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  1. 2009/12/21 Women in the Arts ルネサンス
  2. 2009/11/28 ルネサンスと女性 2
  3. 2009/11/28 ルネサンスと女性 1

Women in the Arts


ルネサンスの中の女性画家

 ルネサンス以前は、女性が芸術の分野で、大きな役割を担っていた。しかし、ルネサンス期は、芸術そのものの定義が変化した時代でもある。女性は工房からも締め出されるようになったようだが、そういった中で芸術家となり得たのは、特権階級の女性たちであった。
 
 貴族階級や中流階級では、女性が学校へ行くことは、しつけの重要な要素であった。男性に比べ、学校教育はそれほど厳しく厳格なものではなかったようで、知性的で、非凡な女性には、以外にも並外れた自由が保障されたようである。
 ルネサンス期、男性社会はヒューマニズムに夢中であったが女性はどうだったのだろうか。ヒューマニスト達は、キリスト教と古代ギリシャ・ローマの理想を融合させることを追求しながら、「個人」を生み出していった時代であり、教育も重要視された。
 
 カスティリャ女王イザベラ (1474-1504) は、芸術家達のパトロンであり、コロンブスの航海を財政面で支援し、スペインのカソリック教会を統合するなど、並外れた才女であった。一方、英国のエリザベス一世 ( 1533-1603 ) は、50年あまりにわたって君臨し、大英帝国の土台を築いた。
 
 芸術の分野でも、数少ないが女性の成功者たちがいた。彼女らはほとんどが、芸術家の娘たちで、父親のアトリエで働いていた。
 


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ソフォニスバ・アンギッソラ ( 1532-1625 ) イタリア ルネサンス
 
Sofonisba Anguissola
 


 クレモナの貴族。五人姉妹の一人。ベルナルディーノ・カンピとベルナルディーノ・ガッティに学ぶ。父親を通してではあるがミケランジェロが彼女に絵画を送り、彼女はそれを模写して、ミケランジェロに見てもらった。彼女は多くの作品を残していて、合わせると50あまりに及ぶ。

 1560年、スペインの宮廷画家となり、1580年、バレルモに移住。そこで、生涯を終えた。96歳のときに、フランドルのヴァン・ダイクの訪問を受けている。ファン・ダイクは彼女の肖像画を描いた。
 彼女は、絵画だけではなく、音楽やラテン語も学んだ。重要なことは、彼女が、階級と性を乗り越えて、スペインの宮廷画家となり、イタリアでは教皇から注文を得た、ということである。

 アンギッソラは解剖学を学んでいない。それゆえ、半裸、全裸が描けなかった。ということは、宗教画、歴史画を描くにいたらなかった、ということになる。しかし、彼女は身近な人物を描き、「家族の肖像」という、新しい肖像画の分野の初期の草分けになった。さらに、彼女は自画像を多く描いた。

 Sofonisba は、女性では初めて、国際的に認められた画家であった。Campi の元で学び、以後、有名な画家達が女性を弟子として受け入れられるようになった。
ミケランジェロが彼女に絵画を送り、彼女はそれを模写して、ミケランジェロに見てもらった。彼女は多くの作品を残していて、その数は50あまりに及ぶ。 

スフォニスバ・アングイッソラ作品
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/a/ang

※ 「Anguissola」の読み方について・・現代イタリア語的に読めばたぶん「アングイッソーラ」。ただ「アングイッソーラ」なのか「アングイッソラ」なのか確証がありません。「アンギッソラ」という呼び方は現代イタリア語的には正確でないけれど、当時はラテン語的な読み方をしたりとかもあったし、そういう意味では彼女をなんと呼ぶのがいちばん正しいのか、いつかわかる日がくるまでおあずけ。

添付画像
Self Protrait

1554
oil on canvas
Kunsthistorisches, Viena



















 
 


添付画像
Double Portrait of a Lady & Her Dog


no date
oil on canvas
National Museum of Women in the arts


















添付画像
Portrait of Sister Minerva

1559
oil on canvas
Layton Art Collection




















添付画像
Portrait of Philip II


1573
oil on canvas
Museo del Prado, Madrid




















添付画像
Elizabeth of Valois


1565
oil on canvas
Museo del Prado, Madrid




















添付画像
Profile Portrait of a Young Woman


Oil on canvas, 68,5 x 52,5 cm

The Hermitage, St. Petersburg



























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ラヴィニア・フォンターナ(1552-1614) イタリア
Lavinia Fontana

