

豊川稲荷神社売店での昼食 (*^。^*)
テーブルの上に置かれているゆで卵は50円、主なメニューはそばと茶飯とおにぎりのほか餡蜜とかもあります。おでん蕎麦とおにぎりを頼んで、待つ間にゆで卵を食べましたが、それがなんと二子でした。こんなことは初めてです。
ラッキー♬ でした。
これは、その絵葉書が入っていた袋を開いた物だと思う。 絵葉書自体の寸法は、現在の日本の葉書よりは細長く、約9cm×14cmになっているので、それが入る程度の大きさに成っている。 右側に見える、スタンプには、17.5.24 という文字が読み取れるが、昭和17年5月24だろう。 |
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北満の雪景! 林のある山になだらかな冬の原。 北満風景、と云う文字が、右から書かれているが、終戦前は、横書きの場合は右から書いていた様だ。1938.12と云う日付が読めるが、昭和13年沃土がこれかと思ふと、寂しい中から希望が湧いてくる。 |
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冬枯れの滿洲! 絵葉書のコメントには「冬枯れの」と云う文字が見えるが、日本からは想像も出来ない様な寒さな筈だから、文字通り、全てが枯れてしまうのだろう。清く澄んだ空と情趣にとんだ支那家屋が田舎を飾ってゐる。 同じく、コメントに、「支那家屋」とあるが、云うまでもなく、「支那」とは中国の事である。 以前、「支那人」と云う言葉には明らかに差別的なニュアンスが有ったのは事実で、そのせいだろう、現在では日本で「支那」と云うと中国政府からクレームが付く様だ。 しかし、フランス語の chinois も、英語の china も、この「シナ」から来ているので、本来は全く差別的な意味は無いはずだ。 |
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名もしれない冬枯立に集團部落の味はひ! 絵葉書のコメントは、当然ながら旧仮名使いに成っている。漢字も、「集團部落」、「王道樂土」など、旧字体に成っている。平和は王道樂土を語ってゐる。 この「王道樂土」と云う言葉に惹かれて、大勢の人が大陸に渡り、現地の人々に絶大な損害を与え、最後には酷い目に会ったり命を落とす事に成ったのだ。 |
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冬の幕營! 酷寒零下四十餘度! 「酷寒零下三十度~」と云う軍歌が有った様に記憶しているが、このコメントには零下40度とある、まあ、想像を絶する寒さだったのだろう。こんな情況での、テント生活(幕営)の厳しさは、並大抵の事ではなかったのだろう。これでも耐へて演習に励める皇軍は強い。 「皇軍」と云う表現が、如何にも時代を感じさせる。 |
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街行く人の足竝もなんとなくしづかだ。 今から考えれば、随分と身勝手な言い分なのだが、当時の、日本側から見れば、これが普通の感じだったのだろうか。皇軍駐屯の潤ひはありありと見えるやうだ。 |
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滿洲風俗-1 これ以降の7枚には、「滿洲風俗」とあるだけで、コメントは無い。 後方に見えるのは、列車みたいだから、恐らくは駅での風景だろう。 引き出しの付いた台が、なんとなく面白い感じがするが、スイカ等を売る、果物売りだろう。 スイカにしては、着ている服装が、冬っぽいから、なにか別の果物なのかも知れない。 |
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左右に2個づつの袋を乗せて、丁度よいサイズに成っている様に見えるので、専門の車なのかも知れない。 台車と云うか、この一輪車の形といい、多分木製ではないかと思われる車輪といい、日本では見かけた事がない道具の様に思われる。 |
荷車、と云うよりは、乗用の様な感じがする。 2頭立てだから、御者の他に4名くらい乗れるのだろうか。 遠方に見えている建物が、なんとなく異国情緒を感じさせる。 |
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滿洲風俗-4 この絵だけでは、ちょっと分かりかねるが、饅頭屋だろうか。 絵葉書が変質している様に見えるが、湯気が上がっているのかも知れない。 多分、真ん中の鍋だか釜だかで、蒸すか焼くかしているのだろう。 3人の人物は、かなり厚着をしている様に見えるので、冬の光景なのだろう。 |
普通、客の前には大きな鏡があるものだが、この感じだと、仕上がるまでは床屋任せ、と云う事になるのだろう。 頭を下げているのは、洗髪してもらっているのだろうか、この絵からは、ちょっと分からない。 |
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日本の鋸は、引く時に切る様になっているが、これはどちらかと云えば、西洋式の様だ。 形もユニークだが、こんな風に斜めに立てて二人がかりで切る、と云うのも、珍しい。 |
買出しにでも行った帰りなのか、と云う感じもするが、いずれにしても、子供の帽子などから見ても、結構寒い時期なのだろう。 女性の髪の感じや、衣服を持っている辺りは、銭湯の帰りの様にも見えなくはないが、銭湯と云うものが存在したのかどうかも、分からない。 |
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東京は今さくらが満開です。
季節は変わりなく巡ってきますが 一昨年春と、昨年春と、今年春は、其々別の春
花の季節は私たちに希望という言葉の意味を考えさせてくれます。
・柏の葉公園 1.08
・流山市総合運動公園 1.88
・松戸市21世紀の森と広場 0.83
・葛飾区水元公園 0.86
・足立区役所 0・44
・足立区ベルモント公園 0.32
・葛飾区金町浄水場 0.38
・江東区砂町水再生センター 0.28
・江戸川区葛西水再生センター 0.30
・豊洲駅 0.24
・上野動物園 0.28
・講談社 0.22
※いずれも1時間当たりの放射線量。単位はマイクロシーベルト。
週刊現代の調査では、柏、松戸、流山の放射線量が高くなっています。中でも「柏市が市内全体の放射線量が高い、とレポートされています。放射線量の最高値は流山市の方が上でしたが、柏市では、市内のどこでも0.5を示していたとレポートされています。
中部大学の武田教授は、0.19でも高いと主張し、柏、流山の両市民に避難の必要性を説いているとしています。武田教授は、内部被ばくの危険性が高まっているために、外部被曝は0.11程度が限度だとコメントしているそうです。
『女性自身』 6月7日号より。
中部大学・武田邦彦教授が緊急警告。
ホットスポットは、上の地図のように広域なものとすぐ近くに放射性物質がたまる「ミニスポット」がある。武田氏「(ミニスポットは)側溝、雨どいの落ちるところ、風の吹きだまり、プランターの土、雑草、芝生、草むら、木の葉などの放射性物質が溜まる場所を指します。生活の身近にあるので見過ごしがちですが、測定するとかなり高い数値の放射能が出るはず。気をつけてください」
「ホットスポットに住んでいる多くの人は、そこから逃げるわけにはいかないでしょう。市や地域をあげて掃除をして除洗をし、ほかの地域と同じくらいの数値に下げる努力をしてほしいです。具体的には表土を1cm取り除き、道路を掃除し、溝の泥をスコップで出し、公共施設の壁を洗います。各家庭でも、庭の土を1cm取り除き玄関先を洗いましょう。また『ミニホットスポット』を探すために自治体に数値の測定・公表を要望しましょう
≪追記≫
産経ニュース 2011.6.30 12:21 記事から引用↓
福島県内の保護者らでつくる市民団体「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」などは30日、福島第1原発事故の影響調査のため福島市内の6~16歳の男女10人の尿を検査した結果、全員から微量の放射性物質が検出されたと発表した。
