2013/01/01 08:31 2013/01/01 08:31


メディチ家の華麗な功績

 メディチ家は“イタリア・ルネサンス”を推進する力そのものでした。

 イタリア・フィレンツェに花咲いた“ルネサンス”は、人間らしい生き方を追求するヒューマニズム(人間主義)に焦点が当てられました。
 ルネサンス以前の中世ヨーロッパは、封建社会とカトリック教会の戒律によって、人々は束縛されてきましたが、この時代が崩壊すると、人々は人間性の解放を求めるようになりました。

 “ルネサンス”は、イタリア・フィレンツェから発生し、その後西ヨーロッパ社会全体へ波及していきました。封建社会の崩壊によって金融業などで巨万の富を築いたメディチ家は、教皇、トスカーナ大公、フランス王妃などを次々と輩出し、ヨーロッパの聖俗の両世界に君臨しました。

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 1434年にフィレンツェの実権を握った「コジモ・デ・メディチ」(1389~1464年、左写真)は、ルネサンス初期の重要なパトロンであり、フィリッポ・リッピ、ドナテッロなどらを庇護すると共に、プラトン・アカデミーを築きプラトンの著作の翻訳を行わせました。

 メディチ・リッカルディ宮殿、サン・ロレンツォ教会など、現在もフィレンツェに残る著名な建造物を残しています。

                   Cosimo dei Medici →

 


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 その孫の「ロレンツォ」(1449~1492年)は、政治思想家のマキャヴェッリによって、「あらゆる君主の中で、文学と美術の最大の庇護者」と称され、自身でも優れた詩を残しています。

 ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが彼の庇護の元で活躍し、イタリア・ルネサンス最後の巨人と言われたミケランジェロは、14歳の頃、ロレンツォに才能を見い出され、彼の学校に通い多くの芸術家と意見を交わし影響を受け、その並外れた才能を開花させました。
メディチ家は、芸術の擁護者として、ルネサンス躍進の大きな力となったのです。


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 メディチ家最後のトスカーナ大公「ジャン・ガストーネ」の死により、全財産を相続したその姉「アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ」は、「メディチ家すべての財産は、この街フィレンツェに永遠に保存されなければならない」と遺言し、膨大な美術品コレクションの散逸を防ぎました。
 イタリア共和国の所有となった現在でも、遺言は守られフィレンツェに保存されています。

          Anna Maria Luisa de'Medici  →


 メディチ家の居館であったヴェッキオ宮殿に隣接するウフィツィ美術館では、ボッティチェリの「プリマヴェーラ(春)」「ヴィーナスの誕生」、ダビンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエロの「ひわの聖母」など、イタリア・ルネサンスの初期から盛期までの卓越した膨大なコレクションが展示され、世界中のだれもが鑑賞することができます。

 武力ではなく、文化の力で欧州の覇者となったが故に、ルネサンスが生んだ大芸術家達の擁護者として、メディチ家の偉業は21世紀の今なお讃えられています。


現在のメディチ家について

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 さて、現在のメディチ家ですが、日本では前述の「アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ」を最後に、メディチ家の系図が途絶えたことが通説として語られていますが、右にご紹介する家系図の通り、当時トスカーナ公国を支配していた系図が途絶えたのであり、コジモ、ロレンツォを祖先としたメディチ家の子孫は、現代も弊社名誉理事コスタンツァ・デ・メディチ氏を含めて6名がメディチ家の継承者として存在しています。

 このことは、ヨーロッパ貴族社会では公然の事実として、また、近年メディチ研究者によるDNA調査結果でも正式に認められています。

日本でも、2001年のBSジャパン特別企画番組にて、男系継承者第1位であるオッタビアーノ氏がメディチ家末裔として紹介されております。

 

メディチ家家系図





2012/06/25 10:03 2012/06/25 10:03

今年もワールド・プレス・フォト財団が主催する「世界報道写真展」が開催され、近年世界で起こったあらゆる出来事を克明にとらえた優れた写真が集まりました。

今回は、「世界報道写真展」で各カテゴリーごとに優勝した作品を18点ご紹介したいと思います。驚き、恐怖、感動などあらゆる感情が交錯せずにはいられない衝撃的な写真をご覧ください。先ずは親近な写真から、最後に最優秀賞受賞作品の載せます。


「NORTH KOREA」日常生活・シングル部門1位:Damir Sagolj

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北朝鮮の創始者、金日成(キム・イルソン)の写真が掲げられた建物。2011年10月5日。



「THE FURY OF THE TSUNAMI」スポットニュース・ストーリー部門1位:手塚 耕一郎

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東日本大震災で発生した大津波が宮城県名取市を襲う様子。2011年3月11日。


「TSUNAMI」人々のニュース・ストーリー部門1位:千葉 康由

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岩手県大槌町で撮影された建物の上に観覧船がのっているのを呆然と見つめる女性2人。2011年4月16日。


 

「MUBARAK STEPS DOWN(ムバラクは降りろ)」一般ニュース・シングル部門1位: Alex Majoli

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エジプトのムバラク大統領が講演をしたあとに、カイロのタハリール広場で叫び声、聖歌、悲鳴をあげる群集を撮影したもの。2011年2月10日。


「BATTLE FOR LIBYA(リビアの戦い)」一般ニュース・ストーリー部門1位:Rémi Ochli

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戦場となったリビアの油田の町Ras Lanoufで、反乱軍の旗の下、座り込む残党兵士。2011年3月11日。


「ON REVOLUTION ROAD(革命の道)」Yuri Kozyrev

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カダフィ大佐の正規軍と戦う反勢力組織。2011年3月11日。


「IRONMAN WORLD CHAMPIONSHIPS」スポーツ・シングル部門1位:Donald Miralle, Jr

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アメリカのハワイで開催された世界一過酷といわれているトライアスロンレース。魚の上を泳ぐ選手たち。2011年10月9日。


「STRELKA」スポーツ・ストーリー部門1位:Alexander Taran

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学生であるArtem Eroninさん(19歳)が、ロシアでは知られているアマチュアの格闘イベントに参加している様子。時間制限なしで、どちらかがノックアウトか降伏するまで闘います。開催されたのはソ連時代の廃工場で、ラウンドは普通の地面です。2011年7月23日。


「NEVER LET YOU GO」日常生活・ストーリー部門1位:Alejandro Kirchuk

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マルコスさんが妻のモニカさんの誕生日に墓に献花する様子。自宅アパートでマルコスさんがモニカさんのおむつを変えようとしたときには、亡くなっていました。マルコスさんは、少なくとも月に1度は墓を訪れます。マルコスさん(89歳)、モニカさん(87歳)、結婚して65年間、アルゼンチンのブエノスアイレスにあるアパートで暮らしてきました。2007年にモニカさんがアルツハイマー病であると診断されてからは、マルコスさんの人生はモニカさんの介護に全て捧げられてきました。2011年10月9日。


「DANISH AND IRANIAN CULTURE」ポートレート・シングル部門1位:Laerke Posselt

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27歳のイラン人の女優Mellica Mehrabanのポートレート。デンマークで育った彼女は、2011年に初めてイランでデビューしました。デビュー作のスパイドラマ「Fox Hunting」では重要な役を演じました。その中で、スカーフ着用の義務や男女間の関係の厳しい戒律などの自国文化を学びました。2011年5月4日。


