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ピースとハイライトは煙草の銘柄ですが、この歌は煙草のうたではありません。歴史観に対する桑田佳祐メッセージだと私は思います。


歌を聴く →   http://youtu.be/o6Z4moYogto

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2013/08/28 18:31 2013/08/28 18:31




結婚 

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 まる4年の韓国勤務中、軍事境界線からソウル竜山(ヨングサン)にある米第八軍司令本部へ配属変えとなったフランツは、本部内の売店に勤めているある女性に好意を持つ。長い間、募っていた家族のない寂しさからか彼女に対する気持ちは徐々に深まっていった。初めは彼の好意に戸惑いを見せていた彼女であったが、フランツの誠意が通じたのかデートの誘いに応じてくれた。父親を朝鮮戦争で失い、母親一人の手で3人の兄弟が育てられ苦しい生活を余儀なくされていた彼女を彼は心より力になってあげたいと思っていた。1963年末、アメリカ本国への帰国命令が下り、間もなく二人はアメリカで新婚生活を始める。新アメリカ人としてそして希望に満ちたアメリカンドリームの実現に向かった若いカップルとして。 1964年、旧ソ連はフルシチョフが解任されてブレジネフの時代となり、アメリカはジョンソンが大統領になった。


大統領宣誓するジョンソン    公民権法施行の文書に署名するリンドン・B・ジョンソン大統領
大統領宣誓するジョンソン(左)と公民権法施行の文書に署名するリンドン・B・ジョンソン大統領(右)
              


ヨーロッパへ

アメリカに戻ってからはボストン近郊の部隊に勤務をしていたフランツに今度はドイツの米軍部隊の配属命令が下った。ドイツとハンガリーの間にはオーストリアがあり、休日になるとフランツはドイツからオーストリアまで駆け付けてはハンガリーとの国境の検問所をただ遠くから眺めていた。ハンガリーとオーストリアの国境検問所は西側への脱出を防ぐ為か監視が厳しく近付くことさえ出来なかった。ドイツ勤務を命じられたときは故郷と同じ大陸の地を踏むことだけでも胸がいっぱいになっていた。ハンガリーの家族の便りを聞くことができるかも知れないという微かな期待が胸のとこかにあったからだ。だけどその期待は無残にも砕かれその募る思いは叶わなかった。フランツは2年間のドイツ勤務を終えてアメリカに帰って来た。帰りの軍用機の中で彼はハンガリーの家族に連絡を取り合う夢を捨てた。



 姉からの手紙

 その後フランツはベトナム戦で後方支援に関わり、ベトナム勤務が無事に終わると再び韓国に配属されるチャンスを得た。今回は先ず竜山本部に勤務し、後に富平の基地に移動した。今回の韓国勤務は妻の国ということもあったが、MDLを通じてもう一度ソ連側と接触することができるかも知れないという期待があった。 結果的にフランツにとって幸かも不幸かはさて置き、MDL勤務の機会が再びフランツに訪れることはなかった。当時、北朝鮮との軍事境界線内で米軍が北朝鮮の兵士に斧で殺害される事件が起きた事が大きく報道される。

 それから2年後アメリカに帰ったフランツはテキサス州に定住する決心をし、キルリンという所に家を持つようになる。キルリンは州政府があるオースチンの北にあり、車で30分ほど離れた所に位置する、アメリカ国内最大規模の陸軍キャンプがある場所でもあったからだ。
 ある日、夢のようなことが起きた。フランツにハンガリーに住んでいる姉のエリザベスから手紙が届いたのである。フランツが韓国の休戦ラインで渡したあのメモが回りまわった末、姉「エリザベス」の元に届いたからだ。姉の手紙によれば、結婚した彼女は夫とブダペストに住んでいるがその他の家族は政府の移住計画でどこかに移されたようだった。それからは連絡が途切れ、今はどこに行ったのか分からないとの事であった。姉の手紙に言及されてなかったが、ソ連の支配下の社会主義ハンガリーで西に亡命者を出してしまった彼の家族達は相当な苦しい立場になってしまったのかもしれない。家族を思うフランツの胸が熱くなった。国を脱出してから始めて声を上げて泣いて明かした夜がそこにあった。



国際赤十字からの連絡

1977年、ジョージア出身のカーターがアメリカの大統領になると世界はそれまでの対立から和解へと転換していく。 70年代始め頃からアメリカと中国の国交が正常化されており、当時の世界の関心は中東問題に向けられていて、アメリカとキューバは相互に代表部を設置するまでに関係が回復し、世界の情勢は急速に変わりつつあった。
 フランツはもう一度母国の家族と連絡が取れるかも知れないと期待を持ち始めた。そしてフランツは国際赤十字を通し家族探しを始めた。それからほぼ10年後、国際赤十字を通して家族から連絡がフランツに届いた。ベルギーに住んでいる弟のマティアからの手紙が送られてきたのだ。家族はハンガリーから抜け出してベルギーに住んでいた。フランツが今までハンガリーにいると思っていた家族が実際にはベルギーに移り住んでいたのでびっくりした。信じられない連絡にフランツの胸はいっぱいになった。当然心は既に家族のもとに走った。