放射性セシウム134の最大値は8歳の女児で尿1リットル中1・13ベクレル、セシウム137の最大値は7歳男児で同1・30ベクレルだった。
尿は5月下旬に採取し、チェルノブイリ原発事故で周辺の子供の被ばく量を調査した経験がある、フランスの放射線測定機関「アクロ研究所」に検査を依頼した。
アクロのデービッド・ボアイエ理事長は記者会見で「福島市周辺の子供らに極めて高い確度で内部被ばくの可能性がある。事故前の数値はゼロだったと考えられる」と話した。
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【放射能除去】韓国製の家庭用ro浄水器・コーウェイ
関東のいたるところで放射能ホットスポットが見つかり始めました。群馬県の沼田市、川場村、みなかみ町、中之条などで周囲より高い放射線量が計測されました。栃木県の那須塩原市や那須町、さらに日光市でも放射線量は高くなっています。
こうした流れを受けてか、韓国の浄水器が人気を集めています。中でもコーウェイは世界的に有名な浄水器のレンタル・販売会社です。HP等によれば、全世界で200万世帯以上がコーウェイのユーザーであるということです。最近は韓国のアイドルグループ・少女時代をCMに起用したことで話題になりました。
コーウェイ(coway)は、RO逆浸透膜浄水器という種類の浄水器をあつかっています。この方式ですと、放射性物質の大半がろ過できるとされています。コーウェイは、実際に福島で放射性物質によって汚染された水を使って第三者機関による実証実験を行い、除去に成功したと発表をしました。
コーウェイの浄水器の中で現在人気なのが、家庭用の機種「NEOS」(ネオス)平均的な価格は63000円くらいです。ネット上の口コミ・評判・評価はまずまずです。RO方式の浄水器は、海水を淡水にする際の技術として知られています。純水に近い水をつくることができるのが特徴です。そのため、RO水でコーヒーを入れると雑味が消えておいしくなった、といった感想が出ています。
RO浄水器の中では廉価なのですが、購入の際には年間の維持費を念頭におく必要があります。ネオスでは4枚ほど高機能なフィルターを使っています。そのうちの1種類は20000円くらいだといいます。こうしたフィルターを半年から1年で次々に交換していく必要があります。
浄水器はウォーターサーバーより格安なので人気があります。しかし、消耗品など、年間のトータルコストの算出が重要です。コーウェイはレンタルもやっていますので、どういう方法がもっとも経済効果が高いのかを比較検討するとよさそうです。
御参考までに↓
拉致被害者の蓮池氏が北から帰って、翻訳家になると決心した。その初翻訳本になったのが、韓国のベストセラー作家である金勲氏の小説「孤将(原作題目は「刀の歌」)」だった。
この本を元に製作されたKBSの大河ドラマ「不滅の李舜臣」は、2004年9月から2005年9月まで総104話が放送され、かなりの人気を博した。
その頃、韓国の友人から知っていたら教えて欲しいと、次の二つについて聞いてきた。
そのドラマの中で、小西行長軍は十字架が描かれていた軍旗を持っていたが、
「小西軍は本当に十字架が描かれた軍旗を使っていたのか?」
「小西行長に連れて行かれたとされる女の子がいるけど本当なの?その後は?」
今の日本の国旗と同じ模様のこの旗の由来には次のような話が伝わっている。
秀吉が小西行長と加藤清正に朝鮮出兵の先陣を言い渡した際、清正には「南無妙法蓮華経の軍旗」を、行長には「大黒の馬」を贈ったという。秀吉が退出した後で、清正は軍旗をチラつかせながら行長に言ったらしい。
「小西殿は、旗印はどのようにするつもりですか?」
この短い問いかけの中には数々の嫌味が詰まっていた。
自身の信仰する日蓮宗の旗を秀吉直々にもらった清正に対し、表立ってキリシタンとして活動できない行長は、清正のように自分の信仰する宗教を旗印にすることはできない。それをわかった上での旗自慢であった。
「紙の袋に朱の丸をつけて旗としますよ」
日の丸とは言わず、あえて「紙の袋」と言ったところが、清正の嫌味に対する行長の皮肉とも言えよう。紙の袋に朱の丸とは、当時の薬袋のこと。常日頃なにかにつけては「薬屋」と行長の出身を馬鹿にする清正に対し、薬商人出身ということを旗印にあらわすことによって、「俺は薬屋である。それがどうした?」という気持ちの表しだったと伝わっている。
神津島の村長と村議会議員達
「おたあ」はこの戦乱の中で戦死した平壌武将の娘で、その母親も自害してしまい、キリシタンであった行長が哀れと思い日本に連れてきたと言われるが、生年月日や実名・家系などの詳細は一切不明である。「おたあ」は日本名、「ジュリア」は洗礼名を示す。
明確なのは、彼女は小西夫妻のもとで育てられた事である。
しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放された。
まず伊豆大島に、ついで八丈島もしくは新島に、そして最後に神津島へと、在任として、流罪に処された。
彼女はどの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護、自暴自棄になった若い流人への感化など、行く先々で、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる。(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)
島の人々のために、薬屋の嫁であった行長夫人の下で身に着けた薬草の知識を活用し、沢山の島の人を救っていたことだ。3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順をても断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して一種の修道生活に入ったこと、などが言及されている。
おたあの最期についての詳細は不明であるが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎なる人物により、「島にある由来不明の供養塔がおたあの墓である。」と主張され、いつしかおたあは神津島で死んだことになった。以来、同島では毎年5月に日韓のクリスチャンを中心としておたあの慰霊祭が行なわれ、今でも観光資源の一つとなっている。しかし、実際には1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父からの、日本発信の書簡に、おたあが神津島を出て大坂に移住し、神父の保護を受けている旨の文書があり、おたあが神津島で死亡したことは否定されている。
(1972年.韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と村議会議員らが、おたあの墓の土を埋葬し石碑を建てた。その後、おたあは神津島で死んでいないという文書が発見されたことで石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の殉教博物館内で保管することになった。)
おたあジュリアと小西家の関わりを調べているうちに、連れて来られたもう一人の子供の生きた痕跡が浮かび上がった。
伊豆大島
福者 カウン(権) ヴィセンテ SJ、1626年6月20日殉教
(福者(ふくしゃ Beatus)とは、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。)
おたあジュリアと同様、壬辰倭乱(文禄の役)戦火の中で親を亡くし、朝鮮半島から行長に連れられ日本に渡ってきた男の子で、名字は「権」であった。行長はこの子を対馬の宗家に嫁いだ、長女のマリアに託した。託されたマリアは、権少年を自分の息子「マンショ小西」(対馬藩主「宗義智」と「小西マリア」の子。後にローマに渡り、1624年8月28日イエズス会に入会を認められ、聖アンドレ修練院で学んだ。履修科目は神学と人文学。1627年司祭の位を得た後、日本に帰国し長崎で殉教。)と共に西洋教育を受けさせる。1603年に洗礼を受け「ヴィセンテ」という洗礼名を受け、修練修者となった。