「INTERROGATION ROOM」ポートレート・ストーリー部門1位:Donald Weber

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ウクライナの取調室での一幕。2010年4月1日。


「AFGHANISTAN」アート&エンターテイメン・シングル部門1位:David Goldman

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カナダ軍兵士の伍長Ben Vandandaigueが、アフガニスタン・カンダハール州の前衛基地でドラムを叩く様子。2011年6月24日。


「THE SOCHI PROJECT」アート&エンターテイメン・ストーリー部門1位:Rob Hornstra

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ロシア連邦クラスノダール地方の都市ソチのレストランで「Digi Digi(購入、購入)」という曲を歌うDimitry Bumさん。


「CLIFF-CLIMBING POLAR BEAR ATTEMPTING TO EAT SEABIRD EGGS」自然・シングル部門1位:Jenny E. Ross

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崖を登り、海鳥(ペンギン)の卵を狙うシロクマの様子。シロクマはこの時期アザラシを狙っていますが、温暖化の影響で氷が解けたことで置き去りにされたため海鳥の卵を狙うしかなくなりました。2011年7月30日。


「RHINO WAR」自然・ストーリー部門1位:Brent Stirton

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ケニアで撮影された密猟者からシロサイを守る環境保護レンジャーの4人。2011年7月13日。


「MARIA」現代問題・シングル部門1位:Brent Stirton

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ウクライナの売春宿で薬物を使用しながら働くマリアさんを撮影した写真。マリアさんは、日常的に薬物を摂取しながら毎日のように男性と売春を行っていますが、HIV検査は陰性だったと主張しています。9歳の娘を育てるため、薬物を購入するためにお金が必要だといいます。2011年8月31日。


「CHILD BRIDES」現代問題・ストーリー部門1位:Stephanie Sinclair

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15歳の少女サリタは、無理やり結婚させられた夫の家に嫁ぐ前に、汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしています。サリタと8歳の妹マヤは、インド北部のAkshaya Tritiyaのヒンドゥー教の神聖は日とされている前日に結婚させられました。子供の結婚は国際的には違法となっています。


「PHOTO OF THE YEAR」最優秀作品:Samuel Aranda

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イエメンで起こったデモで、ケガをしてモスク内にある野戦病院に運ばれた家族を抱きかかえる女性。2011年10月15日。



2012/02/16 18:12 2012/02/16 18:12


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 2005年6月12日のスタンフォード大学卒業式で Steve Jobs が行った
スピーチが、彼が亡くなって、再び話題になっている。スティーブ・ジョブズの感動スピーチの全文を英語本文と日本語訳文を載せておく。

 未来に確信を持ってない我々に、素晴らしいメッセジーを残して天国に旅立った

スティーブ・ジョブズ氏の冥福を祈る。




 



I am honored to be with you today at your commencement from one of the finest universities in the world. Truth be told, I never graduated from college. And this is the closest I've ever gotten to a college graduation. Today I want to tell you three stories from my life. That's it. No big deal. Just three stories.

本日は、世界有数の大学の1つを卒業される皆さんとここに同席することができ、たいへん光栄に思います。実のところ、私は大学を出ていません。ですから私にとって、これが今までで大学卒業に最も近い経験になります(笑)。今日私がお話したいのは、私が自分の人生から学んだ3つの話です。それだけです。たいしたものではありません。たった3つです。

The first story is about connecting the dots.
最初は、「点と点をつなぐ」という話です。


I dropped out of Reed College after the first 6 months, but then stayed around as a drop-in for another 18 months or so before I really quit. So why did I drop out?

私はリード大学を半年でドロップアウトしましたが、実際に退学するまでの間18ヶ月間ほどは大学に居残っていました。なぜドロップアウトしてしまったのでしょうか?


It started before I was born. My biological mother was a young, unwed college graduate student, and she decided to put me up for adoption. She felt very strongly that I should be adopted by college graduates, so everything was all set for me to be adopted at birth by a lawyer and his wife. Except that when I popped out they decided at the last minute that they really wanted a girl. So my parents, who were on a waiting list, got a call in the middle of the night asking: "We’ve got an unexpected baby boy; do you want him?" They said: "Of course." My biological mother found out later that my mother had never graduated from college and that my father had never graduated from high school. She refused to sign the final adoption papers. She only relented a few months later when my parents promised that I would go to college. This was the start of my life.

話は私が生まれる前に遡ります。私の生みの母親は若い未婚の大学院生だったため、私を養子に出すことにしました。彼女は、私が大卒者の家庭で育てられるべきだと強く考え、弁護士の夫婦と養子縁組の手配を整えていました。しかし実際に私が生まれた最後の土壇場で、彼らは女の子が欲しいということになってしまったのです。そこで夜遅くに、養子縁組待ちのリストにあった両親のところに電話が行きました。「予定外の男の赤ちゃんが生まれました。養子縁組を希望しますか?」両親は答えました。「もちろん」と。その後、母が大卒ではなく、父は高卒ですらないということを知って、生みの母親は養子縁組の最終書類への署名を拒否しました。彼女が折れたのは数ヶ月後です。両親が、私を大学に行かせると約束したからでした。これが、私の人生の始まりです。


And 17 years later I did go to college. But I naively chose a college that was almost as expensive as Stanford, and all of my working-class parents' savings were being spent on my college tuition. After six months, I couldn't see the value in it. I had no idea what I wanted to do with my life and no idea how college was going to help me figure it out. And here I was spending all of the money my parents had saved their entire life. So I decided to drop out and trust that it would all work out OK. It was pretty scary at the time, but looking back it was one of the best decisions I ever made. The minute I dropped out I could stop taking the required classes that didn't interest me, and begin dropping in on the ones that looked far more interesting.

17年後、私は確かに大学に入学しました。しかし私は、さしたる考えもなしに、スタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまいました。労働者階級だった両親の貯蓄はすべて大学の学費に消えていってしまいます。6ヶ月後、私はそこに価値を見出せなくなっていました。私は、自分が人生において何をしたいのか、それを見つけるために大学が何の役に立つのか、まったく分かりませんでした。にもかかわらず自分がここにいることで、両親は生涯かけて貯めた金を残らず使い果たそうとしています。だから私は退学すると決めました。これですべてうまくいくと信じていました。もちろん、そのときはたいへん恐ろしい思いをしました。しかしふり返ってみると、あれは私の人生で最良の決断の1つだったといえます(笑)。ドロップアウトしたそのときから、私は興味を持てない必修科目はやめて、それよりはるかに面白そうな科目に出ることができたからです。


It wasn't all romantic. I didn't have a dorm room, so I slept on the floor in friends' rooms, I returned coke bottles for the 5¢ deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple. I loved it. And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on. Let me give you one example:

もちろん、すべてがいい話というわけではありません。寮の部屋もありませんでしたから、夜は友人の部屋の床で寝て、コークの瓶を店に返すともらえる5セントを集めて食べ物を買ったりしました。毎週日曜の夜は、7マイル歩いて街を抜け、ハーレ・クリシュナ寺院に行っておいしいご飯にありつきました。あれは大好きでしたね。そんなふうに、自分の興味と直感に従って動き回っているうちに出会ったものの多くが、後からみればこの上なく価値のあるものだったのです。例をひとつ挙げてみましょう。


Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country. Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed. Because I had dropped out and didn't have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this. I learned about serif and san serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great. It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can't capture, and I found it fascinating.

