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  1. 2009/09/07 センチメンタルな社会主義者 『ウィリアム・モリス』


センチメンタルな社会主義者 『ウィリアム・モリス』
           
            
 はじめに

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 エンゲルスは「モリスは根深くもセンチメンタルな社会主義者」注1 と言った。モリスの社会主義が、イデオロギーよりむしろ情熱的な基礎の上に立って、労働者たちに「人間であれ」と望んでいることは、モリスの政治的確信が、彼の出会った社会状態への反作用のうちに展開した、まるで「時代に対する十字軍、聖戦」注2 そのものである。

 モリスの政治活動は1868年のブルガリア問題でスタートしたようだが、彼はカーライル、ラスキン、ミル、マルクスと比較して独自の大思想家とは言えない。論理も強くなく、経済学者としても粗雑である。しかし彼はいろいろな人々からアイディアを捉えてきて、人間社会についての解釈を構築する。たとえば「階級闘争」という言葉に、モリスは現在のいわゆる社会主義を意味つけるのみでなく、野蛮から文明までの人間の進歩全体を意味づける。そこにモリスのヴィクトリア社会攻撃の背後の力がある。マルクスの論理に武装されて、モリスは彼の同時代のミドル・クラスの基礎に挑戦するのだ。モリスは、自分の内面にたぎる審美的・社会的不満が限度に達した。後にのみ、彼の世界を変える希望実現の手段として政治にむかったのであろう。彼が本当に労働者の苦しみが分かったかどかはともかく、モリスの社会主義運動に同時代のブルジョアのセンチメンタルを感じざるを得ない。


 詩人モリス

 生前モリスは、工芸家としてより、詩人として有名であった。物語詩集『地上楽園』の作者としての、尊敬を受けている名士であった。量の点ににおいて、試作品は驚くべき実績を示した。『ゲニヴィアの抗弁』は2,3敵意ある評をうけたが、かれは『ヤンーソンの一生』と長編『地上楽園』の出版で、突如ヴィクトリア期の最も有名な詩人の一人となった。『社会主義者讃歌』『希望の巡礼』など如何に社会主義の色の漂う表題も多いがその詩集の中では『恋こそすべて』と言うものもある。彼は中世の詩『農夫ピアス』やアイスランドの神話の雄勁な韻律などをとりあげて、新しい詩形を創造し、近代詩形を作り出したといわれる。その詩には像徴と現実が相互浸透の味を出しているとも言われる。さらに、社会主義運動の挫折と結婚生活の失敗の影のまつわる叙事詩、思想詩もある。色々な説もあるが、オックスフォード大学詩学教授に招かれたり、またテニスンの死後、モリス自身の酷評していたグラットストン内閣から桂冠詩人たるべくすすめられたりしたことは、そのいずれも断ってはいるが、当時一流の詩人と目されていたことは明らかである。しかし今日では、モリスが誉められるのは詩人としてより、むしろ工芸家や社会主義者としてである。残念ながら詩のほうは今の流行から遥か遠くなり、その多くはほとんど読まれていない。


 マルクスとモリス

 キングズリーにもカーライルにも初歩的な資本主義批判を見ることは出来る。しかしモリスは1880年代までにこれをはるかに越えて進んでいた。モリスの社会主義論理の中心人物はマルクスになっていたのだ。

 モリスはマルクスの『資本論』を1883年と1887年に二回読んだ。そして丹念にノートをとったようだ。その後さらに『共産党宣言』も、エンゲルスの『空想から科学へ』も読んだ。モリスの講義や手紙に、経済学や階級闘争理論が、無数に出てくるようになった。モリスは『資本論』を「ザ・グレイト・ブック」として引用する。1886年~87年に掛けて、ベルフォルト・バックスと共同執筆した『コモンウィール』二五編の連載物のうち8編は、『資本論』第一巻の経済理論の要約にあてられている。モリスの日記には、この難しい仕事が自分の中に若干のマルクスをたたき込む機会になったのを喜ぶと書いてある。 かれのこの確信はもちろん時により高低があった。しかし、いかにのろのろでも、モリスは事態は革命に向かって動きつつあると考えた。その例で彼はこんな事を書いてる。「ここに二つの階級がいて、顔と顔を合わせている。・・・だれも社会にいて、中立ではありえない。だれもただの傍観者ではありえない。一つの陣営か他の陣営にあなたは加わっている。あなたがたは反動になるか、民族の進歩に押しつぶされねばならぬ。その道に手を貸せ。でなければ、進歩の行進に加わらなければならない。あらゆる反対を踏みつぶせ。その道に手を貸せ」注3

