'文化/文学の話'に該当される記事4件

  1. 2014/03/27 春は猫なり
  2. 2012/07/05 7月の詩 <青葡萄>
  3. 2010/04/26 日本語でも読める「韓国の人気小説」
  4. 2008/06/16 ロシア文豪 プーシキン (1)


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本人は知っているかどうかわかりませんが、うちの春香が一歳になりました。もう大人です。



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韓国の詩を一つ紹介します。


春は猫なり
           -李章熙-

花粉のような
柔らかな猫の毛に
優しい春の香気が漂います
金の鈴のような
まあるい猫の目に
狂おしい春の焔が立ち上ります
静かに閉じた
猫の口元に ふっくらと
春の眠気が彷徨います
鋭くぴんと生えた
猫のひげに青々と
春の生気がはしゃぎまわります



1924年3月

リ・ジャンヒ(1900~29)

詩人。慶尚北道大邱生まれ。号は「古月」。24年「金星」に「そよ風が吹き過ぎたあと」などを発表し登壇。以後、「黎明」「朝鮮文壇」などに30余編の詩を発表。その他代表作に「夏日小景」「青天の乳房」などがある。

2014/03/27 19:24 2014/03/27 19:24

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青葡萄

わがふるさとの七月は
たわわの房の葡萄の季節

ふるさとの伝説は一粒一粒に実を結び
つぶらな実に遠い空の夢を宿す

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空の下の青海原は胸を開き
白い帆船が滑るように訪れると

待ち侘びる人は船旅にやつれ
青袍(あおごろも)をまとって訪れるという

待ち人を迎えて葡萄を摘めば
両の手のしとどに濡れるも厭わず

童(わらべ)よ われらが食卓に銀の皿
白い苧(からむし)のナプキンの支度を


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訳は「安宇植」先生

イ・ユクサの詩と散文を数多く読んで訳をされているので、きっと詩の趣を的確に伝えていることでしょう。
空間の広がりと色彩の鮮やかさに心惹かれました。

『李陸史詩集』にある略歴によると、

イ・ユクサ(이육사)は1904年安東生まれ。23年一年余り日本に滞在した。帰国後抗日結社「義烈団」に加盟。26年北京に行き、帰国後、銀行爆破事件に連座。釈放後再度北京へ行き、朝鮮軍官学校第一期生として卒業した。43年特高に逮捕され、44年北京で獄死した。

とあり、抗日の闘士だったことがわかります。そして、ユン・ドンジュに先立つこと1年ほど、獄死をした人だと知りました。「青葡萄」は単に平安な故郷の美しさを歌ったのではなく、奪われた故郷に対する深い愛情が込められていると言います。

この詩集でイ・ユクサの詩を見ていると、洗練された洒落た雰囲気が感じられました。日本に滞在した間にヨーロッパの詩人たちの詩に接したことや北京を中心に中国に滞在し中国の知識人に接したことによると解説にありました。


韓国人が最も好きな名詩100選をみていたら、何とこの中に「青葡萄」が取り上げられていたのでした。



  청포도

내 고장 칠월은
청포도가 익어가는 시절

이 마을 전설이 주저리주저리 열리고
먼데 하늘이 꿈꾸며 알알이 들어와 박혀

하늘 밑 푸른 바다가 가슴을 열고
흰 돛단배가 곱게 밀려서 오면

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내가 바라는 손님은 고달픈 몸으로
청포(清泡)를 입고 찾아온다고 했으니,

내 그를 맞아 이 포도를 따 먹으면
두 손은 함뿍 적셔도 좋으련

아이야, 우리 식탁엔 은쟁반에
하이얀 모시 수건을 마련해 두렴.