家康によりキリスト教の信仰が禁止され、迫害が始まると権ヴィセンテは朝鮮に戻って宣教することを試みたが、朝鮮の鎖国政策で中国経由での朝鮮への入国は失敗に終わり、夢を実現出来ず、1614年、中国から日本に戻った。その後5年間に渉る島原半島での宣教活動中1625年に捕まり、その翌年長崎で火炙り刑にされた。処刑される前に、一緒に居たフランシスコ・パチェコ神父から修道士誓願式を受けた。
権ヴィセンテは捕虜になって日本につれて来られた朝鮮の人々の為に献身的に世話をしたと伝われている。1867年、ローマ法皇ピオ8世により福者位に付いた。
宗義智像(万松院蔵)
敬虔なキリシタンであったマリア夫人は、対馬にいてもキリスト教関係の国内事情にも通じていたといわれ、義智はそんなマリア夫人に従い、キリシタンに厳しい眼が向けられている中で、極秘のうちに洗礼を受け「対馬殿ダリオ」と呼ばれる一時期があった。
しかし、対馬の宗家は秀吉の死後、家康の信を回復し対馬の所領安堵を図るために、キリシタンであったマリア夫人を義智から離別した。「慶長5年10月、故あってこの夫人去る、嫉妬心強く礼なし故に去る」『宗氏家譜略』とある。
真相は、夫人の父が、関ヶ原の戦いで西軍に加盟した小西行長であったので、対馬としては後難を逃れ、所領の安堵を図るため、離別し長崎に送ったものと思われる。
年の暮れに松飾り(門松)を立ててお迎えした年神様に滞在していただく期間で、松を取り付けている間とか、神様に待っていただく間などという意味といわれています。
一般的には1月6日までとし、松飾り(門松)を6日の深夜または7日の早朝に取り除くのが風習になっていますが、一部の地区では14日の深夜または15日の早朝に取り除くなど、地方によって異なります。
本来は小正月の15日までを「松の内」といいます。ちなみに1日は大正月といいます。そもそも「松の内」とは新年に際し歳神様を迎えるために道しるべとして門ごとに門松が置かれますがこの松飾りのある期間のことを「松の内」といいます。神様が鎮座するための場所は鏡餅ですね。
年賀状も15日まではOKなのですが、喪中の時に出す寒中見舞いが6日からなのと、丁度七草粥を食べるのも7日なので、どうも7日でお正月は終わりという風潮です。
同時に農家の仕事始め「田打ち正月」も11日です。ところで、お役目を終わった松飾りですが、その後どうしましょう?燃えるゴミで捨ててはいけませんよ。また庭先で燃やしてもいけません。最近は焚き火も条例で禁止ですから。
お役目を終わった松飾りは近所の神社の「どんど焼き」で燃してもらいます。「どんど焼き」はお正月のお飾りや書き初めなどを燃やし、その残り火で繭玉に似せたおだんごを木の枝に差して焼くという行事です。
このおだんごを食べると1年間風邪をひかないとか、書き初めは燃えかすが空高く飛ぶと字が上手になるとかいわれているようですね。
新年に入って初めて出合った人に、新年の挨拶を交わすのも松の内までです。
そういうことで、未だ間に合うのかな・・・
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
※上記の書き物について、友人からメールがありました。
森下さんのブログで、鏡開きの件ですが、「以前は20日だった」
という部分、これ「以前」という時間感覚ではないですよ。
Wikipediaに簡単な説明があるので読んでください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D
で、20日を鏡開きとしているのは近畿・関西方面で、現在でも
20日にしているようです。
関東は、ずっと11日です。
伝統こけしの系統
伝統こけしは産地によって特徴に違いがあり、主な物は下記の各系統に系統に分類することが出来る。
伝統こけしは地方によって呼び名が変わる。※()中はハングルの表記
青森県 | ながおぼこ(나가오보코)、いんっこおぼこ(잉코오보코) |
岩手県 | きっからぼっこ(긱카라오보코)、こげし(고게시)、きくら(기쿠라)、きなきなぼう(키나키나보코)、くなくなこげす(나쿠나쿠코게스)、きなきなずんぞこ(키나키나즌조코)、こけすっこ(고케슷코) |
秋田県 | こげし(고게시)、かっくらぼう(가쿠라보코)、かっくらぼぼっこ(가쿠라보복코)、ぼっこ(복코)、こげすっこ(고게슷코)、こげほこ(코게봇코)、きぼこ(기보코)、こけしぼんぼ(고케시봄보) |
山形県 | こけす(고케스)、ひょうたん(효우탕)、でぐのぼう(데구노보코)、でく(데구)、にんぎょう(닝교우)、んぼっこ(은보코)、ぼんぼ(봄보)、きにんぎょ(기닝교)、かまさきにんぎょ(가마사키닝교) |
宮城県 | こげす(코게스)、こけし(고케시)、大坊主(오오보즈)、小坊主(고보즈)、きんぼこ(긴보코)、こげすんぼこ(고게슨보코)、おぼこ(오보코)、きぼこ(기보코) |
福島県 | きでこ(기데코)、おでこ(오데코)、おっとこ(옷도코) |
頭部には蛇の目の輪を描き、前髪と、鬘の間にカセと呼ぶ赤い模様がある。胴の模様は線の組み合わせが主体。
弥治郎系(白石市弥治郎・宮城)
頭頂にベレー帽のような多色の輪を描き、胴は太いロクロ線と簡単な襟や袖の手書き模様を描く。
遠刈田系(遠刈田温泉・宮城)
頭頂に赤い放射線状の飾りを描き、さらに額から頬にかけて八の字状の赤い飾りを描く。胴は手書きの花模様で菊や梅を重ねたものが一般的、まれに木目模様などもある。
鳴子系(鳴子温泉・宮城)
首が回るのが特徴。首を回すと「キュッキュ、キュッキュ」と音がする。胴体は中ほどが細くなっていて、極端化すれば凹レンズのような胴体を持つ。胴体には菊の花を描くのが通常である。
作並系(仙台市、作並温泉、山形市、米沢市、寒河江市、天童市・宮城・山形)
山形作並系ともいう。
頭頂に輪形の赤い飾りを描き、胴は上下のロクロ線の間に菊模様が描かれる。
蔵王高湯系(蔵王温泉・山形)
頭頂に赤い放射状の手柄を描くが黒いおかっぱ頭もある。胴は菊や桜のほか、いろいろな植物を描く。
肘折系(肘折温泉・山形)
頭部は赤い放射線か黒頭で、胴模様は菊、石竹などが多い。
木地山系(木地山・秋田)
頭部には大きい前髪と鬘に、赤い放射線状の飾りを描く。胴は前垂れ模様が有名だが、菊のみを書いた古い様式もある。
南部系(盛岡、花巻温泉・岩手)
簡単な描彩に、頭がぐらぐら動くのが特徴。
津軽系(温湯温泉、大鰐温泉・青森)温湯系ともいう。
単純なロクロ模様、帯、草花の他、ネブタ模様などを胴に描く。
これらの系統に含まれない伝統こけしも存在する。
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私は通勤道の風景を携帯電話で撮り、時々このブログにも載せたりもするが、永田町駅から地上に上がる際は殆どの場合、都道府県会館に通じる地下道から登るエスカレーターを使うことが多い。
グランドプリンスホテル赤坂(グランドプリンスホテルあかさか、Grand Prince Hotel Akasaka)は東京都千代田区紀尾井町にあるホテルである。2007年4月1日、赤坂プリンスホテルから改称したこのホテルは来年3月で閉館になることが決まっている。
初めて、このクリスマスキャンドルが点灯された大きな屏風形の高層ビルを見たとき、私はその奇抜で面白い発想と、その美しい風景に感動を覚え、毎晩カメラを持ってあの周囲をウロウロしていた。
何年も見るうちにこの風景にすっかり慣れてしまい、今は「もうその季節か・・・今年もそろそろ終わりに近づいているな」と思う程度でカメラを向ける事はあんまりなくなった。
この写真で見る高層ビルの赤プリは本館で、その裏側に韓国と縁深い別館がある。
地下鉄銀座線、丸ノ内線の赤坂見附駅を降りて平河町方面に坂道を登っていき最初の左の曲がり角を曲がると100mで赤坂プリンスポテル別館の入り口にある。普通は赤坂プリンスホテルの正面玄関のある紀尾井町方面からも廻っていくが、平河町から来た方が近い。結婚式等で人気のある建物ですので来られた方も多くいるはず。