リード大学は、カリグラフィ教育において、おそらく当時国内最高水準でした。キャンパス中どこでも、ポスターやら戸棚のひとつひとつに貼るラベルなど、すべてが美しい手書きのカリグラフィで飾られていました。私はもうドロップアウトしていて普通の授業には出なくていいわけですから、カリグラフィのクラスに出て、そのやり方を学んでみようと思ったのです。セリフとサンセリフの書体、さまざまな字の組み合わせに応じて文字間隔を調整する手法や、美しい字体は何が美しいのかなどを学びました。それは美しく、歴史があり、科学ではとらえられない繊細な芸術性をもった世界です。私は夢中になりました。


None of this had even a hope of any practical application in my life. But ten years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me. And we designed it all into the Mac. It was the first computer with beautiful typography. If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts. And since Windows just copied the Mac, it’s likely that no personal computer would have them. If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do. Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backwards ten years later.

もちろんそのとき、これらが人生の上で実際に役に立つ可能性があるなどとは思ってもみませんでした。しかし10年後、最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計していたとき、その時のことがよみがえってきたのです。そこで私たちは、それらをすべてマックに組み込みました。美しいフォントを持った初めてのコンピュータです。もし私が、大学であの授業にもぐりこんでいなかったとしたら、マックには複数フォントも字間調整フォントも入っていなかったでしょう。ウィンドウズは単にマックをコピーしたものなので(笑)、パソコンがそれらを持つことはなかっただろうと思います(拍手)。もし私がドロップアウトしていなかったら、あのカリグラフィのクラスにもぐりこむこともなく、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかったでしょう。もちろん、大学にいた当時、そんな先々のことまで考えて点と点をつなげてみるようなことはできませんでした。しかし10年後からふり返ってみると、非常にはっきりと見えるわけです。


Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. Because believing the dots will connect down the road, it gives you confidence to follow your heart; even it leads you off the well-worn path. And that will make all the difference.

繰り返しますが、先を読んで点と点をつなぐことはできません。後からふり返って初めてできるわけです。したがってあなた方は、点と点が将来どこかでつながると信じなければなりません。自分の勇気、運命、人生、カルマ、何でもいいから、信じなくてはなりません。点がやがてつながると信じることで、たとえそれが皆の通る道からはずれても、自分の心に従う自信が生まれます。これが大きなちがいをもたらしてくれるのです。

My second story is about love and loss.
2つめは、「愛」と「敗北」についての話です。


I was lucky — I found what I loved to do early in life. Woz and I started Apple in my parents’ garage when I was 20. We worked hard, and in 10 years Apple had grown from just the two of us in a garage into a $2 billion company with over 4000 employees. We had just released our finest creation — the Macintosh — a year earlier, and I had just turned 30. And then I got fired. How can you get fired from a company you started? Well, as Apple grew we hired someone who I thought was very talented to run the company with me, and for the first year or so things went well. But then our visions of the future began to diverge and eventually we had a falling out. When we did, our Board of Directors sided with him. So at 30 I was out. And very publicly out. What had been the focus of my entire adult life was gone, and it was devastating.

私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができたからです。実家のガレージでウォズとアップル社を始めたのは、私が20歳の時でした。私たちは一生懸命働きました。そして10年後、アップル社は、たった2人のガレージ企業からスタートして、従業員4千人以上を抱える20億ドル企業になっていました。しかし、私たちの最高の作品、マッキントッシュを発表して1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に、私は会社をクビになってしまいました。なぜ自分が始めた会社をクビになるのでしょうか?(笑)アップルが大きくなっていったため、私たちは、非常に有能と考えた人物を、私の右腕として会社を経営してもらうために雇いました。最初の1年前後はうまく行きました。しかしやがて、互いの将来ビジョンは離れていき、最後は決定的な亀裂を生じてしまいました。そのとき取締役会が支持したのは彼のほうだったのです。こうして私は、30歳にして会社を追い出されました。それはもう公然と追い出されたわけです。自分が大人になって以来全てをかけて打ち込んできたものが消えたのですから、私はもうぼろぼろでした。


I really didn't know what to do for a few months. I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down - that I had dropped the baton as it was being passed to me. I met with David Packard and Bob Noyce and tried to apologize for screwing up so badly. I was a very public failure, and I even thought about running away from the valley. But something slowly began to dawn on me — I still loved what I did. The turn of events at Apple had not changed that one bit. I had been rejected, but I was still in love. And so I decided to start over.

数ヶ月の間、私はどうしたらいいのか本当に分かりませんでした。自分は前の世代の起業家たちの名誉を汚してしまった、渡されたバトンを落としてしまったのだ、と感じました。デビッド・パッカードとボブ・ノイスに会って、全てを台無しにしてしまったことを詫びたりもしました。知らぬ者のない失敗者です。シリコンバレーから逃げ出すことすら考えました。 しかし、やがて私の中で何かが見え始めました。私はまだ自分の仕事を愛していました。アップルでのできごとがあっても、その気持ちはいささかも変わらなかったのです。私はふられてしまったわけですが、まだ好きでした。だからもう一度やり直してみようと決めました。


I didn't see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me. The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything. It freed me to enter one of the most creative periods of my life.

その時は分かりませんでしたが、後からみると、アップルを追い出されたことは、人生で最良のできごとでした。成功者であることの重みが、もう一度初心者であることの身軽さに代わったのです。ものごとに対して前ほど自信も持てなくなりましたが、同時に私は自由の身となり、人生で最もクリエイティブな時期にもう一度入ることができました。


During the next five years, I started a company named NeXT, another company named Pixar, and fell in love with an amazing woman who would become my wife. Pixar went on to create the world's first computer animated feature film, Toy Story, and is now the most successful animation studio in the world. In a remarkable turn of events, Apple bought NeXT, I returned to Apple, and the technology we developed at NeXT is at the heart of Apple's current renaissance. And Laurene and I have a wonderful family together.
 
その後5年の間に、私はNeXTという会社を立ち上げ、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、その女性と結婚しました。ピクサーはやがて世界初のコンピュータ・アニメーション映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオとなりました。思いがけないことからアップルがNeXTを買収し、私はアップルに復帰しました。NeXTが開発した技術は、最近のアップルの復活において中核的役割を果たしています。ローレンと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。


I'm pretty sure none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple. It was awful-tasting medicine, but I guess the patient needed it. Sometimes life hits you in the head with a brick. Don't lose faith. I'm convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did. You've got to find what you love. And that is as true for your work as it is for your lovers. Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do. If you haven't found it yet, keep looking, and don't settle. As with all matters of the heart, you'll know when you find it. And, like any great relationship, it just gets better and better as the years roll on. So keep looking. Don't settle.

私は断言できます。もし私がアップルを追い出されていなかったら、これらのことはひとつとして起こらなかっただろうと。もちろんそれは苦い薬でした。しかし患者には、それが必要だったのでしょう。時として人生には、レンガで頭を殴られるようなひどいことも起きます。しかし信念を投げ出してはいけません。私が続けられた理由はただ1つ、自分のやっている仕事が好きだったということです。そしてこれは皆さんの仕事や恋愛においても同じです。皆さんも、仕事が人生の大きな部分を占めていくでしょうが、真に満足するために必要なのはただ1つ、皆さんが素晴しいと信じる仕事に取り組むことです。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら、皆さんがやっている仕事を愛さなければなりません。もしまだそれを見つけていないのであれば、探し続けてください。ひとつの場所に固まっていてはいけません。心というのはよくしたもので、見つければそれとわかるものです。そして素晴らしい恋愛と同様に、年を重ねるごとによくなっていきます。ですから、探し続けてください。ひとつの場所に固まっていてはいけません(拍手)。

My third story is about death.
3つめは、死に関するお話です。


When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

私は17の時、こんな言葉をどこかで読みました。「毎日、これが人生最後の日と思って生きなさい。やがて必ず、その通りになる日がくるから」(笑)。それは私にとって印象的でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分に問い掛けてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることを私は本当にやりたいだろうか?」と。その答えが「ノー」である日が続くと、そろそろ何かを変える必要があるとわかります。


Remembering that all will be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life. Because almost everything — all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.

