私は通勤道の風景を携帯電話で撮り、時々このブログにも載せたりもするが、永田町駅から地上に上がる際は殆どの場合、都道府県会館に通じる地下道から登るエスカレーターを使うことが多い。
グランドプリンスホテル赤坂(グランドプリンスホテルあかさか、Grand Prince Hotel Akasaka)は東京都千代田区紀尾井町にあるホテルである。2007年4月1日、赤坂プリンスホテルから改称したこのホテルは来年3月で閉館になることが決まっている。
初めて、このクリスマスキャンドルが点灯された大きな屏風形の高層ビルを見たとき、私はその奇抜で面白い発想と、その美しい風景に感動を覚え、毎晩カメラを持ってあの周囲をウロウロしていた。
何年も見るうちにこの風景にすっかり慣れてしまい、今は「もうその季節か・・・今年もそろそろ終わりに近づいているな」と思う程度でカメラを向ける事はあんまりなくなった。
この写真で見る高層ビルの赤プリは本館で、その裏側に韓国と縁深い別館がある。
地下鉄銀座線、丸ノ内線の赤坂見附駅を降りて平河町方面に坂道を登っていき最初の左の曲がり角を曲がると100mで赤坂プリンスポテル別館の入り口にある。普通は赤坂プリンスホテルの正面玄関のある紀尾井町方面からも廻っていくが、平河町から来た方が近い。結婚式等で人気のある建物ですので来られた方も多くいるはず。
この建物は旧大韓帝国の旧李王家邸で、昭和3年宮内省内匠寮の設計、今は赤坂プリンスホテルの別館としてレストラン(フランス料理Le Trianon)、結婚式場等に使用されている。
この建物がどうして今赤坂プリンスホテルの別館になっているのか、そこに関わっているのはプリンスホテルチェーンを作り上げた堤康次郎前西武グループの会長が関わる。その話はまた今後にすることにして、今日はプリンスホテルと李王系の不可解な運命を感じる死について書きたいと思っている。
李玖は日本で暮らし、母の実家の梨本家の世話を受けていたようである。梨本家の人が十八日に李玖を訪問し、その遺体を発見したとのことだ。
李玖は、李氏朝鮮最後の皇太子、英親(ヨンチン)王(1897-1970)李垠(イ・ウン)と日本の皇族、李方子(りまさこ/イ・バンジャ)(1901-1989)の次男であるが、長男が幼くしてなくなっている為、事実上朝鮮王家の後継者とされていた。
明治四十三(1910)年、通称日韓併合後、李垠は朝鮮の王世子(皇太子)となった。李王家は王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けた。敬称は殿下であり、実際は皇族と見なされたし、それを日本人に知らしめる必要もあった。
李垠殿下と婚約したのは大正五年のこと。当時の読売新聞(1916.8.3)は、「李王世子の御慶事。梨本宮方子女王殿下との御婚約 李王家と竹の園生の御連絡の御栄えめでたく」と記した。年代を見ればわかるように彼女が十四歳のときである。彼女自身、自らの婚約を新聞報道で知って驚いたとも伝えられている。言うまでもなく、政略結婚である。「内鮮一体」が当時の日本国の国是であった。王家もそれに従わなくてはならなかった。貞明皇后は「お国のためですから」と慰めたという。
大正十年(1921)、李玖の兄、つまり第一王子、晋が生まれた。翌年、李垠夫妻は嬰児を連れ母国朝鮮に帰るが、再度日本に向かうおり、急逝した。一歳に満たなかった。死因は急性消化不良と診断されているが、毒殺説がある。誰が毒殺したかについてはここでは考察しないが、様々な憶測が乱舞しているのも事実である。
昭和二十年日本の敗戦により日本の朝鮮統治は終止符を打った。当時、李方子は日本の敗戦を夫君のために喜んだと伝えられている。読売新聞”日朝融和の政略結婚の李方子さん逝く”(1989.5.2)より。
日本敗戦の日、東京で昭和天皇の言わば玉音放送を聞く。李垠(イ・ウン)殿下との結婚から二十六年目だった。「殿下、おめでとうございます。こう申し上げましたが、殿下は沈痛な面持ちで」。後に記者のインタビューに答えている。
李垠は朝鮮の王たるべく自らの国に帰ることはできなかった。当時の大統領李承晩によってその帰国を妨げられた。李垠が故国に戻り、歴史ある国として朝鮮が王政復古すれば、歴史のない新生独立国扱いはされなくてすんだのではないかとか、李承晩は王政復古になれば自らの地位が危うくなるから李垠殿下の帰国を望まなかったとか、人はいろいろ言うが、国を滅ぼした事実に対する李王朝の責任と、それから国内外で起きた様々な反日独立運動に、必ずしも李王家が積極的でなかった事をおもうと、果たして王権復帰ができたのか、国民はそれを容認出来たのかについて、私は疑問を持つ。
ともあれ、李玖の死を伝える朝鮮日報「朝鮮最後の皇太子が寂しい死・東京のホテルで心臓麻痺」では、その後の李玖についてこう記す。
日本で近代教育を受けた李玖氏は14歳で光復(韓国の独立)を迎えたが、帰国することはできなかった。執権者たちは、皇世孫の帰国を喜ばなかったからだ。