2012/07/05 13:36 2012/07/05 13:36

 韓国ドラマ、韓国映画の流行で、韓国の人々の考え方やその時代の様子などが日本社会に届きやすくなりました。そこで、ドラマや映画はもちろんのこと、日本語で翻訳されている韓国の小説がけっこうあることに気付いたのです。

 先日、インターネット通販サイトのAmazonで、何冊かの韓国で話題を読んだ作品を買ったので紹介しようと思います。映画にもされた、『私たちの幸福な時間』や『妻が結婚した』(小説の邦題は『もうひとり夫が欲しい』)、ドラマ『マイ・スウィート・ソウル』の原作になった小説だが中心です。映像で表現されるドラマや映画と違い、言葉でつづられる主人公の心情や韓国の時代背景などは、とても味わい深く、私にとっては懐かしい風景でもあります。

 日本で出版されている、というだけで、その小説が韓国でどれだけ人気があったかということが分かると思います。今回、私が買いました韓国小説は、次のような二つのテーマで分けられます。

①韓国の「いま」が分かる。センセーショナルな小説
②韓国社会を考える。高度成長、女性、社会問題

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韓国の「いま」が分かる。センセーショナルな小説

 儒教精神が根強いとされる韓国の常識や貞操観念を突き破ったセンセーショナルな小説をご紹介いたしましょう。2008年秋に韓国で公開されて話題を呼んでいる映画『아내가 결혼했다』(アネガ キョロネッタ/妻が結婚した))をご存じでしょうか?(小説の邦題は『もうひとり夫が欲しい』(新潮社、パク・ヒョンウク著、蓮池薫訳)) 主人公は、映画『ラブストーリー』や『四月の雪』でお馴染みのソン・イェジンです。

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 この小説の主人公は男性。ストーリーはその題名そのままで、一夫一婦制に疑問を持つ妻が、自分以外の男性とも結婚してしまう、というお話です。もちろん、韓国も法律的には一夫一婦制なので、戸籍上は主人公の男性と結婚していることになっているのですが、妻は、平日は慶州(경주/キョンジュ)のもう一人の夫の家で過ごし、週末はソウルにある主人公の男性の家に来て過ごす生活を送っています。もちろん、もう一人の夫も重婚については了承済み。

「そんなこと可能なの? 結婚式は? 家や友達との付き合いは?」と思いますが、妻は、仕事も両方の家の家事も完璧にこなし、2人の夫の実家における盆と正月の付き合いもぬかりなく行うのです! ひとり悶々と苦悩する主人公の男性……、そんな中、妻が妊娠します。果たして父親は……?

 主人公の男性の葛藤がユーモラスに描かれていて、同情しながらも苦笑してしまうストーリー展開。また、小説は主人公と妻が大好きなサッカーの話を織り交ぜながらコミカルに展開していきます。ヨーロッパのサッカーが好きな方はダブルで楽しめる小説です。


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 もう一つ、結婚適齢期の女性心理を赤裸々につづった話題作のご紹介。小説の冒頭の「かつての恋人が結婚する日、みんなは何をして過ごすのだろう」で引きつけられ、3分でも時間があれば開き、むさぼるように読みました。題名は、『マイ・スウィート・ソウル』(チョン・イヒョン著、清水由希子訳)。韓国語の原題は、『달콤한 나의 도시 』(タルコマン ナエ トシ/甘い私の都市)です。

 数年前、日本で大ベストセラーになり、大変話題となった『負け犬の遠吠え』という酒井順子さんのエッセイの中に、「大都市には負け犬小説(作品)が存在する。イギリスの『ブリジット・ジョーンズの日記』、アメリカの人気ドラマ『Sex and the City』…」というようなことが書いてあったと思うのですが、まさにこれが韓国版、大都市・ソウルの負け犬小説と言えるでしょう。

 主人公は31歳のオ・ウンス。年下のちょっと将来性のない恋人、何でも話し合える同い年の男性、結婚相手としては理想的に思える年上の男性。どの人とも結婚できるようで結婚できない……。そこにこれまで積んできた仕事のキャリア、会社でのストレス、友情、そして嫉妬。さらには結婚に踏み切ろうと思った人に衝撃の事実が!