自分がそう遠くないうちに死ぬと意識しておくことは、私がこれまで重大な選択をする際の最も重要なツールでした。ほとんどのものごと、外部からの期待、自分のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖、こういったもののすべては死に臨んでは消えてなくなり、真に重要なことだけが残るからです。自分も死に向かっているという自覚は、私の知る限り、何かを失ってしまうかもしれないという思考の落とし穴を避けるための最善の策です。あなた方はすでに丸裸です。自分の心に従わない理由はありません。


About a year ago I was diagnosed with cancer. I had a scan at 7:30 in the morning, and it clearly showed a tumor on my pancreas. I didn't even know what a pancreas was. The doctors told me this was almost certainly a type of cancer that is incurable, and that I should expect to live no longer than three to six months. My doctor advised me to go home and get my affairs in order, which is doctor's code for prepare to die. It means to try and tell your kids everything you thought you'd have the next 10 years to tell them in just a few months. It means to make sure everything is buttoned up so that it will be as easy as possible for your family. It means to say your goodbyes.

今から1年ほど前、私はガンと診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にはっきりと腫瘍が映っていました。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかったのですが。医師たちは、これはまずまちがいなく治療不能なタイプのガンだと言いました。長くても3ヶ月から6ヶ月の命だろう、と。主治医は私に、家に帰って身辺を整理しなさい、とアドバイスしました。「死の準備をせよ」という場合の医師の言い方です。要するに、今後10年かけて子どもたちに伝えたいことがあるなら、この数ヶ月のうちに言っておきなさい、ということです。それはまた、家族が対処しやすいよう、何もかも準備しておけ、ということです。別れを告げろ、ということですね。


I lived with that diagnosis all day. Later that evening I had a biopsy, where they stuck an endoscope down my throat, through my stomach and into my intestines, put a needle into my pancreas and got a few cells from the tumor. I was sedated, but my wife, who was there, told me that when they viewed the cells under a microscope the doctors started crying because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer that is curable with surgery. I had the surgery and thankfully, I'm fine now.

私はその診断結果を抱えて丸1日過ごしました。そしてその日の夕方遅く生検を受けました。内視鏡を喉から入れ、それが胃を通って腸に達します。そこからすい臓に針を刺して腫瘍の細胞が幾つか採取されました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったのですが、立ち会った妻に後で聞いたら、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見たとき、叫び出したのだそうです。それはきわめて珍しいタイプのすい臓ガンで、手術で直せるものでした。私は手術を受け、そして今は、ありがたいことに元気です(拍手)。


This was the closest I've been to facing death, and I hope it’s the closest I get for a few more decades. Having lived through it, I can now say this to you with a bit more certainty than when death was a useful but purely intellectual concept:

これが私の人生の中で最も死に近づいた経験です。この先何十年かはこれ以上近くならないよう願いたいですが。この経験を経た今、私はあなた方に、死というものが有益ではあるが純粋に頭の中の概念でしかなかった以前と比べて、少しだけ確信をもっていうことができます。


No one wants to die. Even people who want to go to heaven don't want to die to get there. And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because death is very likely the single best invention of Life. It is Life's change agent. It clears out the old to make way for the new. Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away. Sorry to be so dramatic, but it is quite true.

誰でも死にたくありません。たとえ天国に行きたいと願う人でも、そこに行くために死にたいとは思いません(笑)。しかし死は、私たちすべてが共有する行き先です。かつてそこから逃れた者は1人としていません。そしてそれは、そうあるべきことなのです。死はおそらく、生物にとって最高の発明です。それは生命にとって、古いものを取り除き、新しいもののための道を開いてくれる変革の担い手です。今、「新しいもの」とはあなた方です。しかしそれほど遠からぬうちに、あなた方もしだいに「古いもの」となり、取り除かれる日が来ます。ドラマチックな表現で申し訳ありませんが、これが真実です。


Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma — which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

あなた方の時間は限られています。他の誰かの人生を生きて無駄にしてはいけません。ドグマにとらわれてはいけません。それは他の人たちの思考の結果とともに生きることだからです。他人の意見の雑音によって自分の内なる声が掻き消されてしまわないようにしてください。そして最も重要なことですが、あなたの心や直感に従う勇気をもってください。心や直感は、あなたが本当は何になりたいのかすでに知っています。他のことは全て二の次です(拍手)。


When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generation. It was created by a fellow named Stewart Brand not far from here in Menlo Park, and he brought it to life with his poetic touch. This was in the late 1960's, before personal computers and desktop publishing, so it was all made with typewriters, scissors, and polaroid cameras. It was sort of like Google in paperback form, 35 years before Google came along: it was idealistic, and overflowing with neat tools and great notions.

私が若い頃、「ホール・アース・カタログ」という驚くべき本がありました。私の世代にとってはバイブルの1つです。それはここからそう遠くないメンローパークに住むスチュアート・ブランドという人物が作り出したものです。彼の詩的なタッチは、誌面に命を吹き込んでいました。1960年代終わりごろですから、パソコンやデスクトップ印刷はまだありません。全てはタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作られました。グーグルが生まれる35年も前の、ペーパーバック版グーグルとでも呼ぶべきものです。理想主義的で、いかしたツールやすばらしい考えに満ちあふれていました。


Stewart and his team put out several issues of The Whole Earth Catalog, and then when it had run its course, they put out a final issue. It was the mid-1970s, and I was your age. On the back cover of their final issue was a photograph of an early morning country road, the kind you might find yourself hitchhiking on if you were so adventurous. Beneath it were the words: "Stay Hungry. Stay Foolish." It was their farewell message as they signed off. Stay Hungry. Stay Foolish. And I have always wished that for myself. And now, as you graduate to begin anew, I wish that for you.

スチュアートと彼のチームは、この「ホール・アース・カタログ」の発行を何度か重ね、一通りのことをやり尽くしたところで最終号を出しました。1970年代半ばのことです。私はちょうど今のあなた方と同じ年頃でした。最終号の背表紙には、早朝の田舎道の写真がありました。あなたが冒険好きならヒッチハイクの途上で一度は出会いそうな光景です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「ハングリーであれ。愚か者であれ」。それが彼らからのお別れのメッセージでした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私は常に、自分自身そうありたいと願い続けてきました。そして今、卒業して新たな人生に踏み出すあなた方に対しても、同じことを願っています。

Stay Hungry. Stay Foolish.
ハングリーであれ。愚か者であれ。

Thank you all very much.
ありがとうございました。

2011/10/06 17:45 2011/10/06 17:45

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 今日は7月14日、パリ祭だという。

 松本さんからせっかくのパリ祭なのだからシャンソン大会にしないかとメールが来た。シャンソン・・・ 歌える曲がそれ程ないよ・・・(^_^;)

 20代半ばころ、縁があって、フランスの人々と一緒に仕事させてもらった事がある。韓国の東海岸に位置する慰珍原子力発電所5・6号機建設が行われたときの話なのでもう20年余前だけど、その時も安全性の問題は指摘されていながら、フランスの技術を投入して建設した現場に私は居たわけであるから、原発と無縁ともいえない。

