あなたに贈る歌



                                                                   森下愛理沙

 淑子は6年前、自分がブログに書いていたエッセイに気になる書き込みがあるのを最近見つけた。エッセーは淑子が女学生時代に有名だったある歌手との思い出についてである。何年も続けていたそのブログも最近はあんまりしなくなっていて、いまはもっぱら‘ツイッター’か‘フェイスブック’といったソーシャル・ネットワークに活動拠点を置いているので、ブログはほとんど放置状態になっていた。

 そのエッセイには書いた当時から、その歌手のファンを名乗る人たちの書き込みが不思議と続いていた。そのほとんどが自分も彼のファンであったとか、彼は今どこで何をしているのか知りたいなどであり、一年ぐらいすると書き込みも少なくなっていたが、けれども絶えなく書き込みは続き、この三年の間にも少なくとも10個ぐらいの書き込みがあった。淑子はレスポンス(response)をつけるのも面倒くさいと思っていたので、そのまま放っておいた。

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 小学校を群馬県の前橋で卒業し、東京で仕事を見つけた父とともに家族は東京に移り住んだ。生活は東京では比較的に家賃が安かった荒川区のある下町から始まった。教育熱の高い父は私の将来のためと思い、東京で仕事を見つけ、同時は有名大学への合格率の高い上野の私立中学校に入れてくれた。私は京成線に乗って上野公園に近い中学校まで通った。

 故郷の前橋では秀才と言われ、小学校では卒業生代表だった私も中学では成績がグラスの中の下で、なんの変哲もないただの普通の子供で、私に期待を掛けて東京に引っ越す決心までしてくれた両親をがっかりさせた。何より私がショックをうけたのは大都会の中学校とのカルチャーショックであった。政治家や学者や芸術家などを親に持つ子供たちがたくさんいて、平凡なのは子供の私だけでなく、立派だと思っていた自分の親も一庶民にすぎなかったことだった。誕生会に招待されて訪れた学級の友達の家には二人の家政婦がいて、お母さんは運転手つきの車で買物に出かける。そして友達の部屋は、外国出張の折お父上がみやげに買ってくれたきれいなフランス人形や置物でいっぱいだった。
 こうして私の思春期は、両親の期待に応えられない自分に対する一種の平凡コンプレックスと、友達に対する劣等感で覆われた暗いトンネルのど真ん中で、何処に向かって進むべきか迷う時期でもあった。

 その時、私が唯一心のより所にしていたのが歌で、毎日のように深夜のラジオ番組宛に葉書を書いた。私の葉書を読んでくれて、暖かい慰めの言葉を掛けてくれたのは深夜番組のDJを担当していた歌手の伊藤玄二。テレビの音楽番組で馴染みの顔を想像しながら彼の暖かい声を聞きながらジェーン・エアを読み、時にはリルケの詩に心捕らわれた。私は伊藤玄二を思うだけで胸がキュンとするほど好きで、これが私の初恋である。

 会いたいと思って彼が出演する番組の放送局の入り口をうろついたり、小遣いを貯めてシングルのレコードを買い求めたりした。そして少しずつ成長し3年も過ぎると東京にも馴れ、親も私に対する過度な期待を求めなくなった。そして私も雲の上のひとである伊藤玄二をあきらめ、学校の先輩に思いを寄せる普通の17歳になっていた。先輩と同じ大学に進学したいと思う一念で大学受験のために勉強に精を出しているある日の事、伊藤玄二に偶然出会ったのは谷中小下通りを過ぎたところにある喫茶店「乱歩」である。

 ご主人が江戸川乱歩が好きでお店の名前が「乱歩」となったというこの場所に時々寄り、冷たいものを頂くのがその同時の私の贅沢な時間で、少しだけ大人ぶった頃の事であった。初夏の休日の昼下がりの茶屋、いつもは混んでいた店がその日に限って閑散としていて、客は私だけ。片隅にすわり、カバンを隣の椅子において、その頃読んでいた詩集を取り出した。客が店に入ってきた。無心に振り向くとそこに伊藤玄二が二人の男性と立っていた。胸が高ぶった。まさかこんなところで芸能人に会うなんて、それも私の初恋の人に会うなんて、奇蹟にも近いできことに凍りついた私。もちろん彼は私が送った葉書の事など覚えているはずもない。目が会うと彼はにっこり笑い、声を掛けてきた。
 「お一人ですか?学校はこの辺ですか?それは凄い良い学校に通っているんですね。東大を目指しているの?」など。私は小さい声でそんなことないですよと顔を赤く染めながら返事していたけど、あんまりの緊張に声が震えていた。アイスコーヒーを飲んで三人はまもなく店をでたが、私は自分が食べていたアイスクリームの味がわからなかった。もちろん読んでいた詩など頭に残るわけもない。

 帰るときマスターに精算を頼むと、伊藤玄二さんが払ってくれたと言うのではないか。お礼を言いたくて昔のように葉書を書こうとしても伊藤玄二の深夜の音楽番組は既になくなっていて、私は彼と連絡をとる方法を知らなかった。

 それから30年の時が流れ、人々の脳裏からも彼は忘れ去られた。時々昭和に残す歌100選に彼の歌が撰ばれる事はあるけど、歌うのは別の歌手で彼は芸能界を去ってから一度もマスコミに登場しない。私も伊藤玄二を忘れていたけど、この歳になって時々彼の事を思い出し、彼は何処で何をしているのだろうか。二度と彼に会うことはないだろうけど、今更ながらお礼を言いたいと思う。

 「いろいろとお世話になりました。本当にありがとうございました。私の青春はあなたです。何卒お元気で・・・」
 
 エッセイに書き込まれた内容によると、書いた人は伊藤玄二さんの親友である事と、連絡を取りたいとの事だった。その前からも親戚と名乗るひとや、後輩と名乗るひとやの書き込みを何回か見て、掲示板上の書き込みを通じて話はしたが、本当の事なのか、単なるいたずらに過ぎないのかも判らなかったので淑子は適当な返事をしたり、時には無視したりしていたが、今回はなんとなく気になり、彼の書き込みの下にメールアドレスを残した。その後、淑子のもとに届いた彼からのメールには今でも自分を記憶してくれたことに対するお礼としてサインとCDを送りたいとの伊藤玄二からの伝言が書かれていた。 淑子は多少のためらいもあったがそれより嬉しい気持ちが大きかった。スキャンした職場の名刺をメールに添付して返信すると、翌日会社の事務室に彼からのサイン入りのCDが届いた。伊藤玄二の友人と名乗る人のメールによると本人がいつかもう一回あなたに会いたいと言っていると、だけど今は会えないと。

 それから淑子は伊藤元二のために、ツイッターで「伊藤元二のファン倶楽部」を立ち上げた。今のフォロワーは21名、昔のファンが集まり、本人が見ていると思いツイットし続ける。つぶやきに彼が交わる可能性に賭けて。

 友人と名乗ったのは伊藤玄二自身であった。暇つぶしに自分の名前で記事検索をしていて淑子のブログを見つけた。玄二は懐かしかった。あのお下げ髪の女の子を玄二は意外と鮮明に覚えていた。あのように頭の良さそうな純な子を持つ親が羨ましいと思ったことを思い出した。玄二は同じ芸能界の女優と結婚をし、10年後に離婚した。子供はいなかった。離婚した女房は今は中年演技者として活躍している誰もが知っている女優だ。

 玄二はある事件に関連して芸能界を退いた。兄弟のように育った親友がヤクザになって、玄二が芸能界に入るときその繋がりで有名な芸能プロダクションに入ることが出来た。それから玄二は組織と手を切ろうとあらゆる努力をしたけど出来なかった。そして玄二はそれが原因で芸能界から引退を決心した。玄二は再び歌を歌いたい。一度でいいから昔のようにファンの前で歌いたい。けれども還暦を迎える今、昔の伊藤玄二を思うファンの前に出る勇気もない。いまも他人を装い「伊藤元二のファン倶楽部」のフォロワーの一人にはっているが、自分が伊藤元二だと名乗れない。だけど何もかもあきらめ老いて行く勇気もないのがとても悲しくて辛い。玄二は最近になって以前に増して昔の仲間が他界した事をマスコミを通じて知る。そして自分に残された時間を測り、ため息をつく日が多くなっていることに気づく。

                                   終わり

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2012/09/26 18:53 2012/09/26 18:53

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2011/04/06 15:42 2011/04/06 15:42

≪創作短編≫ 笑顔が綺麗だよ


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 アメリカから時々日本に里帰りをした。里帰りをする毎に、彼に会う回数が増え、時には彼に会うために帰国した。私が渡米を決心した頃は、彼とはそれほど親しい間柄ではなかった。同じ職場ではあったが、別の部署だったので、偶にすれちがったら会釈を交わす程度だった。
 ショートケーキの上にのったイチゴの味のような彼との時間を過ごした後、私は姉と子供が待つボストンに戻る。ボストンでは国際取引・国際契約に関する業務について勉強中だった。

