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画家の中島潔さん

 清水寺に飾る46枚のふすま絵を5年間製作して、飾られたということで話題になっていた事もあるが、私はそれより三年ぐらい前、偶然にも彼の版画を買っていた。それは300枚版画のなか確かに162枚目だったと思うが、25万円払った。下の絵である。画集も持っている。だから、その話を聞いてとても嬉しかった。

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 彼の絵を前にすれば誰でも思う。見たことのある絵、
どこか懐かしい絵、動いてるみたいに見える絵。特に清水寺に飾られた大漁というタイトルの絵には圧倒されてしまうだろうね。私が持っている絵はわらべ歌シリーズの春の花畑の子供の絵である。


 NHKインタビューで正直に自分の内面を語る中島さん。18歳で他界した母のこと。すぐさま再婚した父を許せず故郷を飛び出たこと。絵は中島さんにとって父に対する怒りが原動力だったこと。でも数年前に父が死んだという知らせを聞いたとたん人生どうしようもないことがあるんだということを受け止めることが出来たこと。自分の愚かさを悟ったこと。

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 人間は悲しい体験をもとに大きく成長することもある。


2013/06/03 18:15 2013/06/03 18:15






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Title of Entry :
Van Gogh Fantasy
Name : Moon Jong Ho, Korea
Youtube URL : http://www.youtube.com/watch?v=453kvXrzW0M















2012/09/06 13:34 2012/09/06 13:34


山崎まさよしの歌 One More Time, One More Chance








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2012/08/03 18:35 2012/08/03 18:35





滝平二郎 (たきだいら-じろう)
 
1921-2009 昭和後期-平成時代の切り絵画家。
大正10年4月1日生まれ。戦後,木版画から切り絵に転じ,昭和44年から9年間「朝日新聞」日曜版に農村をテーマとした切り絵を連載。45年斎藤隆介の文による絵本「花さき山」で第1回講談社出版文化賞。斎藤とのコンビで「ベロ出しチョンマ」「八郎」など,おおくの作品を生み出した。
平成21年5月16日死去。88歳。茨城県出身。石岡農学校(現石岡一高)卒。


 

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2012/07/13 14:04 2012/07/13 14:04


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 木村荘八は戦前、戦後を通じて活躍した日本を代表する挿絵画家の一人である。見識も広く作品は挿絵だけにとどまらず随筆、美術評論にまで及ぶ。

 最近見つけたもので『花の生涯畫譜』という本である。これは昭和二十八年から毎日新聞に連載された舟橋聖一の『花の生涯』に木村荘八が描いた挿絵、408点の中から100点をピックアップしてまとめたものである。この中の絵は本当にどれもすばらしいと思う。

最近の小説を見ていて残念に思うのは挿絵が入っているものがほとんどないということだ。古書店などで古い時代物の小説によい絵が付けられていたりすると話しの内容はどうでもつい買ってしまったりする。本づくりのコストということもあるだろうが、もう少し挿絵というものが復活してくれたらと思う。

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 牛鍋チェーン店・いろは創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区(現・中央区)吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら美術家を志す。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。

 旧制中学卒業後、1911年、白馬会葵橋洋画研究所に入学。1912年、岸田劉生と知り合い、ヒュウザン会の結成に参加。1915年、劉生たちと共に草土社を結成、1922年まで毎回出品する。1918年からは二科展や院展洋画部にも出品。院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞受賞。

1922年、春陽会創設に客員として参加。1924年、春陽会会員。1928年、『パンの会』を発表。

1937年に、永井荷風の代表作『濹東綺譚』(朝日新聞連載)で挿絵を、他に大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』、『幻灯』、『花火の街』、『その人』に加え、『激流 渋沢栄一の若き日』、『鞍馬天狗敗れず』がある(2009年に各未知谷で再刊。なお鞍馬天狗は、戦時中の新聞連載のみで未刊だった)。


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木村荘八:永井荷風著『濹東綺譚』挿絵(1937)より
 
 

 
 
