文楽雑感
~妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)・「金殿(きんでん)の段」をフェミニスト的心情で読む
国立劇場が発行している「文楽―鑑賞のために―」という冊子は文楽に対する説明を次のように始める。「〝文楽〟それはいうまでもなく、わが国の伝統的な人形劇であり、世界に誇る高度な舞台芸術の名称です。」
この、世界に誇る舞台芸術を鑑賞することが出来て、まさに「ありがたきしあわせ」であった。
5Kg~10Kgにもなる人形を自由自在に操る三人遣い注1の妙味は大変すばらしかった。その仕草や表情を変え表現を可能にする繊細な作りについては言うまでもなく、歌い手の感情移入に如何に心を打たれたか、太棹注2の迫力でどれだけ気持ちが浮かれていたか等々、ここで繰り返し書いても意味がないので、文楽そのものの素晴らしさはさて置き、物語の内容、つまり、ストーリの話をすることにしよう。
先の国立劇場が作った文楽の解説書によれば、世界に数多く存在する人形劇それらのほとんどすべてが単純な内容の神話やお伽話(とぎばなし)を扱ったものでコミカルな内容のものか幻想的な短編で、文楽のように一日がかりのシリアスな長いドラマを展開するものはないと言う。
今回、鑑賞した作品は文楽の中でも藤原鎌足の蘇我入鹿と討滅を描いた「妹背山婦女庭訓」であった。私は人形浄瑠璃に関して僅かな知識しかなく、作品の事は何もわからなかっただけに、古い言葉で語る義太夫節(ぎだゆうぶし)注3と人形の動作だけで物語のすべてを理解することは無理であった。にもかかわらず、私の脳裏に焼きついた印象と、物語りに対する好奇心はどんどん膨らんでいったので、そこで台本から作品を読み直すことにした。国立劇場の鑑賞ガイドと床本注4を照らし合わせながら読んだが、最も強烈な印象が残った文楽のあの場面に自然と注目するのは言うまでもない。
疑着(ぎちゃく)の相
「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)・金殿(きんでん)の段」は、その複雑かつ作為的な筋立てでひときわ異色な作品と思われる。ここで「金殿」の最後の場面・お三輪が鱶七(ふかしち)に刺し殺される場面を中心に考えてみたい。鱶七(実は藤原淡海の家来で金輪五郎)はなぜお三輪を刺し殺したのか。このことは鱶七の述懐で明らかになるのであるが、年取った蘇我蝦夷には子供がいなかった、そこで占いの博士の進言により白い牝鹿の生血を母親に飲ませてその霊験により男の子を得たのが蘇我入鹿であった。入鹿が悪の超人的な力を有するのはそのためで、この入鹿の悪の力を打ち破るには、爪黒の鹿の血汐と・疑着の相ある女の生血を笛にかけて吹くこと、そうすると入鹿は正体を無くして滅びるのだ、というのである。そこで鱶七は疑着の相あるお三輪を刺し殺し、その血を笛に注ぐ。
「疑着の相」というのは執着の相、分かりやすく言えば、嫉妬に狂った女の相を言う。どうして執着の相ある女の生血が入鹿の霊力を無くす力を持つのだろうか。入鹿のように自然の摂理に反して生まれてきた人間はいわば「魔性」の存在で、これを滅ぼすにはこれに対抗する「魔性」をもって立ち向かわねばならないというのであろうか。であれば、お三輪の「疑着の相」というのは単なる嫉妬や怒りの形相だけではなく、なにかとんでもない「魔の形相」だと言わねばならないように思われる。
三輪の恋の行方
三輪の里の杉酒屋の娘お三輪は、烏帽子折りに身をやつしている求馬(=じつは藤原淡海)と恋仲であった。ところがその求馬のもとに夜な夜な通う正体不明の女(じつは入鹿の妹橘姫)がいることを知り、お三輪は激しく嫉妬する。「道行恋(みちゆきこいの)苧環(おだまき)」では、この求馬をめぐる二人の女の争いがあり、求馬の裾につけた糸に手繰り寄せられるようにしてストーリは「金殿」につながる。お三輪を嬲(なぶ)り、からかう官女たち。彼女らは世間から遮断された宮廷の生活のなかで、異性の愛の不毛の世界にひからびてしまった女たちとして描かれている。官女たちは鱶七の男性的な体臭に狂喜しすがりつこうとする(しかし鱶七は相手にしない)一方で、迷い込んできた身分の低い同性の・お三輪には冷酷ないたぶりを仕掛ける。彼女らにとってこれは単なる憂さ晴らしのつもりでもあるが、同時に、自分たちにおよそ無縁な「愛」というものに胸を焦がしている若い娘に対する強い憎しみさえ感じられる。官女たちは鱶七に相手にされなかった事からくるイライラを弱い立場のお三輪をいじめる事で解消しようとするのである。官女たちは散々にお三輪を嬲ったあげくに立ち去るが、ここでお三輪は「エエ胴欲じゃわいの。男は取られその上に、またこのやうに恥かかされ、何と堪へて居られようぞ。思えばつれない男。憎いはこの家の女めに見かえられたが口惜しい」と叫んで、袖を喰い引き裂き、髪を振り出して駆け出してしまう。「エエ妬ましや、腹立ちや、おのれおめおめ寝さそうか」