この建物は旧大韓帝国の旧李王家邸で、昭和3年宮内省内匠寮の設計、今は赤坂プリンスホテルの別館としてレストラン(フランス料理Le Trianon)、結婚式場等に使用されている。
この建物がどうして今赤坂プリンスホテルの別館になっているのか、そこに関わっているのはプリンスホテルチェーンを作り上げた堤康次郎前西武グループの会長が関わる。その話はまた今後にすることにして、今日はプリンスホテルと李王系の不可解な運命を感じる死について書きたいと思っている。
李玖は日本で暮らし、母の実家の梨本家の世話を受けていたようである。梨本家の人が十八日に李玖を訪問し、その遺体を発見したとのことだ。
李玖は、李氏朝鮮最後の皇太子、英親(ヨンチン)王(1897-1970)李垠(イ・ウン)と日本の皇族、李方子(りまさこ/イ・バンジャ)(1901-1989)の次男であるが、長男が幼くしてなくなっている為、事実上朝鮮王家の後継者とされていた。
明治四十三(1910)年、通称日韓併合後、李垠は朝鮮の王世子(皇太子)となった。李王家は王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けた。敬称は殿下であり、実際は皇族と見なされたし、それを日本人に知らしめる必要もあった。
李垠殿下と婚約したのは大正五年のこと。当時の読売新聞(1916.8.3)は、「李王世子の御慶事。梨本宮方子女王殿下との御婚約 李王家と竹の園生の御連絡の御栄えめでたく」と記した。年代を見ればわかるように彼女が十四歳のときである。彼女自身、自らの婚約を新聞報道で知って驚いたとも伝えられている。言うまでもなく、政略結婚である。「内鮮一体」が当時の日本国の国是であった。王家もそれに従わなくてはならなかった。貞明皇后は「お国のためですから」と慰めたという。
大正十年(1921)、李玖の兄、つまり第一王子、晋が生まれた。翌年、李垠夫妻は嬰児を連れ母国朝鮮に帰るが、再度日本に向かうおり、急逝した。一歳に満たなかった。死因は急性消化不良と診断されているが、毒殺説がある。誰が毒殺したかについてはここでは考察しないが、様々な憶測が乱舞しているのも事実である。
昭和二十年日本の敗戦により日本の朝鮮統治は終止符を打った。当時、李方子は日本の敗戦を夫君のために喜んだと伝えられている。読売新聞”日朝融和の政略結婚の李方子さん逝く”(1989.5.2)より。
日本敗戦の日、東京で昭和天皇の言わば玉音放送を聞く。李垠(イ・ウン)殿下との結婚から二十六年目だった。「殿下、おめでとうございます。こう申し上げましたが、殿下は沈痛な面持ちで」。後に記者のインタビューに答えている。
別居後の離婚ということなので、「宗親から、子どもを産めなかった夫人との離婚を勧められ」ということが離婚の第一の理由というのでもないだろう。この説明に「宗親」とあるが、韓国では門中と言い、宗親の核たる正嫡がなければ親族は崩壊するといってもいいくらいなので、宗親はこの問題に強固になるのは仕方なく現在の韓国の状態についてもこれは変わらない。
朝鮮日報は李玖と宗親の関係についてこう説明する。
そして李玖氏は1996年11月、「永久帰国」した。宗親会(一族の会)の総裁として実務も行い、宗廟(朝鮮王朝時代の歴代の王や、王妃の位牌を祭るところ)で開かれる大祭も主管した。当時、李玖氏は「私はもはや、王家と関係がない、個人、李玖に過ぎない」と常に語っていた。 だが、李玖氏の「永久帰国」は長く続かなかった。神経衰弱も患っていた李玖氏は、故国の地に完全に適応することができず、日本と韓国を行き来して、日本の地で最期を迎えた。
1955年に「赤坂プリンスホテル」として開業し、2007年に改名した。広さ約3万4千平方メートル の敷地に、新館、別館、コンベンションセンター「五色」などがある。人気の高級ホテルだったが、近年は外資系高級ホテルの東京進出などで競争が激しくなった。01年に改装するなどてこ入れを図ったが、宿泊客はなかなか増えず、価格も下げたため利益が出にくくなり、営業終了を決めたとみられる。
昭和初期に建てられ、旧朝鮮王室の邸宅として使われていた旧館は、歴史的建造物として保存する方向だと聞いてほっとした。赤プリの土地は売却せず、周辺の地権者らとも協議しながら、新たな高級ホテルやオフィスビル、商業施設などの 再開発を目指すとみられる。
勝鬨橋データ ●長さ246m、幅22m、可動部25.8m×2、固定部86m×2 ●着工1933年6月10日、完成1940年6月14日(工事に7年間) ●1日5回開閉。昭和22年から1日3回、昭和36年から1日1回。最盛期(1950年)の開閉回数は年829回。 ●安全装置として3系統のブレーキ ●設計:安宅(やすみ)勝(東京市技師) ●施工:東京市、錢高組、石川島播磨重工業、川崎重工業、横河ブリッジなど。外国の支援を断り、完全に国内企業だけで建造しました ●内部の機関写真はこちら |
今年のお盆は土日と重なった。
8・15特集号が出てホットどころで会社は夏休暇に入る。
私は残りの業務もあるゆえ、夏の休暇を9月に回して、出勤していたけど、土日はお忍びでお出かけだ。生憎、長野県は雨で空が重く頭の真上まで降りてきた。
扇沢駅の食堂で見つけた物。(^_^;)
ハングル翻訳は誰なの?びっくりしたわ!
좋아하는 양을 거절해 들여 들어주세요 ??? て何の意味???
爆笑問題(゜o゜)??
2010.08.14. 長野県扇沢にて
※今年は2010年、この4月で、この事件はちょうど40年です。 私は40年前、この事件を韓国のテレビで見ていました。言わば、「金浦国際空港」が「平壌国際空港」を装いましたが犯人たちに見破られ、人質だけ降ろして北朝鮮への旅立ちを許すしかない、まさにその場面を、息を呑んでみていた親のそばからですが、子供ながら、えらい事になったと思っていましたので、記憶に鮮明に残っています。
その犯人達は北朝鮮に渡り、自分達の夢の実現に向けて頑張れたのでしょうか?それから何を思って今に至り、死んで行ったのか、いったいあの事件は何を残して、何を失ったのでしょうか?
↓ 下記の記事は10年前、丁度30年になる年の2000年6月18日に放映された、放送日本テレビ『知ってるつもり?!』の「よど号」物語 事件が彩る数奇な運命によるものです。それからまた10年の年月が流れました。
「よど号」物語 事件が彩る数奇な運命
アメリカの空を伸びやかに飛ぶ、1機の美しいジェット機!!
機体は旧式ながら、内装は超豪華!!使っているのは、プロバスケットのマイケル・ジョーダンなど各界のスターが乗るVIP!!昔…このVIPチャーターのジェット機には、日本でこんな名前が付けられていた。 ──「よど号」!!
今からちょうど30年前…
1970年(昭和45)3月31日――羽田発福岡行きの日本航空351便ボーイング727「よど号」は、乗客131名と乗員7名を乗せて、定刻をおよそ10分遅れの7時21分、羽田空港を離陸した。機長は石田真二、飛行時間は1万時間を優に越える47歳のベテランパイロット。
そして離陸から10分後、富士山上空にさしかかったその時──!!体前方に座っていた男たちが一斉に立ち上がり、日本刀やピストル、ダイナマイトを振りかざして乗客を制圧、機長らに日本刀を突きつけ「北朝鮮のピョンヤンへ行け」と要求したのである。
ハイジャックの一報は、電撃的に日本中を駆け抜け、初めての事件に日本政府も対処の仕方が分からず、戸惑うばかりであった…。「よど号」は、石田機長の機転で福岡空港で給油しながら時間稼ぎをし、人質のうち女性や子供たちを解放させたものの結局、説得をふりきり、「よど号」は、一路北朝鮮を目指し、飛び立った。
しかし、なぜか韓国の金浦空港にいったん着陸。ここで乗客の身代わりにと、名乗り出た山村新治郎政務次官が搭乗し、ついに「38度線」を越えて北朝鮮へと飛んで行った。事件発生6日目の4月5日9時10分、「よど号」は山村政務次官を乗せて無事帰国をした。
だが、実はこの「よど号事件」、いくつもの謎と秘話が隠されていた。北朝鮮に飛び立ったよど号は、朝鮮半島を一路北へ進んだ。しかし、38度線を越えたところで、なぜか急旋回!レーダーに誘導されるがままに、よど号は15時16分、着陸した。
――しかし、そこはピョンヤン空港ではなく、ソウルの金浦空港だったのである!