 
今日の出来事



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今朝、出勤途中、見たくない場面に遭遇した。
赤坂見附の複車路交差点、弁天橋を渡ったところでばらばらになった鳥の死骸をみたのである。

未だ生々しい血痕と肉の破片・・・ いまも脳裏の片隅に残って消えない。






2011/07/21 15:45 2011/07/21 15:45

Women in the Arts


ルネサンスの中の女性画家

 ルネサンス以前は、女性が芸術の分野で、大きな役割を担っていた。しかし、ルネサンス期は、芸術そのものの定義が変化した時代でもある。女性は工房からも締め出されるようになったようだが、そういった中で芸術家となり得たのは、特権階級の女性たちであった。
 
 貴族階級や中流階級では、女性が学校へ行くことは、しつけの重要な要素であった。男性に比べ、学校教育はそれほど厳しく厳格なものではなかったようで、知性的で、非凡な女性には、以外にも並外れた自由が保障されたようである。
 ルネサンス期、男性社会はヒューマニズムに夢中であったが女性はどうだったのだろうか。ヒューマニスト達は、キリスト教と古代ギリシャ・ローマの理想を融合させることを追求しながら、「個人」を生み出していった時代であり、教育も重要視された。
 
 カスティリャ女王イザベラ (1474-1504) は、芸術家達のパトロンであり、コロンブスの航海を財政面で支援し、スペインのカソリック教会を統合するなど、並外れた才女であった。一方、英国のエリザベス一世 ( 1533-1603 ) は、50年あまりにわたって君臨し、大英帝国の土台を築いた。
 
 芸術の分野でも、数少ないが女性の成功者たちがいた。彼女らはほとんどが、芸術家の娘たちで、父親のアトリエで働いていた。
 


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ソフォニスバ・アンギッソラ ( 1532-1625 ) イタリア ルネサンス
 
Sofonisba Anguissola
 


 クレモナの貴族。五人姉妹の一人。ベルナルディーノ・カンピとベルナルディーノ・ガッティに学ぶ。父親を通してではあるがミケランジェロが彼女に絵画を送り、彼女はそれを模写して、ミケランジェロに見てもらった。彼女は多くの作品を残していて、合わせると50あまりに及ぶ。

 1560年、スペインの宮廷画家となり、1580年、バレルモに移住。そこで、生涯を終えた。96歳のときに、フランドルのヴァン・ダイクの訪問を受けている。ファン・ダイクは彼女の肖像画を描いた。
 彼女は、絵画だけではなく、音楽やラテン語も学んだ。重要なことは、彼女が、階級と性を乗り越えて、スペインの宮廷画家となり、イタリアでは教皇から注文を得た、ということである。

 アンギッソラは解剖学を学んでいない。それゆえ、半裸、全裸が描けなかった。ということは、宗教画、歴史画を描くにいたらなかった、ということになる。しかし、彼女は身近な人物を描き、「家族の肖像」という、新しい肖像画の分野の初期の草分けになった。さらに、彼女は自画像を多く描いた。

 Sofonisba は、女性では初めて、国際的に認められた画家であった。Campi の元で学び、以後、有名な画家達が女性を弟子として受け入れられるようになった。
ミケランジェロが彼女に絵画を送り、彼女はそれを模写して、ミケランジェロに見てもらった。彼女は多くの作品を残していて、その数は50あまりに及ぶ。 

スフォニスバ・アングイッソラ作品
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/a/ang

※ 「Anguissola」の読み方について・・現代イタリア語的に読めばたぶん「アングイッソーラ」。ただ「アングイッソーラ」なのか「アングイッソラ」なのか確証がありません。「アンギッソラ」という呼び方は現代イタリア語的には正確でないけれど、当時はラテン語的な読み方をしたりとかもあったし、そういう意味では彼女をなんと呼ぶのがいちばん正しいのか、いつかわかる日がくるまでおあずけ。

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Self Protrait

1554
oil on canvas
Kunsthistorisches, Viena



















 
 