 ボストン大学ロースクール(LL.M.)で学ぶことにしたのは、夫との離婚がきっかけだった。
大学を卒業した後、中堅クラスの商社に勤め、その五年後に、大学のサークルの先輩であった夫と、妊娠を機に結婚した。結婚して五年間、妊娠・出産・育児に追われているうちに後輩に追い抜かれ、かなり焦っていた私は、子供が幼稚園に行くようになると、ようやっと本格的な仕事復帰を果たした。

 国際ビジネスの世界は日に日に情勢が変り、その分析力によってこの世界の勝敗がきまる。その最前線で活躍する後輩達は着実に先を進んで行って、その背中は段々と遠くなっていく。彼らを後で支える役割に回ってから五年間、世界は目まぐるしく変わってしまった。国際環境も、市場の流れも、以前とまったく変わってしまい、付いていくことが精一杯。このままではここで止まり、適当に働き、程々の給料をもらって、あとは夫に頼る、「女」に甘んじる生き方を選ぶ他にない。夫も、そうであるべきと、当たり前のように思っていたのだろう。

 夫は勉強する私に嫉妬していた。勉強をしていると、口実を探しては世話をやかせた。結婚前の夫は私のビジネス分析の能力を高く評価していたが、いつの間にか、それよりも女房の役割を要求するようになっていた。私はその傲慢にも近い夫の態度に失望していった。

 夫との別れを決心したのは、子供が夜、急に熱を出し、病院に運ばれた際の事だった。夫はこう言った。
「俺は明日、大事な仕事が在るから、悪いけど先に帰って寝る。」
 
 その言葉で私の気持ちは固まった。

 姉はアメリカ人と結婚していた。とても誠実なクリスチャンであるアメリカンの義兄と姉の間には、仲睦まじく暮らしていたが、何故か子供ができなかった。姉の寂しさを案じた義兄が私と子供をアメリカに呼んでくれた。丁度夫と別れ、仕事は後輩に追い抜かれ、子供を抱えながら日々の現実に苦しむ中で、私自身に自信を付ける機会を兄が作ってくれたのだ。私は姉の住まいに近いところにアパートを借りて、子供と新しい生活を始めた。姉夫婦に負んぶに抱っこの生活ではあったが、姉夫婦の愛を一身に受ける子供も、勉強が思う存分できる私も幸せだった。

 アメリカ行きが決まったために会社を退職したため、会社が催してくれた送別会の帰り、彼から声を掛けられた。
「先輩、よかったら先輩の行く先の住所を教えてください。」
今時、家の住所を教えてという人は珍しいと思った。
「住所ですか?メールアドレスじゃなくて?」
「いや、住所です。もしボストンへ出張があったら日本の美味しい物を持って行きますから・・・。」
私はこれから住む街、ボストンの住所をメモして渡した。

 渡米後、しばらくして彼から手紙が届いた。封を開けると青い便箋に万年筆で書いた彼の筆跡に、(今時珍しい人)と再び思った。


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 それからも手紙は続き、私も電子メールではなくて手紙を書いた。手紙が届くのを待つ間、時めきと切なさが交錯する胸の中、わたしたちはゆっくり、そして密かに愛を育んでいった。

 二年後、彼が交通事故で意識不明になったことを聞いたのは、偶々電話してきた、前の職場で仲の良かった友人からだった。その前日に、一週間前に彼が書いた手紙が届いたので信じられなかった。
彼と付き合っていることを会社の人には内緒にしていたので、彼女が知っていて、伝えたわけは無い。きっと彼の気持ちがそうさせたと思った。
私は急いで、日本に帰った。


 彼の体についた幾つものコード、喉に埋め込んだ人工呼吸の為のチューブ・・・。彼には意識もな、く一人では呼吸もできない状態で、病院の重患者室のスチール製のベッドに寝ていた。悲しくて胸がつまった。私も息ができないような気がした。
翌朝の夜明け、彼は息を引き取った。私の目の前で、いつまでも待ち続けると言った彼が、私の前を去っていった。

 彼を見送ってからアメリカに戻る途についた。
 泣いて腫れぼったい眼は、辛うじて前が見える程度、ほとんど開けられない状態で、サングラスを掛けずには外に出られなかった。

 アメリカへの入国審査の際に、サングラスを取るように命じられた。躊躇しながらサングラスをとった私を見て、黒人の審査官は言った。

   Lady!  please don't cry. A smiling face is beautiful for you.
   Look! This picture of passport. you are not crying. It’s  nice.

  レディー、泣かないでね。あなたは笑顔が綺麗だからね。
   見てよ、このパスポートの写真。泣いてない顔はなかなか素敵じゃないの。



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2010/09/08 14:30 2010/09/08 14:30


時  計


第三話

 2008年上期の芥川賞を受賞したのは、中国の民主化運動を背景にして青年たちの昂揚した情熱とその挫折を描いた、楊逸女史著「時が滲む朝」であった。読みながらわが青春の刻を思い出した。

 人生に偶然はいくつもあり、栄と三十年ぶりに再会したのもその偶然の中の一つであろう。
  ネット上で、文学の話や日常の話を書き物にして読み交わす仲間の集まりで、投稿の常連となっていたある書き手の作品の背景は釜山であった。コケティッシュな釜山の方言と、どこか懐かしい釜山の地名や町の様子からふと、学生時代の思い出が甦ったのである。

  思い立って、その書き手にメールを送った。「ひょっとしてK高校出身ではないか?」と・・・。 「どうして分かったのか?」とメールが返って来た。それは女の第六感だったのかもしれない。栄の事を訊ねると同窓会を通じて調べて、彼に連絡を取ってくれた。「栄君もあなたに会いたいと言っています。」とのことだった。

 五十路を迎えた二人ではあっても面影は残っていた。私は、彼に会う前に空港免税店で購入したセイコー時計を、栄に渡した。
 「これは何?時計?こんなの俺は要らないから他の人にあげなよ。親父さんだってまだ元気だろう。弟だっているんだし・・・。今は携帯電話もあるから時計はいらんからね。」と断る彼に、「あんたはマナーもないの?プレゼントは嬉しい顔して受け取るものでしょう?これは日本土産なんだから・・・。」と、無理に渡した。栄に会って昔の借りを返せたような気がして嬉しかった。二人の男の子の父親になっている栄は、平凡で良いお父さんになっているようだった。

 栄とは高校2年生の修学旅行の列車の中で友達になった釜山(ぷさん)に住む同年の男子で、二人はそれから7年に近い歳月を共有した。栄はお金が出来さえしたら釜山(ぷさん)からの遠い距離を会いに来てくれた。大好きな友達以上ではあったが、恋人未満の二人だった。


 1979年某月某日、高卒以上の液晶時計の組立ての工員を募集するという新聞記事を見て、私は履歴書を出した。

 まだ賃金の安い労働力が豊富であった当時の韓国には外資系企業の進出も多く、世界の生産工場の一つになっていて、今の中国のように環境汚染が大きな問題となっていた。ソウルの外れの九老洞には首都圏最大の工業団地である九老工団があった。

  その会社はそこにあった。整頓された工場の建物と周辺施設がとても印象的だったその工場で、当時では最新技術の電子時計が生産されていた。
 韓国初の電子時計メーカー、その会社の名はオリンポス電子株式会社。従来の発条(ぜんまい)を巻いて針で時を刻む時計とはまったく異なり、電池で動きデジタル液晶の文字盤に時刻を数字で表わす。まさにモダンでシンプルな洗練されたデザインの時計を生産する工場であった。
 面接日が決まり面接場に行くと、そこには数十人の若い女性が集まっていた。私は部屋の片隅の長椅子に小さく背を丸めて座った。
 朝鮮戦争が終わって(1953年)から10年間の間に生まれたベビーブーム世代である。どの場面においても激しい競争は避けられない運命にあった彼女たちは、誰もが皆、緊張のあまりか表情がない。

 エリートを思わせるどこか冷たい感じの若い面接官との、家族構成や応募の動機など在り来りの質問の後、私は彼の意外な試問に驚いた。高校教科書に載っている漢詩を暗唱して欲しいというのである。可憐な女の恋歌。李玉峰が書いた「夢魂」というものである。

近來安否問如何(근래안부문여하)
近頃如何がお過しでしょうかと安否を尋ねる

月到紗窓妾恨多(월도사창첩한다)
お月様が訪れる紗窓に切ない妾(おんな)の溜息多し

若使夢魂行有跡(약사몽혼행유적)
夢の中の魂が足跡を残すことが出来るなら

門前石路半成沙(문전석로반성사) 
門の前の石畳の半分は沙になったはず


 電子時計は、黒い基盤にメタルの時代に似合う液晶の文字盤とそこにくっきりと時の流れを数字で刻む。その新時代の時計に相応しく、洗練された身なりのその面接官が提示した2番目の試問は『最後の授業』や『星』という短編作品を書いたフランス人作家の名前を出してみろということだった。今考えてみれば、彼はハイテク会社の社員の割には文系だったようである。

