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映画「砲火の中へ」が描いた「6・25」朝鮮戦争

「お母さん、ぼくは人を殺しました」


 1950年6月25日、早朝の日曜日、北朝鮮は38度線を越えて武力挑発、それから三年に渡る朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した。2010年6月25日、まさに60年の今日の出来事である。

 朝鮮戦争には軍人だけでなく、韓国の中学生や高校生、大学生らも学徒兵として戦っている。こうした学徒兵らを描いた映画「砲火の中へ」が韓国でこのほど封切られた。この映画は、学徒兵たちが実際に北朝鮮の朝鮮人民軍を相手に戦った実話を基に制作されている。

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 戦争勃発から間もない1950年8月、韓国南東部の浦項で学徒兵として戦った当時中学3年生の15歳の少年が母親にあてて書いた手紙が残っている。

 「お母さん、ぼくは人を殺しました。10人余りになるでしょうか。手榴(しゅりゅう)弾という恐ろしい武器を投げて一瞬に殺しました。今この文章を書いている瞬間も、耳に恐ろしい轟音(ごうおん)が響いています。

 お母さん、敵の足や手が引きちぎられ離れていきました。あまりにもむごい死です。いくら敵でも、彼らも人間だと考えると、ましてや同じ言葉を話し、同じ血を分けた同族だと思うと、胸が苦しくて重いです。

 お母さん、戦争はなぜしなければいけませんか? ぼくは恐ろしいです。敵兵はあまりにも多いです。ぼくたちはやっと71人です。これから、どうなるのかを考えると恐ろしいです」


 この手紙は母親に届くことなく、少年は浦項での戦闘で戦死。死後、服の中から手紙が発見された。この手紙を基に映画「砲火の中へ」が制作された。


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 北朝鮮が6月25日、韓国に侵攻し朝鮮戦争が勃発。開戦から3日でソウルを陥落し、その後も破竹の勢いで進撃を続ける北朝鮮。映画で描かれているのは、8月11日の浦項での戦闘の様子だ。

 記録によると、浦項戦闘前日の10日には、数百人の韓国軍兵士と学徒兵71人が待機中だった。戦力では圧倒的に劣勢で、北朝鮮軍の進撃の情報もつかめていない無防備状態だったという。

 11日、北朝鮮の766遊撃部隊が浦項を奇襲した当時、韓国軍兵士は洛東江に南下し、司令部が置かれた浦項女子中学校には学徒兵71人だけが残っていた。残された学徒兵1人当たりに支給された武器は、小銃1丁と実弾250発がすべて。学徒兵たちは圧倒的な火力で攻撃する北朝鮮軍に対抗し、11時間半に渡る死闘を繰り広げた。

 北朝鮮軍の進撃を食い止めている間に、浦項の市民20万人以上が無事避難することができたという。また、浦項の戦闘で、北朝鮮軍60人余り、学徒兵は48人が死亡した。

 こうした朝鮮戦争で犠牲となった学徒兵は、およそ3000人と推定されている。しかし、とくに軍に所属していたわけではないので、名前すら残さずに戦死した学徒兵も多いという。

 韓国の関連資料によると、朝鮮戦争で韓国側は軍人、民間人を合わせて198万人、北朝鮮側は329万人、国連軍16万人、中国志願軍92万人と、計635万人もの死者を出した。1953年7月に休戦協定が結ばれたが、戦争はいまだ終結していない。

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 ■総制作費約85億円

 記録などから、朝鮮戦争で犠牲になった学徒兵はおよそ3000人と推定される。しかし、名前すら残すことなく“砲火の中へ”消えていった学徒兵はさらに多いとされる。こうした忘れ去られた学徒兵たちを、60年ぶりによみがえらせたいという制作陣の熱い思いが映画に込められている。




2010/06/25 13:31 2010/06/25 13:31
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  1. つくつくほうし 2013/10/05 14:29  コメント固定リンク  編集/削除  コメント作成

    ナチスや太平洋戦争の日本側犠牲者数を超えますが、以外に、語られない。
    作品も少ないし、どういうことでしょうか?