 もし、女性画家がルネサンスを向かえたとしたら、それはフィレンツェでも、ローマでもなく、ボローニャに違いない。その時期も15世紀じゃなく、16世紀~17世紀におけるもになる。ラヴィニアは幸運にも
イタリアのボローニャで育った。ボローニャ大学では、中世から女性に対する教育が行われていたので、彼女にとってこの地は学術や芸術の才能を伸ばすチャンスを与えた。その面で彼女は恵まれた事になる。ボローニャ大学出身の女性画家は、ボローニャの守護聖人・聖カタリナに値した。

 初めて成功した女性画家は、ラヴィニア・フォンターナであった。彼女は画家として、家族を支えていた。父親は有名な芸術家であり、教師であった。この父親の理解のもと、彼女は才能を伸ばしていったのである。
 1577年に、ラヴィニア・フォンターナは父親のアトリエで働いていた Giano Paolo Zappi と結婚する事になった。Zappi は、彼女の才能を認め、自分の仕事をあきらめ、財政面での管理、11人の子供の世話や作業の補助などをして妻を助けてた。

 彼女は、当時階級が低いとされた、肖像画や静物画を描いていたのではない。男性・女性のヌードを含む、聖書や神話を主題とした絵画を数多く描いた。教会堂の祭壇背後の飾り壁を描いたりもした。当時、こういったものを描くには、ヌードモデルを研究しなければならかった。彼女においては、差別など払拭してしまうほどの才能があったのである。

 1603年にローマに移って、ローマの巡礼教会のために、有名な Strong of Ft. Stephen Marttye を描いているが、残念ながら、1823年の火事で焼失している。ローマの芸術院から、仕事を依頼されたのは、女性では彼女が初めてである。

添付画像
Holy Family with Saint John
no date , Oil on metal
National Museum of Women in the Arts





















添付画像
Portrait of Pope Gregory XIII (Ugo Buoncompagni) (1502-85)

oil on canvas
bridgeman berlin























添付画像
BIANCA CAPELLO de’ MEDICI (1548-1587),

Italian noblewoman, second wife of  Francesco I de’ Medici
 
























添付画像
Minerva Dressing

1613
Oil on canvas
Galleria Borghese, Rome

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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アルテミジア・ジェンティレスキ (1953-0652) イタリア
Artemisia Lomi Gentileschi


 17世紀イタリア、カラヴァッジオ派の女性画家。画家としてのその業績の偉大さにも関わらず女性であることで、20世紀後半までその名を広く知られることがなかったこと、その生涯においてレイプ事件の被害を訴訟した公文書が残ることなどから、ジェンダー研究の対象としても知られる。

 アルテミジアはローマに生まれた。父親オラツィオ・ジェンティレスキは画家である。近年、フェミニスト(男女同権主義者)の批評家が、彼女を復活させるまで、多くの彼女の絵画は父親が描いたもの、とされていた。カラバッジョの影響が濃く、影と光を巧みに描いた。彼女の才能は若い頃から花開き、父親はそれを理解して、遠近法をもっと習得させようと、個人的に教師をつけた。
 女性的な絵画も描いているが、彼女は暗く、激しい、場面を描くことで知られている。フェミニスト(男女同権主義者)の批評家によると、彼女の絵画の暴力的な描写は、彼女自身が受けた暴力から来るのではないか、と言われている。
 
 19歳の時に、Altemisia は個人教師から何度もレイプされて、それを訴えている。しかし、その訴えは、レイプをしたほうよりも、された彼女自身を傷つけた。
彼女の訴えを確かめるために、彼女自身が実際に、親指締め具で拷問を受けているのである。そのあげく、訴えられた男は、無罪放免となっているのである。裁判の一ヵ月後、彼女は結婚し、フィレンツェに移り住んだ。そこでメディチ家の援助を受け、すばらしい絵画を描いている。1616年、女性で初めて、正式なアカデミーの会員となった。後にナポリに移り、そこで安楽に暮らした。

 Artimisia は肖像画家として知られていたが、歴史絵画、宗教絵画が評判になり、並外れた女性画家としての名を残した。

添付画像
『絵画の女神としての自画像』 Self Portrait as the Allegory of Painting 
 1630、Oil on canvas
The Royal Collection