 「アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)」

答えられたことでほっとして面接室を出て、次の指示を待つ他の大勢の中で一時間程度経過した頃、「この面接結果は一週間後に会社の掲示板に張り出される・・・」とかの説明があった。
 その後に、私一人だけが名前を呼ばれた。私は訳もわからず、再び面接官の向かい側に座った。

「あなたは私の質問によく答えてくれました。本来なら見せる事は無いのですが、面接の採点を見せます。今日の人達の中で最高点です。これから人事部で人選に入るのですが、あなたはたぶん採用にはなりません。」

唖然としている私を前に彼の話は続く。

「採用されないと貴方は納得できないでしょうけれど、私共が求めている工員はあなたのような勉強が出来て頭の良い人ではありません。はっきり言って、会社の言うことをよく聞いてくれて真面目であればいいのです。あなたは単純作業には向いてないかもしれません。こんなことあなたに伝える必要は無いとは思いますが、私個人としては、あなたと仕事が出来ないことを残念に思っていますので、此の事だけは伝えておきたいと思いました。採用者発表掲示板に名前が載って無くてもあまりがっかりしないでください。」

 結局、私は採用されなかった。友人は団地内の別の会社に応募し履歴書と面接を上手く潜り抜け、偽装就職が出来た。彼女は労働現場で労働者達と一緒に労働環境改善と労働者の権利の為に労働組合を作り戦った。

 私は現場に潜り込んで労働者を煽動して、労働組合を作るためにその会社に入りたかったわけではなかった。結果、学費が払えず、その春に休学届けを出し、そのまま学校には戻らなかった。
 
 貧しくても労働者にもなれなかった。当時、私は何も出来ない自分にただただ苛立っていた。

 オリンポス電子株式会社は1980年5月に不渡りを出し倒産する。同じ年、5月18日、光州事件注1が発生した。光州は封鎖され全国に戒厳令が布かれた。
 その時に兵役中の栄(えい)は戒厳軍の一員として漢江の河口に待機していた。

 
 光州の人々に哀れみを感じた私は、教会に集まった仲間と共に「光州の市民に役立つ事は何か?」と神父様に尋ね「献血だ。」と教えられ、集団で赤十字社に献血に出向いた。

 その年、クリスマスに合わせて休暇が取れた栄が釜山の実家に帰る前に私の所へ立ち寄った。下士官の階級章(かいきゅうしょう)を帽子と肩と胸に付けた、オリーブ色の軍服姿の栄は、肌が逞しく日焼けしていて、胸板が厚くなり、大人の男になっていた。
 彼が差し出した小さな包み。開けてみると中には電子時計が入っていた。 「何?これ?」と聞く私に「軍隊で給料貯めてPX注2で買った。」と答えた。私の誕生日に合わせてくれたとは言われなくてもわかっていた。兵役の義務を背負っている韓国の若者は、誰もが二十歳から二年間、お国のために務めなくてはならない。今も昔もそれは同じである。給料といっても一般兵で一ヶ月五千円程度。

「これって高いんでしょう。下士官の月給じゃ無理じゃないの?こんなもの買ってこなくたって・・・。」

 照れくさくて素直に有難うとは言えず、ついこんな口調になってしまったのはなぜだろう。

「PXで買ったからそれほど高くないよ。軍隊の中じゃ金を使うところないし、時間もないからさ。」と栄は笑って言った。
 その後、たった一度だけ彼のところまで面会に行った。除隊まであと半年を残した、秋が深まってきた日だった。

「おれ、それから色々と考えたけど、除隊したら俺達結婚しよう。色々あったけど、俺もお前も色々あったけど、やっぱりお前しかないと俺は思うんだ。」

 私は断った。彼はとても好きだけど、胸に燃える情熱を感じない。それに、私はまだ若すぎた。他の人が好きになっていたのである。
 その冬私は、警察に追われ地方を転々とする、とある社会革命家を夢見る男について行く為にソウルを離れた。好きな男の元に行った。

 その後で、栄は除隊した。実家へ帰る前に、いつものようにうちに立ち寄ったと弟が伝える。経済的に大変だった家庭の事情の中で大学を受験していた弟に励ましの言葉と幾らかのお金を置いて栄は帰ったと聞いた。その後30年間、互いに消息も知らずに生きた。

 あの電子時計をその後どうしたのか、あんまり覚えていない。 恐らく、そのうちに壊れて使えなくなったのだと思うが、栄の事はこの30年間胸の奥に重くのし掛かっていて、いつか返さなければならない借りとして尾を引いていた。

 色々と話を交わしてから帰り道の飛行機の中、見も心もとても軽くなった。それはまるで快感。「さようなら栄君。何時また会える日が来るかはわからないけど、元気で達者で何時までもお幸せに・・・」
    

  近來安否問如何(근래안부문여하)




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注1. 

光州(こうしゅう)事件は、1980年5月18日から27日にかけて韓国の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生した。民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件である。全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥の新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した(五・一七非常戒厳令拡大措置)。金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。 また、鎮圧部隊の空挺部隊も、かつては韓国軍のエリート部隊であったが、全斗煥の警護部隊的な位置づけに格下げされ、兵士たちには鬱憤がたまっていた。 5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊と学生が自然発生的に衝突した。軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体も学生から、激昂した市民に変わっていった。市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は地域の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


注2. 

PX [post exchange]軍の基地内にある売店。税金が負荷されない。




2009/09/03 15:58 2009/09/03 15:58




結婚 

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 まる4年の韓国勤務中、軍事境界線からソウル竜山(ヨングサン)にある米第八軍司令本部へ配属変えとなったフランツは、本部内の売店に勤めているある女性に好意を持つ。長い間、募っていた家族のない寂しさからか彼女に対する気持ちは徐々に深まっていった。初めは彼の好意に戸惑いを見せていた彼女であったが、フランツの誠意が通じたのかデートの誘いに応じてくれた。父親を朝鮮戦争で失い、母親一人の手で3人の兄弟が育てられ苦しい生活を余儀なくされていた彼女を彼は心より力になってあげたいと思っていた。1963年末、アメリカ本国への帰国命令が下り、間もなく二人はアメリカで新婚生活を始める。新アメリカ人としてそして希望に満ちたアメリカンドリームの実現に向かった若いカップルとして。 1964年、旧ソ連はフルシチョフが解任されてブレジネフの時代となり、アメリカはジョンソンが大統領になった。


大統領宣誓するジョンソン    公民権法施行の文書に署名するリンドン・B・ジョンソン大統領
大統領宣誓するジョンソン(左)と公民権法施行の文書に署名するリンドン・B・ジョンソン大統領(右)
              


ヨーロッパへ

アメリカに戻ってからはボストン近郊の部隊に勤務をしていたフランツに今度はドイツの米軍部隊の配属命令が下った。ドイツとハンガリーの間にはオーストリアがあり、休日になるとフランツはドイツからオーストリアまで駆け付けてはハンガリーとの国境の検問所をただ遠くから眺めていた。ハンガリーとオーストリアの国境検問所は西側への脱出を防ぐ為か監視が厳しく近付くことさえ出来なかった。ドイツ勤務を命じられたときは故郷と同じ大陸の地を踏むことだけでも胸がいっぱいになっていた。ハンガリーの家族の便りを聞くことができるかも知れないという微かな期待が胸のとこかにあったからだ。だけどその期待は無残にも砕かれその募る思いは叶わなかった。フランツは2年間のドイツ勤務を終えてアメリカに帰って来た。帰りの軍用機の中で彼はハンガリーの家族に連絡を取り合う夢を捨てた。



 姉からの手紙

 その後フランツはベトナム戦で後方支援に関わり、ベトナム勤務が無事に終わると再び韓国に配属されるチャンスを得た。今回は先ず竜山本部に勤務し、後に富平の基地に移動した。今回の韓国勤務は妻の国ということもあったが、MDLを通じてもう一度ソ連側と接触することができるかも知れないという期待があった。 結果的にフランツにとって幸かも不幸かはさて置き、MDL勤務の機会が再びフランツに訪れることはなかった。当時、北朝鮮との軍事境界線内で米軍が北朝鮮の兵士に斧で殺害される事件が起きた事が大きく報道される。

 それから2年後アメリカに帰ったフランツはテキサス州に定住する決心をし、キルリンという所に家を持つようになる。キルリンは州政府があるオースチンの北にあり、車で30分ほど離れた所に位置する、アメリカ国内最大規模の陸軍キャンプがある場所でもあったからだ。
 ある日、夢のようなことが起きた。フランツにハンガリーに住んでいる姉のエリザベスから手紙が届いたのである。フランツが韓国の休戦ラインで渡したあのメモが回りまわった末、姉「エリザベス」の元に届いたからだ。姉の手紙によれば、結婚した彼女は夫とブダペストに住んでいるがその他の家族は政府の移住計画でどこかに移されたようだった。それからは連絡が途切れ、今はどこに行ったのか分からないとの事であった。姉の手紙に言及されてなかったが、ソ連の支配下の社会主義ハンガリーで西に亡命者を出してしまった彼の家族達は相当な苦しい立場になってしまったのかもしれない。家族を思うフランツの胸が熱くなった。国を脱出してから始めて声を上げて泣いて明かした夜がそこにあった。