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 パリ祭は、1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、この事件の一周年を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日(Fête de la Fédération)が起源となっている。
 
 フランスでは単に「Quatorze Juillet(7月14日)」と呼ばれ、「パリ祭」は日本だけの呼び名である。これは、映画『QUATORZE JUILLET』が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたためで、邦題の考案者は川喜多長政である。


 ちなみに、10月5日のヴェルサイユ行進では、パリの数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入。国王と議会に食糧を要求、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女等に連れられてパリのテュイルリー宮殿に家族と共に移り住み、これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになったとか・・・

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 この時期の革命は、穏健なミラボー、ラファイエットら立憲君主制派によって指導されていて、市民軍は自由主義貴族のラファイエットを総司令官に任命し、1790年、彼の提案により三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となった。

 だけど、フランス革命は、実際にフランスの女性の地位向上にはさほど役に立ってないというか、むしろ女性の地位向上運動は、フランス革命では完全に挫折している。
啓発運動の初期段階が始まったというだけで、フランス革命では女性の参政権どころか人権すら法的にも世論としても認知されなかった。実際に婦人参政権を認めたのはヨーロッパ列強ではフランスが一番遅い部類である。 

 
つまり、フランス革命は女性地位向上活動は失敗はしたけれど、有名なオランプ・デ・グーシュの女権宣言、テローニュ・メリクール、ポーリーヌ・レオン、ラコンブなどの著作や公演、活動が次世代にはつながってはいると言えよう。女権宣言の内容は多少有名だけれど、直接日本にはこれらは全く影響しない。韓国や日本など、世界で婦人運動が始まるのは、だいたい第一次世界大戦前後で、フランス革命から100年もあとの話になる。

 

 
 
 7月14日、日本では宝塚パリ祭を始め、NHKのパリ祭なの、文化的な祭りをイメージするが、フランスでは革命記念日らしく、軍事パレードや空軍のエアーショーやで愛国心を高揚させるような行事も多いようである。

 フランス各地で一日中花火が打ちあげられる。また慣例として消防士はダンス・チーム (bals du 14 juillet) を組んで市民に披露する。
午前中にはパリで軍事パレードが開催され、フランス大統領の出席のもとシャンゼリゼ通りを行進する。

 パレードはエコール・ポリテクニーク、サン・シール陸軍士官学校、フランス海軍兵学校の生徒による行進で幕を開け、歩兵部隊、機械化部隊が登場する。フランス空軍のアクロバット飛行チームであるパトルイユ・ド・フランスも演技飛行をおこなう。近年においてはフランスの同盟国の要人を招待することが慣例となっている。
 

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2011/07/14 12:48 2011/07/14 12:48

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 今もなおベトナムの人々に「サイゴン」で呼ばれる南ベトナム最大の都市ホーチミン市は商業の中心である。わずか36年前、この都市は戦場の中に置かれ、まさに修羅場そのものであった。
  
 私が見た今現在のこの都市は、鮭の大群が故郷の川を遡るような風景を連想させる、バイクやスクーターの大行進で道溢れる、活気に満ちた街であった。街並みは1960年代のソウルに似ていて、何処か懐かしい感じもした。
 朝晩関係なく押し寄せるバイクの行列の中には親子四人乗りもしばしば見えた。偶々立ち寄ったスーパーで大量に積み重なっている様々な模様や色の付いたおしゃれマスクが不思議に思えたが、その用途がバイクの排ガス避けだと聞いて納得した。

 3月3日発行のウォールストリートジャーナル(WSJ)紙は、人口は9百万人の人口にモーターバイクは3千万台と、ホーチミン市の風景を通じた。新興中産層が急に浮上しているベトナムの姿だ。 WSJはベトナム経済を「バイク経済」と描写し、前に進むバイク行列のようにベトナムも進む道を分かっているようだと説明した。
 
 だが、急な成長だけにバイク経済が越えなければならない山道もくねくね険しく、思うほど易しくない。最近伝わるファイナンシャルタイムス(FT)などの主要外信によれば、グローバル金融危機以後、近隣新興国が早い景気回復を見せている中でベトナムだけが不振を免れない状況である結果となった。昨年、いくつかの国際信用評価社がいっせいに、ベトナムの国家信用等級においてその評価を下げた。ベトナムはマクロ経済を害しない枠の中で、山積した問題を解決するための緊縮策を行っているが、思うほど容易ではない。 経済のファンダメンタル(fundamental)が脆弱な状況の中で急成長を成し遂げようと急いでいるとあちこち故障が起こる。

 先ず、急速なインフレが当面の課題になっている。 外国のホットマネー(短期運用資本)流入が急増する中、過去2年間の物価上昇率は28%にも達している。今年1月の物価は前年の同じ時期より12.2%も上昇、2月の物価上昇率は12.31%で、2年ぶりの最高値を更新する見通しである。

 大規模な貿易赤字と財政赤字も慢性的な問題とあげられよう。 ベトナム経済を支える製造業において、部品や原材料を輸入に依存している為、原材値の急騰や輸入物価上昇による赤字幅が増加している。昨年の貿易赤字は124億ドルを記録し、今年に入っても赤字幅は増加しているようだ。 1月は前月対応8億7700万ドル、2月には9億5000万ドルと赤字幅が拡大した。

 通話価値も下がっている。 ベトナムの人々は自国経済を信用出来ず、自国通貨のドン貨の代わりに米ドルや金などの貴金属を買い集めている。米ドルの買占めにより、米ドルの流通量が急減すると、ベトナムはドン貨の通貨価値も下落した。最近15ヶ月の間、4回も及ぶ切り下げがあり、ベトナム政府は通貨価値の下落を容認せざるを得なかった。

 米ドル(USD)対ベトナムドン(VND)の公式為替レートは、闇市の取引レベルにまで近接するほどになった。 しかし、これによってインフレーションの憂慮もさらに高まっている。国際原材価の高騰の中で自国通貨のVNDの劣勢まで加わり、輸入価の値上がりが物価全般の上昇を導いている。
 
 ベトナム政府は緊縮基調で対応している。 銀行金利を調整することにより市場の流通通貨を回収、金融や不動産業種に対する貸出しを制限する政策を取り、債務増加率と通貨供給増加量の目標値も下げた。
 しかし、ベトナム企業の立場から見ればインフレも緊縮もさほどありがたくない。 何故ならば、先ず、インフレのせいで中国に代わるグローバル製造基地としての位置づけが狭まるからだ。ベトナムの工場で製品の組立をする大半のグローバル企業は中国から部品を調達している。ベトナムは人件費が安いので生産工場として成り立つが、このメリットさえも今のような物価上昇では5年も持たないかもしれないという人もいる。このままでは工場労働者の賃金上げ要求は避けられない状況である。政府の緊縮策は業者の事業拡張にブレーキを掛ける。工場の拡張や設備に投資をしたくても、貸出金利が20%にも達する状況ではなかなか厳しい。

 ベトナムの今の危機は2007年から始まった。当時、ベトナム経済の潜在力に対する期待感が高まり、外国の投資家のホットマネー(短期運用資本)がベトナムに集まった。それによってベトナムは近隣のマレーシアやタイなどに競争できる、東南アジア製造基地に生まれ変わる事に成功したが、それと同時に景気過熱という副作用も起きた。