この自画像は長い間、無名作品として倉庫に置かれていた。
当時、女性みずから絵を描く、などとは考えられなかったのが一つの理由にあるということである。当時、女性は、芸術家にインスピレーションを与えるミューズとしての役割しかなかったのである。
彼女の激しさは、自画像にも表れている。描くことに夢中になっている姿である。意志の強さ、実直さがよく表れている。
当時、こんなに仕事に打ち込む女性の姿を、描くなどどいうことはなかっただろう。髪を振り乱し、飾り気のない姿は、「女性らしさ」をわざと前面に出さず、彼女の個性のみを描いている。


添付画像
ホロフェルネスを殺すユディット
1620年頃
(Giudetta che decapita Oloferne)
199×162.5cm | 油彩・画布 | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 カラヴァッジョの作品から構想を得て、画家の生涯中に繰り返し描いた≪ユディットとホロフェルネス≫の物語から、特に白眉の完成度を見せるアルテミジア・ジェンティレスキの代表作『ホロフェルネスを殺すユディット』。

 本作の主題≪ユディト≫は、第二正典のユディト記(ユディト書)を典拠とした架空の物語で、アッシリア王ネブカドネツァルの命により、軍を率いて侵攻する将軍ホロフェルネスに近づき、酔いつぶれたところをユディトが斬首、自身の住むベツリアの街(ヘブライ語で神の家を意味する)を救う内容である。本作は、その最もドラマティックな斬首の場面を描いたもので、リアリティに富んだ写実性に加えエロティックでありながら暴力的な描写で、当時より極めて高い評価を得ていた。



※まだ作成の途中です。m(__)m


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2009/12/21 18:48 2009/12/21 18:48

髪型とファッション

レダと白鳥
 ルネサンス期の女性像を見てみると、複雑な結び目を組み合わせてリボンや真珠の飾りをちりばめた華麗な髪型が登場してくる。フィレンツェにおいては、特に額の広いのが美しいとされたので、女性たちは、わざわざ前額部分の髪の毛を抜いて額を広げようとした。そして広い額には真珠や宝石などを飾ったりするのが流行になった。肖像画だけでなく宗教画にも、このような当時の流行が反映された。レオナルド.ダ.ヴィンチはミラノ時代、「レダと白鳥」の絵を描くために、複雑な女性の編み込みの髪型を考案したり、ミラノの貴婦人たちの髪型のデザインも心掛けたという。
←レオナルド.ダ.ヴィンチ「レダと白鳥」のための素描)

女性たちは髪のお手入れにも気を使い、当時のヘアケア技術には、いら草の種をアク汁で煮出したものが効果があると記録が残っている。煮汁で髪を洗って自然乾燥させた。その際顔が日焼けしないように頭頂部だけ穴のあいたつばの広い麦わら帽が考案されたという。

        
(フィリッポ.リッピ作1457年頃「聖母子と二天使」部分)  (ポラオウォーロ作婦人の肖像)


 イタリアの染色文化は15世紀は大柄なザクロ模様が中心であったが、16世紀になると、スペインの影響で花の模様が小柄になってくる。またボーダー柄も増えてきてすそ模様に取り入れられたりした。
 当時イタリアは流行の発信地で、ファッション.リーダーは、エステ家の姉妹でマントヴァ公爵夫人イザベッラ.デステ、ミラノ公妃のベアトリーチェ.デステなどの貴婦人だった。

エステ家の姉妹

(イザベッラ(右)とベアトリーチェ(左)ガローファロ画)

 ベアトリーチェは、婚儀の際、80着もの最新流行の金や真珠で豪華に縁どられたドレス、数々の宝石を所有しており、姉に見せびらかそうとした。
 イザベッラは、優雅な着こなしを個性的に考えたり、工夫したりして、それに対抗した。イザベッラはそれほど美しく生まれついたわけではなかったが、人々から優雅でセンスの良い美人だと思われていた。

 隣の国フランスでは、国王フランソワ一世が貴婦人に贈る服の参考にするためや、ルイ12世の宮廷の女官たちが最新のファッションを知るために、イザベッラに彼女と同じ服を着せ、同じ髪型にした人形を送ってくれるように頼んだりしている。こうした服装人形や流行のファッションを描いた版画がファッション雑誌の役目を果たした。またイザベッラ手製の香水や美容ポマードは、ヨ-ロッパ中に知られており、フランス王妃も彼女から送ってもらっていたという。



カテリーナ

カテリーナ.スフォルファの37歳~38歳のときの肖像(ロレンツォ.ディ.クレディ画)


