韓国社会の葛藤と言う病
葛藤をそそのかす言論のダブル・スタンダード(二重規範)
社会的葛藤という命題のもと、韓国の言論は自由であるだろうか。 政治家より、むしろ社会的葛藤を煽り立てた責任は言論にあるのではないだろうか。 韓国であろうが日本であろうが、相手によりその態度を変える言論のダブル・スタンダードは何時になったら改められるのか。
李明博大統領夫妻が首脳会談の為、インドおよびスイスを訪問した。その際に娘と孫を同行した事で国が騒々しい。民主党はスポークスマンを通じて声明まで発表し、批判の声を荒らげ、娘親子の旅行経費に対する国庫還収を主張している。その 反面、大統領側は諸外国首脳の場合を例にあげながら、外国訪問の際に家族を同行する例はいくらでもあると反論している。 しかも李明博大統領の場合、家族に掛かった経費は国庫からではなく、自費で負担しているのだから何の問題もないと言う。
事実、大統領側の主張は、場合によっては、それを受け止める側の観点から理解できる範囲でもあるが、問題視されても仕方ないとも言える。 今までの韓国の前職大統領の場合、首脳会談の為外国を訪問する際に家族を同行した例がなかっただけに厳しい見方をする人も大勢いるはずだ。 だけど大統領側の主張のように、諸外国を例として比較するならば騒ぐほどの大きな問題ではない。外国の場合、首脳が外遊の際にその家族と同行という例は少なくない。
こういう理由で同じ出来事に対しても、それを眺める視線も基準になる尺度により変わるほかない。 そのためなのか、いわゆる進歩を標榜する野党や言論等々、現政権の反対側にいる人々達は一斉に攻めに転じている。「五月蠅」は初夏に群がるハエのことで、五月ともなると、ハエがブンブンとうるさく飛び回ることから、「五月蠅い」と書いて「うるさい」と読ませるようになったといわれている。「五月蠅のように騒がしい」様子を表す慣用句副詞となったが、まさにその様子。既に故人になった韓国の初代大法院長である金炳魯氏の「公と私」を厳格に区別したエピソードまで引き出して批判の矢を射まくっている。
しかし朝鮮・中央・東亜日報等、保守傾向の言論は今回の事に対してだいぶ消極的な姿勢をとっている。 さぞかし、盧武鉉政権の側近だった某氏は、もし今回と同じような事を盧武鉉大統領がしていたらきっと弾劾訴追を主張していただろうと、不満をぶっ放していると言うが、何はともあれ、重要なのは国民の考えであつと思う。ところで過半数を越える国民が大統領側の積極的な解明にもかかわらず、大統領が外遊の際に家族を同行させたことは問題だという認識を持っているのを見れば、韓国政界から出る主張を国民は鵜呑みにはしてないと言うことであろう。しかしながら相手側の主張に対する反対のための反対、またそうでなければ、それまでというような旧態依然とした政治家たち姿勢は、互いのけん制としての役割とは程遠い、ただの日常の普遍的習慣になってしまったのかもしれない。
そちらがそれならば、国民の知る権利を主張してきた、世論を主導する言論機関の姿はどうなのだろうか。 政治家らと別段差がないのと思わざるを得ない。 今日、ハンナラ党の重要党職者会議で、党のスポークスマンに決まった鄭美京議員だが、先日、国際交流財団の経費でヨーロッパを訪問する際に、小学生の息子を同行したことを問題にしたのが東亜日報だった。 議員公式日程に小学生の息子を同行したことは問題という主張だ。 東亜日報が問題を提起すると鄭議員は息子が公式日程に同行したことは事実だが,飛行機料金を自費で負担したという主張だ。 まさに今度の大統領家族同伴外遊の場合と同じような状況で、違いはというと、前者は大統領で、後者は与党の初当選国会議員という事だけである。 ところでこの二つの事件に対する東亜日報の見解は雲泥の差で、チョン議員の行跡を置いては議員らの公式日程のヨーロッパ訪問の道に小学生の息子を同行したので物議を醸し出したと書いている。 反面、李大統領の家族同行問題に置いては論議の対象だと表現しているだけでなく李明博大統領の場合には同行した家族の費用は自己負担で、しかも外国の首脳の場合を例に、何も問題にはならないという大統領府の主張をそのまま書いている。
韓国社会の葛藤と言う病(やまい)は直らないのか。 地域、世代、理念は甚だしく、宗教間葛藤まで深刻化されている。 もちろんこのような現象に対する絶対的責任は政治家たちにいる。 地域間葛藤をそそのかし、生産よりは分配を強調し、庶民の感情をそそのかし、葛藤を助長しているのが昨今の韓国政治家の姿ではないかと思う。 こういう理由で言論は政治家を批判する。
それなら、社会的葛藤という命題の下、韓国の言論は自由であるだろうか。 政治家より、むしろ社会的葛藤を引き起こした責任は言論にあるのではないだろうか。 韓国であろうが日本であろうが、相手によりその態度を変える言論のダブル・スタンダードは何時になったら改められるのか。同じ懸案でも大統領がすれば解明記事を載せて、初当選議員がすれば反論に化ける。
書く人の考えを現わすコラムや時論または社説もしくは同じくオピニオン性格の文を言っているわけではない。どのような見解で、いかなる論議で、何を基準にその尺度を決めて是非を問うかについては書いた人の勝手で、その文に対する同意可否は、文を読んだ読者が判断する問題であるである。 ところで問題は「ストレート性記事(事件をありのまま使う一般報道記事)」にあると思っている。 ある事実を客観的な見解で報道することが原則ではないだろうか。 だが進歩を標榜する言論は保守に対して常時否定的な見解の記事を書き、保守指向の言論は反対の姿を演出することで社会的葛藤をより一層深化させていると事がとても残念で居た堪れない気持ちである。
大統領と同伴でインドを訪問していた夫人「キム・ユンオク(右側二番目)女史」が1月25日午前(現地時間)ニューデリーのサンスクリティ学校を訪問, 長女イ・ジュヨン(一番左側)氏と孫娘(左側二番目)等と学校を視察後,インド学生たちと共に取った記念写真. ニューデリー/青瓦台カメラマン撮影