国際赤十字からの連絡

1977年、ジョージア出身のカーターがアメリカの大統領になると世界はそれまでの対立から和解へと転換していく。 70年代始め頃からアメリカと中国の国交が正常化されており、当時の世界の関心は中東問題に向けられていて、アメリカとキューバは相互に代表部を設置するまでに関係が回復し、世界の情勢は急速に変わりつつあった。
 フランツはもう一度母国の家族と連絡が取れるかも知れないと期待を持ち始めた。そしてフランツは国際赤十字を通し家族探しを始めた。それからほぼ10年後、国際赤十字を通して家族から連絡がフランツに届いた。ベルギーに住んでいる弟のマティアからの手紙が送られてきたのだ。家族はハンガリーから抜け出してベルギーに住んでいた。フランツが今までハンガリーにいると思っていた家族が実際にはベルギーに移り住んでいたのでびっくりした。信じられない連絡にフランツの胸はいっぱいになった。当然心は既に家族のもとに走った。

フランツは直ちに休暇届けを出してベルギーへと飛んだ。マティアが暮している所はベルギーで鉄と石炭が豊富で鉱山や製錬所が多いことでその名が知られているワルロニアだった。マティアはそこの製錬所に勤めていたのである。残念にも兄は行方不明で、夢にも見ていた愛しい母は亡くなっていて、やるせない気持ちを抑えられないフランツであったけど、80歳を過ぎた父と弟のマティアに会えた。兄思いの弟のマティアは涙を流して喜んでくれた。歳を老いた父にまた会えると思えなかったが、幸いに父は元気でフランツはその父を力強く抱きしめた。父子3人で何日も何日も募る話しで夜を明かした。今まで長い年月の間、父の面倒見てくれた弟にフランツは感謝の気持ちを伝えた。そして可愛い姪や甥、そして弟嫁と新しい家族に初対面の挨拶をした。まさに30年ぶりの再会であった。



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おわり


2008/10/27 10:52 2008/10/27 10:52

亡命


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フランツは逃亡中偶然会った大学の経済学教授と共にソ連軍に追われる身になってしまった。そして彼はその教授と船に乗り込みハンガリーから抜け出し大西洋へと脱出に成功する。ソ連軍に追われてその船に乗った者は全部で28人。船長の助けを借りて西側の各国に向けて亡命を要請する無線信号を送った。幸いにもアメリカ政府から亡命者を受け入れるという返事を得て、船はニューヨーク港へと向った。しかし、フランツには上陸が許されなかった。彼が未成年者であっため、亡命には彼の後見人になってくれる養父母を必要としたのである。フランツは船から降りられないままアメリカ国内のハンガリー民主運動支援組織が養父母を探してくれるまで待つしかなかった。一週間ほどすると彼を引き取ってくれる養父母が見つかり、アメリカは彼の亡命を受け入れた。英語を話せなかったフランツはそれから1年余り養父母のもとで英語の勉強をしながらアメリカ生活に適応する訓練をしたのである。その間、国の両親や兄弟たちに自分の安否を伝えようとあらゆる方法を探したが見つからず、家族の消息すらわからなかった。
 

入隊


  19歳になったフランツは自分のこれからの行き方を考えなければならない。祖国ハンガリーの風習と違い、アメリカと言う国は18歳を過ぎると自立を求められるのである。そしてフランツは養父母から独立を決心し、アメリカ軍に志願入隊をすることにした。まだ英語が自由に話せないフランツにとって入隊は、アメリカ市民として自立して生きて行くことができる数少ない選択肢の一つだったからだ。
 朝鮮戦争が終わってから未だ十年にもならない当時の世界は、イデオロギーの対立でアメリカを中心とする資本主義の西側とソ連を軸とする社会主義の東側の二つに分かれていた。 1960年代のソ連はスターリンの時代が終わりフルシチョフの時代に突入であり、アメリカは若い大統領ケネディの登場でアメリカの国民だけではなく、西側陣営全体が沸き立っていた。その後まもなくキューバ紛争の勃発でアメリカとソ連の神経戦は頂点に達したし、人工衛星の開発競争にまで及んだ。

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 1959年に入隊したフランツは新兵訓練を終えると、当時、緊張が高まりつつある韓国へ配属された。フランツが韓国に派兵されて暫らくすると、韓国で軍事クーデタが起きた。それは1961516日のことである。そしてケネディ大統領とフルシチョフの間で首脳会談が開かれたが、それは当時の朝鮮半島の緊張を加速させる要因と受けとられた。それから約2年、フランツは軍事境界線(MDL)あたりでケネディ暗殺のニュースを聞いた。当時の軍内の緊張は頂点に達し、軍には高いレベルの非常態勢が発動され、フランツは非常待機組みに組み込まれた。

 軍事境界線は1953727日に成立した「韓国軍事停戦に関する協定(停戦協定)」に規定された休戦の境目を意味することで、これがいわゆる休戦ラインである。その総延長は155マイル(250km)に達し、西には礼成江と漢江の川口の喬棟島から開城南方の板門店を通って中部の鉄原・金化を経って東海岸高城の名号里までに至る。当時、境界線を決めることにあたり両軍の主張が対立し、現実的に両軍の戦いの地、つまり最前線を軍事境界線と定めることで休戦協定が成立した。そして両軍は軍事分界線後方で南北両方2Kmに非武装地帯(DMZ)を設置していた。軍事分界線は200m間隔で設置された黄色表示板で示されていている。表示板は南側から北に向けたものにはハングルと英語で、北側から南に向けて設置されたものにはハングルと漢字でそれぞれ表記されている。その数は1292個に達し、この中には国連司令部が696ヶ所有り、フランツもそのなかの1ヶ所に配属されていたのである。その軍事境界線は国連主導の中立国監視団の監視の下で今日に至る。





希望を託した冒険

ある日、フランツは偶然にも中立国監視団の立場にあるソ連軍側監視団の中にハンガリー出身の兵士がいるという噂を聞いた。彼はハンガリーに残っている家族に自分の消息を伝えることができる唯一のチャンスだと考えたので、旧ソ連軍と接触する機会を狙っていた。ハンガリーでロシア語を学んでいたこともフランツを勇気付けたのである。板門店周辺巡回の当番だったある日、親しい仲間と意気投合したフランツはハングルとハンガリー語とロシア語で作ったメモを北側の兵士に秘かに渡した。
「私はハンガリー出身で国の家族に安否を伝えたい。ソ連軍監視団の中にはハンガリー出身の人が居るという噂を聞いたので誰かその人に伝言をしてくれる人を探している。私は明日も今日と同じ時間に同じ場所を通る予定である。誰か助けてほしい。良い返事があることを祈る。」
若い北朝鮮兵士は驚いた様子で、フランツにとっても大きな賭けだった。翌日、緊張して硬くなった表情で板門店を見回っているフランツに若い北朝鮮兵士がすれ違いながら落としたメモ紙にはハンガリー語でこのように書いてあった。
 「家族の住所は? 何を伝えれば良いか?
次の日、フランツは昨日と同じ兵士に会えた。震える胸を押さえながら準備していたメモを胸元から出してそっと落とした。胡麻粒のような細かい字で書かれた両親宛の短い手紙と住所を書いたものである。そして二度とその兵士に会う事はなかった。


 

つづく



2008/10/15 13:50 2008/10/15 13:50


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PROLOGUE

 昨日、私は叔母に電話をした。アメリカのテキサス州司法監察官として長年勤めていて、先月定年を延長し勤務していた職場を退職したばかりの彼女に励ましの言葉でもかけたかったからだ。
その昔、地球の裏側まで言わば国際電話と言うものを架けるとするなら、音が遠くて雑音は入り、大きい声で互いに怒鳴るように会話し、高い電話代を覚悟しなければならなかった。何時も使用料を気にしながら慌てて電話を切ったものだ。この10年あまりで、海底ケーブルのお陰だろうと思うが、隣の宅に架けるように電話が出来るようになった。音も鮮明な上、料金も国内の市外電話に匹敵する程度だ。

  話を戻すと、叔母との電話は普通の日常の話から始め、家族の話、ペットの話、健康の話、そして国にいる親戚の近況にまで及ぶ。ひとは歳を取ると話が長くなるみたいで、最近彼女に電話をすると軽く一時間はしゃべり続ける。私は聞き役になっていて、内心電話代を計算したりするのだ。今回の電話も例外なく1時間も続いたので私がそろそろ電話を切ろうとする気配を見せると急に叔母が言い出した。


叔母 「あのさ、叔父さんにメールとかしないでね」
    「あ、最近してないけど、どうして急にそんな話をするの?」
叔母 「うん、しばらく別々に住むことになったの」
   「どうしたの?六十の半ばを超えて今更どうして?」
叔母「うん、そうなの。彼の希望だから、そうさせてあげることに決めたの」
   「それで叔父さんお家を出て行ったの?」
叔母「うん。」