 カテリーナ.スフォルファは、ただ美しいだけでなく政治的才能と残忍な激しさを合わせ持つ「イタリアの女傑」と言われた。特にフォルリの街ではカテリーナの人気は絶大で、彼女の肖像画を複製して売る店が沢山あった。複製画は飛ぶような売れ行きだったという。
添付画像


 そのカテリーナ.スフォルツァ伯爵夫人のスキンケアや化粧術が記録として残っており、カテリーナの死後、これらの記録を集めて「美しくなるための処方箋」という本が出版された。この本をいち早く取り寄せて研究したのは、イザベッラ.デステである。後にカテリーナの親族となったカトリーヌ.ド.メディチもフランス宮廷に嫁いだ時この本を持参しており、パリから全ヨーロッパの宮廷や社交会に長い期間広まったのだった。カテリーナの化粧瓶 (ロレンツォ.ディ.クレディ画)→

 カテリーナの本には、髪を金髪に染める方法も載っていたので、当時赤毛の女性が多かったフランス宮廷に、金髪の女性が増えたという。ほかにも次のような記述があった。
 
「肌を白く美しくなめらかにするには、新鮮な卵の白身を煮て、それをこした湯で洗顔する。顔のしみを取るには、さぎのふんをみじん切りにしてブドウ酒で煮て、こした汁で洗顔する。目の疲れを取るには川魚の油を陽にさらし、それを蜂蜜と混ぜたものを目の周りに塗る。....]

 他にも、髪をより早く長くするには、手を美しくするには、このような調子で美容、健康、堕胎方法にいたるまで細かく著わしていた。
 


          
       ピサネッロ「15世紀の男女の服装」        シニョレッリ「東方三博士の礼拝」部分1485~90年

 15世紀にはゴシック時代の美意識が残る細長いシルエットのモードが流行したが、細部の装飾は繊細で色彩は明るくて鮮やかだった。女性たちは競って奇抜なファッションを楽しむようになる。
 男性もおしゃれになり、若い人は身体にフィットした服を着てきれいに鬚を剃り長髪にしたので、同性愛が流行ったりした。特にカルツェと呼ばれたタイツがメンズ.モードのポイントだった。

 16世紀に入ると誇張されたファッションへの反動で節度と荘重さが時代の風潮になってくる。横長のボリュームあるシルエットが好まれるようになり、色では黒が最も流行する。女性の服も濃い色や、赤、青などが主流となる。

 ヴェネツィアでは、ティツィアーノの美女のような金髪がもてはやされ、怪し気な脱色剤をつけて何時間も日光をあびて脱色したり、厚底の靴が流行って両側から介添えされて歩く女性が増えたり、いつの世もおしゃれに振り回される女心とは同じものかもしれない。

 おしゃれ好きな女性の要求に答えて16世紀には、エレガンスの教師たちが活躍した。彼らは少女たちにエレガンスの作法を細かく説いた。外見に気をつけるのはもちろん、歩き方、テーブルでの座り方、教会や公的場所での振る舞い方、顔色に合うドレス、髪色にふさわしい髪飾り、化粧水やクリームの作り方まで伝授した。女性たちは、あまりにもおしゃれに熱中したため、信仰の厚い地域では、細かい規制が出たほどだった。

「高価な生地の衣服は、結婚してからにすべし。」とか「花冠や花輪で頭を飾ってはならない。」とか「真珠つきボタンは上衣前の5つのみ、フリルは胸、襟ぐり、袖口のみ許可する。」と言った具合である。

16世紀以降のイタリアは、フランス製の絹織り物工業の発展に押され気味で、イタリアのものは流行遅れと見なされるようになる。ジェノバは、カラー.ベルベットの産地として16~17世紀に一世を風靡した。

添付画像
ドメニコ.ギルランダイオ「ヨハネの誕生」1485~90年    
     

添付画像
ルネサンスの楽器

ルネサンスの時代の女性のたしなみのひとつはリュートの演奏であった。

また世俗的な楽器として、スピネットやチェンバロも愛された。




 ←ルネサンスリュート


チェンバロ(左)とスピネッティーノ(右)