李玖の父、李垠は昭和三十五(1960)年梗塞に倒れるものの一命を取り留めた。意識は十分には戻らなかった。李承晩退陣後の昭和三十八(1963)年、朴正熙大統領の計らいで李垠夫妻は帰国を果し、李方子は完全に韓国に帰化した。夫、李垠はその後昭和四十五(1970)年に日本で亡くなっている。
その後の李玖だが、先の朝鮮日報に次のように報じられている。
李承晩(イ・スンマン)政権が崩壊した後、1963年に朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の助けで帰国した李玖氏は、母の李方子女史と一緒に昌徳宮(チャンドククン)・楽善斎(ナクソンジェ)に住んだ。ソウル大や延世大などで建築工学を講義をし、会社を経営したりもした。
1979年に経営する会社が倒産し、李玖氏は「金を工面しに行く」と故国を離れ、日本に留まった。その渦中でジュリア女史との離婚(1982年)や、母の李方子女史の死(1989年)を経験し、その後は日本の女占い師と暮らした。
時のソウル大学の弟子で建築家の李勇宰さんが書いた李玖氏に対する思いを綴ったブログを見れば李玖氏が建築家としての一面を推測できます。→ http://lee-yongjae.com/120115405346

故人は1963年に、病床の両親、夫人とともに帰国し、昌徳宮(チャンドックン)内の楽善斉(ナクソンジェ)で起居した。しかし、1970年に英親王が死去し、1977年に夫人と別居した後、事業の失敗などで再び日本に戻った故人は、宗親から、子どもを産めなかった夫人との離婚を勧められ、1982年に離婚した。故人は、1989年に母親・李方子まで亡くなった後、宗親会などの勧誘を受け入れ、1996年に永久帰国し事業を展開したりもしたが、失敗し、再び渡日、東京渋谷の小さなマンションで暮らしていた。
別居後の離婚ということなので、「宗親から、子どもを産めなかった夫人との離婚を勧められ」ということが離婚の第一の理由というのでもないだろう。この説明に「宗親」とあるが、韓国では門中と言い、宗親の核たる正嫡がなければ親族は崩壊するといってもいいくらいなので、宗親はこの問題に強固になるのは仕方なく現在の韓国の状態についてもこれは変わらない。
朝鮮日報は李玖と宗親の関係についてこう説明する。
そして李玖氏は1996年11月、「永久帰国」した。宗親会(一族の会)の総裁として実務も行い、宗廟(朝鮮王朝時代の歴代の王や、王妃の位牌を祭るところ)で開かれる大祭も主管した。当時、李玖氏は「私はもはや、王家と関係がない、個人、李玖に過ぎない」と常に語っていた。 だが、李玖氏の「永久帰国」は長く続かなかった。神経衰弱も患っていた李玖氏は、故国の地に完全に適応することができず、日本と韓国を行き来して、日本の地で最期を迎えた。

李方子は、韓国帰化後は、知的障害児、肢体不自由児の援護活動に取り組み、知的障害児施設「明暉園」と知的障害養護学校「慈恵学校」を設立し、その運営に尽力した。
方子は死の前年、社会福祉事業の資金作りのための来日中に倒れ、宮内庁病院に二か月ほど入院した。あのとき、私は彼女に、日本で死ぬわけにはいかないと思っていたのに違いない。方子妃殿下は気力を取り戻し韓国に戻ったのである。
母と自分の故郷である日本、そして赤坂。生まれた地で亡くなった波乱の人生を送った朝鮮王家最後の皇太孫「李玖殿下」の冥福を祈る。

追記:
「赤プリ」の愛称で親しまれてきた西武グループの「グランドプリンスホテル赤坂は
老朽化などを理由に来年3月末で閉館することになったが、最も古い旧館は残す事にしているらしい。建築家の丹下健三氏(故人)が設計した40階建ての新館などは取り壊す方向でいて跡地の利用は未定だが、都心を象徴する建物の一つが 姿を消すことになる。
1955年に「赤坂プリンスホテル」として開業し、2007年に改名した。広さ約3万4千平方メートル の敷地に、新館、別館、コンベンションセンター「五色」などがある。人気の高級ホテルだったが、近年は外資系高級ホテルの東京進出などで競争が激しくなった。01年に改装するなどてこ入れを図ったが、宿泊客はなかなか増えず、価格も下げたため利益が出にくくなり、営業終了を決めたとみられる。
昭和初期に建てられ、旧朝鮮王室の邸宅として使われていた旧館は、歴史的建造物として保存する方向だと聞いてほっとした。赤プリの土地は売却せず、周辺の地権者らとも協議しながら、新たな高級ホテルやオフィスビル、商業施設などの 再開発を目指すとみられる。