 モリスのこうした妥協しない心情を映す投稿を見て、このヴィクトリアニズムー産業資本家層への「反乱」に身を焼いた「正直」な詩人がおこなう実際運動には、むしろはらはらさせられるほどである。


 戦闘的マルクス主義者 

 モリスは晩年衰えて行くからだで、数多く散文作品を書いた。そして何よりも注意すべきは、最後の年々も戦闘的マルクス主義者の信念と行動を捨てなかったことだ。フェビアニズムもアナキーズムも彼のとるところではなかった。講演、評論を絶やさぬ。だが自信も、一般から見ても、一線から退くムードがなくはなかった。死の前年の1895年12月28日ロンドン、ウォータールー駅前における霧雨の中での野外講演、死の年一月の社会民主同盟念頭集会での帝国主義反対講演など、痛ましくも印象的である。そして、テムズ河岸のケルムスコット・ハウスに死し、愛する田園ケルムスコット・マナーの教会に葬られた。



 芸術家モリスと社会主義者モリスの矛盾

 彼自身が『ジョン・ボールの夢』の中にこんな事を書いてる。「人々は闘争し、戦いに敗れ、そして、彼らが敗北したにもかかわらず、彼らが求めて戦ったものは実現され、そして、実現してみると、彼らが意図したものとは違うものになる」注4

 モリスの時代の後に展開していた世界は、多くの点で、彼が意図したものと違ってしまったのは確かである。社会主義革命と社会主義国の崩壊。彼が想像しなかった複雑さと有り余る豊かさに、現代の私たちは圧迫されているのだ。私たちの前には、可能性として、二つの未来が開かれている。すなわち、一方では、絶滅、そして他方では、万人にとっての、より満ち足りた、豊かな暮らしの可能性である。どちらにしても彼が求めてやまなかった素朴、調和、友愛と、私たちの生活の疲れを癒してくれる自然はかつてないほど、縁遠いものになってしまった。

 しかし私たちは未だに、彼の抱いたありうべき世界へのヴィジョンを渇望しながら、それが得られぬ不充足感を味わっているのである。何時の時代でも、ユートピアを心に抱くものは、最も高貴な精神の持ち主だけなのだから。オスカー・ワイルドはこんな事を書いた。「ユートピアを含まぬ地図など一瞥だに値しない。それを含まぬ事は、人類が常に上陸していく唯一の国を抜かしてしまう事なのだから。そして人類がそこに上陸すると周囲を見晴らし、そして、もっと良い国を見つけて。船出するのだ。進歩とはユートピアの実現の謂である。」注5  モリスはきっとこれに同義しただろう。これが彼のヴィジョンの核心なのだから。

 とはいえ、モリスは多くの点で、矛盾があり、激越で混乱が見られる人物だった。心の中では、過去に、つまり不変の秩序に引かれていたが、頭の中では、新たな秩序を打ち立ってる必要があると確信し、社会革命の中にのみ未来への希望があると考えた。彼は今、この両方を向くヤヌス神のような姿をして立ち現れている。彼の仕事は伝統主義者の仕事であるが、一人の思想家としては、同時代の最も進歩的な諸運動家の先導者であった。

 しかしながら、己の教義を芸術とし人生に押しつけようとする人々を悩ます矛盾が、モリスにも大いにあった。実際、モリスの社会的な芸術理論は彼が現実におこなった実績とはほとんど関係がなかった。かつで彼が自分を評していたように「大地と、大地の上の生に深い愛情を抱いている。」モリスが、自分にとっては無用の教会の内装に多大な時間を費したのはなぜだったのか。たしか彼の教会装飾は彼の生涯の内の初期に属する仕事だった。彼は十九世紀中期のアングロ・カトリック復興運動の要求を満たしたものであり、そうしたら、自分が賛美する中世装飾芸術の型を実践していた。この点で、彼は盛期ヴィクトリア朝ゴシック復興運動の多数の工芸家の中で、ただ一人の存在だった。注6 また、戦闘的社会主義者であるモリスが、バルモラル御用邸やセント・ジェイムズ宮殿、そして裕福な資本家や自由党の政治家連中の邸宅の内装工事をどうして請け負うことができたのかと、問い質すこともできるかもしれない。だがこれにおいてもまた、一人の実業家として、彼はそのような注文を断ることはほとんど無理だったのである。結局彼は、君主制の資本主義の中で生きており、彼らが彼のパトロンだったからである。