※寄り道 <^!^> 音楽家としてのレオナルド.ダ.ヴィンチ。

レオ
ナルドは、決して「モナリザ」の画家だけではない。

 残された手記を見ても、絵画だけでなく、天文、地質、光学、力学、解剖学、機械工学、建築、土木、数学、音楽など、あらゆる分野への取り組みが伝わってくる。自然の姿に隠された法則を見極めようとするレオナルドは、自らを「経験の弟子」と呼んだ。彼の理想を実現させることができるのは、当時大勢力を持つ君主しかいなかった。レオナルドは常に理解ある君主を求めていた。

 レオナルドはミラノ公国のルドヴィコ.イル.モーロの許へ自作のリラ(ギターの前身)を携え、音楽家として売り込んだ。当時のヨーロッパの一流音楽家は、すべてミラノに集まっており、レオナルド.ダ.ヴィンチの音楽家としての名声も高かった。また土木、軍事技術にも詳しいと自薦状に書きイル.モーロの関心をひくことも忘れなかった。以後17年にわたってミラノ宮廷に仕える。1491年、イル.モーロとベアトリーチェの婚儀の演出も、レオナルドが手掛けた。楽隊の服のデザイン、自作の楽器で素晴らしい演奏、即興歌を披露したり、演劇の舞台装置と演出もレオナルドが全て行った。彼の楽器の演奏は素晴らしく、その美声は、当時の最高の歌手にも劣らないほどだったという。



1500年、世紀末的思想

 1480年半ば、イタリアのトスカーナ地方で、さまざまな不思議な現象が起こったという。例えば1482年4月ビッビエナに聖母マリアが現れ、多くの人が目撃したこと。その翌年、ファエンツァで一人の修道士が亡くなり、彼は死後もしばらくの間近くの川の上に姿を現して、聖母マリアと語り合っていた。1484年、7月にはフィレンツェ近くのプラートでやはり聖母の姿が現れた。当時のフィレンツェ市民の日記に「今や神の偉大な事跡に対する人々の期待が世界に満ち満ちている時代だ。」と書き記している。

 ランディーノという人文主義者は、1481年刊行したダンテの「神曲」注解のなかで、1484年に木星と土星が出会うから、その時から世界の終末と再生が始ると述べていた。1500年という大きな区切りを目前にして人々の間には世紀末的な幻想が渦巻いていたのだった。


2009/11/28 12:45 2009/11/28 12:45


ルネサンスの女性たち

 高貴な家や、富豪の出の女性は、高い教養や知性を身につけていたが、一般では、読み書きのできない、いわゆる文盲といった女性がほとんどであった。ルネサンスがいち早く開花したフィレンツェでさえ、女性の地位は、社会的に認められず、女性が政治に参加する事や、職業につくことは、禁じられていた。

 結婚は、家と家の結びつきで、親同士が決めていた。女性の結婚年令は、15歳から17歳が普通で、18歳ともなると晩婚といわれ、年令がかけはなれている男性や、継子のいる再婚というケースも多かった。
 娘を嫁がせる家では、娘に莫大な持参金を持たせるのが習慣だったため、娘が三人いれば身代が傾くとされた時代であった。持参金のない家の娘は、修道院へ入れられた。修道院へ入るのも無料ではなく、格式ある修道院に入るには、熟練労働者の年俸の二倍くらいの金額をお布施として納めなければならなかったし、高額のお布施を払えない家では、安値で入れる修道院を探さねばならなかった。
 当時の修道院は、宗教的自覚を持った女性の住処というよりも、むしろ中産階級や貴族階級出身の見捨てられた女性の溜まり場であった。
 マントヴァ侯妃イザベッラ.デステでさえ、金銭的な理由から末娘二人を修道院に入れている。お金のない家の娘は一生結婚ができない時代であった。そのため、私生児が多く、フィレンツェでは私生児のための「捨て子養育院」が建てられている。

 ルネサンスの時代は、ペストや梅毒、様々な病気や、毒殺などの危険もあり、人間が早死にした時代であった。たとえば、14世紀中ごろフィレンツェでは人口12万人を数えていたが、たび重なるペストにより一時は5万人まで落込んだこともあった。それゆえ人々の生や裕福な暮らしに対する欲望は大きく、享楽的な生き方を好む人も少なくなかった。


青春はうるはし 
されど逃げゆく楽しみあれ 
明日は定めなきゆえ
       
ロレンツォ.デ.メディチ「謝肉祭の歌」より



ルネサンスの食文化

フフィリッポ.リッピ作「ヘロデの饗宴」部分フレスコ画(1452~64)イタリアのプラート大聖堂)