  それからさらに話を聞くと、結局二人は離婚してしまったようだ。まさかとおもった。確か叔母は自己主張がはっきりしていて、かなり気の強いタイプの人ではある。でもそれは昨日今日の話ではない。40年以上も連れ添っていながら今になって離婚と言うのが信じられなかった。すでに他人になってしまった叔父の言い分は聞けないし、叔母からもそれ以上の詳しいことは聞いてないのでなんとも言えないけれど、叔父が大好きだった私は、ただ残念に思うのみで、とても寂しい。

  実は去年、あるところの依頼もあって、私はその叔父をモデルに短編をひとつ書いていた。彼にそれを見せる前、彼は私たちから離れ、別の人生を見つける旅に出てしまったようだ。私の母の三歳違いの妹である叔母はハンガリーを祖国とする叔父と40年前、国際結婚をしたのである。




第二次世界大戦後のハンガリー


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フランツ=アイマの故郷はハンガリーのブダペストである。ブダ市とペスト市が合併して出来たこの町は、1944年から45年にかけての冬、ドイツとの悽惨な戦地になり、旧ブダ市の中心部にずらりと並んでいた由緒のある建物の殆どは破壊されてしまった。
  1945
年、ハンガリーが旧ソ連の赤い軍隊によってドイツから解放された時、フランツは10歳であった。革靴を作る仕事を家業とする両親のもとに15歳になる兄リゲと13歳の姉エリザベス、7歳の弟マティア、そしてフランツの家族6人が、ブダ市とペスト市が合併する前のブダ市の旧市庁跡地付近、今は昔の繁栄からは程遠い寂れた市街地の一角で、小さな靴売場兼作業場付きの古い旧式建物で暮していた。 
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崩れかけた建物や空地が散在する市街地の片隅にあった2階建てのこの家は、破壊だけは免れたが壁には弾丸の跡が残っていた。旧市庁舎の角には知恵の女神アテネの石像があった。この都市の守り神であるアテネの盾にはハンガリー紋章が刻まれていて、左手には槍を持っていた。フランツはこの女神像が大好きで、見上げる度に胸がいっぱいになり、この女神に守られるハンガリー人である自分がとても誇らしく思えた。

 無愛想だが真面目な父と病弱だったフランツに特別に優しかった母のもとで、4人兄弟は貧しいながらも平穏に暮らしていた。母に優しくされるフランツを嫉んだ兄に苛められることもあったがいつも姉のエリザベスに助けられていた。姉のエリザベスは学校から戻ると、部屋を片付けたり乾いた洗濯物を畳んだりして母の手伝いをしていたがその間、フランツは弟のマティアを連れてゲッレールトの丘が見上げられるドナウ川の岸辺で遊んだ。複雑に分かれる小道を走り回ったり、川をさかのぼる小船を見て過ごしたりした。19世紀に葡萄の木の根を腐らす害虫に荒らされて以来、ぶどうの栽培をやめて放置されている昔からの葡萄畑があった。そこは時にフランツとマティアの良い遊び場であった。

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 フランツが8年間の初等教育と4年間の中等教育を終え17歳になると、貧しいながらも、真面目に働く父のお陰で大学へ進学することができた。 19559月、彼はブダペスト・ウェトベスィ・ローランド大学の法学部に入学することができた。それはいつか弁護士になるという希望に満ちた青春の門出であった。


 

ハンガリー革命


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1945年、第2次世界大戦が終盤に向かう頃、対ドイツ戦を勝利に導いたソ連は、それまでハンガリーを支配していたドイツに代わってハンガリー政府を任命し新たな支配者になった。それから10年余り、経済の崩壊と低水準が労働者の不満を引き起こした。農民たちは政府の土地政策のせいで悲惨な状況にあり、ハンガリー全域ではソ連の支配から自主独立を求める気運がみなぎってきた。 フランツも彼の学友達もそのような状況でソ連に対し良い感情を持っていなかったのは当然である。いよいよ19561023日、ブダペスト市全域で学生たちの蜂起が起き、多くの労働者たちもそれに加わった。30万人の市民や学生がデモ行進を行った。
その日、フランツは法学入門講義を欠席した。それは工科大の学生寮に使われている旧財務省建物の前で開かれた、ある反ソ集会に参加する為であった。彼は意気投合していた先輩や同級生らと行動を共にしたのである。そしてここから始まったデモは歴史に残る1023日革命の出発点となった。
この1956ハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対するこの反乱はソビエト軍によって残忍なやり方で鎮圧された。数千人が殺害され、それ以上の人たちが傷ついた。25万人近くの人々が難民として国を去った。 人々はそれをハンガリー革命と呼ぶ。


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つづく
2008/10/15 13:33 2008/10/15 13:33


時  計


第二話


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 なっちゃん、お久しぶり。あのさ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど・・・ 覚えているのかな、同じクラスの昌子のこと。そうそう、丸顔でやさしい目をしていた子だよ、木村昌子って子。なっちゃんとも何回か彼女んちに一緒に遊びに行った事があるとおもうけど。もの静かで気立てのいい子だったよね。いま、何処にいるのかわかる人いないのかな・・・

 あのこ、確かにお兄さんと弟で3人兄弟だったよね。ご両親が熱心なクリスチャンで、昌子も教会に行っていたのは覚えている。私、クリスマスに彼女に誘われて教会に行ったことがあるのよ。小さい教会なのにパイプオルガンがあることには驚いたわ。昌子にクリスマス行事で何か歌って欲しいと言われてさ。そこで、私がなにを歌ったと思う?それがね、「ラ・ノヴィア」を歌ったのよ。いま思うと、本当に恥ずかしいわね。だってあれて失恋の歌でしょう?従兄弟の兄がよく歌っていたから覚えていたけどね・・・まさか、あの「アヴェ・マリア」が「グノー」と「シューベルト」のあれとあんなに違うとは大人になってからわかったわよ。笑う話でしょう?

 父の会社が倒産してさ、おまけに私は大学受験に失敗。散々の思いでうちは田舎に引っ込んだからさ。それでしばらく会えなくなったけど、それはみんなこちらの都合だけどね。

 とにかく、私にとって田舎は性分に合わなかったのよ。農地借りて百姓でもするといったって、都会育ちでしょう。経験もない人間が出来るわけないし。結局、親戚の果樹園の手伝い。うちの父さん、すっかり自信喪失で、母さんは鬱(うつ)になっていたわよ。妹がまだ中学3年生だったけど、私には何も出来ることがなかったわ。アルバイトでも何でもして自分で生きると言い残して家を出たわよ。東京に戻って、連絡が出来たのは昌子だったの。だってあなたはその頃、私と同じ浪人生活だったもんね。毎日図書館と予備校通いで電話しても家になんかいなかったよ。

 昌子のうちはそのままだった。たった一年のブランクがその時の私にはものすごく長く感じられたのよ。田舎から帰京したら何もかもが変わったような気がしてね。だから、前と同じようにそこに彼女(あのこ)のうちがその場所に在っただけで感動したわ。久しぶりに電話したら、昌子、とても喜んでくれたの。そのとき、彼女は歯科衛生士専門学校に行っていたよ。今頃、あのこは歯医者さんの奥様にでもなっているのかしら。

 その晩、私は昌子の家で泊めてもらったの。晩御飯ご馳走になって、色々話し込んで夜明かしだわよ。いつの間にか寝たみたいで、目が覚めたらすっかりお昼頃でね、家には誰も居なかった。
 テーブルの上には昌子のメモと共にご飯の仕度がしてあったの。「よく寝ていたので起すのは可愛そうだから、そのまましておくね」て。「もし、別の用事がなかったら家でのんびりしていていいよ。もし、出かけるのなら鍵は玄関先の傘立ての下に入れておいて」と。
 
 昌子、相変わらず熱心なクリスチャンで日曜日は教会の礼拝に行っていた。携帯電話がある時代じゃないからね。午後4時過ぎまで待っていたけど、誰も帰って来なかったわよ。その間に、部屋を掃除して、テーブルも片付け、流し台の洗い物も終わった。

 一人でひとのうちでのんびりしている時間は不思議に色々と考えさせられる。私は今ここで何しているのだろうとか、これからどうすれば良いかとかさ。急に焦る気持ちになってさ、このままここに居るにも行かないと慌てて家をでたわ。

 その日は、遅くまで仕事を捜し歩いたのね。新宿辺りをうろうろしてさ、従業員募集の貼紙を見つけては、どうすればいいかわからなくてさ。今ならバイト探しとか派遣社員募集とかの専門雑誌があるけど、東京育ちとはいえ荒川区の下町しかわからない私に新宿は怖かった。結局、どの店にも口聞けずじまいだった。その晩は池袋のどこかの下宿に泊まったけど、困ったことに気が付いたわ。それがさ、昌ちゃんの腕と時計をしたままだった。昌子のうちで彼女を待ちながら机の上に置いてあった腕時計をはめていた。彼女の帰りを待ち遠しいと思いながら時計を見ていたのよね。