 20代~40代の女性なら、必ずどこかしら自分自身にオ・ウンスを照らし合わせることができるでしょう。ただ、女性が読む分には共感できたり、身につまされたりするところがあると思うのですが、男性が読んだらどんな感想を抱くのだろう……うむむ、恐ろしい! というのが、私のもう一つの感想でもあります。殿方には読んでいただきたくない小説の一つかもしれません。

 いずれにせよ、今を生きる韓国女性の葛藤や悩みが凝縮された小説です。また、ドラマに比べると、ちょっとシリアスな雰囲気が漂っています。それがミステリアスで先が気になって、どんどん読み進められると思いますよ。



韓国社会を考える。高度成長、女性、社会問題
 
 人気俳優カン・ドンウォンさんが強い訛りのある方言を披露した映画、『私たちの幸福な時間』。こちらの原作(『私たちの幸福な時間』(新潮社、コン・ジヨン著、蓮池薫訳、原題は『우리들의 행복한 시간』(ウリドゥレ ヘンボッカン シガン))です。

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 この作品は、死刑囚の男性と、自殺未遂常連者の女性が心を通わせる物語です。死刑囚の……となると、とてつもなく暗く重い話に思えるかもしれません。もちろん、やりきれない部分はとても多くあるにしても、世の中から裏切られ続けた二人が最後に心から救われていく様子は、とても美しいです。小説の最後、私は電車の中で読んでいたのですが、号泣の一歩手前!涙が溢れてきてしかたがありませんでした。必死で喉がひくひくするのをこらえましたっけ。

 最後の作者の後書きは、「私もこの小説を書く間、とても幸せな時間を過ごした」という出だしで始まります。作者のコン・ジヨンさんがこの小説を書くことになったきっかけ、そしてどのようにして書き進めていったかの実話が具体的に紹介されていて、心を打ちます。

 そして、このコン・ジヨン(孔枝泳)さんの代表作の一つ、『サイの角のように1人で行け』(新幹社、コン・ジヨン著、石坂浩一訳、原題は『무소의 뿔처럼 혼자서 가라』(ムソエ プル チョロム ホンジャソ カラ))もお薦めです。一人の男性を好きになる女子大生3人。3人は大の仲良し。3人は青春時代の恋愛に傷つきながらも、成長し、それぞれ違う人と結婚していきます。しかし、その結婚はどれも幸せなものではありませんでした。一人は息子を亡くし、一人は夫の浮気に耐え、一人は精神を病んでいきます。

 1990年初頭、韓国でフェミニズム文学が栄えた時期の代表作でもあるこの作品。男性優位の韓国社会を見せつけられる内容でもありますが、韓国女性の苦悩をつづったこの作品は多くの女性の指示を得、映画化もされました。韓国の女性が昔からどのように過ごしてきたのかがよく分かります。

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 そして、シン・ギョンスク(申京淑)の作品。まずは、代表作『離れ部屋』(シン・ギョンスク著、安宇植訳、原題は『외딴방』(ウェッタンバン))です。

 この小説には1970年代、韓国の高度成長期を支え、酷使され続けた若い労働者達の姿が、ありありと写し出されています。これがこの発展した大都市ソウルの数十年前の姿かと思うと、信じられない思いがします。彼らの生活の話だけでなく、パク・チョンヒ大統領の独裁の時代、光州事件の生々しい話が、当時の生活者の視点から書かれ、いかに私が「知識」としてしかこれらのことを知らないのか、ということを思い知らされました。当時の韓国のことがよく分かる、名作の一つといえましょう。 

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そして、最後に紹介したいのが『われらの歪んだ英雄』(情報センター出版局、イ・ムンヨル著、藤本敏和訳)。原題は、『우리들의 일그러진 영웅』。

 舞台は韓国の地方都市、江陵(강능/カンヌン)のとある小学校。小学校で絶対的権力を保持し、周囲を震え上がらせるソクテ。しかし、新任教師がソクテの不正を暴いていき、ソクテの権力は失墜します。