 1469年、メディチ家のロレンツォ.イル.マニフィコの婚宴は3日間にわたって催され、市民たちにも食事がふるまわれた。噴水からは葡萄酒が流され、ご馳走のために、300頭の牛、1000羽の鳥が供されたという。当時のご馳走とは、どんなものだったのか。1513年の祝宴の記録が残っていて、それには次のようなメニューが書かれていた。

 オードブルは松の実のお菓子、カップに入った甘いクリーム、いちじく、マスカットワイン。次には、鶉や雉鳩など、小鳥のロースト、パイ、調理したあとに皮をかぶせ羽を飾った鶏など。デザートにはあるとあらゆる種類のジャムや砂糖漬けの果物。
 肉には、たっぷりとマスタードが添えられ、甘く煮た鶏肉は金箔で覆われていた。食卓に飾られたジャスミンの箱庭にはウサギを爪でつかんでいる鷲や、開けると中から小鳥が飛び立つしかけの樽が配されていた。宴会には、楽隊がつきもので、トランペットの吹奏によって料理が運ばれたりした。

 カトリーヌ.ド.メディチが1533年、フランスのアンリ二世に嫁いだ際、フィレンツェから料理人と、食器類が運ばれた。当時のフランスでは、手づかみで食べていたので、この時からフォーク、ナイフ、スプーンがフランスでも使われるようになったという。


シエナ風マジパン

 シエナは中世の昔から美味しいお菓子で有名な所であった。当時の名前は、マルツァパネッティとかモルセレッティとか呼ばれていたマジパンは、ルネサンスの高貴な人々にとても愛された銘菓であった。たとえば、1447年ミラノのカテリーナ.スフォルツァ、とイーモラとフォルリの領主ジローラモ.リアーリオの婚姻の席で、このマジパンが供されて、列席者の賞賛を買ったと伝えられている。スフォルツァ家や、エステ家では、その後もシエナ風マジパンが喜んで食べられたという。
 19世紀になって「リッチャレッリ」という名になったこのマジパンは、アーモンドの強い香りに蜂蜜の甘味とオレンジの香料の独特の芳香がマッチした、しっとりとしたお菓子である。



ルネサンス時代、絶世の美女

   (ボッティチェリ「シモネッタ.ヴェスプッチの肖像」)(レオナルド.ダ.ヴィンチ作シモネッタの臨終のデッサン)

 絶世の美女といわれたシモネッタ.ヴェスプッチは1453年、ジェノヴァ共和国の商人の娘として生まれた。トスカーナ地方ピオンビーノに移り住み、16歳のときフィレンツェのヴェスプッチ家のマルコに嫁いだ。ヴェスプッチ家は名門ではないが、フィレンツェでは中堅どころの商人であり、支配者メディチ家と結んで手広く貿易を行っていた。
 シモネッタは、髪は金髪、丸顔で情熱的な目、身体は細くしなやかで、脚はすらりとして、優雅さを備え、初々しい雰囲気を持った美女だったという。いつの頃からかシモネッタはメディチ家の
ジュリアーノに見初められ、深く愛されるようになる。

 1475年、1月29日、ジュリアーノとメディチ家の栄誉のために、フィレンツェのサンタ.クローチェ教会広場で馬上槍試合が行われた。勝者ジュリアーノに優勝の兜(ヴェロッキオ工房作)を渡すミネルヴァの女王役に、噂の人シモネッタが指名された。
 ジュリアーノは、ヴェロッキオ工房製作の宝石を散りばめた服装に、ボッティチェリがデザインした旗印を持ち、マントヴァ産の馬に乗って現れた。ジュリアーノが現れるや。サンタ.クローチェ広場の群集から大喝采が沸き起こったという。シモネッタ、ジュリアーノ、ともに22歳であった。

 この馬上槍試合の翌日、シモネッタは、高熱を出し寝込んでしまう。そして翌年、23歳の若さでこの世を去った。結核であった。遺骸は、ヴェスプッチ家の霊廟オンニッサンティ教会に安置された。シモネッタの死を悲しんでフィレンツェ中の鐘がいっせいに鳴り響き多くのフィレンツェ市民がシモネッタに別れを告げたという。
 ロレンツォ豪華王は、「彼女の美しい顔の上では死もまた美しい」とシモネッタの葬儀の様子を書き残している。

 ジュリアーノは、シモネッタの死後2年たった1478年、パッツィ家の陰謀により暗殺された。


 

2009/11/28 11:25 2009/11/28 11:25