ルネサンスの女性たち
高貴な家や、富豪の出の女性は、高い教養や知性を身につけていたが、一般では、読み書きのできない、いわゆる文盲といった女性がほとんどであった。ルネサンスがいち早く開花したフィレンツェでさえ、女性の地位は、社会的に認められず、女性が政治に参加する事や、職業につくことは、禁じられていた。
結婚は、家と家の結びつきで、親同士が決めていた。女性の結婚年令は、15歳から17歳が普通で、18歳ともなると晩婚といわれ、年令がかけはなれている男性や、継子のいる再婚というケースも多かった。
娘を嫁がせる家では、娘に莫大な持参金を持たせるのが習慣だったため、娘が三人いれば身代が傾くとされた時代であった。持参金のない家の娘は、修道院へ入れられた。修道院へ入るのも無料ではなく、格式ある修道院に入るには、熟練労働者の年俸の二倍くらいの金額をお布施として納めなければならなかったし、高額のお布施を払えない家では、安値で入れる修道院を探さねばならなかった。
当時の修道院は、宗教的自覚を持った女性の住処というよりも、むしろ中産階級や貴族階級出身の見捨てられた女性の溜まり場であった。
マントヴァ侯妃イザベッラ.デステでさえ、金銭的な理由から末娘二人を修道院に入れている。お金のない家の娘は一生結婚ができない時代であった。そのため、私生児が多く、フィレンツェでは私生児のための「捨て子養育院」が建てられている。
ルネサンスの時代は、ペストや梅毒、様々な病気や、毒殺などの危険もあり、人間が早死にした時代であった。たとえば、14世紀中ごろフィレンツェでは人口12万人を数えていたが、たび重なるペストにより一時は5万人まで落込んだこともあった。それゆえ人々の生や裕福な暮らしに対する欲望は大きく、享楽的な生き方を好む人も少なくなかった。
青春はうるはし
されど逃げゆく楽しみあれ
明日は定めなきゆえ ロレンツォ.デ.メディチ「謝肉祭の歌」より
ルネサンスの食文化
(フフィリッポ.リッピ作「ヘロデの饗宴」部分フレスコ画(1452~64)イタリアのプラート大聖堂)
1469年、メディチ家のロレンツォ.イル.マニフィコの婚宴は3日間にわたって催され、市民たちにも食事がふるまわれた。噴水からは葡萄酒が流され、ご馳走のために、300頭の牛、1000羽の鳥が供されたという。当時のご馳走とは、どんなものだったのか。1513年の祝宴の記録が残っていて、それには次のようなメニューが書かれていた。
オードブルは松の実のお菓子、カップに入った甘いクリーム、いちじく、マスカットワイン。次には、鶉や雉鳩など、小鳥のロースト、パイ、調理したあとに皮をかぶせ羽を飾った鶏など。デザートにはあるとあらゆる種類のジャムや砂糖漬けの果物。
肉には、たっぷりとマスタードが添えられ、甘く煮た鶏肉は金箔で覆われていた。食卓に飾られたジャスミンの箱庭にはウサギを爪でつかんでいる鷲や、開けると中から小鳥が飛び立つしかけの樽が配されていた。宴会には、楽隊がつきもので、トランペットの吹奏によって料理が運ばれたりした。
カトリーヌ.ド.メディチが1533年、フランスのアンリ二世に嫁いだ際、フィレンツェから料理人と、食器類が運ばれた。当時のフランスでは、手づかみで食べていたので、この時からフォーク、ナイフ、スプーンがフランスでも使われるようになったという。
シエナ風マジパン
シエナは中世の昔から美味しいお菓子で有名な所であった。当時の名前は、マルツァパネッティとかモルセレッティとか呼ばれていたマジパンは、ルネサンスの高貴な人々にとても愛された銘菓であった。たとえば、1447年ミラノのカテリーナ.スフォルツァ、とイーモラとフォルリの領主ジローラモ.リアーリオの婚姻の席で、このマジパンが供されて、列席者の賞賛を買ったと伝えられている。スフォルツァ家や、エステ家では、その後もシエナ風マジパンが喜んで食べられたという。
19世紀になって「リッチャレッリ」という名になったこのマジパンは、アーモンドの強い香りに蜂蜜の甘味とオレンジの香料の独特の芳香がマッチした、しっとりとしたお菓子である。
ルネサンス時代、絶世の美女
(ボッティチェリ「シモネッタ.ヴェスプッチの肖像」)(レオナルド.ダ.ヴィンチ作シモネッタの臨終のデッサン)
絶世の美女といわれたシモネッタ.ヴェスプッチは1453年、ジェノヴァ共和国の商人の娘として生まれた。トスカーナ地方ピオンビーノに移り住み、16歳のときフィレンツェのヴェスプッチ家のマルコに嫁いだ。ヴェスプッチ家は名門ではないが、フィレンツェでは中堅どころの商人であり、支配者メディチ家と結んで手広く貿易を行っていた。
シモネッタは、髪は金髪、丸顔で情熱的な目、身体は細くしなやかで、脚はすらりとして、優雅さを備え、初々しい雰囲気を持った美女だったという。いつの頃からかシモネッタはメディチ家のジュリアーノに見初められ、深く愛されるようになる。
1475年、1月29日、ジュリアーノとメディチ家の栄誉のために、フィレンツェのサンタ.クローチェ教会広場で馬上槍試合が行われた。勝者ジュリアーノに優勝の兜(ヴェロッキオ工房作)を渡すミネルヴァの女王役に、噂の人シモネッタが指名された。
ジュリアーノは、ヴェロッキオ工房製作の宝石を散りばめた服装に、ボッティチェリがデザインした旗印を持ち、マントヴァ産の馬に乗って現れた。ジュリアーノが現れるや。サンタ.クローチェ広場の群集から大喝采が沸き起こったという。シモネッタ、ジュリアーノ、ともに22歳であった。
この馬上槍試合の翌日、シモネッタは、高熱を出し寝込んでしまう。そして翌年、23歳の若さでこの世を去った。結核であった。遺骸は、ヴェスプッチ家の霊廟オンニッサンティ教会に安置された。シモネッタの死を悲しんでフィレンツェ中の鐘がいっせいに鳴り響き多くのフィレンツェ市民がシモネッタに別れを告げたという。
ロレンツォ豪華王は、「彼女の美しい顔の上では死もまた美しい」とシモネッタの葬儀の様子を書き残している。
ジュリアーノは、シモネッタの死後2年たった1478年、パッツィ家の陰謀により暗殺された。