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Double Portrait of a Lady & Her Dog


no date
oil on canvas
National Museum of Women in the arts


















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Portrait of Sister Minerva

1559
oil on canvas
Layton Art Collection




















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Portrait of Philip II


1573
oil on canvas
Museo del Prado, Madrid




















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Elizabeth of Valois


1565
oil on canvas
Museo del Prado, Madrid




















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Profile Portrait of a Young Woman


Oil on canvas, 68,5 x 52,5 cm

The Hermitage, St. Petersburg



























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ラヴィニア・フォンターナ(1552-1614) イタリア
Lavinia Fontana

 もし、女性画家がルネサンスを向かえたとしたら、それはフィレンツェでも、ローマでもなく、ボローニャに違いない。その時期も15世紀じゃなく、16世紀~17世紀におけるもになる。ラヴィニアは幸運にも
イタリアのボローニャで育った。ボローニャ大学では、中世から女性に対する教育が行われていたので、彼女にとってこの地は学術や芸術の才能を伸ばすチャンスを与えた。その面で彼女は恵まれた事になる。ボローニャ大学出身の女性画家は、ボローニャの守護聖人・聖カタリナに値した。

 初めて成功した女性画家は、ラヴィニア・フォンターナであった。彼女は画家として、家族を支えていた。父親は有名な芸術家であり、教師であった。この父親の理解のもと、彼女は才能を伸ばしていったのである。
 1577年に、ラヴィニア・フォンターナは父親のアトリエで働いていた Giano Paolo Zappi と結婚する事になった。Zappi は、彼女の才能を認め、自分の仕事をあきらめ、財政面での管理、11人の子供の世話や作業の補助などをして妻を助けてた。

 彼女は、当時階級が低いとされた、肖像画や静物画を描いていたのではない。男性・女性のヌードを含む、聖書や神話を主題とした絵画を数多く描いた。教会堂の祭壇背後の飾り壁を描いたりもした。当時、こういったものを描くには、ヌードモデルを研究しなければならかった。彼女においては、差別など払拭してしまうほどの才能があったのである。

 1603年にローマに移って、ローマの巡礼教会のために、有名な Strong of Ft. Stephen Marttye を描いているが、残念ながら、1823年の火事で焼失している。ローマの芸術院から、仕事を依頼されたのは、女性では彼女が初めてである。

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Holy Family with Saint John
no date , Oil on metal
National Museum of Women in the Arts





















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Portrait of Pope Gregory XIII (Ugo Buoncompagni) (1502-85)

oil on canvas
bridgeman berlin























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BIANCA CAPELLO de’ MEDICI (1548-1587),

Italian noblewoman, second wife of  Francesco I de’ Medici
 
























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Minerva Dressing

1613
Oil on canvas
Galleria Borghese, Rome

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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アルテミジア・ジェンティレスキ (1953-0652) イタリア
Artemisia Lomi Gentileschi


 17世紀イタリア、カラヴァッジオ派の女性画家。画家としてのその業績の偉大さにも関わらず女性であることで、20世紀後半までその名を広く知られることがなかったこと、その生涯においてレイプ事件の被害を訴訟した公文書が残ることなどから、ジェンダー研究の対象としても知られる。

 アルテミジアはローマに生まれた。父親オラツィオ・ジェンティレスキは画家である。近年、フェミニスト(男女同権主義者)の批評家が、彼女を復活させるまで、多くの彼女の絵画は父親が描いたもの、とされていた。カラバッジョの影響が濃く、影と光を巧みに描いた。彼女の才能は若い頃から花開き、父親はそれを理解して、遠近法をもっと習得させようと、個人的に教師をつけた。
 女性的な絵画も描いているが、彼女は暗く、激しい、場面を描くことで知られている。フェミニスト(男女同権主義者)の批評家によると、彼女の絵画の暴力的な描写は、彼女自身が受けた暴力から来るのではないか、と言われている。
 
