42年間、光化門の真ん中に堂々と立ち、太平路を見下ろしていた李舜臣将軍銅像が補修工事を終えて新しくなったという。
拉致被害者の蓮池氏が北から帰って、翻訳家になると決心した。その初翻訳本になったのが、韓国のベストセラー作家である金勲氏の小説「孤将(原作題目は「刀の歌」)」だった。
この本を元に製作されたKBSの大河ドラマ「不滅の李舜臣」は、2004年9月から2005年9月まで総104話が放送され、かなりの人気を博した。
その頃、韓国の友人から知っていたら教えて欲しいと、次の二つについて聞いてきた。
そのドラマの中で、小西行長軍は十字架が描かれていた軍旗を持っていたが、
「小西軍は本当に十字架が描かれた軍旗を使っていたのか?」
「小西行長に連れて行かれたとされる女の子がいるけど本当なの?その後は?」
小西軍の軍旗(旗印)の事だが、壬辰倭乱(文禄の役)時、朝鮮出兵で小西行長が使った軍旗は「白い地に赤い丸」の単純な日章旗であったとのことである。
今の日本の国旗と同じ模様のこの旗の由来には次のような話が伝わっている。
秀吉が小西行長と加藤清正に朝鮮出兵の先陣を言い渡した際、清正には「南無妙法蓮華経の軍旗」を、行長には「大黒の馬」を贈ったという。秀吉が退出した後で、清正は軍旗をチラつかせながら行長に言ったらしい。
「小西殿は、旗印はどのようにするつもりですか?」
この短い問いかけの中には数々の嫌味が詰まっていた。
自身の信仰する日蓮宗の旗を秀吉直々にもらった清正に対し、表立ってキリシタンとして活動できない行長は、清正のように自分の信仰する宗教を旗印にすることはできない。それをわかった上での旗自慢であった。
また、行長は元々堺で薬業種を扱う商人の息子。常日頃から行長のことを「薬屋のくせに」と見下していた清正は、「どうせ薬屋は旗印などもっていないだろう」と言いたかったのである。その時、行長はこう言い返した。
「紙の袋に朱の丸をつけて旗としますよ」
日の丸とは言わず、あえて「紙の袋」と言ったところが、清正の嫌味に対する行長の皮肉とも言えよう。紙の袋に朱の丸とは、当時の薬袋のこと。常日頃なにかにつけては「薬屋」と行長の出身を馬鹿にする清正に対し、薬商人出身ということを旗印にあらわすことによって、「俺は薬屋である。それがどうした?」という気持ちの表しだったと伝わっている。
壬辰倭乱(文禄の役)当時の1592年~1593年にかけて、平壌(ピョンヤン)城を囲んで朝鮮と日本は4回の戦闘を行った。緒戦から3回目まで、いずれも朝鮮軍が敗れたが、4回目の戦闘では明の助けもあり、ようやく平壌城を奪還できた。 神津島の村長と村議会議員達
「おたあ」はこの戦乱の中で戦死した平壌武将の娘で、その母親も自害してしまい、キリシタンであった行長が哀れと思い日本に連れてきたと言われるが、生年月日や実名・家系などの詳細は一切不明である。「おたあ」は日本名、「ジュリア」は洗礼名を示す。
明確なのは、彼女は小西夫妻のもとで育てられた事である。
行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたと言われる。のち、主君行長が関ヶ原の戦いに敗れて石田三成とともに京六条河原で斬首された後、おたあの才気を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕えた。昼の一日の仕事を終えてから、祈祷し、聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされる。
しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放された。
まず伊豆大島に、ついで八丈島もしくは新島に、そして最後に神津島へと、在任として、流罪に処された。
彼女はどの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護、自暴自棄になった若い流人への感化など、行く先々で、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる。(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)
島の人々のために、薬屋の嫁であった行長夫人の下で身に着けた薬草の知識を活用し、沢山の島の人を救っていたことだ。3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順をても断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して一種の修道生活に入ったこと、などが言及されている。
おたあの最期についての詳細は不明であるが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎なる人物により、「島にある由来不明の供養塔がおたあの墓である。」と主張され、いつしかおたあは神津島で死んだことになった。以来、同島では毎年5月に日韓のクリスチャンを中心としておたあの慰霊祭が行なわれ、今でも観光資源の一つとなっている。しかし、実際には1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父からの、日本発信の書簡に、おたあが神津島を出て大坂に移住し、神父の保護を受けている旨の文書があり、おたあが神津島で死亡したことは否定されている。
(1972年.韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と村議会議員らが、おたあの墓の土を埋葬し石碑を建てた。その後、おたあは神津島で死んでいないという文書が発見されたことで石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の殉教博物館内で保管することになった。)
おたあジュリアと小西家の関わりを調べているうちに、連れて来られたもう一人の子供の生きた痕跡が浮かび上がった。
伊豆大島
福者 カウン(権) ヴィセンテ SJ、1626年6月20日殉教
(福者(ふくしゃ Beatus)とは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。)
おたあジュリアと同様、壬辰倭乱(文禄の役)戦火の中で親を亡くし、朝鮮半島から行長に連れられ日本に渡ってきた男の子で、名字は「権」であった。行長はこの子を対馬の宗家に嫁いだ、長女のマリアに託した。託されたマリアは、権少年を自分の息子「マンショ小西」(対馬藩主「宗義智」と「小西マリア」の子。後にローマに渡り、1624年8月28日イエズス会に入会を認められ、聖アンドレ修練院で学んだ。履修科目は神学と人文学。1627年司祭の位を得た後、日本に帰国し長崎で殉教。)と共に西洋教育を受けさせる。1603年に洗礼を受け「ヴィセンテ」という洗礼名を受け、修練修者となった。
家康によりキリスト教の信仰が禁止され、迫害が始まると権ヴィセンテは朝鮮に戻って宣教することを試みたが、朝鮮の鎖国政策で中国経由での朝鮮への入国は失敗に終わり、夢を実現出来ず、1614年、中国から日本に戻った。その後5年間に渉る島原半島での宣教活動中1625年に捕まり、その翌年長崎で火炙り刑にされた。処刑される前に、一緒に居たフランシスコ・パチェコ神父から修道士誓願式を受けた。
権ヴィセンテは捕虜になって日本につれて来られた朝鮮の人々の為に献身的に世話をしたと伝われている。1867年、ローマ法皇ピオ8世により福者位に付いた。
宗義智像(万松院蔵)
敬虔なキリシタンであったマリア夫人は、対馬にいてもキリスト教関係の国内事情にも通じていたといわれ、義智はそんなマリア夫人に従い、キリシタンに厳しい眼が向けられている中で、極秘のうちに洗礼を受け「対馬殿ダリオ」と呼ばれる一時期があった。
しかし、対馬の宗家は秀吉の死後、家康の信を回復し対馬の所領安堵を図るために、キリシタンであったマリア夫人を義智から離別した。「慶長5年10月、故あってこの夫人去る、嫉妬心強く礼なし故に去る」『宗氏家譜略』とある。
真相は、夫人の父が、関ヶ原の戦いで西軍に加盟した小西行長であったので、対馬としては後難を逃れ、所領の安堵を図るため、離別し長崎に送ったものと思われる。