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  1. 2009/11/07 思い出したくない 記憶


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思い出したくない記憶


 先日届いた一通の電子メールは、母親の一周忌を終えた友からのものでした。「遠く離れている友へ」と始まるこのメールには母親を亡くした悲しみと淋しさが滲むように書かれており、私は慰めの言葉ひとつ見つかりませんでした。両親健在の私にその悲しい胸中がわかるはずも無かったからです。
 それでもこのようなメールを書ける人は幸せなのかも知れないと私は思い、少しばかり羨ましくなりました。メールには、「母親に恩を返すためなら命も惜しまない」とも書かれていました。男と言うものは母親に対して特別の思いがあるのかもしれないと思いながら読んだこのメールの送り主は幼なじみで、父親のいない母子家庭で母親と姉妹そして彼の四人家族でした。3人兄妹の中で唯一男の子である彼は、母親からの愛情と期待を一身に受けて育ったのです。
 本当にお母様を思うなら頂いた命を大切にするべきで、幸せになることこそお母様のお望みでいらっしゃるのに違いないと私は返事を書きました。それは誰もが書くようなありふれた文書で、私は書きながら自分の母を思い出していました。

 私を身篭ったとき、母はまだ22歳でした。今の感覚から見れば多少若すぎるような気もしますが、昭和30年代ではこく普通だったと思います。当時母は勤め人で専門職についていましたが、私が生まれた事で退職を余儀なくしました。それは彼女の本意ではなかったのです。当時の事ですから今より働く女性に対する社会全般の理解がなかったと思われます。その母に子供が出来ることに対する心の準備が出来ないうちに私は生まれました。おそらく母は、子育てに専念できる精神的な環境ではなかったのでしょう。
 
 幼い記憶の中の母は、いつもヒステリーを起こしていました。それで私は父がいない時はいつも緊張していました。母は気まぐれな人で、平気で暴力を振るったからです。裸にされ寒い冬の夜、戸外に出されたことも一度や二度ではありませんでした。小学校1年生の女の子が体罰を受けねばならないような『悪さ』とはどのようなものであったのだろうと思う事があります。
 
 私は泣き虫でもなければ、親の言いつけを聞かないわがままな子供でもありませんでした。他の子供と喧嘩をすることも無ければ、周りの大人を困らせる悪戯もした覚えがありません。どちらかと言えば近所での評判の良い礼儀正しい子で学校の成績も良い方でした。それは弟も同じで、たとえ姉弟喧嘩をしても母の前では庇いあっていました。ただ私は家が好きじゃなかったので学校が終わっても真直ぐに家に帰る気にはなりませんでした。道草をして遅くまで帰らないと母は心配して学校までの道を辿りながら私を探しました。母は私を可愛がってはくれませんでしたが、心配はしてくれたようです。
 
 家と学校は遠く、大人が早足で歩いても30分は掛かる距離でしたが骨髄炎を患って足の悪い私にはすくなくとも1時間以上かかる道のりでした。私が母に怒られた理由の大半は嘘をついたからでした。家に帰りたくなかったとは言えず、先生に言われて学校に残ったとか、友達が学校を休んだので先生と家庭訪問に行ったとか色々言い訳を母にしていました。子供の嘘はその殆どが親を騙したくてつくわけではありません。親が怖くて、叱られたくない一心で、つい嘘をついてしまうのです。
 
 子供の頃、私は母が継母ではないかと思っていました。思春期になるまでいつも家を出て、どこかに貰われてゆく事を夢見ていました。心の中では何度も尊属殺人を起こしていました。今思っても幼い私は本当によく耐えたと思うし、大人になってから父親とか兄弟に聞いてみてもやはり母親は普通ではなかったと言っています。まして母の弟である叔父も「姉貴にはまいった」と言っているくらいです。だけど当の本人である母だけは今でも自分がどのような親であったか全く自覚がないようです。私も、いまさら老いた母を責める気にもならず、もう何も言いませんが・・・
 
 父にとって私は夢であり希望でした。17歳で事情があり、親元を離れて暮らすしかなかった父にとって初めての我が子は感動だったようです。その後、二人の弟が産まれましたが、父にとって初めての子は格別だったようで、自ら私の服や靴を買ってきたとあとで母から聞かされました。父は未だ小さい私を布団の中に入れて抱っこをしては伸びかけたあご髭で頬を擦ったので嫌がったりもしましたが、私はそんな父が好きでした。思春期を迎え生意気になり、父親の言う事を聞かなくなってからは父との喧嘩も多く、いろいろと親不孝をしてきましたが、いまでも父には感謝しています。
 
 私は母方の祖母に、誰よりも大事にされました。父方にお祖父や祖母がいなかっただけに母方の祖母の溺愛を一身に受けていました。初孫の私は祖母にとって特別な存在だったのです。
 それでも、私には他の誰かから愛された記憶よりも、母に虐待されたという記憶が強く残っており、今もその傷は癒されていません。ひとは幼い頃を懐かしく思い、その頃に戻れるものなら戻りたいと言いますが私は辛かった幼い頃には絶対に戻りたくありません。幼い頃の記憶は母の暴言と暴力ばかりで、あまり良い記憶がないからです。
 いつか私が母を亡くしたら、その時私は悲しむのでしょうか。親を亡くして悲しく思わない子供は不憫です。だから私はメールをくれた友を羨ましく思いました。人間の心を眼で見ることはできませんが、時にはそれを幸いと思う事もあります。私は幼い頃から周囲の大人に自分の心の底を見抜けられないように隠していきていました。目連尊者は亡母を地獄から救い出すために衆僧供養を行ったという伝説がありますが、目連尊者のように母を思いやる事ができない私を私は悲しく思います。

 2006年6月21日、奈良県田原本町で高校生一年生の長男が自宅に放火し、継母と弟妹の三人を殺してしまうという事件が起きました。今も記憶に新しいこの事件の報道によりますと、長男の家は近所でも評判の教育熱心な家庭であったようです。勉強部屋をICU(集中治療室)と呼んでいた父親は、長男が小学校の頃から毎晩遅くまで勉強を教え、成績が下がると殴ることもあったと言います。
 事件は、継母が成績表を受け取る予定だった保護者会の日に起きました。英語の試験の成績を偽っていた長男は、母親が保護者会に出席すれば父親に嘘がばれてしまうことを恐れていたそうです。母親は子供のことを父親に報告せざるを得ない立場にあったのでしょう。

 私はこの事件を起こした少年に自分を重ねてしまいました。少年の気持ちがとてもよく分かるような気がしました。私の両親もエリート主義の人で常にトップでないと満足できない人だったからです。褒めてもらった事がない子供はやがてどのような大人になって、そして親になったらまたも自分の辛い過去と同じ過ちを繰り返すのでしょうか。

 嘘は親を騙したくて付くのではなく、親の怒りが怖いからである事をどうして親は分からないのでしょうか。自分の見栄を張ることに見合った子供で欲しかった母。それに満足できないと私に体罰を加えた母は今も言います。

 「亡くなったお父さんはとても怖かったのよ。私は小学校の時にお父さんから習字を習ったけど、上手く出来ないとお手を叩かれたわ。いつも手の甲は赤く腫れてとても辛かった。だけど私の習字をどう思う?綺麗でしょう?お父さんに叩かれながら教えてもらったおかげさまよ」と。

                                                                   おわり

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