてしまった。
お葬式は中野区のあるお寺で行われた。故人の突然の死を悼む遺族や親しい人々の悲しみで、お香の煙も重く・暗く静まり返っていた。
告別式での故人との最後の対面。
いつもの顔とは違う、冷たくなった無表情な顔。まさにそれこそ「死というものの現実なのかも知れない。」と、ふと思った。理屈ではなく、冷たくなって動けなくなった遺体こそ現実の死であるのかも知れないと・・・・。
最後の対面が終わり、柩のふたを閉じると、遺体を霊柩車まで運ぶ。
そう、故人には意思が無く、また、御自分では歩けないのだ。民法上の規定では、「人間」は死を境に「物」に変るので、遺体を輸送する霊柩運送事業は、貨物自動車(トラック)事業の仲間と位置づけられているらしい。道路運送法では遺体は貨物に区分される。まれに葬礼車両の運転者に、旅客輸送の二種免許保有を義務づける運行業者があるが、霊柩車の運行には旅客運送の二種免許は必要とされず、国土交通大臣並びに地域運輸局長より一般貨物自動車運送事業(霊きゅう限定)としての認可を受けた事業者が選任した一種免許を所持する運転者がこの事業者の霊柩車を運転できる。
余談だが鉄道車両にも、霊柩車は存在する。鉄道院→鉄道省では英照皇太后・明治天皇及び大正天皇の崩御の際に、その遺体を輸送するために轜車(じしゃ)が製作された。一般用の霊柩車としては、1915年(大正4年)に名古屋市の八事に市営の共同墓地と火葬場が建設されたのにともない、尾張電気軌道(名古屋市電の前身の一つ)が墓地に線路を引き込み、既存の電車(9号とされるが、4号とする説もあり)を改造して霊柩電車を製作している。この霊柩電車は、車体の中央部に棺を出し入れする幅1800mmの扉を設置し、会葬者とともに墓地まで運んだという。この霊柩電車は、1935年(昭和10年)頃(1931年(昭和6年)とする説もあり)まで使用された。世界的にも珍しい例として知られる。
職業上、遺体と付き合う人々は沢山いるはずだ。医療関係者、警察関係者、そのほか様々な宗教関係者や葬儀関係者、今までは、その場で淡々と仕事をこなす人々のことを思うことが無かった。
いかなる想いで仕事をこなしているのだろうか。
中年を超えた今、死は若い時より現実になり、且つ、具体的になってきているのである。明日はわが身か・・・・。
(2009年2月或る日の想い)
おわり