フランツは直ちに休暇届けを出してベルギーへと飛んだ。マティアが暮している所はベルギーで鉄と石炭が豊富で鉱山や製錬所が多いことでその名が知られているワルロニアだった。マティアはそこの製錬所に勤めていたのである。残念にも兄は行方不明で、夢にも見ていた愛しい母は亡くなっていて、やるせない気持ちを抑えられないフランツであったけど、80歳を過ぎた父と弟のマティアに会えた。兄思いの弟のマティアは涙を流して喜んでくれた。歳を老いた父にまた会えると思えなかったが、幸いに父は元気でフランツはその父を力強く抱きしめた。父子3人で何日も何日も募る話しで夜を明かした。今まで長い年月の間、父の面倒見てくれた弟にフランツは感謝の気持ちを伝えた。そして可愛い姪や甥、そして弟嫁と新しい家族に初対面の挨拶をした。まさに30年ぶりの再会であった。



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おわり


2008/10/27 10:52 2008/10/27 10:52


月も雲に隠れ、道の分別も出来ない夜るだった。
騒がしい気配を感じ取ったのか蛙の合唱が一層大きい。
何故か今も耳に残るのは泥濘に足を捕らえ転んだとき
一斉に飛びはねる蛙の群れの合唱と後ろから聞こえる多発の銃声。

収容所にいる間、俺は二十歳になった。
誕生日など忘れていたが気が付いたら二十歳になっていた。
収容所に収容されてる人は必ずしもこの戦争に立ち入った軍人とは限らない。
民間人も多数収容されていた。
身分がはっきり確認できてない男はすべて連れてこられたからだ。
そこで知り合った40代後半の男に俺は息子のように可愛がられた。
収容所を脱出する前日、彼は俺に言った。

「ここから出たら何処に行くんだ?
行くあてはあるのか?」

俺は首を横に振った。

「俺はP市に行くつもりだよ。そこに昔、俺が世話したある人が住んでるんだ。
その人を宛てに北から南へ向かう途中捕まえたからな・・・
もしここから出て、行く宛が見つからなかったらP市に来いよ。
そこは大きな港だし、二人なら何とか出来るかもしれん。」

彼とは闇の中ではぐれてしまった。

周辺が明るくなってくると遠く桟橋が見えて、
小さい漁船がエンジンをかけて桟橋で出向の準備をしているように見えた。
近づくと髭の来い男が大きい声で叫んでいる。
「後、一人乗れるから早よう来いよ!!」
船は20人乗りの漁船で島の人は3人乗っていて後は皆、収容所脱出者だった。
「これで5回往復だよ。急がないともう一回往復できない・・・」
島の人が言った。
夜中からすべての島の船は脱出捕虜を運んだ。
こういう方法で政府は連合軍からこの地に残りたいと願う捕虜達を解放したのだ。
危険過ぎる、無謀だとの批判の声が高まる緊迫の状況で
数千人の戦争の渦巻きに巻き込まれてしまった人々が
再び自由を向かって突進する。

俺は書いてもらったP市の住所を胸に
漁船に乗って始めての自由のみになっていた。





そして、7年の年月が流れた。
今日俺に子供が生まれた。
外は寒くてあらゆる物を凍らせてる。
ここで俺は根をおろす。
俺はもう独りぼっちではないのだ。

いつかこの子に言ってあげられるのだろうか
この地で独りポツンと浮き草のように生きてきて
今、こうやって根を下ろし始めている俺の話を
この子は聞いてくれるのだろうか。

明日はクリスマス。
街は今晩、華やかに照らされるだろう。
雪の積もった野原でいつの間にか過ぎていたクリスマス、
捕虜収容所で米軍から与えられたクリスマスケーキ、
皮肉にも始めてのクリスマスケーキだった。
国のクリスマスは敬謙なものだった。
隠れキリスタンであった先祖の代から
神父様に祖立てられた父の代まで
クリスマスは敬謙なミサで捧げられた喜びの儀式だった。
これから俺はこの子のサンタになるだ。
産声を上げる赤ん坊を向かって口ずさむ。


「さようなら悲しいクリスマス」



<おわり>

2008/10/15 12:34 2008/10/15 12:34

悲しいクリスマス <その⑤>


収容所の中は俺みたいに思想とかイデオロギーとかには
特別な信念を持たな連中も大勢いたが
社会主義者や革命家、人民解放軍の意識がはっきりしてる連中も多かった。
両勢力の捕虜達は互いに軽蔑し、憎みあった。
喧嘩も絶えなかった。