 しかしながら、もっと重大なのが、美術職人としての彼の仕事の根本にある矛盾である。多くの講演で繰り返し彼は、芸術における美は、仕事における労働者の喜びの直接的帰結なのだと定義した。芸術は「作る人にとっても使う人にとっても喜びとなる」べきであるから、この喜びなしにはいかなる芸術もあり得ないと彼は言った。だが、彼の壁紙や織物のデザインの半分以上が、マートン・アビイで制作されたものではまったくなく、彼が直接監督して制作されたものでさえなく、外注で造られたものであることがわかっている。いかにマートンでの労働条件が「理想的」であったにおしても、モリス・デザインを手押しの版木でプリントする作業に懸命に取り組んでいる無名の労働者たちが自分の仕事に幸福を感じていたかどうか、モリスにどうしてわかっただろうか。モリスが最も猛烈に非難し、中世職人の時代以後の全てのデザインの退廃の元凶だと断じた悪が、労働の分割ということなのだったが、彼はこの悪そのものにここで屈したわけである。いずれにせよ、版木を使って手押しで壁紙や織物を刷る事は、機械刷りよりもはるかに骨が折れる。だがこの方が色合いの点でずっと出来はよい。だから現在もサンダース社が元の梨材の版木を使ってモリスの全てのデザインを刷っているわけである。しかし実際の労役ということに関しては、常に機械の方が手仕事よりも利点を有するものであり、だから、モリス自身の言に従えば手押しで際限のない繰り返し模様を刷る作業に必然的に伴う退屈と倦怠感は、出来上がった製品にある種の生気の欠如という特徴で表れ出てくるはずである。

 ところが、何とも奇妙なことに、それが表れていないのだ。モリスの最良の部類に属するパータン・デザインは、充溢した生命と新鮮さと、自然の成長の感覚が備わっており、それが私たちの目を楽しませてくれるのである。それでもやはり、フラットが「ウィリアム・モリスの矛盾」と題する講演の結論で述べたように「モリスの仕事は、他のどのデザイナーの仕事にも増して、機械な特別な強みでもあるあの一分の狂いもない無限の増殖に最も適応しているのであるが、そんな仕事をした人物が、同時代に機械生産に反対して手仕事を最も雄弁して擁護した主唱者であったと言うのは、何とも不思議な逆説である。」注7

 幸いなことに、こうした矛盾によって史上最も偉大なパターン・デザイナーとしてのモリスの偉大さが減ずるわけではない、彼は己の独創性など少しも主張しなかった。イギリスのデザインの伝統は、中世が幕を閉じて以来衰退の一途を辿って来たのだが、自分はこの衰退が始まった地点から再びこの伝統を取り上げ、これを発展させていたのだとかれはこれだけを主張したのである。

 彼は自分の生きた時代を拒否し、自分をう育んだ社会に対して反抗したのであったけれど、それでも彼は、この時代特有の物の見方で自分を正当化する必要も感じていたのである。「多少詩を捻り出すからと言うだけで、連中は私を夢想家で非実際的だなどと言い放つ。」と彼は抗議した。「私は詩を書かずにはいられないんだ。どうしたって書かなくちゃ行けない。だがね、他の連中に負けずお劣らず、私は実業家でもあるんだよ。」と。

 実業家の夢見る社会主義はどんなものだろう。理想と現実を使い分けているとしか私には思えない部分もない訳じゃないがそれにしても労働者に向かい人間でいて欲しいと願う彼の気持ちそして違う物を見て違うと言い続ける勇気、彼が持つ芸実の才能と彼が築いた多額の財産と作品。我々が知ってる共産革命家とはまるで違う一人のヒューマニストのモリスに、エンゲルスが言った「モリスは根深くもセンチメンタルな社会主義者」注8 と言う言葉に共感を覚える。

              (以上、約5500字)


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モリス商会の壁紙

参考文献

 フィリップ・ヘンダースン著『ウィリアム・モリス伝』川端康夫・  島田均・永江敦訳、(株)晶文社、1990年3月30日発行

 世界の名著 ウィリアム・モリス著『ユートピアだより』五島茂・  飯塚一郎訳、中央公論社 昭和54年11月20発行

 ピーター・スタンスキー著『ウィリアム・モリス』 草光俊雄訳雄  松堂出版、1989年12月25日発行

 五島 茂 著 『ラスキンとモリス』中央公論社、昭和54年


 


注1 1886年9月13日付 エンゲルスがラファルグ婦人宛に書いた手紙

注2 五島 茂『ラスキンとモリス』中央公論社、昭和五四年 20頁

注3 大英博物館追加手稿、45333のモリス未発表公演「商業戦争」

注4 モリス『ジョン・ボールの夢』第四章、語り手の「私」の独白

注5 オスカー・ワイルド『社会主義下の人間の魂』の一説

注6 フィリップベンダースン・ウィリアム・モリス伝・ 546頁

注7 フラット英国国営BBC放送での講演「ウィリアム・モリス伝」晶文社1990年、547頁

注8 1886年9月13日付 エンゲルスがラファルグ婦人宛に書いた手紙 


 

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