 その晩おそく、公衆電話から電話をかけたの。前の日、泊めたもらった事にお礼を言って、帰りを待たないで家を出たことを謝ったわ。そして、彼女の時計を持ったまま家を出たことも。「明日にでも返しにいくからね」と言ったら、彼女こう言うの。「時計はほかにもあるから慌てなくて良いけど、あなたは大丈夫なの?しばらくうちにいるのかなと思ったけど、何とかなりそう?」てね。

  翌日、時計を返しにいけなかった。何とか勇気を出して店のアルバイト募集に応募はしても、何処からも聞かれる連絡先が私にはないことに気が付いたわけだよ。下宿に居所を決めて、仕事が決まるまでは時間が掛かった。手持ちの金は既に底ついて、昌子の時計も質屋に入れてしまったわけだよ。

  給料は下宿の家賃と食べることに精一杯で、まさちゃんの時計が気にはなったものの、やはり自分に甘かったのね。そのまま流してしまったわ。一年後、何とか、お金を貯めて質屋に行った時はもう遅かったわよ。

 それから25年、結局、彼女とは連絡出来なかった。今何処で何をしているのかわからないけど、彼女に謝りたいの。だからわかったら教えてよ、彼女の連絡先。誰か知っている人いないか、聞いてみてもらえる?宜しくお願いします。

 夜、遅い時間まで、しゃべりすぎてしまったわ。ごめんごめん。あんたは良いが、ご主人に悪いわね。謝っておいて。あなたに電話できてよかった。また電話するね。では、おやすみ・・・


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おわり




2008/10/15 13:30 2008/10/15 13:30



時   計 



 第一話

 

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 亡き祖母が大切にしていた時計がありました。それは、家族の未来を背負い22歳の若さでアメリカへ渡った叔母、つまり私の母の妹から、祖母へ贈られたものでした。10年ぶりの帰国に際し、彼女が母親へのお土産に選んだ腕時計は、うれっこ女優のマニキュアをした美しくしい爪のような楕円の形をしていました。それは上品な金色で、輝く小粒のダイヤモンドの飾りが眩しい豪華なものでした。

 物にも運命(さだめ)というのがあるのかと思うときがあります。アメリカから遥か遠いアジアの東端に来る事になってしまいましたこの時計も、それからその時計が出会うことになる主になる人も、きっとそれぞれの運命(さだめ)の中で出会と別れを繰り返すのかも知れません。ニューヨーク5番街を優雅に歩く素敵な貴婦人の色白でしなやかな腕にふさわしそうなこの時計が、代わりに戦争で夫を亡くし、行商で三人の子供を養ってきた黒く日焼けした太い腕の祖母のところにやって来たのも。
 叔母の里帰りは私が小学4年になった春の出来ことでした。上を向けばそこには満開した桜がいっぱいで、ちらほらと顔におちてくる花びらで頬がくすぐったかった、叔母と手をつないで見ていたあの花見を私は覚えています。

 その豪華な叔母の贈り物のおかげで、私は生まれて初めて自分の時計を持つことになりました。祖母が今まで持っていた、叔父が初めもらった給料で母親にプレゼントした思い出の品を、娘である私の母ではなく、未だ小学生の孫娘(まご)に譲ったのでした。
 田舎町の小さい学校の中で、自分の腕時計を持っている子供は私一人だけでした。私はすぐに『時計をはめた子』と呼ばれるようになりました。35年ぶりに行われた同窓会で私は隣のクラスの子に「あなたはもしかしたら時計をはめていた子じゃない?」と聞かれました。何だか懐かしくて、亡き祖母を思い出し、涙が出そうでした。とにかくその当時は時計が貴重品とされていたのです。

 祖母から譲ってもらったその時計を、私は翌年の夏休みが終わる頃、失くしてしまいました。エアコンのないあの頃の暑くて長い夏を、子供たちは町の近くを流れる川辺で水遊びをしながら過ごしていて、私も兄弟と一緒にほとんど毎日のように泳ぎに行っていました。水遊びに夢中になっている間、私の時計を羨ましく思った誰かが、脱いでおいた私の服のボケットから、それを持っていったのだと母は推理していますが、私も物をきちんと管理できる、しっかりした女の子ではありませんでした。時計を川に持っていかなければ良かったと後で後悔しました。エアコンはおろか、冷蔵庫もそれほど普及していなかった時代で、もちろん我が家にはテレビもありませんでした。 ブローバ(BULOVA)のブレスレット時計、叔母(祖母には次女)から贈られたアメリカ土産のこの時計を祖母は片身離さず、大切にしていました。


 ブローバの時計は当時のアメリカを代表する名品でして、1875年、チェコからの移民であったジョセフ=ブローバ Joseph Bulova (ジョセフ・ブローバ)という人がニューヨークの Maiden Lane にジュエリーショップを開いたのがブローバの起源だそうです。彼の商売は順調に推移し、ジュエリーと共に扱っていた時計も売れ行きが良かったので1911年より掛時計や置時計などの製造をアメリカ国内でスタートしました。それから懐中時計の開発や製造する一方、腕時計の製品開発に取り組みました。

 1926年、ブローバはクロックラジオを製品化、世界から多くの引き合いを受けたようで、日本にその名を知られたのもこの頃のようです。1930年代から40年代にかけては腕時計のメーカーとして黄金期を迎えます。次々と発売した金張りスクエアケースの腕時計が爆発的に売れたことで、ブローバ(BULOVA)はメジャー時計ブランドとして知れ渡ります。

 とにかく後日、私がアンティークショプで見かけた祖母の時計に似たようなブレスレット時計は14Kで17万円の値が付いていました。下手な英語しか話せない二十歳そこそこの娘はこの時計を買うために、一日何時間ミシンに向かい、どれほど頑張ったことか。そして故郷(くに)の家族への仕送りの為に、口に合わないハンバーガーで空腹をしのぎ、どんな思いで我慢の日々を過ごしてきたのか、幼い私にはもちろん、故国(くに)の大人達も全くわかっていませんでした。
 祖母は「いずれ、あなたが大学生になったらこの時計を譲るからね。その時までおばあさんが大事に持っているよ」と口癖のように言っていました。大人になればその時計が自分のものになると思い込んでいた私は、祖母の時計とはいえ、私にも大切なものに思われました。自分のものを、祖母に預けているつもりでいたのです。 

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 わが家にもモノクロではありましたが、テレビがやってきた頃、叔母の2度目の帰国があり、今回も叔母は帰国土産に腕時計を買ってきました。今度の時計は丸いフェイスの婦人用オメガでした。 雪の結晶を思わせる、透明感のある澄んだ14金ホワイトゴールドで、やはり名品中の名品といわれるものでした。しかし私の関心は、祖母の手首に3年半の間、休むことなく時を刻んできた、ブローバの時計の行方で、きっとお祖母さんはこの時計を私にくれるものだと信じていました。

 いつになれば、その時計を貰えるのか待ちに待っていたある日、叔父と結婚したばかりの光枝おばさんの手首からキラキラと輝くダイヤモンドの飾りがついたその金色の時計を見て私は自分の目を疑いました。そして私はショックのあまりに泣いてしまいました。

「おばあさん、あの時計は私にくれると約束したじゃないのよ」と泣いて抗議する私に祖母は言いました。「まだ中学生のあなたにあの時計は相応しくないから今回は光枝さんにあげたけど、このオメガ時計は何れあなたにあげると約束するから、もう泣かないでね」と。私は祖母のブローバ時計が本当に好きだったのです。


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 それから父は中学生の私にシチズン(CITZEN)の時計を買ってくれました。今にして思えば、父と母が何件もの時計店に足を運び、慎重に選んだのに違いないそのシチズン時計はブラックフェイスのロレックス型で格好良いものでした。けれども、心の底からブローバに惚れていた私にはそれ程うれしくはありませんでした。それでも毎朝欠かさずシチズンのゼンマイを巻いていました。たまに忘れて遅刻をすることもありましたが、もちろん、時計のことばかりが原因で遅刻をしたわけではありません。

  それからの私はブローバの時計はあきらめ、オメガ(OMEGA)に希望を託す事にしました。他のひとからブローバよりオメガの方が格上だと聞かされ、多少慰めにもなりました。やはりこれからはブローバよりオメガの時代だと自分に言い聞かせながら、街の時計店のショーウィンドウに出ている看板を見掛けるたびに祖母のオメガを思い浮かべました。『ロレックス・オメガ修理専門』 『ROLEX』『OMEGA』


 大人になって分かったことですが、1970年代、ブローバは音叉(おんさ)式の腕時計を開発した事で技術的に世界の時計業界をリードしました。しかしながら、このことが逆に仇となり、この技術に固執したため水晶発振の実用化で日本のメーカーに遅れをとってしまったのでした。すなわち音叉機構のパテントを公開しなかったために、セイコー(SEIKO)は水晶発振の開発に向かわざるを得なくなり、このことが結果としてブローバの衰退を招いたことになったというわけです。NASAの公式時計の納入においてオメガ社のスピード・マスターと競うことになりました際、結果的に採用されることはなかったようです。後にオメガ社のスピードマスターでブローバ社のメカニズムを採用する機種も存在したと聞くとなんだか皮肉に思われます。

 それから、二十歳になった私は恋愛も思うようには行かず、希望していた大学への進学にも失敗し、大人には裏切られ、傷だらけになりました。何もかも信じることが出来ず、どうやって生きていけば良いのか迷っていた頃、祖母は脳溢血で倒れてしまいました。光枝おばさんの献身的な介護のお陰で、寝たきりでは有ったが3年間生き、それからあの世に旅立ちました。

 祖母のオメガはそれ以来、見たことがありません。おそらくブローバ同様に光枝叔母さんに渡されていたことでしょう。けれども、光枝叔母さんの三年間に渡る献身的な介護は誰にも出来るとではなく、もしもオメガの時計が彼女の介護に対する祖母のささやかな気持ちであるならば、当然のことだと今の私には思われました。ねえ、おばあさん、そうでしょう?