ある日は収容所の中で殺人事件まで起きてしまった。
それをきっかけに両勢力を別々に収容するようになった。
それから俺は連合軍の責任者の気に入られ
薬品とか備品などを管理する事になった。
同郷の人も何人か会えて仲間も出来た。
そうして三年の年月が流れていて、戦争は終わりに向かっていた。

休戦会談が行われていると噂が流れた。
後から収容所に送られた同郷の先輩に
両親がこの戦争で亡くなった事を聞いたのも

戦争が終わりに近いある日であった。

俺は一晩泣いた。
そして、これから自分ひとりで生きていかない現実を
受け入れなければならない事が分かった。
 

皆といる時は戦争の行方を占った。
それからどう生きて行くか皆は語り合ったが
将来自分たちがどうなるかは誰も知らない。
全員北に返されると噂をする人もいた。
一人になる時間は不安な未来に泣いた。




その日はいつもと同じように夜が来た。
連合軍の監視兵はあくびをしながら自分の宿舎に帰った。
皆、寝たフリをして夜が深けるのを待っていた。
息を潜め子の刻が来るのを待っていた。
零時になるとこの捕虜収容所の難い門が密かに開く。

連合軍は自分らの捕虜達を連合側に連れてくるため、
このK島に収容所に収容されている全員を本人達の意思とは関係なく
戦争相手に返すと噂があった。
俺だって人民解放軍からの無断離脱者である。
このまま返されたらきっと批判の対象になるに違いない。
国に親はもういない。


捕虜たちそれぞれ事情も様々であった。
当人の意思など気にもせずその運命の鍵は連合軍が握っていた。
毎日変わる政策で収容所の人々は揺れていた。
噂が噂を呼ぶなかで、ある日、北に戻りたくない捕虜達を
収容所から逃がす計画が持ち上がった。
連合軍の考えに必ずしも納得できてない政府の首脳の決断であった。
そのDデイHアワーが今晩の0時である。
密かな伝達が俺にも回ってきた。

それにしても大量の脱出が、連合軍にばれないはずが無い。
その時は命は無いのと思わなければならないのだと
誰もがわかっていた。

夜が更けると扉の前で誰かのささやく声が聞こえた。

「今だ!!皆、起きてるのか?これから順番に出て行くんだ。
音を立てるな。銃声が聞こえても振り向くんじゃないぞ。
前を見るのだ、そして走れ!! 桟橋に向かって行くんだ。
国防軍の軍艦が海岸に近く来てるんだ。
軍艦はこれから3日連続夜中らが朝方にかけておい等を迎えに来る。
漁師さんたちがおい等を軍艦まで運んでくれることになっているんだ。
3日間だけだからそのいずれかの軍艦に乗れ、昼間は隠れて夜に移動しろ。
そして陸に着いたらそれからは自由だ。頑張りたまえ。幸運を祈る。」

いっせいに扉を目指して突進した。
誰もが口を噤んだまま。






2008/06/12 16:54 2008/06/12 16:54

<その④>

耳になれない言葉で何かを叫びながら
黒人の男が銃口を俺に向けてきた。
何人かの白人と黒人の軍服の男が俺を囲んだ。
頭が真っ白で、状況判断もできないまま俺は捕縛された。
俺は絶望で崩れ落ちた。
殺せと叫んだが彼らは俺を殺しはしなかった。

それから連れられて行ったところは大勢の若者がいた。
服は汚れきって、顔は北風の冷たさにやけて頬が赤い。
俺は連合軍の捕虜になった。
村の裏山のふもとにある畑には所々雪が残っていた。


雪の下には暖かい土があり、
その下にはきっと白菜の根っこが残ってるだろう。
白菜の根っこは甘くて辛い。それは冬のおやつだった。
畑に残った白菜の根っこを探したりしながら
元気で遊んだ幼頃の俺が俺に手を降って遠ざかっていた。


戦争中であることも知らなかった山の奥の村にも軍隊はやって来たのか。
村の子供たちは始めて見た白人や黒人の顔に驚き、
泣き出しただろう。
始めて聞いた意味の不明な言葉に、
村人達は息を潜んで隠れていたのだろう。

今になってはこんな事だって思うが
その時はこれで自分の人生は終わりだと思っていた。

それから長い道のりが始まった。
これからどうなるのかも分からないまま、果てなく歩く毎日だった。
夜は野原で雪が降ったら降られたまま、雨に濡れたら濡れたまま
寝具も無く過ごさなければならなかった。
日が昇る朝が待ち遠しい長い長い冬の夜を互いの体温で乗り越えた。
塩を塗しただけのご飯を手のひらにもらって動物のように口をつけて食べた。