 ベトナム危機の原因は政府の拡張策により増えすぎた市場の流動性のためだと専門家達は言っている。 即ち、豊富は資金のおかげで内需は急増したが、産業発展とそれに伴う生産はこれを付いて行けなかったからだ。不良経営、放漫経営によってベトナム経済を危機にさらした国有企業に大きい問題があったと思われている。国有企業から始まった債務危機は、昨年のベトナム信用等級下落の直接的な原因になった。

 消えかかっているバイク経済のエンジンに再び始動をかけて、長期成長の道へ進むためには、これら国有企業の果敢な構造調整とともに、通話・財政部門での緊縮策を行う事であり、これは短期的であるが苦痛を伴う。これに耐える事が出来るかどうかに掛かると専門家達は言っている。

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2011/03/04 16:09 2011/03/04 16:09

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アフリカの人々の中では汚染された水を飲まざるを得ない環境にいる人が沢山います。子供たちが汚染された水を飲む場面を目にすると何とかならないかと思う気持ちでいっぱいです。

汚染された水と判っていて生きるために飲むしかない。

寄生虫や泥で汚れた水で生きるしかない彼らの為に韓国の人が考えた画期的な器を紹介します。「キム・ウシク」と「チェ・トクス」という2人の韓国デザイナーのアイディアで出来たようです。

水に浮かせる事が出来る空気ポケットを持つ器の底はナノフィルターが付いていて
綺麗な水だけを通過させます。


全てのアフリカ子供たちがきれいな水を飲んで元気な笑顔を見せてくれる日が来るでしょう。


2010/11/13 15:14 2010/11/13 15:14


 秋深まる。絵を見に行きたい季節です。

 炎の人。生前評価されなかった孤高の画家。耳をそぎ落とした狂気の天才-。
 ゴッホといえば漠然と、激しい人物像ばかり思い描いてしまいます。色鮮やかで、情動的な絵のタッチのせいでしょうか。

 国立新美術館(東京・六本木)で開催中の「ゴッホ展」を一巡するうち、そんなステレオタイプなイメージがガラガラと崩されてゆくと産経新聞に先月24日に書いていましたけれど、是非行って見たいですね。

 前回、可動橋の話をしましたが、ゴッホの有名な絵「洗濯女のいるアルルのラングロワ橋(アルルの跳ね橋)」にも小さい跳開橋が描かれています。生活感いっぱいのこの橋、とても美しくて魅力のある橋と思うのは私だけではありません。だからアルルにこの跳ね橋が再現され、観光地となり、毎年大勢の人がこの場所を尋ねているのですね。

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Langlois Bridge at Arles with Women Washing
Painting, Oil on Canvas
Arles: March, 1888
Kröller-Müller Museum
Otterlo, The Netherlands, Europe
F: 397, JH: 1368


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Langlois Bridge at Arles
Watercolor, Watercolour
Arles: April, 1888
Private collection
F: 1480, JH: 1382


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Langlois Bridge at Arles with Road Alongside the Canal
Painting, Oil on Canvas
Arles: March, 1888
Van Gogh Museum
Amsterdam, The Netherlands, Europe
F: 400, JH: 1371



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The Bridge of Langlois at Arles with a lady with umbrella
(Die Brücke von Langlois in Arles mit Dame mit Regenschirm)
oil on canvas
Arles, May 1888
Wallraf-Richartz-Museum, Köln, Germany, Europe



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Langlois Bridge at Arles Seen from the Road
Drawing, Pen and Reed Pen
Arles: March, 1888
Staatsgalerie--Graphische Sammlung
Stuttgart, Germany, Europe
F: 1470, JH: 1377


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ヴァン・ゴッホ橋 アルル(Arles) フランス  

アルルの中心から3km離れた運河に、ゴッホが描いた跳ね橋が復元されています。
周囲には何もない辺鄙なところにあるため、ツアーなどで組み込まれていなければタクシーで訪れることになります。私は写真でしか見てませんが、橋はいつも開いている状態ですね。 もはや渡る人など居なくなったのでしょうか? 洗濯する女性達はもちろん今は自宅で洗濯機を回していることでしょう。(*^_^*)



追記:
 
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみると


アルルの跳ね橋
 
1888、クレラー・ミュラー美術館所蔵アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)(あるるのはねばし・らんぐろわばし)とは、1888年にフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた絵画。油彩。アルルの跳ね橋をモチーフにした作品は複数ある。単に「アルルの跳ね橋」とのタイトルが付されていることがある。

橋の手前で洗濯する女性たちが描かれた作品の一つがクレラー・ミュラー美術館に収蔵されている。

実際のモデルとなった橋はアルルの中心部から約3キロほど南西の運河に架かっていたものだが現存していない。再現されたものが観光地となっているが、運河の堤などの風景が異なるために、絵画の雰囲気が再現されているとまでは言えないものである。




2010/11/01 15:33 2010/11/01 15:33

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 2月9日のインターネット検索サイト『Google』のタイトルロゴが、日本を代表する作家の夏目漱石をデザインしたものになっていました。

『Google』のタイトルロゴは面白くて常に関心を持っていてかなり集めていますが、今回は特に面白いような気がするので紹介します。

 夏目漱石は慶応3年1月5日生まれ、現在の暦(こよみ)では1867年2月9日に東京都新宿区で生まれました。つまり誕生日が2月9日なので、『Google』のタイトルロゴが夏目漱石の誕生日に合わせて変化したわけですね。

 今までも『Google』はイベントデーになるとタイトルロゴを変化させてきましたが、今回の変化は結構面白いデザインとなっています。『Google』の「g」の部分を原稿を書いている夏目漱石にし、「o」の部分を猫が口にくわえて「G」よりも前に持っていってしまっています。つまり「oGogle」という状態ですね。

 「o」を持っていってしまった猫は、夏目漱石の話題作『吾輩は猫である』の猫と考えて間違いなさそうです。当たり前かもしれませんが、このデザインは日本版の『Google』のみで海外では普通のロゴとなっています。

 夏目漱石デザインの『Google』タイトルロゴをクリックすると、「夏目漱石」でキーワード検索をした結果が表示されます。これを機に夏目漱石の世界にどっぷりと浸かってみるのも良さそうですね。夏目漱石を見るのはいつも千円札の絵ばかりという人も、新たな夏目漱石の一面を知る事ができるかも知れませんよ。


そのほかに、私が集めた面白い『Google』タイトルロゴもついでに紹介しますね。(^_-)-☆

下のロゴは全て有名な人物をテーマにして作成されたものですが、いかがですか? 誰をテーマーにしたのか、すぐ分かりましたか? (^^)




         





 
 
 

    
   
 

     









2010/02/09 12:05 2010/02/09 12:05

髪型とファッション

レダと白鳥
 ルネサンス期の女性像を見てみると、複雑な結び目を組み合わせてリボンや真珠の飾りをちりばめた華麗な髪型が登場してくる。フィレンツェにおいては、特に額の広いのが美しいとされたので、女性たちは、わざわざ前額部分の髪の毛を抜いて額を広げようとした。そして広い額には真珠や宝石などを飾ったりするのが流行になった。肖像画だけでなく宗教画にも、このような当時の流行が反映された。レオナルド.ダ.ヴィンチはミラノ時代、「レダと白鳥」の絵を描くために、複雑な女性の編み込みの髪型を考案したり、ミラノの貴婦人たちの髪型のデザインも心掛けたという。
←レオナルド.ダ.ヴィンチ「レダと白鳥」のための素描)