 19歳の時に、Altemisia は個人教師から何度もレイプされて、それを訴えている。しかし、その訴えは、レイプをしたほうよりも、された彼女自身を傷つけた。
彼女の訴えを確かめるために、彼女自身が実際に、親指締め具で拷問を受けているのである。そのあげく、訴えられた男は、無罪放免となっているのである。裁判の一ヵ月後、彼女は結婚し、フィレンツェに移り住んだ。そこでメディチ家の援助を受け、すばらしい絵画を描いている。1616年、女性で初めて、正式なアカデミーの会員となった。後にナポリに移り、そこで安楽に暮らした。

 Artimisia は肖像画家として知られていたが、歴史絵画、宗教絵画が評判になり、並外れた女性画家としての名を残した。

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『絵画の女神としての自画像』 Self Portrait as the Allegory of Painting 
 1630、Oil on canvas
The Royal Collection

この自画像は長い間、無名作品として倉庫に置かれていた。
当時、女性みずから絵を描く、などとは考えられなかったのが一つの理由にあるということである。当時、女性は、芸術家にインスピレーションを与えるミューズとしての役割しかなかったのである。
彼女の激しさは、自画像にも表れている。描くことに夢中になっている姿である。意志の強さ、実直さがよく表れている。
当時、こんなに仕事に打ち込む女性の姿を、描くなどどいうことはなかっただろう。髪を振り乱し、飾り気のない姿は、「女性らしさ」をわざと前面に出さず、彼女の個性のみを描いている。


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ホロフェルネスを殺すユディット
1620年頃
(Giudetta che decapita Oloferne)
199×162.5cm | 油彩・画布 | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 カラヴァッジョの作品から構想を得て、画家の生涯中に繰り返し描いた≪ユディットとホロフェルネス≫の物語から、特に白眉の完成度を見せるアルテミジア・ジェンティレスキの代表作『ホロフェルネスを殺すユディット』。

 本作の主題≪ユディト≫は、第二正典のユディト記(ユディト書)を典拠とした架空の物語で、アッシリア王ネブカドネツァルの命により、軍を率いて侵攻する将軍ホロフェルネスに近づき、酔いつぶれたところをユディトが斬首、自身の住むベツリアの街(ヘブライ語で神の家を意味する)を救う内容である。本作は、その最もドラマティックな斬首の場面を描いたもので、リアリティに富んだ写実性に加えエロティックでありながら暴力的な描写で、当時より極めて高い評価を得ていた。



※まだ作成の途中です。m(__)m


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2009/12/21 18:48 2009/12/21 18:48

グスタフ・クリムトの象徴主義

大学の図書館で偶然に目にした「グスタフ・クリムト(Gustav Klimt、1862 - 1918)」の画集。今まで見たことない絵でした。同時の感動を思い出しながら、グスタフ・クリムトの代表作をまとめて整理してみました。

グスタフ・クリムトは、ユーゲントシュティールを代表する画家であります。1897年にウィーン分離派を結成し、初代会長に就任しました。ライナー・メッツガーによると、世紀末のウィーンは、“大いなる無節操”でありましたが、クリムト自身も“大いなる無節操”を体現した人物であったといいます。金箔を多用した作品群は、豪華絢爛でありながら退廃的なエロスを醸し出しているとも言えるでしょう。

※下記の絵はクリックすると大きく見られます。


【ダナエ Danae】
  
1907-08 Private collection                                               「ダナエ」のための習作 

【水蛇 I、Ⅱ Water Serpents I,Ⅱ】
   
1904-07 Austrian Gallery         

【パラス・アテナ Pallas Athene】

1898 Historisches Museum der Stadt Wien, Vienna

【裸の真実 Nude Veritas】
    
1899 Theatre Collection of the National Library, Vienna

【水の精 Mermaids (Whitefish)】

1899 


【金魚 Goldfish】
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1901-02


【希望 I、Ⅱ Hope I,Ⅱ】
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1903 National Gallery of Canada   

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1907- 08 The Museum of Modern Art, New York


【ユディト I、Ⅱ Judith I,Ⅱ】
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1901 Osterreichische Galerie, Vienna   