連合軍は絶対に捕虜は殺さないと誰かが吐いた言葉だけを
すがる気持ちで信じて生き延びるために必死で耐えた。

何処に連れて行かれるのか分からない毎日、
それにしても日が経つに連れ段々暖かくなっていくような気がするのは
多分南に来てるからだろう。


一ヵ月後、南のある島に辿り着いた。
後でこの島は捕虜収容所で使われるようになったK島だと分かった。
今までと違ってそこではそれなりの生活が出来た。
頭は丸かりにされ全身にDDTをぶっかぶられたが、
収容所の中は寝袋も有ったし、食事も食器を使う。
時々キャンデーもチョコレートも貰えた。
死とうい絶望感は薄れていたがこの戦争の行方は気になるものだ。


北に社会主義の国が出来た時、

親父は持っていた小さな果樹園を取られた。
今まで勉強した外国語の英語もロシア語に変わった。
俺は可愛がられた担任の先生に密かに呼ばれて忠告された。

「君のために言うんだが、君の生活捜査表の宗教欄に宗教は無い事にした方がよさそうだ。君は成績もトップだし将来があるから進学もしないとね」

そのとき俺は納得出来なかった。
自分の利を得るために信念を曲げる事は

親父から教わった人間の生き方とは異なる。


親父もおふくろも兄弟も敬虔なカトリックであった家族は
信じる道に命を掛ける事を名誉と思ってきた。
俺は先生の忠告を聞き入れなかった事で進学が難しくなっていた。
教師になりたかった俺はその道も難しくなった事がなんとなく分かっていた。
俺は新しく出来上がった社会主義に迷っていたのかもしらない。
俺の心は社会主義が受け入れられなかった。

2008/06/03 15:54 2008/06/03 15:54

<その②>

気が付くと俺は山道を走っていた。
息が切れそうで止まると自分が何処にいるか分からなくなっていた。
微かに見える白い雪道は

自分の足跡と野生動物の足跡が混じって散乱していた。
頬が痛かった。
どこかですれ傷を付けたようだ。

家に帰らないと、母さんが待つ家に帰らないと・・・
俺はまた走った。

母さんは俺を秘密の部屋に隠していた。
村に若者の召集令が出されたとき、お袋は隠し部屋を作った。
母屋の脇に小さい物置を装って俺の居場所を作ってくれた。

何日も何日もその中で過ごすには俺は若すぎたのかもしれない。
外の様子が気になって隠し部屋を抜け出したその時
俺の家を見張り続けていた村の役場の人間に見つかってしまったのだ。
村の責任者に酷く批判されるお袋を後にして
俺は人民解放軍になって戦う身分となった。

夜が明けようとしていた。
このままでは家にたどり着く前、捕まえてしまう。
だって俺は軍服を着たまま。
このままじゃ軍隊から逃げ出したのがすぐばれてしまうだろう。
現実の自分に戻ると怖くなった。
これからどうすれば良いのか・・・
朝になればみんなは俺がいなくなったことに気が付くだろう。

とにかくその日は山の岩の影に隠れていた。
寒さと怖さと極度の緊張で空腹感すら感じなかった一日だった。

夜になってまた歩いた。
今度は激しい空腹感で吐き気がした。
離れた群から俺を追っかけてくる気配はなかった。
何処かで食べ物を調達しなければならない。
ふらふら一晩歩くと回りがやや明るくなってきた。
もう歩けない。疲れた。おなかが空いてどうにもならない。
残雪を手に取って食べてみた。
これからどうするのか俺にも分からない。


その時、ふと煙の匂いがした。
もしかしたら他の軍隊の群ではないかと思い、怖くなった。
山の高い所に登り、隠れて様子を見ると

火田民の部落が闇の中で微かに見える。
朝ご飯の準備に掛かってるらしかった。
俺はその煙が昇る小屋に向かった。

俺に選択の余地なんかが有る訳がない。

小屋には老夫婦がいた。
早朝の尋ね人に大変驚いた様子、当然の事だ。
だって俺、山ですべて転んで傷だらけの人民軍服の姿であったから。
しばらく俺の顔を見ていた老夫婦は
幼い少年兵の疲れ果てた姿に同情をしたらしく、
色々と聞いて来た。

老婆は黍(きび)のお粥を持ってきてくれて
兵隊に連れて行かれた息子の服を出してくれた。
老人は布団を敷いてくれた。

「疲れた様子だね。食べてひと眠りして、
それからお家に帰りなさい。ご両親が待ってるんだろう?」

眠った、久しぶりに。
満腹で暖かい部屋で眠った。
軍服ではなく民服。
心が和んで深い深い眠りに襲われた。

2008/05/28 17:11 2008/05/28 17:11