女性たちは髪のお手入れにも気を使い、当時のヘアケア技術には、いら草の種をアク汁で煮出したものが効果があると記録が残っている。煮汁で髪を洗って自然乾燥させた。その際顔が日焼けしないように頭頂部だけ穴のあいたつばの広い麦わら帽が考案されたという。

        
(フィリッポ.リッピ作1457年頃「聖母子と二天使」部分)  (ポラオウォーロ作婦人の肖像)


 イタリアの染色文化は15世紀は大柄なザクロ模様が中心であったが、16世紀になると、スペインの影響で花の模様が小柄になってくる。またボーダー柄も増えてきてすそ模様に取り入れられたりした。
 当時イタリアは流行の発信地で、ファッション.リーダーは、エステ家の姉妹でマントヴァ公爵夫人イザベッラ.デステ、ミラノ公妃のベアトリーチェ.デステなどの貴婦人だった。

エステ家の姉妹

(イザベッラ(右)とベアトリーチェ(左)ガローファロ画)

 ベアトリーチェは、婚儀の際、80着もの最新流行の金や真珠で豪華に縁どられたドレス、数々の宝石を所有しており、姉に見せびらかそうとした。
 イザベッラは、優雅な着こなしを個性的に考えたり、工夫したりして、それに対抗した。イザベッラはそれほど美しく生まれついたわけではなかったが、人々から優雅でセンスの良い美人だと思われていた。

 隣の国フランスでは、国王フランソワ一世が貴婦人に贈る服の参考にするためや、ルイ12世の宮廷の女官たちが最新のファッションを知るために、イザベッラに彼女と同じ服を着せ、同じ髪型にした人形を送ってくれるように頼んだりしている。こうした服装人形や流行のファッションを描いた版画がファッション雑誌の役目を果たした。またイザベッラ手製の香水や美容ポマードは、ヨ-ロッパ中に知られており、フランス王妃も彼女から送ってもらっていたという。



カテリーナ

カテリーナ.スフォルファの37歳~38歳のときの肖像(ロレンツォ.ディ.クレディ画)


 カテリーナ.スフォルファは、ただ美しいだけでなく政治的才能と残忍な激しさを合わせ持つ「イタリアの女傑」と言われた。特にフォルリの街ではカテリーナの人気は絶大で、彼女の肖像画を複製して売る店が沢山あった。複製画は飛ぶような売れ行きだったという。
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 そのカテリーナ.スフォルツァ伯爵夫人のスキンケアや化粧術が記録として残っており、カテリーナの死後、これらの記録を集めて「美しくなるための処方箋」という本が出版された。この本をいち早く取り寄せて研究したのは、イザベッラ.デステである。後にカテリーナの親族となったカトリーヌ.ド.メディチもフランス宮廷に嫁いだ時この本を持参しており、パリから全ヨーロッパの宮廷や社交会に長い期間広まったのだった。カテリーナの化粧瓶 (ロレンツォ.ディ.クレディ画)→

 カテリーナの本には、髪を金髪に染める方法も載っていたので、当時赤毛の女性が多かったフランス宮廷に、金髪の女性が増えたという。ほかにも次のような記述があった。
 
「肌を白く美しくなめらかにするには、新鮮な卵の白身を煮て、それをこした湯で洗顔する。顔のしみを取るには、さぎのふんをみじん切りにしてブドウ酒で煮て、こした汁で洗顔する。目の疲れを取るには川魚の油を陽にさらし、それを蜂蜜と混ぜたものを目の周りに塗る。....]

 他にも、髪をより早く長くするには、手を美しくするには、このような調子で美容、健康、堕胎方法にいたるまで細かく著わしていた。
 


          
       ピサネッロ「15世紀の男女の服装」        シニョレッリ「東方三博士の礼拝」部分1485~90年

 15世紀にはゴシック時代の美意識が残る細長いシルエットのモードが流行したが、細部の装飾は繊細で色彩は明るくて鮮やかだった。女性たちは競って奇抜なファッションを楽しむようになる。
 男性もおしゃれになり、若い人は身体にフィットした服を着てきれいに鬚を剃り長髪にしたので、同性愛が流行ったりした。特にカルツェと呼ばれたタイツがメンズ.モードのポイントだった。

 16世紀に入ると誇張されたファッションへの反動で節度と荘重さが時代の風潮になってくる。横長のボリュームあるシルエットが好まれるようになり、色では黒が最も流行する。女性の服も濃い色や、赤、青などが主流となる。

 ヴェネツィアでは、ティツィアーノの美女のような金髪がもてはやされ、怪し気な脱色剤をつけて何時間も日光をあびて脱色したり、厚底の靴が流行って両側から介添えされて歩く女性が増えたり、いつの世もおしゃれに振り回される女心とは同じものかもしれない。

 おしゃれ好きな女性の要求に答えて16世紀には、エレガンスの教師たちが活躍した。彼らは少女たちにエレガンスの作法を細かく説いた。外見に気をつけるのはもちろん、歩き方、テーブルでの座り方、教会や公的場所での振る舞い方、顔色に合うドレス、髪色にふさわしい髪飾り、化粧水やクリームの作り方まで伝授した。女性たちは、あまりにもおしゃれに熱中したため、信仰の厚い地域では、細かい規制が出たほどだった。

「高価な生地の衣服は、結婚してからにすべし。」とか「花冠や花輪で頭を飾ってはならない。」とか「真珠つきボタンは上衣前の5つのみ、フリルは胸、襟ぐり、袖口のみ許可する。」と言った具合である。

16世紀以降のイタリアは、フランス製の絹織り物工業の発展に押され気味で、イタリアのものは流行遅れと見なされるようになる。ジェノバは、カラー.ベルベットの産地として16~17世紀に一世を風靡した。

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ドメニコ.ギルランダイオ「ヨハネの誕生」1485~90年    
     

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ルネサンスの楽器

ルネサンスの時代の女性のたしなみのひとつはリュートの演奏であった。

また世俗的な楽器として、スピネットやチェンバロも愛された。




 ←ルネサンスリュート


チェンバロ(左)とスピネッティーノ(右)

※寄り道 <^!^> 音楽家としてのレオナルド.ダ.ヴィンチ。

レオ
ナルドは、決して「モナリザ」の画家だけではない。

 残された手記を見ても、絵画だけでなく、天文、地質、光学、力学、解剖学、機械工学、建築、土木、数学、音楽など、あらゆる分野への取り組みが伝わってくる。自然の姿に隠された法則を見極めようとするレオナルドは、自らを「経験の弟子」と呼んだ。彼の理想を実現させることができるのは、当時大勢力を持つ君主しかいなかった。レオナルドは常に理解ある君主を求めていた。

 レオナルドはミラノ公国のルドヴィコ.イル.モーロの許へ自作のリラ(ギターの前身)を携え、音楽家として売り込んだ。当時のヨーロッパの一流音楽家は、すべてミラノに集まっており、レオナルド.ダ.ヴィンチの音楽家としての名声も高かった。また土木、軍事技術にも詳しいと自薦状に書きイル.モーロの関心をひくことも忘れなかった。以後17年にわたってミラノ宮廷に仕える。1491年、イル.モーロとベアトリーチェの婚儀の演出も、レオナルドが手掛けた。楽隊の服のデザイン、自作の楽器で素晴らしい演奏、即興歌を披露したり、演劇の舞台装置と演出もレオナルドが全て行った。彼の楽器の演奏は素晴らしく、その美声は、当時の最高の歌手にも劣らないほどだったという。