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1909 Galleria d'Arte Moderne, Venice


【ひまわりの園 Farm Garden with Sunflowers】
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【ひまわり Sunflowers】
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【女の生の三段階 The Three Ages of Woman】
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1905 Galleria Nazionale d'Arte Moderna, Rome


【アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I、Ⅱ Portrait of Adele Bloch-Bauer I,Ⅱ】
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1907                                     
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1912



【接吻 The Kiss】
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1907-08 Osterreichische Galerie, Vienna


【死と生 Death and Life】
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1916 Private collection


【鶏のいる並木道 Garden Path with Chickens】
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【音楽 Music I】
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1895 Neue Pinakothek, Munich


【エミリー・フレーゲの肖像 Portrait of Emilie Floge】
   


【メーダ・プリマヴェージの肖像 Portrait of Mada Primavesi】

1912 Metropolitan Museum of Art


【ヘレネ・クリムトの肖像 Portrait of Helene Klimt】
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【夾竹桃と二人の少女 Two Girls with Oleander】
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【愛 love】
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1895 Historisches Museum der Stadt Wien, Vienna



【「彫刻のアレゴリー」のための習作 Allegory of sculpture】
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2009/11/17 10:06 2009/11/17 10:06

Kandinsky

文化/絵の話 2008/07/03 17:38

Vasiliy Vasil'yevich Kandinsky Colorful Ensemble (738x550pix, 96kb)


Autumn in Bavaria (1908, 33x45cm) Improvisation 7 (1910, 131x97cm) Composition IV (1911, 159x250) Composition V (1911, (190x275cm) Composition VI (1913, 195x300cm) Composition VII (1913, 200x300cm) Fragment 2 for Composition VII (1913, 88x100cm) Composition VIII (1923, 140x201cm) Composition IX (1936, 114x195cm) Composition X (1939, 130x195cm) Black Spot I (1912, 100x130cm) Ravine Improvisation (1914, 110x110cm) On White II (1923, 105x98cm) Small Pleasures Black and Violet (1923) Contrasting Sounds (1924, 70x50cm) Painting with Houses (408x550pix, 50kb) Yellow, Red, Blue (1925, 127x200cm)

 



- ワシーリー・カンジンスキー Wassily Kandinsky -



<時代を変えたアーティスト>

 ワシーリー・カンディンスキー、1866年に生まれ1944年第二次世界大戦の終戦を待たずにこの世を去ったこの天才画家の存在は、このサイトで取り上げている20世紀後半という枠からはちょっとはみ出しています。しかし、彼の作品がその後の画家やアーティストたちに与えた影響の大きさ、そして、彼の作品が未だに多くの人にインパクトを与え続けている事実を考えた時、その存在感は現役のアーティストをはるかに越えているとも言えます。僕自身、彼の作品を最初にじっくりと見たのは、1987年に東京国立近代美術館で行われた大規模な展覧会が初めてでしたが、その衝撃は僕の美術に対する考え方を大きく変え、美術に対する興味を膨らませてくれました。

 どの芸術ジャンルにおいても、「時代を変えるアーティスト」は、あらゆるジャンルを横断的、総合的に見渡す広い視野と遙か先を見通す先見性を合わせ持っているものです。古くは、レオナルド・ダ・ヴィンチのようにアーテイスト兼科学者兼発明者兼哲学者のような人物がいました。音楽の世界でも、マイルス・デイヴィスのようにジャンルを越えて音楽の範囲を拡張した人やザ・ビートルズのように音楽だけでなくファッション、美術、映画、政治にまで影響を与えたアーテイストもいます。

美術の世界でも、20世紀後半にはアンディー・ウォーホル のようなマルチ・アーティストが後に現れていますが、カンディンスキーはその先駆けとも言える総合的なアーティストでした。彼は抽象絵画の先駆者であるだけでなく、舞台美術家、評論家、出版者としても活躍し、多様化する20世紀の芸術を代表する人物となりました。彼こそ、20世紀前半を代表する芸術家と呼ぶに相応しい人物です。先ずはそんな彼の素晴らしい言葉から始めて見たいと思います。