 絶対的権力者の失墜に小気味よい感覚を覚えながらも、どこかで寂寥感を覚えさせる心の矛盾に、小説の登場人物だけでなく、読者も気づかされるでしょう。

 小説では子供達の権力闘争が描かれますが、これは韓国の軍事政権の真っ只中の暗い時代を暗示しています。また、作者のイ・ムンヨル(李文烈)は、1980年代の韓国を代表する作家で、『われらの歪んだ英雄』意外にも、日本語で読める小説がいくつかあります。韓国人は必ずと言って良いほど知っている有名な作家だけに、韓国語では何作品化読んでますが、日本語で翻訳された作品を読むのは私も今回始めてです。(*^_^*)




※ここで、上記の小説の翻訳者に注目します。

 拉致被害者の「蓮池 勲」さんの訳書が2冊もありますね。それは以外です。私は以前にも蓮池さんの韓国書籍初翻訳の「孤将」を買いました。これで三冊目です。蓮池さんは北朝鮮で半島の言語を学んだと、私は認識してますが、北と南の言葉には、かなり異なる使い方、表現があり、感覚もまったく違って、元韓国人の私も北の表現に中々馴染まないのですが、蓮池さんはどのようなな思いで、このような作品に手をかけるようになったでしょうか。勿論、文を読むと、本当によく勉強なさってると思いました。

 私が最も好きな申京淑の作品『離れ部屋』は「統一日報」に『わたしの徒然草』を連載頂いている安宇植先生の訳です。先生がこの本を翻訳なさったことは全然知りませんでした。(~_~*)


2010/04/26 12:23 2010/04/26 12:23

プーシキン、アレクサンドル・セルゲエヴィチ

1799.5.26-1837.1.29

Pushkin, Alexander Sergeevich
Пушкин, Александр Сергеевич

 詩人、作家。

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ロマン主義を経て純粋にロシア的なリアリズムを拓き、また独自のロシア語と芸術形式によってロシア精神と社会の間の姿をとらえ、ヨーロッパ文学の模倣にすぎなかったロシア文学を真に国民的な文学に高めた。ロシア近代文学の父、またロシア国民詩人でもある。古典的なロシア詩の詩作規準を確立し、そのうえ19世紀ロシアにおける散文の絶大な発展の土台を築いた。彼の作品は言語の華麗さ、簡潔さ、きびきびした点、客観性などを特徴としている。しかしその詩の翻訳が至難なため、プーシキンは、ロシア文学に与えた影響に比べると、世界文学にさほどの影響を残さなかった。彼の文学は主題においてロマン主義、スタイルと形式において古典主義であるといえる。

プーシキンはモスクワの名門貴族の家に生まれた。父親セルゲーイ・リヴォヴィチ・プーシキンの系統をたどるとロシア最古の貴族の家系に、母親ナデェージダ・オーシポヴナ・ハニバルのほうは大帝ピョートル1世の特別扱いを受けたエチオピア人のアブラム・ハニバルの孫娘にたどりつく。プーシキンはもっぱらフランス的な雰囲気に包まれて育ち、ごく幼いときから17、18世紀フランス文学の古典作品の世界に親しみ、8歳のときにフランス語による劇作を試みるなどの早熟ぶりを発揮した。ロシア文学のうちでも重要な数人の人物、カラムジーンジュコフスキーを含め、父親と伯父ワシリイの交友でプーシキン家を訪れていた。

1811年から17年にかけてプーシキンは、皇帝アレクサンドル1世が特権階級たる貴族の子弟のためツァールスコエ・セロー(現、プーシキン市)に設けた特別な修学院に通った。科学面でのプーシキンは平凡な学生でしかなかったが、フランス文学とロシア文学の科目ではずばぬけた成績をあげた。在学中には詩作に没頭するとともに、当時の自由主義な西欧思想にも接し、特にヴォルテールに傾倒した。