1500年、世紀末的思想

 1480年半ば、イタリアのトスカーナ地方で、さまざまな不思議な現象が起こったという。例えば1482年4月ビッビエナに聖母マリアが現れ、多くの人が目撃したこと。その翌年、ファエンツァで一人の修道士が亡くなり、彼は死後もしばらくの間近くの川の上に姿を現して、聖母マリアと語り合っていた。1484年、7月にはフィレンツェ近くのプラートでやはり聖母の姿が現れた。当時のフィレンツェ市民の日記に「今や神の偉大な事跡に対する人々の期待が世界に満ち満ちている時代だ。」と書き記している。

 ランディーノという人文主義者は、1481年刊行したダンテの「神曲」注解のなかで、1484年に木星と土星が出会うから、その時から世界の終末と再生が始ると述べていた。1500年という大きな区切りを目前にして人々の間には世紀末的な幻想が渦巻いていたのだった。


2009/11/28 12:45 2009/11/28 12:45


ルネサンスの女性たち

 高貴な家や、富豪の出の女性は、高い教養や知性を身につけていたが、一般では、読み書きのできない、いわゆる文盲といった女性がほとんどであった。ルネサンスがいち早く開花したフィレンツェでさえ、女性の地位は、社会的に認められず、女性が政治に参加する事や、職業につくことは、禁じられていた。

 結婚は、家と家の結びつきで、親同士が決めていた。女性の結婚年令は、15歳から17歳が普通で、18歳ともなると晩婚といわれ、年令がかけはなれている男性や、継子のいる再婚というケースも多かった。
 娘を嫁がせる家では、娘に莫大な持参金を持たせるのが習慣だったため、娘が三人いれば身代が傾くとされた時代であった。持参金のない家の娘は、修道院へ入れられた。修道院へ入るのも無料ではなく、格式ある修道院に入るには、熟練労働者の年俸の二倍くらいの金額をお布施として納めなければならなかったし、高額のお布施を払えない家では、安値で入れる修道院を探さねばならなかった。
 当時の修道院は、宗教的自覚を持った女性の住処というよりも、むしろ中産階級や貴族階級出身の見捨てられた女性の溜まり場であった。
 マントヴァ侯妃イザベッラ.デステでさえ、金銭的な理由から末娘二人を修道院に入れている。お金のない家の娘は一生結婚ができない時代であった。そのため、私生児が多く、フィレンツェでは私生児のための「捨て子養育院」が建てられている。

 ルネサンスの時代は、ペストや梅毒、様々な病気や、毒殺などの危険もあり、人間が早死にした時代であった。たとえば、14世紀中ごろフィレンツェでは人口12万人を数えていたが、たび重なるペストにより一時は5万人まで落込んだこともあった。それゆえ人々の生や裕福な暮らしに対する欲望は大きく、享楽的な生き方を好む人も少なくなかった。


青春はうるはし 
されど逃げゆく楽しみあれ 
明日は定めなきゆえ
       
ロレンツォ.デ.メディチ「謝肉祭の歌」より



ルネサンスの食文化

フフィリッポ.リッピ作「ヘロデの饗宴」部分フレスコ画(1452~64)イタリアのプラート大聖堂)

 1469年、メディチ家のロレンツォ.イル.マニフィコの婚宴は3日間にわたって催され、市民たちにも食事がふるまわれた。噴水からは葡萄酒が流され、ご馳走のために、300頭の牛、1000羽の鳥が供されたという。当時のご馳走とは、どんなものだったのか。1513年の祝宴の記録が残っていて、それには次のようなメニューが書かれていた。

 オードブルは松の実のお菓子、カップに入った甘いクリーム、いちじく、マスカットワイン。次には、鶉や雉鳩など、小鳥のロースト、パイ、調理したあとに皮をかぶせ羽を飾った鶏など。デザートにはあるとあらゆる種類のジャムや砂糖漬けの果物。
 肉には、たっぷりとマスタードが添えられ、甘く煮た鶏肉は金箔で覆われていた。食卓に飾られたジャスミンの箱庭にはウサギを爪でつかんでいる鷲や、開けると中から小鳥が飛び立つしかけの樽が配されていた。宴会には、楽隊がつきもので、トランペットの吹奏によって料理が運ばれたりした。

 カトリーヌ.ド.メディチが1533年、フランスのアンリ二世に嫁いだ際、フィレンツェから料理人と、食器類が運ばれた。当時のフランスでは、手づかみで食べていたので、この時からフォーク、ナイフ、スプーンがフランスでも使われるようになったという。


シエナ風マジパン

 シエナは中世の昔から美味しいお菓子で有名な所であった。当時の名前は、マルツァパネッティとかモルセレッティとか呼ばれていたマジパンは、ルネサンスの高貴な人々にとても愛された銘菓であった。たとえば、1447年ミラノのカテリーナ.スフォルツァ、とイーモラとフォルリの領主ジローラモ.リアーリオの婚姻の席で、このマジパンが供されて、列席者の賞賛を買ったと伝えられている。スフォルツァ家や、エステ家では、その後もシエナ風マジパンが喜んで食べられたという。
 19世紀になって「リッチャレッリ」という名になったこのマジパンは、アーモンドの強い香りに蜂蜜の甘味とオレンジの香料の独特の芳香がマッチした、しっとりとしたお菓子である。



ルネサンス時代、絶世の美女

   (ボッティチェリ「シモネッタ.ヴェスプッチの肖像」)(レオナルド.ダ.ヴィンチ作シモネッタの臨終のデッサン)

 絶世の美女といわれたシモネッタ.ヴェスプッチは1453年、ジェノヴァ共和国の商人の娘として生まれた。トスカーナ地方ピオンビーノに移り住み、16歳のときフィレンツェのヴェスプッチ家のマルコに嫁いだ。ヴェスプッチ家は名門ではないが、フィレンツェでは中堅どころの商人であり、支配者メディチ家と結んで手広く貿易を行っていた。
 シモネッタは、髪は金髪、丸顔で情熱的な目、身体は細くしなやかで、脚はすらりとして、優雅さを備え、初々しい雰囲気を持った美女だったという。いつの頃からかシモネッタはメディチ家の
ジュリアーノに見初められ、深く愛されるようになる。

 1475年、1月29日、ジュリアーノとメディチ家の栄誉のために、フィレンツェのサンタ.クローチェ教会広場で馬上槍試合が行われた。勝者ジュリアーノに優勝の兜(ヴェロッキオ工房作)を渡すミネルヴァの女王役に、噂の人シモネッタが指名された。
 ジュリアーノは、ヴェロッキオ工房製作の宝石を散りばめた服装に、ボッティチェリがデザインした旗印を持ち、マントヴァ産の馬に乗って現れた。ジュリアーノが現れるや。サンタ.クローチェ広場の群集から大喝采が沸き起こったという。シモネッタ、ジュリアーノ、ともに22歳であった。

 この馬上槍試合の翌日、シモネッタは、高熱を出し寝込んでしまう。そして翌年、23歳の若さでこの世を去った。結核であった。遺骸は、ヴェスプッチ家の霊廟オンニッサンティ教会に安置された。シモネッタの死を悲しんでフィレンツェ中の鐘がいっせいに鳴り響き多くのフィレンツェ市民がシモネッタに別れを告げたという。
 ロレンツォ豪華王は、「彼女の美しい顔の上では死もまた美しい」とシモネッタの葬儀の様子を書き残している。

 ジュリアーノは、シモネッタの死後2年たった1478年、パッツィ家の陰謀により暗殺された。


 

2009/11/28 11:25 2009/11/28 11:25