「どんな作品にも空虚な場所がいつまでも残っていなくてはなりません。つまり拘束的であってはいけないのです。おそらくそれは”永遠の”法則ではなく、”明日の”法則でしょう。わたしは慎み深く、!”明日”で甘んじます」


<天才誕生>

 1866年、ワシリー・ワシリエヴィッチ・カンディンスキーはモスクワで生まれました。父親のワシリーは東シベリアの生まれで、お茶などを扱う商売人でかなり裕福な家庭でした。しかし、彼が5歳になった頃、父親の病気療養のため黒海沿岸のオデッサに引っ越してすぐに両親は離婚してしまいます。そして、ちょうどこの頃、彼は素描を描くようになり、絵画に引き込まれて行きましたが、それはまだ単なる趣味の一つにすぎませんでした。

 1886年、彼はモスクワ大学に入学し、そこで法学や経済学を学びました。さらに、大学在学中に彼は自然科学、人類学、民族誌の調査隊メンバーとして、ロシア北部ヴォログダ地方を旅しています。この時の体験は、後に彼の作品にも大きな影響を与えることになります。彼は家中が様々な彫り物や装飾模様で覆われたある民家での体験について、こう後に語っています。
「その家はわたしに、絵のなかを動き回るということ、絵の中で生きるということを教えた。・・・最後に室内に入った時、わたしは自分が四方八方から絵に取り囲まれているような気がした。わたしは絵の中に組み入れられてしまったのだ」

「・・・わたしの中で、自分の芸術のさらなる願望や目標がはっきりとした形をとってきたのは、おそらく、こうした印象を通じて以外ではないのだ。わたしは多年にわたって、観る者が絵の中を”散歩”し、われを忘れて絵の中へ溶け込んでしまうようにする可能性を探し求めてきたのである」


<画家への転身>

 1892年、彼は法学試験に合格し、翌年モスクワ大学法学部の助手となります。その後モスクワ市内の印刷工場で美術主任となり商業美術の専門家としても活躍するようになり、そのマルチな才能を発揮し、成功を手にしかけます。しかし、1896年、モスクワで開かれたフランス美術展での衝撃的な出会いにより、彼の人生は大きく変わることになります。それは、会場に展示されていたモネの作品「積みわら」との出会いでした。
 有名なモネの「積みわら」は、一見すると畑にわらを積み上げた様子を描いただけのどこにでもある風景画に見えるかもしれません。しかし、実はこの作品にはいろいろなバリエーションがあり、それぞれがまったく異なる「積みわら」の表情を見せています。それは積み上げられたわらを描いた「静物画」でありながら、「積みわら」という特殊な形態を用いて非現実的な世界を描き出した抽象絵画のようにも見えるのです。そのため、モネのこの作品は後に抽象絵画の原点だったと言われることになります。カンディンスキーは、そのことにいち早く気づき、その衝撃によって自らも画家の道を歩み始めようと決意したのでした。
 こうして、画家一本に道を決めた彼はミュンヘンに移住。そこでアントン・アズベの画塾に入り、本格的に絵画について学ぶとこになりました。1900年にミュンヘンアカデミーに入学した彼は、仲間たちと展覧会を自主的に開催するためのグループ、「ファーランクス」を結成します。


<風景画から抽象絵画へ>

 画家としてスタートした当初、彼は風景画を熱心に描いています。そして、そこからしだいに色彩を重視する抽象的な絵画へと作風を変化させて行きました。それは彼が最初に衝撃を受けたモネの影響だったのかもしれません。
「わたしは漠然と、自分が王国の秘密を感じとっているような気がしていた。しかし、わたしには、この王国を芸術の王国へと結びつけることができなかった。・・・わたしには時折、自然が芸術家の努力をあざ笑っているように思われる時があった。だが、それにも関わらず、自然はあまりにもしばしば、わたしの前に抽象的な意味で『神のごとく』姿を見せるのである。・・・」
 彼は風景から直接色を感じとり、それをキャンバスに移し替えることで新しい絵画のスタイルを生み出そうとしていました。彼にとって、色彩以前に世界はなく、色彩が初めてそれを現象させるというふうに考えていました。
 こうして、彼の作品はしだいに具象から離れ、色彩と単純化された形からなる抽象的な作品へと進化し始めました。