修学院を18歳で卒業して以後のプーシキンは外務院に就職したが、貴族にふさわしい向こう見ずで放埓な生活を送った。まだ在学中1814年から17年までの間におよそ130編の詩を書いたが、これらの作品と17年から20年にかけて書かれた作品の大部分は、政治的なテーマとエロチックなテーマに関する彼の思想が大胆に反映されていたために、発表されなかった。20年、プーシキンは最初の叙事詩「ルスランとリュドミラ」(Руслан и Людмила)を完成した。幻想的な冒険物語によって織りなされたロマンに富んだ作品であったが、語り口は18世紀のユーモアとアイロニーによっていた。「ルスランとリュドミラ」はこの年の6月に出版されるが、その前にプーシキンは自由を賛美する頌詩「自由」(Вольность, 1818)と友人のチャーダーエフにあてた詩で、専制政治にたいする批判と革命への期待など、大胆な政治的感情を表明し、そのため災いを招き、ロシア南部エカテリノスラフへの追放に処せられてしまった。彼の頌詩「自由」には、例えば皇帝アレクサンドル1世の父親、パーヴェル1世の暗殺事件に触れる部分があったのである。プーシキンは祖国の解放と自由を求める渇望は、終生、消えることなく、デカブリストの乱に参加した詩人たちと親交を結んだりもするが、そのために、生涯にわたって、政治権力からの抑圧を受けねばならなかった。決闘による死もそのことと無関係ではない。5月25日にペテルブルグを立ったプーシキンは、6年以上も首都へ帰ることを許されなかった。

その後、1820年から23年に至る歳月を、プーシキンはカフカ-ズ地方、クリミア地方のさまざまな土地で過ごさねばならなかったが、彼は絵画にも似たこの地方の風景に魅せられ、中毒症状に等しい倦怠に満ちた首都の生活から気分的にも解放され、かえって救われた思いであった。けれども、その後ほどなく、変わりばえのしない地方都市の暮らしにも飽き、またしても賭博と酒、そして淫らな女との交際にうつつを抜かすようになった。だが彼はいつも金に不自由していた。役所勤めの薄給のうえに、家族が仕送りを拒んだためである。そこで彼は詩を書いて金を稼いだが、その額もたかが知れており羽ぶりの良い友人にはとうてい太刀うちできなかった。やがて、23年にオデッサに転勤させられた彼は、ここでようやく好みに合った大都会の生活を見出した。

1823年から翌年にかけてのプーシキンのオデッサ暮らしは、3つの激しい恋愛事件によって彩られた。彼はまず、自分よりも6歳年長の美人カロリーナ・ソバンスカヤと恋に落ちた。彼女とはこの年の10月に縁が切れ、つづいてダルマチィアの商人の妻アマリア・リズニッチと激しい恋仲になった。彼女には崇拝者が多く、プーシキンはしばしばしっとに駆られたが、アマリアから「夜」、「彼女の故郷の青空の下で」など、何編かの彼最高の詩のインスピレーションを得、死ぬ間際まで彼女のことを忘れなかった。第3の恋は、総督の妻エリザ・ヴォロンツォーワ伯爵夫人が相手で、彼女は魅力に富んだ美しい婦人であった。ヴォロンツォーフはこのことを知るや、容赦なくプーシキンをオデッサから追放した。総督が追放を決断したのは、プーシキンが友人に宛てた1通の手紙が原因であった。プーシキンはその手紙で、魂の不滅に疑問を投じていたものである。押収された手紙を理由に、プーシキンは1824年7月18日に皇帝の名において職をう追われ、プスコフ県の母の領地ミハイロフスコエ村に引きこもるよう命じられた。しかし、南部ロシアにおける4年間のプーシキンの詩作は、大変な量にあがった。それらは主としてバイロンの影響をうかがわせたが、特に「カフカスの捕虜」」(Кавказский пленник, 1820-21)、「バフチサライの泉」(Бахчисарайский фонтан, 1821-23)、「ジプシー」(Цыгане, 1824)などにその傾向が著しかった。しかし、同時にこれらの詩は流れるような韻文でできており、エキゾチックな道具立てではあったが、はやくも、プーシキンの古典的なスタイル、すなわち韻律、均衡、簡潔さ、抑制などの要素がうかがえる作品であった。