「よど号」の北朝鮮行きを何としても阻止したい日本政府が、米国軍に解決を依頼し、韓国側に協力を要請したという一説も…!
さらに──金浦空港でピョンヤン空港までの地図を要求した石田機長に渡されたのは、何と中学生用の白地図のコピー1枚だけ!!その余白には「航路図なし。121・5MCをつねに傍受せよ」としか書いてなかったのである!──そして白地図1枚を頼りに、初めての北朝鮮・ピョンヤン空港へ…日の暮れたソウルを飛び立った「よど号」は、いっこうに無線の応答もないまま勘を頼りの有視界飛行を続けた。そんな時、石田機長の目に入った、照明もない草ぼうぼうの滑走路!!その滑走路は凸凹で、戦時中に旧日本軍が作って放置されていた飛行場であった。
そんな夜間の無人滑走路への無事着陸──!それを可能にしたのは、石田機長の過去にワケがあった。19歳で航空機乗員養成所に入った石田さんは、太平洋戦争が始まると、「夜間特攻隊」の教官に。それは、闇夜の中を飛んで敵に近づき体当たりをするというもの!──この飛行技術と体験が、よど号事件で活かされることとなったのである。
事件によって「英雄」となった、「よど号」の機長、石田真二氏──5日後に羽田空港へ戻ってきた彼は、一躍脚光を浴び「時の人」と騒がれた。ところが、有名になったことで白日のもとに晒されたものがあった!!「愛人騒動」──一転してのスキャンダル。時に石田さん47歳、それが20年近い「流転の人生」の始まりであった…。女性問題で日航を辞め、その後、家族ともうまくいかず、自家用飛行機の雇われパイロットとして、大阪、札幌、岡山…と転々と一人で渡り歩いたものの、会社が倒産するなど、どこまでもうまくいかない人生──。エリートの機長時代には味わったことのない辛酸に石田さんは、「事件に人生を狂わされた…」と幾度も運命を呪ったという。しかし、石田さんを待っていたのは、捨てたはずの家族。何も言わず、全てを許してくれた家族のもとで、人生のやり直しを始めた。現在は夜間の警備員として職に就き、平穏に暮らしている。
──「今でも、よど号を操縦して空を飛んでいる夢をみるよ…」
そして乗客の身代わりとして北朝鮮に飛んだ、もう一人の「英雄」山村運輸政務次官──
韓国の金浦空港にて、緊張したこう着状態が続き、乗客たちの疲労もピークとなっていた「ハイジャック3日目」。“乗客を降ろす条件で自分が人質に”と提案…。結局、この提案を犯人グループも受入れ、乗客たちはようやく解放、よど号はこうしてピョンヤンへと飛び立っていった…。
よど号が日本へ帰ってきたのは、その2日後。──国民的英雄として、熱狂的に迎えられ、男を上げた山村氏は、その後の選挙でもトップ当選!!大臣のイスを歴任するなど、「男、山新」は政界の顔として活躍する。しかし、「事件」から22年後の1992年、自宅で実の娘に刺殺されるという、まさかの衝撃的な事件が!
その影に隠されていた、事件の複雑な波紋とは…
そして北朝鮮に亡命した赤軍派メンバー──当時、彼らは声明文で「我々は…あしたのジョーになる」と叫び、当時の人気漫画・「あしたのジョー」に自分たちをなぞらえ、“燃え尽きるまで戦うのだ”と叫んだ、当時20歳前後のメンバーたち。彼らは日本初のハイジャックを「フェニックス作戦」と命名。北朝鮮を夢の楽園と目指し、軍事訓練を積んで日本へ帰って武装闘争をしようとしていたのであった。
今や50歳を過ぎ、9人だったメンバーも現地で病死したり、海外で逮捕されたりして…今は4人。しかし、現地で結婚した彼らの子供たちは合わせて20人も…!!
──「僕たちも、20世紀中に起こしたことは、20世紀中にキチンと解決したい…。我々も日本に帰りたいのは、偽らざる心情…」海外に出た彼らに時効はない。日本へ帰る事は、刑に服することを意味するのである。彼らは今、30年目の「清算」を迫られる日々を過ごしている。
事件から30年たった今年、4月。ハイジャック犯人、赤軍派の隊長だった塩見孝也は、こう言っている。
「英雄性だとかあったかもしれないが…基本的には独り善がりだったと思う」
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同機に乗り合わせた乗客の中に聖路加国際病院の日野原重明理事長(98)がいた。2010年3月、「よど号」乗っ取り事件から40年というので、産経新聞に寄稿し、当時の様子を生々しく振り返っている。
◇ ◇ ◇
尊敬するアメリカの医学教育の開拓者、ウィリアム・オスラー博士の講演集『平静の心』にある「医師にとって、沈着な姿勢、これに勝る資質はありえない」という文章や、新約聖書にある「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」というイエスのお言葉が頭をよぎった。私はあるがままに任せるほか仕方がないと観念した。
冷暖房が作動しない機内の温度は40度にもなり、韓国軍と赤軍側のやり取りで緊迫し、食料をめぐって騒然となったこともあった。だが、ハイジャック3日目に機内放送があり、山村新治郎代議士が乗客の身代わりになって赤軍とともに北朝鮮へ出発することが伝えられた。
3日目の夜には、乗客の1人がハイジャックとはどういう意味かと質問をしたが、田宮(高麿)代表も答えられなかったので、私がマイクをもらって「ハイジャックする人が説明できないのはおかしい」といったところ、一同は大笑いして、座が急に明るくなった。生きるも死ぬも皆が同じ運命にあるという意識から生じたストックホルム症候群という敵味方の一体感に一同が酔ったといえるのかもしれない。
乗客の1人が別れの歌「北帰行」を高らかに吟じ、それに対して赤軍一同が革命歌「インターナショナル」を歌うと、学生時代に左翼運動に参加したと思われる乗客たちが手拍子を取って一緒に歌ったりもした。
ハイジャック4日目の朝に解放されて金浦空港(韓国)の土を踏んだときの靴底の感覚を私は今でも忘れることができない。1969年にアポロの宇宙飛行士が月飛行を終えて無事に基地に帰り、大地を踏んだときの心境に近いものではなかったかと思った。
人生を還暦前と還暦後に分ければ、私は、後半の人生を誰のためにささげるべきかを深く考えさせる大事件に出会ったわけである。国の内外を問わず、人々のためにささげる生き方を始める人生の転換が与えられたのだと感じ、その後、いつまでもその覚悟を持って生活してきた。
赤軍のよど号グループのメンバーたちは、今にして無謀なことをやったと後悔はしていようが、帰国すると刑を受けるために、残留組は意地をはっていると思う。
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http://www.videonews.com/
動画は「今週のニュース・コメンタリー(2010年03月27日)」より
■四才女
紫式部の作とされる『紫式部日記』には、和泉式部、赤染衛門、清少納言の三人を並べて批評した有名な段落があります。この三人に張本人の紫式部を加えた「四才女」について見ていきたいと思います。
図は、バーク・コレクション所蔵の土佐光起筆『源氏物語絵巻・朝顔』の部分です。
■主家の系譜
藤原兼家は策略により花山天皇を退位させ、娘の生んだ一条天皇を即位させます。兼家の嫡男である道隆は、娘の定子を甥である一条天皇の女御として入内させ、後に中宮とします。
兼家が死ぬと道隆が後を継いで関白となりますが、五年ほどで病に倒れます。道隆は嫡男の伊周を後任の関白に願いますが、天皇から許されず、世を去ります。
伊周との政争に勝って朝政の実権を握ったのは、道隆の弟の道長です。中宮定子を皇后に押し上げ、娘の彰子を入内させて中宮とします。定子はまもなく世を去ります。
■時代対比