<「青騎士」発刊>

 1912年、彼は友人たちと「青騎士」年鑑を発刊します。この本は絵画だけでなく、シェーンベルクらの音楽家の文章や楽譜、それに世界各地の版画や絵画なども載せた芸術ジャンルの枠を越えた総合的な芸術年鑑に仕上がっていました。「青騎士」の仲間たちは、この後自らの手で展覧会も開催し、芸術においてひとつの大きな流れを作ることになります。
「わたしたちは、このささやかな展覧会において、はっきりした特定のフォルムを宣伝しようというのではありません。わたしたちは、ここに並べられているフォルムの相違のうちに、芸術家の内的願望がいかに多様なかたちで形成されるかを示そうとするのです」


<ロシア革命>

 1916年、革命前夜のロシアにもどった彼は、そこで知り合ったニーナ・アンドレイフスカヤと結婚。モスクワに再び住み始めます。そして、翌年の11月16日「10月革命」が起きると教育人民委員会内の造形芸術局(IZO)への参加を求められます。
 彼は迷わず、この申し入れを受け、IZOの演劇、映画部長と「造形芸術」誌の編集長を兼任することになりました。その後彼はモスクワにできた絵画文化美術館の館長など、数々の仕事をこなし、ついにはモスクワ大学の名誉教授にも任命されました。

 しかし、共産党による独裁体制がしだいに固まろうとする中、芸術に対する自由が制限される危険性を感じ始めた彼は、モスクワを発ち、ドイツにもどる決意を固めます。ちょうどその頃、彼にはワイマール州立バウハウス校から招聘の誘いが来ていたのでした。


<バウハウス運動の聖地へ>

 1922年6月、彼はバウハウスに赴任し、その後デッサウ市への移転から、1933年にナチス・ドイツによってバウハウスが閉鎖されるまで、ドイツにおける芸術の発展につくすことになります。
 こうしてみると、彼の人生は「革命のエネルギーに満ちあふれた未来の国ロシア」と「バウハウス運動により頂点を極めた芸術の理想郷ワイマール」二つの黄金時代の中心に位置していたことになります。こうした、エネルギーに満ちた時代を生きたことが、彼の作品に色彩と形の多様性を与え、さらにその統合という困難な仕事を可能にさせたのでしょう。だからこそ、彼の作品には前向きなエネルギーが満ちているのです。


<カンディンスキーと音楽>

 彼は子供の頃、ピアノやチェロなどの楽器を習っており、その後も音楽との関わりが多い芸術家でした。シェーンベルクなど作曲家たちとの交流も多く、彼は作品を製作する際、常に「音楽」を意識した作品作りを心がけていたようです。
「・・・作曲家は、聴き手の手をとって、彼の音楽作品の中に突入させ、一歩一歩その人を導きながら、”楽曲”が終わる時に手を離す。誘導法は完璧である。それが絵画の場合は不完全である。だがしかし!画家も同じくこの誘導法を応用することができるのである。・・・」
 1935年の彼の作品「連続 Succession」は、そんな彼の音楽観を視覚化したものかもしれません。


<芸術の都、パリへ>

 カンディンスキーは、バウハウスの校長を務めるなど、その中心として活躍しましたが、1930年代に入りドイツ国内ではナチスがその力を伸ばし、しだいに権力を手中に収めて行きました。ナチスは、ユダヤ人などの国内の富裕層を弾圧することで大衆の人気を獲得して行きますが、それと同時に共産主義者や芸術家、科学者など、インテリ層にもその弾圧の矛先を向け始めます。こうして、カンディンスキーもまたその弾圧の対象となり、危険を察知した彼は1933年、スイスを経由してパリへと逃れました。
 こうして、訪れたパリの街には、数多くのアーティストたちが集まっており、ここでもまた彼はホアン・ミロ、モンドリアン、レジェ、マン・レイ、マックス・エルンストらと知り合い、影響を与え合うことになりました。