1824年8月9日、プーシキンはミハイロフスコエ村に到着した。むろん両親との折り合いが良いはずはなかった。父親は反抗的な息子に腹を立て、あるときなど、息子が自分を殴ろうとしたという噂まで広めたくらいであった。11月中旬、家族は領地をあとにし、プーシキンは家付きの乳母アリーナ・ロジオーノヴナと2人きりで残された。それから2年間のプーシキンの毎日は、たまに隣町を訪ねたり、ペテルブルグの旧友をもてなす程度で、世捨て人同様の日々であった。この間に彼は、老将軍に嫁いで多くの男たちの関心を引いていたアンナ・ケルンと恋に落ちる。また、この間に乳母は、プーシキンにたくさんの民話を話して聞かせる。彼の詩の多くに表現されている民衆の生活への共感は、この乳母が彼に吹き込んだものとされている。

 

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ミハイロフスコエ村におけるプーシキンの2年間は、詩作ではこのうえなく実りが多く、「ジプシー」を完成させ、長編叙事詩「エヴゲーニー・オネーギン」(Евгений Онегин, 1823-30)の最初の3章を書き、さらに悲劇「ボリス・ゴドゥノーフ」(Борис Годунов)が書かれている。また、多くの重要な叙情詩と「ヌーリン伯爵」と題されたユーモラスな韻文による物語もこのころ書かれた。これらのうち、「ボリス・ゴドゥノーフ」史劇に属する。プーシキンはカラムジーンの史書からテーマを取ったが、その内容は、ペテン師ドミートリーが、選ばれた君主ゴドゥノーフに王位の譲渡を迫るというものであった。

ミハイロフスコエへの追放を解かれたのち、プーシキンは新しい皇帝ニコライ1世に迎えられたが、皇帝はその公正さと親切さによってプーシキンをすっかり魅了した。皇帝はプーシキンの作品を自ら検閲することを約束して、プーシキンを専制政治の下での特権所有者に仕立てる。現実的な結果として、政府に有害なものはいっさい発表しないことを、彼は名誉にかけて約束したことになった。だがこの‘特権’的な検閲は、プーシキンにとって次第にわずらわしいものとなっていった。

1826年以後もプーシキンは放埓な生活をつづけたが、さほど楽しいものではなかった。また20代の若さであったが、年齢に重みを感じ、身を固めたいと願って、30年4月6日、ナターリヤ・ゴンチャローワに2度目のプロポーズをし、受けいられた。彼女は財政破綻をきたした貴族の出であった。ゴンチャローフ家は、プーシキンがさほど政府に近い立場にないことに不満であったし、詩人としての評判にも心を動かさなかった。プーシキンはゴンチャローフ家のために政府の経済援助を求めざるを得ず、またやむなく領地を1つ自分に分けて欲しいと父親に頼み込んだ。

1826年から29年にわたるプーシキンの作品は24年から26年にかけてほど多くはなかったが、それでも驚くほどの量にあがった。この間に「エヴゲーニー・オネーギン」の仕事をつづける一方で多数の優れた叙情詩を書き、さらには「ピョートル大帝の黒ん坊」(Арап Петра Великого)と題した散文小説に取り込んだが、完成に至らなかった。また、ピョートル大帝とカール12世との戦争を扱った物語詩「ポルターワ」を書いたが、この作品はスウェーデンに対するロシアの勝利を描いたものであった。この詩から、プーシキンの文体がしだいに客観的で簡潔な文体へと発展していく様子がうかがえる。

1830年秋、プーシキンは首都をあとにし、父が残してくれたボルジノという小さな領地へ数週間の予定ででかけた。ところが、コレラの伝染に対する当局の措置がもとでそこから出るのが阻まれ、秋をボロジノで過ごすしかなかった。ここでプーシキンは彼の偉大な叙情詩の数編を書き上げる。「ベールキン物語」、8行単句のコミックな詩「コロムナの小さな家」、それに4編の悲劇などがそれである。また「エヴゲーニー・オネーギン」を実質的に脱稿したのもこのときであった。「エヴゲーニー・オネーギン」は24年に書きはじめられ、31年8月に完成した。この韻文小説は疑いもなくプーシキンの代表作である。しかし、テーマのうえではバイロンの「ドン・ジュアン」、スタイルはスターンの小説から影響を受けている。また、現代生活を描いた‘小説’と言ってよく、当時の社会のさまざまな出来事が、音と意味とが完全に結びついた言葉でつづられている。物語の核となるのはエヴゲーニー・オネーギンの生活そのものである。退屈したこの貴族はタチヤーナという若い娘の愛の告白を冷たくあしらえ、求婚を拒否する。その後、すっかり洗練された彼女に巡りあい、恋心を抱くが、今度は彼女から拒絶される。というのも、愛してはいても彼女はすでに結婚していた身であったのだ。