清少納言は、正暦四年(993年、27歳位)の冬頃から中宮定子(16歳位)に仕え、長保二年(1000年、34歳位)に定子が亡くなってまもなく、宮仕えを辞めたとされます。
和泉式部は、寛弘五年(1008年、30歳位)から中宮彰子(20歳位)に出仕しました。四十歳を過ぎた頃、藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下りました。
紫式部は、寛弘二年(1005年、26歳位)の末から中宮彰子(17歳位)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年(1011年、32歳位)まで続けたとされます。
■清少納言
赤染衛門は『栄花物語』の一節で清少納言の様子を敬意をもって記しています。しかし、紫式部にとっては、主家の政敵に仕え、漢詩文の知識をちらつかせ、王朝的優雅さを気取る『枕草子』の著者は、どこか自分と似ているだけに、目障りなライバルとしてこき下ろさずには気がすまない存在だったようです。
【紫式部日記】
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
【解釈】
清少納言ときたら、得意顔でいやな人。知識をひけらかして漢詩文を書きまくっているけど、よく見ると稚拙なところがいっぱい。こんなふうに、人とは違うと思い込んでいい気になっている人は、化けの皮がはがれて、痛い目を見ること間違いなし。それに、エレガントさを気取っているけど、そんな人は、白けて退屈なときでも感動的なことを探そうとして、頓珍漢になるものよ。頓珍漢になったあげくに、行き着く果ては知れているわ。
図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『清少納言』です。
■赤染衛門
中宮定子の実家に仕える赤染衛門は、紫式部にとってお局様のような存在で、内心どう思っていても悪口など書けなかったでしょう。なお、赤染衛門が『栄花物語』を著したのは『紫式部日記』より後のこととされています。
【紫式部日記】
丹波守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言ひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり。
【解釈】
丹波守大江匡衡の奥方を、彰子様や道長様の所では「匡衡衛門」と呼んでいます。特別高貴な生まれではありませんが、とても気品のある方です。歌人を自負して何かにつけて詠みまくるということはされませんが、世に知られている歌はどれも、何気ない折節の歌でさえ、惚れ惚れとしてしまいます。この方と比べると、上の句と下の句がちぐはぐなみっともない歌を詠んで得意になっている人が、憎らしくも可哀想にも思えてきます。
図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『右大将道綱母』です。赤染衛門の図が見つからないので、代役をお願いしました。
■和泉式部
和泉式部は、『和泉式部日記』に綴られた不倫関係をはじめ、いくつかのスキャンダルで有名です。紫式部は賢女ぶって、その方面も一応非難しています。非常に多作で屈指の勅撰集入選数を誇る和泉式部の和歌に対しては「白痴美人」と揶揄しています。理詰めの紫式部にはうらやましい才能だったのかもしれません。
【紫式部日記】
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
【解釈】
和泉式部という人は、手紙のやりとりが絶妙だけれど、倫理的には感心しませんね。気軽に走り書きした恋文の何気ない言葉にも色香が漂うといった才覚があります。和歌はとても上手です。古典の知識や歌の理論に関してはプロの歌人のレベルとは言えませんが、口にまかせて出てくる言葉に、かならず興のある一節が見られます。だからといって、和泉は他の人の詠んだ歌を理屈をこねて批判しているけど、そこまで理解しているとは思えません。口に歌を詠まれているのが見え見えといったところでしょうか。尊敬するほどの歌人とは思いませんね。
図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『和泉式部』です。
■紫式部
紫式部にとって漢詩文の知識は文学活動のバックボーンであり、誇りでもありながら、冷やかしの対象になるという脅迫観念が存在したようです。清少納言を「賢しだち」と評した紫式部自身が、実は、「才がる」と評されてコンプレックスを持っていました。
【紫式部日記】
内裏の上の『源氏の物語』、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」と、のたまはせけるを、左衛門の内侍といふ人、ふと推しはかりに、「いみじうなむ才がる」と殿上人などに言ひ散らして、「日本紀の御局」とぞつけたりける、いとをかしくぞはべる。この古里の女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて才さかし出ではべらむよ。
【解釈】
一条天皇様が『源氏物語』を人に読ませて聞かれ、「この作者は、日本書紀を読んだにちがいない。ほんとうに学識がある」と、言われました。さすが、天皇様。私って、すごいでしょ。でも、左衛門の内侍という人がこれを聞きかじって、「はなはだしく学識をひけらかす」と殿上人などに言いふらし、「日本書紀のお局様」とあだ名をつけました。理不尽なことですね。実家の侍女の前でも隠しているのに、宮中のような所で学識をひけらかしたりはしませんよ。
図は、東京国立博物館所蔵の狩野探幽筆『紫式部』です。
【グレゴリウス講座について】
当サイトの「グレゴリウス講座」は、関心を持ったテーマをミニプレゼンテーションにまとめることを試みています。内容の妥当性を心がけていますが、素人の判断の域を出ませんので、ご了承ください。
http://www.gregorius.jp/presentation/page_23.html
イムジン河水清く
「9月6日の明け方、(軍事境界線をまたいで南北に流れる)臨津江の水位が急に増えてキャンプ中だった子ども1人を含む民間人6人が行方不明になった」のは、北韓当局が通知なしで上流にある黄江ダムの水門を開いて水を放流水を放流したのが原因で、北側もこれを認めた。 7日、そのニュースは韓国のみならず日本でも大きく扱われた。月曜日の朝の出勤前、朝のニュース番組で知った。水攻めて本当にあり得る話だと実感した。亡くなった方々の冥福を祈る。
その事件で思い出したのは皮肉にも南北分断の悲しみを歌った「イムジン河」で、今日はその歌の話をしたいと思う。
この『臨津江』、日本人にも馴染みがある歌、『イムジン河』である。
この歌は北朝鮮の高宗漢(コジョンハン)が作曲し、北朝鮮の国歌を作詞した朴世永(パクセヨン)が詩を書いたと言う。オリジナル曲は1957年7月、北朝鮮で「臨津江(リムジンガン)」という曲名で発表された。朝鮮半島を南北にわける軍事境界線にそって流れ、黄海(韓国では西海)に注ぐ臨津江(イムジンガン)(北朝鮮読みでは「リムジンガン」になる)。その川の流れに託して南北分断の悲しみを歌った歌がこの「イムジン河」である。
私がこの歌を初めて耳にしたのは、5、6年ほど前になる。車を運転中、カーラジオから偶然流れてきたこの曲を初めは懐かしい思いで聞いていた。「イムジン河」は私が生まれた韓国の最も北にある川で、北朝鮮からすれば最も南を横切る川になる。私にはこの川での思い出があり、静かに流れる清き川と川辺の風景が目に浮かんだ。その「イムジン河」が祖国を分断していると言う現実を思い起こさせたこの曲の歌詞に少し衝撃を受け、深く印象に残った。