<自然科学からの影響>

 彼はバウハウス時代あたりから、芸術以外の分野、特に自然科学やテクノロジーについて、強い興味をもつようになり、その影響がしだいに作品に現れてくるようになります。
 特に彼は有機体が胚の発生中に祖先がたどった進化段階の概略を繰り返すという反復説に感心を持っていました。これはひとつの生命の成長の歴史には、その生命が進化発展してきた歴史をすべて含んでいるという考え方で、彼の作品概念に大きな影響を与えることになります。
 1934年の「分割=統一 Division-Unity」には、彼のそんな考え方が表現されており、1940年の「空の青 Sky Blue」には、彼の考え方が表現されており、1940年の「空の青 Sky Blue」には、生命それも微生物に向けられた彼の愛が感じられます。彼にとっては、微生物もまた一つの完璧な生命体であり、人間もまたそうした生命体が協力し合うことで生まれた生命にすぎないのだと彼は考えていたのでしょう。


<第二次世界大戦>

 1939年、彼はフランス国籍を取得。しかし、この年フランスに対しドイツが戦闘を開始してしまいます。翌年には、ドイツがフランス領内に侵攻し、彼はパリを一時離れます。その後、彼をアメリカに逃がすための運動が起きますが、彼は渡米せずフランスにとどまる決意をします。
 それまで彼はロシア、ドイツから逃亡することで芸術活動を続けてきたわけですが、ついにここで逃亡することをやめたわけです。

 その後、彼はドイツの占領下にも関わらず、秘かに個展を開催するなど、芸術家としてドイツの占領体制に抵抗し続けました。この頃、ドイツ国内で彼の作品は完全に批判の対象となっており、1937年にミュンヘンで行われた有名な「退廃美術展」では、彼の作品が5点も展示され、批判の対象になりました。(これは、今ではある意味芸術家としての勲章とも言えますが)
 結局、彼は最後の祖国フランスを離れることなく、終戦直前の1944年12月13日、78歳でこの世を去りました。


<新しい芸術の指導者として>

 彼が偉大だったのは、自らが作品を発表することで、その芸術観を表現するのと同じように、後に続く後輩達への指導や教育のための理論作りにも力を尽くしたことです。こうした、彼の活動は自分の作品にフィードバックされることで、自らの作品の質をさらに向上させることにもなりました。

「完全な理論を築いたり、絵画の一般的な基礎を構成したりすることは、我々の時代には以前にもましてできそうにもないことである。・・・しかし、絵画には、確実な規則、主調低音を想起させるような原理など決して存在しない、とか、そうしたものはアカデミズムに通じるだけだ、とか主張することも、また早計であろう」
 そして、彼は自らの手で一つの芸術理論を築き、それを数々の作品とともに後世に残したのです。

「・・・表面的な調和、外面的な秩序で拘束せず、個々の要素を、その力、その生命を発揮、一方、仲介者である芸術家は、ひとつの体験をつらぬいて持続する不変なるもの-それは、抽象的で、ことばのおよばないレベルで、直観されたもの-を問いつつ、外面的なものを隠し、絵画の内側から本質的なものが開かれるのをな待つ。・・・」


『カンディンスキーのコンポジション概念について』 市川政憲
 20世紀前半、激動のヨーロッパを生き抜いた天才アーティストは、素晴らしい芸術を生み出した理想の時代と芸術そのものを否定する悪夢の時代をくぐり抜けながら、その激動の生涯を終えたのでした。

<締めのお言葉>
「私は悲しくもまた幸福である」
ワシーリー・カンディンスキー「ガブリエーレ・ミュンターへの手紙」より



2008/07/03 17:38 2008/07/03 17:38