プーシキンの4編の悲劇は、むだのない、客観的な、簡潔なドラマの模範といってよい。これらの劇は短く、長さはせいぜい240行から550行までである。また、「疫病時の酒宴」(Пир во время чумы)はジョン・ヴィルソンの「疫病の町」の1シーンの翻案であり、「石の客」は「ドン・ジュアン」のテーマを引き写したものである。「モーツァルトトサリエリ」(Моцарт и Сальери)は、サリエリがモーツァルトの労なくして芸術を生みだす力をしっとしたとする言い伝えと、自然神が才能を恵む際の不公平とを扱っている。「吝嗇な騎士」は強欲をテーマとし、男爵が自分の宝物について物語る有名なモノローグが含まれている。

「ベールキン物語」は「射撃」、「吹雪」、「葬儀屋」、「駅長」、「田舎貴婦人」など5編の短い物語からなり、テンポの速い、飾らぬ叙述の模範である。 1830年以後のプーシキンは、ほとんど詩を書くことなくなっていた。その数少ない作品1つ「青銅に騎士」(Медный всадник, 1833)は、多くの人々によって彼の最高の詩とみなされている。ペテルブルグの大半を水侵しにした1824年の大洪水を扱ったもので、いわば、この事件を背景に、国に対する個人の妥協のない献身を要求したものである。「金の鶏の話」(Золотой петушок1834)は、ロシアの民話を1冊にまとめている。小説におけるプーシキンの傑作は短編「スペードの女王」(Пиковая дама, 1834)で、3枚の勝ち札の秘密を見つけようと冷酷なまでに努力をつづける陰鬱な技師の物語である。また、「プガチョーフの反乱史」(1834)とプガチョーフの反乱から題材を得ている短編小説「大尉の娘」(Капитанская дочка, 1836)も注目されている。

プーシキンは1831年1月19日にナターリヤ・ゴンチャローワと結婚した。3人の子供があったが、どちらにとっても必ずしも幸せとは言いがたい結婚生活であった。彼女は美しく、宮帝で人気はあったが、教養に欠け、俗っぽさを捨てきれずにいた。彼女の美しさは、フランスから亡命してきたアルザス人で、ペテルブルグ駐在オランダ大使の養子になっていたジョルジュ・ダンテス男爵の気を引くところとなった。プーシキンはナターリヤの問題で、37年1月26日、ダンテスに決闘をいどみ、その翌日行われた決闘で致命傷をうけ、二日後の29日に死亡した。死をいたむ声が広く世間に高まった。

プーシキンの死後、その作品の多くはロシアの作曲家たちによってオペラの原作に選ばれる。そのなかには、グリーンカの「ルスランとリュドミラ」、チャイコフスキーの「エヴゲニー・オネーギン」と「スペドの女王」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノーフ」、ダルゴムイジスキーの「石の客」、リムスキー-コールサコフの「金の鶏の話」などがある。


asily Tropinin. Portrait of Alexander Pushkin.
1827. Oil on canvas. The Pushkin Museum, Moscow, Russia


Orest Kiprensky Portrait of Alexandr Pushkin, 1827
Oil on Canvas

 Valentin Serov. Alexander Pushkin on a Park Bench.
1899. Graphite, watercolor, whitewash on paper.
The State Museum of Alexander Pushkin, St. Petersburg, Russia.

 Feodor Bruni, Alexander Pushkin in the coffin,
1837, Black chalk on paper. The Pushkin Museum, Moscow, Russia

プーシキンの美しい婦人「ナターリヤ・ゴンチャローワ

 

    

  

2008/06/16 13:33 2008/06/16 13:33