この曲がフォークソングに生まれ変わったきっかけは、知られるように、作詞家・松山猛の活動だった。朝鮮学校の生徒と喧嘩に明け暮れていた京都でこの曲を耳にした松山少年は、朝鮮人の友人から譜面と朝鮮語の歌詞、一番の日本語訳のメモをもらう。そして十代の終わり、フォーク・クルセダースのメンバーに口頭でそのメロディーを伝えたのである。当時を思い出す松山猛の記憶によれば「朝鮮民謡だろう」と思い誰も曲の由来をしらなかったという。作者不明のまま13万枚のプレスが済んでいた。それがいわば『幻のイムジン河』であった。しかし、この曲は1968年3月、発売中止になる。発売二日前の記者会見も予定通り開かれたものの、総連が抗議していた事実が一部マスコミに伝わっていたので、会見は大混乱のうちに打ち切られた。
会見の翌日、東芝音工(現在の東芝EMI)は「イムジン河」の発売中止を発表し、新聞は歌詞の内容が原作と違うことに関するモラル的責任を取ったと報じた。その理由についての記述は次のようなものがある。
「原詞に忠実でないと朝鮮総連から抗議をうけたというのがその理由であった。しかし、実は総連側の抗議内容は、『イムジン河』の原詞は、北側にとっては重要な人が作ったものなので、発表する場合は、朝鮮民主主義人民共和国の何某が作った歌と、はっきり明記すること、というものだったのだ。国交のない共産圏の国の正式名称を併記することを東芝は親会社の手前、躊躇したのである。」(黒沢進 CD/ザ・フォーク・クルセダーズ『ハレンチ+1』解説1995、ソリッド・レコード)
しかしこの解説だけでは、「朝鮮総連から抗議をうけた」ことや、東芝音工がなぜ「親会社の手前、躊躇した」のかは理解しがたい。一説によれば北朝鮮の歌が日本で広がることを好ましく思わなかった韓国大使館が東芝に圧力をかけ、発売中止に至ったともいう。つまりここで言う「親会社の手前、躊躇した」とは、韓国に進出していた東芝が韓国との経済的関係を優先し、北朝鮮の歌のレコードの発売を中止したとのことなのではないかとの話も聞いたが、言わばそれを裏付ける証拠も証言もないのも事実である。
ところで、原詞に忠実でないといわれたその歌詞は何処がどのように忠実でなかったのか比較してみたが、それ程の違いは感じられない。おそらく立場の違いからくる、感覚的な相違ではないだろうか。
原詞は《リムジンガン水清く/静かに流れゆき/鳥は川よぎり自由に飛びかうよ/南の故郷へ何故に帰れぬ/リムジンのながれよ/答えておくれ/悲しく水鳥は南の岸でなき/荒れた野良には/むなしく風が立つ/幸せ花咲く祖国の北のうた。》
松山は《イムジン河水清く/滔々と流る/水鳥自由にむらがり飛びかうよ/我が祖国南の地/思いははるか/イムジン河水清く/とうとうと流る/北の大地から南の空へ/飛びゆく鳥よ自由の使者よ/誰が祖国を二つに 分けてしまったの/誰が祖国を分けてしまったの》と歌詞を変えた。
おそらく松山さんは朝鮮学校の友人たちを取り巻いていた時代の空気に対する反発のようなものを持っていたに違いない。言わば「帰国事業」で「在日の友人たちが北に渡って行った時期だったからだ。政治的な意図が感じられる原作の歌詞を「幸せ花咲く祖国の北のうた」と、そのままには歌えなかったのだろう。それから年月は流れ、その『幻のイムジン河』は2002年、34年ぶりに封印が解かれた。また、この歌を主題曲にして作られた映画もある。
2006年3月3日に発表・授賞式が行われた第29回日本アカデミー賞で塩谷瞬と沢尻エリカが新人俳優賞を手にした映画「パッチギ!」だ。在日朝鮮人の女学生を演じきった沢尻エリカはこの映画をきっかけに大ブレイク、昨年のあの「別に・・・」の騒動があった直前まで、その人気は知っての通りである。
井筒和幸監督の映画「パッチギ!」の背景は1968年の京都からである。松山康介(塩谷瞬)は府立東高校の2年生。ある日、担任の布川先生(光石研)から親友の紀男(小出恵介)と一緒に、敵対する朝鮮高校との親善サッカーの試合を申し込みに行くように言われる。二人は恐る恐る朝鮮高校に行くが、康介は音楽室でフルートを吹くキョンジャ(沢尻エリカ)に一目で心を奪われてしまう。しかしすぐに彼女は朝鮮高校の番長アンソン(高岡蒼佑)の妹だという事が分かる。康介は楽器店で坂崎(オダギリジョー)と知り合い、キョンジャが吹いていたのは『イムジン河』という曲だという事を教えてもらう。
康介は国籍の違いに戸惑いながらもキョンジャと仲良くしたくて、『イムジン河』をギターで弾こうと決心する。康介は朝鮮語を覚えるために辞書を買い、坂崎からはギターと歌を教えてもらう。そして坂崎から聞いたコンサートにキョンジャを誘う事にする。勇気を出して電話をすると、その日は自分のコンサートがあるからと断られるが、逆にそのコンサートに誘われた康介は「絶対行きます!」と答えていた。その日円山公園では、帰国船で祖国に戻る事を決意したアンソンを祝う宴会が行われていた。そこにギターを抱えた康介が現れみんなから訝しげに見られるが、キョンジャの母(キムラ緑子)がキョンジャと一緒に何か演奏するように声をかけてくれた。二人は康介のギターと歌、キョンジャのフルートで「イムジン河」を合奏する。康介はみんなの輪の中に入れてもらい、キョンジャともすっかり仲良くなる事が出来た。ある夜、康介が川沿いに自転車で走っていると、対岸でキョジャがフルートを吹いていた。康介はいきなり川に入って渡り始める。そしてズブ濡れになりながらキョンジャに「付き合ってくれへんか」と告白する。しかしキョンジャの「もしも結婚する事になったら、朝鮮人になれる?」という質問に、康介は何も答えられなかった。それから映画は様々なエピソードをもって展開していくが、この先は映画を見て欲しい。
在日韓国朝鮮人について、今の韓国人は良くわからない。勿論、今の日本の若い者も例外ではないだろう。映画は日本で上映されただけでなく、韓国でも大ヒットした。その点、在日韓国朝鮮人にそれ程感心を持ってなかった日韓両国の人々に及ぼした影響は少なくないと私は思う。何より、この日本社会に在日韓国朝鮮人という存在がいる事と、我々の目をそむけたい歴史のある部分に彼らが、そして私たちが深く関わっていることは否定できない事実であるからだ。
おわり
映画「パッチギ!」の中のワンシーン
イムジン河を歌う松山康介(塩谷瞬)とキョンジャ(沢尻エリカ)
文楽雑感
~妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)・「金殿(きんでん)の段」をフェミニスト的心情で読む
この、世界に誇る舞台芸術を鑑賞することが出来て、まさに「ありがたきしあわせ」であった。
5Kg~10Kgにもなる人形を自由自在に操る三人遣い注1の妙味は大変すばらしかった。その仕草や表情を変え表現を可能にする繊細な作りについては言うまでもなく、歌い手の感情移入に如何に心を打たれたか、太棹注2の迫力でどれだけ気持ちが浮かれていたか等々、ここで繰り返し書いても意味がないので、文楽そのものの素晴らしさはさて置き、物語の内容、つまり、ストーリの話をすることにしよう。
先の国立劇場が作った文楽の解説書によれば、世界に数多く存在する人形劇それらのほとんどすべてが単純な内容の神話やお伽話(とぎばなし)を扱ったものでコミカルな内容のものか幻想的な短編で、文楽のように一日がかりのシリアスな長いドラマを展開するものはないと言う。
今回、鑑賞した作品は文楽の中でも藤原鎌足の蘇我入鹿と討滅を描いた「妹背山婦女庭訓」であった。私は人形浄瑠璃に関して僅かな知識しかなく、作品の事は何もわからなかっただけに、古い言葉で語る義太夫節(ぎだゆうぶし)注3と人形の動作だけで物語のすべてを理解することは無理であった。にもかかわらず、私の脳裏に焼きついた印象と、物語りに対する好奇心はどんどん膨らんでいったので、そこで台本から作品を読み直すことにした。国立劇場の鑑賞ガイドと床本注4を照らし合わせながら読んだが、最も強烈な印象が残った文楽のあの場面に自然と注目するのは言うまでもない。