求馬をひたすらに恋しいと思う心が、官女たちに散々からかわれて、そのプライドがズタズタにされたお三輪の心境は、悔しさ・怒りで燃え上がる。ここにおいてお三輪はその形相を「疑着の相」に変えるのである。行く手に立ちふさがる鱶七に「オオそなたも邪魔しに出たのじゃな、そこ退きゃ」と叫ぶお三輪、そして三輪の髪を摑み、その脇腹に刀を刺し通す鱶七。疑着の相を持つお三輪の生血が入鹿の魔力を打ち消す力を持つゆえに彼女は殺され、それが愛する男の為と説明され納得して死んで行くのである。
藤原家の陰謀とお三輪の死
「金殿」での官女のいじめは、お三輪のこの形相を引き出すために用意されていたもので、そもそも求馬(=じつは藤原淡海)が三輪を好きになった振りをしたのも、三輪を裏切り入鹿の妹橘姫に乗り移ったのも、全て政敵を殺す為の陰謀であったのだ。だとしたら、藤原淡海は最初から何れ犠牲にする目的で三輪をその兄を狙う目的で椿姫を利用する為に誘惑したとも言えよう。
鱶七(=金輪五郎)から「女よろこべ。それでこそ天晴れ高家の北の方。命捨てたる故により、汝が思う御方の手柄となり入鹿を亡ぼす術のひとつ。ホホウ出かしたなあ」と称えられただけで、三輪は本当に納得したのだろうか。
「天晴れ高家の北の方」と呼ばれてもお三輪の未練は満たされるはずがない、たしかに、お三輪の場合は彼女が自ら望んで淡海の犠牲になったわけではないし、ある意味では政治的に利用されただけに過ぎない。
「ナウ冥加なや。勿体なや。如何なる縁で賤(しず)の女(め)がさうしたお方と暫(しば)しでも、枕交はした身の果報、あなたのお為になることなら、死んでも嬉しい、忝い(かたじけない)。」お三輪は恋する男の役に立つことを信じ、「高家の北の方」と呼ばれることだけで満足して死んで行ったと、藤原淡海は信じたうのであろう。また、そのように思い込まないと、藤原淡海は、お三輪に対する自らの行為に説明が付けられないのではないのだろうか。
お三輪が本当にそれだけでの理由で納得し、死んで行ったと多くの男性は考えたいのであろう。だからこそ話を女の道徳・「婦女庭訓」に書き残し、正当化しようとしたのではあるまいか。男のずるさなのか、作者は芝居をここで終わらせずに、お三輪に最後の一言を語らせている。
「・・・とは云ふものゝいま一度、どうぞお顔が拝みたい。たとへこの世は縁薄くと、未来は添うて給はれ」と言わせ、更に「この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様もう目が見えぬ、懐かしい、恋しや」と。
このように同情を引くような終わらせ方から、「近松半二注5はお三輪の恋心を大切にし、深い愛情を込めてこの作品を書いた」と評するむきもあるようだが、女の私からみれば、身勝手な男の論理(後ろめたさ)に過ぎないように思われる。きっとお三輪は、男に騙され、無念の思いと悔しさを胸に、死んで行ったのに違いないと私は思う。
おわり
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注1 さんにん-づかい【三人遣い】 操り人形の操法の一。一体の手遣い人形を、首(かしら)と右手を主遣(おもづか)いが、左手を左遣いが、両足を足遣いがそれぞれ担当して操作するもの。1734年、「蘆屋道満大内鑑」上演のときから行われたという。日本独特の形式。現在、文楽座に伝承されているのがその代表。
注2 ふとざお【太棹】 三味線の種別で、棹が太く胴が大ぶりのもの。通常は義太夫節の三味線をさすが、広義には浪曲用や津軽三味線も含まれる。
注3 ぎだゆうぶし【義太夫節】 浄瑠璃節の一。初世竹本義太夫が宇治加賀掾(かがのじよう)など古浄瑠璃各派の芸風や当代流行の各種音曲を取り入れ、新感覚で統一し、1684年の竹本座旗揚げ公演より語り出したもの。のち門人豊竹若太夫が独立して竹本・豊竹二座に分かれた。大いに盛行し、浄瑠璃といえば義太夫節をさすほどに流布した。義太。
注4 ゆかほん【床本】 義太夫節の太夫が床(高座)で語るのに用いる義太夫本。特殊な書体で書かれた大字の書き本で、太夫の語る節が朱で書き入れられている。
注5 ちかまつはんじ 【近松半二】 (1725-1783) 江戸中期の浄瑠璃作者。大坂の人。本名、穂積成章。以貫(これつら)の子。二世竹田出雲に師事。雄大な構想、複雑な趣向を好み、歌舞伎的な手法を多用。竹本座の立作者として衰退期の浄瑠璃界の最後を飾った。作「奥州安達原」「本朝廿四孝」「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」など。