おわり


 

2008/10/15 13:25 2008/10/15 13:25


月も雲に隠れ、道の分別も出来ない夜るだった。
騒がしい気配を感じ取ったのか蛙の合唱が一層大きい。
何故か今も耳に残るのは泥濘に足を捕らえ転んだとき
一斉に飛びはねる蛙の群れの合唱と後ろから聞こえる多発の銃声。

収容所にいる間、俺は二十歳になった。
誕生日など忘れていたが気が付いたら二十歳になっていた。
収容所に収容されてる人は必ずしもこの戦争に立ち入った軍人とは限らない。
民間人も多数収容されていた。
身分がはっきり確認できてない男はすべて連れてこられたからだ。
そこで知り合った40代後半の男に俺は息子のように可愛がられた。
収容所を脱出する前日、彼は俺に言った。

「ここから出たら何処に行くんだ?
行くあてはあるのか?」

俺は首を横に振った。

「俺はP市に行くつもりだよ。そこに昔、俺が世話したある人が住んでるんだ。
その人を宛てに北から南へ向かう途中捕まえたからな・・・
もしここから出て、行く宛が見つからなかったらP市に来いよ。
そこは大きな港だし、二人なら何とか出来るかもしれん。」

彼とは闇の中ではぐれてしまった。

周辺が明るくなってくると遠く桟橋が見えて、
小さい漁船がエンジンをかけて桟橋で出向の準備をしているように見えた。
近づくと髭の来い男が大きい声で叫んでいる。
「後、一人乗れるから早よう来いよ!!」
船は20人乗りの漁船で島の人は3人乗っていて後は皆、収容所脱出者だった。
「これで5回往復だよ。急がないともう一回往復できない・・・」
島の人が言った。
夜中からすべての島の船は脱出捕虜を運んだ。
こういう方法で政府は連合軍からこの地に残りたいと願う捕虜達を解放したのだ。
危険過ぎる、無謀だとの批判の声が高まる緊迫の状況で
数千人の戦争の渦巻きに巻き込まれてしまった人々が
再び自由を向かって突進する。

俺は書いてもらったP市の住所を胸に
漁船に乗って始めての自由のみになっていた。





そして、7年の年月が流れた。
今日俺に子供が生まれた。
外は寒くてあらゆる物を凍らせてる。
ここで俺は根をおろす。
俺はもう独りぼっちではないのだ。

いつかこの子に言ってあげられるのだろうか
この地で独りポツンと浮き草のように生きてきて
今、こうやって根を下ろし始めている俺の話を
この子は聞いてくれるのだろうか。

明日はクリスマス。
街は今晩、華やかに照らされるだろう。
雪の積もった野原でいつの間にか過ぎていたクリスマス、
捕虜収容所で米軍から与えられたクリスマスケーキ、
皮肉にも始めてのクリスマスケーキだった。
国のクリスマスは敬謙なものだった。
隠れキリスタンであった先祖の代から
神父様に祖立てられた父の代まで
クリスマスは敬謙なミサで捧げられた喜びの儀式だった。
これから俺はこの子のサンタになるだ。
産声を上げる赤ん坊を向かって口ずさむ。


「さようなら悲しいクリスマス」



<おわり>

2008/10/15 12:34 2008/10/15 12:34

悲しいクリスマス <その⑤>


収容所の中は俺みたいに思想とかイデオロギーとかには
特別な信念を持たな連中も大勢いたが
社会主義者や革命家、人民解放軍の意識がはっきりしてる連中も多かった。
両勢力の捕虜達は互いに軽蔑し、憎みあった。
喧嘩も絶えなかった。


ある日は収容所の中で殺人事件まで起きてしまった。
それをきっかけに両勢力を別々に収容するようになった。
それから俺は連合軍の責任者の気に入られ
薬品とか備品などを管理する事になった。
同郷の人も何人か会えて仲間も出来た。
そうして三年の年月が流れていて、戦争は終わりに向かっていた。

休戦会談が行われていると噂が流れた。
後から収容所に送られた同郷の先輩に
両親がこの戦争で亡くなった事を聞いたのも

戦争が終わりに近いある日であった。

俺は一晩泣いた。
そして、これから自分ひとりで生きていかない現実を
受け入れなければならない事が分かった。
 

皆といる時は戦争の行方を占った。
それからどう生きて行くか皆は語り合ったが
将来自分たちがどうなるかは誰も知らない。
全員北に返されると噂をする人もいた。
一人になる時間は不安な未来に泣いた。




その日はいつもと同じように夜が来た。
連合軍の監視兵はあくびをしながら自分の宿舎に帰った。
皆、寝たフリをして夜が深けるのを待っていた。
息を潜め子の刻が来るのを待っていた。
零時になるとこの捕虜収容所の難い門が密かに開く。

連合軍は自分らの捕虜達を連合側に連れてくるため、
このK島に収容所に収容されている全員を本人達の意思とは関係なく
戦争相手に返すと噂があった。
俺だって人民解放軍からの無断離脱者である。
このまま返されたらきっと批判の対象になるに違いない。
国に親はもういない。


捕虜たちそれぞれ事情も様々であった。
当人の意思など気にもせずその運命の鍵は連合軍が握っていた。
毎日変わる政策で収容所の人々は揺れていた。
噂が噂を呼ぶなかで、ある日、北に戻りたくない捕虜達を
収容所から逃がす計画が持ち上がった。
連合軍の考えに必ずしも納得できてない政府の首脳の決断であった。
そのDデイHアワーが今晩の0時である。
密かな伝達が俺にも回ってきた。

それにしても大量の脱出が、連合軍にばれないはずが無い。
その時は命は無いのと思わなければならないのだと
誰もがわかっていた。

夜が更けると扉の前で誰かのささやく声が聞こえた。

「今だ!!皆、起きてるのか?これから順番に出て行くんだ。
音を立てるな。銃声が聞こえても振り向くんじゃないぞ。
前を見るのだ、そして走れ!! 桟橋に向かって行くんだ。
国防軍の軍艦が海岸に近く来てるんだ。
軍艦はこれから3日連続夜中らが朝方にかけておい等を迎えに来る。
漁師さんたちがおい等を軍艦まで運んでくれることになっているんだ。
3日間だけだからそのいずれかの軍艦に乗れ、昼間は隠れて夜に移動しろ。
そして陸に着いたらそれからは自由だ。頑張りたまえ。幸運を祈る。」

いっせいに扉を目指して突進した。
誰もが口を噤んだまま。






2008/06/12 16:54 2008/06/12 16:54

<その④>

耳になれない言葉で何かを叫びながら
黒人の男が銃口を俺に向けてきた。
何人かの白人と黒人の軍服の男が俺を囲んだ。
頭が真っ白で、状況判断もできないまま俺は捕縛された。
俺は絶望で崩れ落ちた。
殺せと叫んだが彼らは俺を殺しはしなかった。

それから連れられて行ったところは大勢の若者がいた。
服は汚れきって、顔は北風の冷たさにやけて頬が赤い。
俺は連合軍の捕虜になった。
村の裏山のふもとにある畑には所々雪が残っていた。


雪の下には暖かい土があり、
その下にはきっと白菜の根っこが残ってるだろう。
白菜の根っこは甘くて辛い。それは冬のおやつだった。
畑に残った白菜の根っこを探したりしながら
元気で遊んだ幼頃の俺が俺に手を降って遠ざかっていた。


戦争中であることも知らなかった山の奥の村にも軍隊はやって来たのか。
村の子供たちは始めて見た白人や黒人の顔に驚き、
泣き出しただろう。
始めて聞いた意味の不明な言葉に、
村人達は息を潜んで隠れていたのだろう。