疑着(ぎちゃく)の相
「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)・金殿(きんでん)の段」は、その複雑かつ作為的な筋立てでひときわ異色な作品と思われる。ここで「金殿」の最後の場面・お三輪が鱶七(ふかしち)に刺し殺される場面を中心に考えてみたい。鱶七(実は藤原淡海の家来で金輪五郎)はなぜお三輪を刺し殺したのか。このことは鱶七の述懐で明らかになるのであるが、年取った蘇我蝦夷には子供がいなかった、そこで占いの博士の進言により白い牝鹿の生血を母親に飲ませてその霊験により男の子を得たのが蘇我入鹿であった。入鹿が悪の超人的な力を有するのはそのためで、この入鹿の悪の力を打ち破るには、爪黒の鹿の血汐と・疑着の相ある女の生血を笛にかけて吹くこと、そうすると入鹿は正体を無くして滅びるのだ、というのである。そこで鱶七は疑着の相あるお三輪を刺し殺し、その血を笛に注ぐ。
「疑着の相」というのは執着の相、分かりやすく言えば、嫉妬に狂った女の相を言う。どうして執着の相ある女の生血が入鹿の霊力を無くす力を持つのだろうか。入鹿のように自然の摂理に反して生まれてきた人間はいわば「魔性」の存在で、これを滅ぼすにはこれに対抗する「魔性」をもって立ち向かわねばならないというのであろうか。であれば、お三輪の「疑着の相」というのは単なる嫉妬や怒りの形相だけではなく、なにかとんでもない「魔の形相」だと言わねばならないように思われる。
三輪の恋の行方
三輪の里の杉酒屋の娘お三輪は、烏帽子折りに身をやつしている求馬(=じつは藤原淡海)と恋仲であった。ところがその求馬のもとに夜な夜な通う正体不明の女(じつは入鹿の妹橘姫)がいることを知り、お三輪は激しく嫉妬する。「道行恋(みちゆきこいの)苧環(おだまき)」では、この求馬をめぐる二人の女の争いがあり、求馬の裾につけた糸に手繰り寄せられるようにしてストーリは「金殿」につながる。お三輪を嬲(なぶ)り、からかう官女たち。彼女らは世間から遮断された宮廷の生活のなかで、異性の愛の不毛の世界にひからびてしまった女たちとして描かれている。官女たちは鱶七の男性的な体臭に狂喜しすがりつこうとする(しかし鱶七は相手にしない)一方で、迷い込んできた身分の低い同性の・お三輪には冷酷ないたぶりを仕掛ける。彼女らにとってこれは単なる憂さ晴らしのつもりでもあるが、同時に、自分たちにおよそ無縁な「愛」というものに胸を焦がしている若い娘に対する強い憎しみさえ感じられる。官女たちは鱶七に相手にされなかった事からくるイライラを弱い立場のお三輪をいじめる事で解消しようとするのである。官女たちは散々にお三輪を嬲ったあげくに立ち去るが、ここでお三輪は「エエ胴欲じゃわいの。男は取られその上に、またこのやうに恥かかされ、何と堪へて居られようぞ。思えばつれない男。憎いはこの家の女めに見かえられたが口惜しい」と叫んで、袖を喰い引き裂き、髪を振り出して駆け出してしまう。「エエ妬ましや、腹立ちや、おのれおめおめ寝さそうか」
求馬をひたすらに恋しいと思う心が、官女たちに散々からかわれて、そのプライドがズタズタにされたお三輪の心境は、悔しさ・怒りで燃え上がる。ここにおいてお三輪はその形相を「疑着の相」に変えるのである。行く手に立ちふさがる鱶七に「オオそなたも邪魔しに出たのじゃな、そこ退きゃ」と叫ぶお三輪、そして三輪の髪を摑み、その脇腹に刀を刺し通す鱶七。疑着の相を持つお三輪の生血が入鹿の魔力を打ち消す力を持つゆえに彼女は殺され、それが愛する男の為と説明され納得して死んで行くのである。
藤原家の陰謀とお三輪の死
「金殿」での官女のいじめは、お三輪のこの形相を引き出すために用意されていたもので、そもそも求馬(=じつは藤原淡海)が三輪を好きになった振りをしたのも、三輪を裏切り入鹿の妹橘姫に乗り移ったのも、全て政敵を殺す為の陰謀であったのだ。だとしたら、藤原淡海は最初から何れ犠牲にする目的で三輪をその兄を狙う目的で椿姫を利用する為に誘惑したとも言えよう。
鱶七(=金輪五郎)から「女よろこべ。それでこそ天晴れ高家の北の方。命捨てたる故により、汝が思う御方の手柄となり入鹿を亡ぼす術のひとつ。ホホウ出かしたなあ」と称えられただけで、三輪は本当に納得したのだろうか。
「天晴れ高家の北の方」と呼ばれてもお三輪の未練は満たされるはずがない、たしかに、お三輪の場合は彼女が自ら望んで淡海の犠牲になったわけではないし、ある意味では政治的に利用されただけに過ぎない。
「ナウ冥加なや。勿体なや。如何なる縁で賤(しず)の女(め)がさうしたお方と暫(しば)しでも、枕交はした身の果報、あなたのお為になることなら、死んでも嬉しい、忝い(かたじけない)。」お三輪は恋する男の役に立つことを信じ、「高家の北の方」と呼ばれることだけで満足して死んで行ったと、藤原淡海は信じたうのであろう。また、そのように思い込まないと、藤原淡海は、お三輪に対する自らの行為に説明が付けられないのではないのだろうか。
お三輪が本当にそれだけでの理由で納得し、死んで行ったと多くの男性は考えたいのであろう。だからこそ話を女の道徳・「婦女庭訓」に書き残し、正当化しようとしたのではあるまいか。男のずるさなのか、作者は芝居をここで終わらせずに、お三輪に最後の一言を語らせている。
「・・・とは云ふものゝいま一度、どうぞお顔が拝みたい。たとへこの世は縁薄くと、未来は添うて給はれ」と言わせ、更に「この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様もう目が見えぬ、懐かしい、恋しや」と。
このように同情を引くような終わらせ方から、「近松半二注5はお三輪の恋心を大切にし、深い愛情を込めてこの作品を書いた」と評するむきもあるようだが、女の私からみれば、身勝手な男の論理(後ろめたさ)に過ぎないように思われる。きっとお三輪は、男に騙され、無念の思いと悔しさを胸に、死んで行ったのに違いないと私は思う。
おわり
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注1 さんにん-づかい【三人遣い】 操り人形の操法の一。一体の手遣い人形を、首(かしら)と右手を主遣(おもづか)いが、左手を左遣いが、両足を足遣いがそれぞれ担当して操作するもの。1734年、「蘆屋道満大内鑑」上演のときから行われたという。日本独特の形式。現在、文楽座に伝承されているのがその代表。
注2 ふとざお【太棹】 三味線の種別で、棹が太く胴が大ぶりのもの。通常は義太夫節の三味線をさすが、広義には浪曲用や津軽三味線も含まれる。
注3 ぎだゆうぶし【義太夫節】 浄瑠璃節の一。初世竹本義太夫が宇治加賀掾(かがのじよう)など古浄瑠璃各派の芸風や当代流行の各種音曲を取り入れ、新感覚で統一し、1684年の竹本座旗揚げ公演より語り出したもの。のち門人豊竹若太夫が独立して竹本・豊竹二座に分かれた。大いに盛行し、浄瑠璃といえば義太夫節をさすほどに流布した。義太。
注4 ゆかほん【床本】 義太夫節の太夫が床(高座)で語るのに用いる義太夫本。特殊な書体で書かれた大字の書き本で、太夫の語る節が朱で書き入れられている。
注5 ちかまつはんじ 【近松半二】 (1725-1783) 江戸中期の浄瑠璃作者。大坂の人。本名、穂積成章。以貫(これつら)の子。二世竹田出雲に師事。雄大な構想、複雑な趣向を好み、歌舞伎的な手法を多用。竹本座の立作者として衰退期の浄瑠璃界の最後を飾った。作「奥州安達原」「本朝廿四孝」「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」など。