今になってはこんな事だって思うが
その時はこれで自分の人生は終わりだと思っていた。

それから長い道のりが始まった。
これからどうなるのかも分からないまま、果てなく歩く毎日だった。
夜は野原で雪が降ったら降られたまま、雨に濡れたら濡れたまま
寝具も無く過ごさなければならなかった。
日が昇る朝が待ち遠しい長い長い冬の夜を互いの体温で乗り越えた。
塩を塗しただけのご飯を手のひらにもらって動物のように口をつけて食べた。

連合軍は絶対に捕虜は殺さないと誰かが吐いた言葉だけを
すがる気持ちで信じて生き延びるために必死で耐えた。

何処に連れて行かれるのか分からない毎日、
それにしても日が経つに連れ段々暖かくなっていくような気がするのは
多分南に来てるからだろう。


一ヵ月後、南のある島に辿り着いた。
後でこの島は捕虜収容所で使われるようになったK島だと分かった。
今までと違ってそこではそれなりの生活が出来た。
頭は丸かりにされ全身にDDTをぶっかぶられたが、
収容所の中は寝袋も有ったし、食事も食器を使う。
時々キャンデーもチョコレートも貰えた。
死とうい絶望感は薄れていたがこの戦争の行方は気になるものだ。


北に社会主義の国が出来た時、

親父は持っていた小さな果樹園を取られた。
今まで勉強した外国語の英語もロシア語に変わった。
俺は可愛がられた担任の先生に密かに呼ばれて忠告された。

「君のために言うんだが、君の生活捜査表の宗教欄に宗教は無い事にした方がよさそうだ。君は成績もトップだし将来があるから進学もしないとね」

そのとき俺は納得出来なかった。
自分の利を得るために信念を曲げる事は

親父から教わった人間の生き方とは異なる。


親父もおふくろも兄弟も敬虔なカトリックであった家族は
信じる道に命を掛ける事を名誉と思ってきた。
俺は先生の忠告を聞き入れなかった事で進学が難しくなっていた。
教師になりたかった俺はその道も難しくなった事がなんとなく分かっていた。
俺は新しく出来上がった社会主義に迷っていたのかもしらない。
俺の心は社会主義が受け入れられなかった。

2008/06/03 15:54 2008/06/03 15:54

<その③>

軍服を脱いた。俺はもう軍人ではない。
俺は高等学校3年の学生なんだ。
夢が大きい青年なんだ。
理由も分からないまま誰かを殺し、そして殺される。
そんなの、俺は望んでない。

小屋を出るとき俺は既に軍人ではなかった。
老婆が持たしてくれた蒸したじゃが芋を胸に
いつか必ず恩返しをすると誓った。
老夫婦の息子さんが無事に両親の元に返って来るよう祈った。
 


冬の日は短く、俺はくれる日を向かって歩いた。
ここからしばらく西に向かってそれから北の方へと。

歩いても歩いても山道は続いていたが
山は低くなっていて時々村や畑も見えたりした。

思考の転回というのはこんなことを言うんだろうか、
瞬間頭に浮かんできたものは
この辺は今どちらの勢力の支配におかれてるのかと言うことであった。
俺的には何の意味もないことであるのにも関わらず、
俺の人生に大きく関わることになってしまったことが
しみじみとわかってきた。

とにかく畑が見えてきたという意味は人にも会える事である。
人に会うことがこんなにも慎重に考えなければならないとは
今までは一度も思った思ったことがない。
もうしばらく隠れて様子を見なければならない。
母の元に返ることすら許されない状況がわかってきたような気がしてきた。

「俺て一体何をやったんだ」

頭が混乱してきた。
ひと目につく夜道を歩くのは怪しく思われるのに違いない。
だからて昼間に等々と歩ける立場でもないのだ。
老人と女と子供以外に誰が昼間歩けると言うのか
こんな時勢に・・・・

取りあえず回りが闇に包まれるまで待つことにして
日が当たって雪が解け、そして乾いた岩に身よ寄せると
嫌な予感と同時に後ろから人影を感じた。

俺は振り向く勇気もないまま、心の揺れと襲い掛かる恐怖、
それは一瞬でありながら果てなく長い瞬間でもあった。

2008/05/30 10:01 2008/05/30 10:01

<その②>

気が付くと俺は山道を走っていた。
息が切れそうで止まると自分が何処にいるか分からなくなっていた。
微かに見える白い雪道は

自分の足跡と野生動物の足跡が混じって散乱していた。
頬が痛かった。
どこかですれ傷を付けたようだ。

家に帰らないと、母さんが待つ家に帰らないと・・・
俺はまた走った。

母さんは俺を秘密の部屋に隠していた。
村に若者の召集令が出されたとき、お袋は隠し部屋を作った。
母屋の脇に小さい物置を装って俺の居場所を作ってくれた。

何日も何日もその中で過ごすには俺は若すぎたのかもしれない。
外の様子が気になって隠し部屋を抜け出したその時
俺の家を見張り続けていた村の役場の人間に見つかってしまったのだ。
村の責任者に酷く批判されるお袋を後にして
俺は人民解放軍になって戦う身分となった。

夜が明けようとしていた。
このままでは家にたどり着く前、捕まえてしまう。
だって俺は軍服を着たまま。
このままじゃ軍隊から逃げ出したのがすぐばれてしまうだろう。
現実の自分に戻ると怖くなった。
これからどうすれば良いのか・・・
朝になればみんなは俺がいなくなったことに気が付くだろう。

とにかくその日は山の岩の影に隠れていた。
寒さと怖さと極度の緊張で空腹感すら感じなかった一日だった。

夜になってまた歩いた。
今度は激しい空腹感で吐き気がした。
離れた群から俺を追っかけてくる気配はなかった。
何処かで食べ物を調達しなければならない。
ふらふら一晩歩くと回りがやや明るくなってきた。
もう歩けない。疲れた。おなかが空いてどうにもならない。
残雪を手に取って食べてみた。
これからどうするのか俺にも分からない。


その時、ふと煙の匂いがした。
もしかしたら他の軍隊の群ではないかと思い、怖くなった。
山の高い所に登り、隠れて様子を見ると

火田民の部落が闇の中で微かに見える。
朝ご飯の準備に掛かってるらしかった。
俺はその煙が昇る小屋に向かった。

俺に選択の余地なんかが有る訳がない。

小屋には老夫婦がいた。
早朝の尋ね人に大変驚いた様子、当然の事だ。
だって俺、山ですべて転んで傷だらけの人民軍服の姿であったから。
しばらく俺の顔を見ていた老夫婦は
幼い少年兵の疲れ果てた姿に同情をしたらしく、
色々と聞いて来た。

老婆は黍(きび)のお粥を持ってきてくれて
兵隊に連れて行かれた息子の服を出してくれた。
老人は布団を敷いてくれた。

「疲れた様子だね。食べてひと眠りして、
それからお家に帰りなさい。ご両親が待ってるんだろう?」

眠った、久しぶりに。
満腹で暖かい部屋で眠った。
軍服ではなく民服。
心が和んで深い深い眠りに襲われた。

2008/05/28 17:11 2008/05/28 17:11

悲しいクリスマス

                                  

<その①>

今日、俺に子供が生まれた。女の子だ。
外は寒くてあらゆる物を凍らせてる。
ここで俺は根をおろす。
俺はもう独りぼっちではないのだ。
こんな寒い夜、故郷の町は
灯した明かりまで凍りつく寒さだ。


今、戦争は終わって世の中は平和が訪れようとしてる。
この平和は何時まで続くのだろうか。

俺は17歳で故郷を離れた。
俺は戦争を望んではない。
だけど、世の中は俺の意思とは関係なく、
全ての人を巻き込んでいた。狂ったように・・・・
その時俺は自分の納得の出来ないその状況から逃げたかった。

たった一週間の訓練で
俺には恐ろしくも人を殺せる許可が与えられた。
本当に俺は人が殺せるのか。

戦場に向かう群れの列は百メーターを超えるくらいで
何人か同じ学級の友人もその群れにいて
その中の何人かは俺に手を振った。
寒い冬の日差しは有り難い物だ。

山道は険しく、太陽はもう隠れようとしている。
今晩は多分この辺で野営だろう。
寒い冬の日没は悲しいものであった。


どのくらい寝ていたのか寒さと膀胱の圧迫感に目が覚めた。
この行軍はもう一週間も続いてる。
みんな疲れ果てて、寒さにもめげず死んだように眠ってる。
このように寝られるのも後、幾晩だろうか
後2,3日で戦線に着くのは誰もかが予測していた。


用を出すため野営地から離れた。
圧迫されていた膀胱が元に戻る快感を感じながら
体を振るって一瞬空を見上げると、
山々に隠れて狭くなった空に月もなく星が見えた。

雪が止んだ空は綺麗。とても綺麗。
人間は戦って死んでいくのに、星は変わらなく今夜も出ていたのだ。
瞬間、星は涙を流していた。


母さん・・・ それは母さんの涙の様だ。



 

2008/05/28 16:57 2008/05/28 16:57