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  1. 2009/09/03 時計 第3話
  2. 2008/10/15 時計 第2話
  3. 2008/10/15 時計 第1話


時  計


第三話

 2008年上期の芥川賞を受賞したのは、中国の民主化運動を背景にして青年たちの昂揚した情熱とその挫折を描いた、楊逸女史著「時が滲む朝」であった。読みながらわが青春の刻を思い出した。

 人生に偶然はいくつもあり、栄と三十年ぶりに再会したのもその偶然の中の一つであろう。
  ネット上で、文学の話や日常の話を書き物にして読み交わす仲間の集まりで、投稿の常連となっていたある書き手の作品の背景は釜山であった。コケティッシュな釜山の方言と、どこか懐かしい釜山の地名や町の様子からふと、学生時代の思い出が甦ったのである。

  思い立って、その書き手にメールを送った。「ひょっとしてK高校出身ではないか?」と・・・。 「どうして分かったのか?」とメールが返って来た。それは女の第六感だったのかもしれない。栄の事を訊ねると同窓会を通じて調べて、彼に連絡を取ってくれた。「栄君もあなたに会いたいと言っています。」とのことだった。

 五十路を迎えた二人ではあっても面影は残っていた。私は、彼に会う前に空港免税店で購入したセイコー時計を、栄に渡した。
 「これは何?時計?こんなの俺は要らないから他の人にあげなよ。親父さんだってまだ元気だろう。弟だっているんだし・・・。今は携帯電話もあるから時計はいらんからね。」と断る彼に、「あんたはマナーもないの?プレゼントは嬉しい顔して受け取るものでしょう?これは日本土産なんだから・・・。」と、無理に渡した。栄に会って昔の借りを返せたような気がして嬉しかった。二人の男の子の父親になっている栄は、平凡で良いお父さんになっているようだった。

 栄とは高校2年生の修学旅行の列車の中で友達になった釜山(ぷさん)に住む同年の男子で、二人はそれから7年に近い歳月を共有した。栄はお金が出来さえしたら釜山(ぷさん)からの遠い距離を会いに来てくれた。大好きな友達以上ではあったが、恋人未満の二人だった。


 1979年某月某日、高卒以上の液晶時計の組立ての工員を募集するという新聞記事を見て、私は履歴書を出した。

 まだ賃金の安い労働力が豊富であった当時の韓国には外資系企業の進出も多く、世界の生産工場の一つになっていて、今の中国のように環境汚染が大きな問題となっていた。ソウルの外れの九老洞には首都圏最大の工業団地である九老工団があった。

  その会社はそこにあった。整頓された工場の建物と周辺施設がとても印象的だったその工場で、当時では最新技術の電子時計が生産されていた。
 韓国初の電子時計メーカー、その会社の名はオリンポス電子株式会社。従来の発条(ぜんまい)を巻いて針で時を刻む時計とはまったく異なり、電池で動きデジタル液晶の文字盤に時刻を数字で表わす。まさにモダンでシンプルな洗練されたデザインの時計を生産する工場であった。
 面接日が決まり面接場に行くと、そこには数十人の若い女性が集まっていた。私は部屋の片隅の長椅子に小さく背を丸めて座った。
 朝鮮戦争が終わって(1953年)から10年間の間に生まれたベビーブーム世代である。どの場面においても激しい競争は避けられない運命にあった彼女たちは、誰もが皆、緊張のあまりか表情がない。

 エリートを思わせるどこか冷たい感じの若い面接官との、家族構成や応募の動機など在り来りの質問の後、私は彼の意外な試問に驚いた。高校教科書に載っている漢詩を暗唱して欲しいというのである。可憐な女の恋歌。李玉峰が書いた「夢魂」というものである。

近來安否問如何(근래안부문여하)
近頃如何がお過しでしょうかと安否を尋ねる

月到紗窓妾恨多(월도사창첩한다)
お月様が訪れる紗窓に切ない妾(おんな)の溜息多し

若使夢魂行有跡(약사몽혼행유적)
夢の中の魂が足跡を残すことが出来るなら

門前石路半成沙(문전석로반성사) 
門の前の石畳の半分は沙になったはず


 電子時計は、黒い基盤にメタルの時代に似合う液晶の文字盤とそこにくっきりと時の流れを数字で刻む。その新時代の時計に相応しく、洗練された身なりのその面接官が提示した2番目の試問は『最後の授業』や『星』という短編作品を書いたフランス人作家の名前を出してみろということだった。今考えてみれば、彼はハイテク会社の社員の割には文系だったようである。

 「アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)」

答えられたことでほっとして面接室を出て、次の指示を待つ他の大勢の中で一時間程度経過した頃、「この面接結果は一週間後に会社の掲示板に張り出される・・・」とかの説明があった。
 その後に、私一人だけが名前を呼ばれた。私は訳もわからず、再び面接官の向かい側に座った。

「あなたは私の質問によく答えてくれました。本来なら見せる事は無いのですが、面接の採点を見せます。今日の人達の中で最高点です。これから人事部で人選に入るのですが、あなたはたぶん採用にはなりません。」

唖然としている私を前に彼の話は続く。

「採用されないと貴方は納得できないでしょうけれど、私共が求めている工員はあなたのような勉強が出来て頭の良い人ではありません。はっきり言って、会社の言うことをよく聞いてくれて真面目であればいいのです。あなたは単純作業には向いてないかもしれません。こんなことあなたに伝える必要は無いとは思いますが、私個人としては、あなたと仕事が出来ないことを残念に思っていますので、此の事だけは伝えておきたいと思いました。採用者発表掲示板に名前が載って無くてもあまりがっかりしないでください。」

 結局、私は採用されなかった。友人は団地内の別の会社に応募し履歴書と面接を上手く潜り抜け、偽装就職が出来た。彼女は労働現場で労働者達と一緒に労働環境改善と労働者の権利の為に労働組合を作り戦った。

 私は現場に潜り込んで労働者を煽動して、労働組合を作るためにその会社に入りたかったわけではなかった。結果、学費が払えず、その春に休学届けを出し、そのまま学校には戻らなかった。
 
 貧しくても労働者にもなれなかった。当時、私は何も出来ない自分にただただ苛立っていた。

 オリンポス電子株式会社は1980年5月に不渡りを出し倒産する。同じ年、5月18日、光州事件注1が発生した。光州は封鎖され全国に戒厳令が布かれた。
 その時に兵役中の栄(えい)は戒厳軍の一員として漢江の河口に待機していた。

 
 光州の人々に哀れみを感じた私は、教会に集まった仲間と共に「光州の市民に役立つ事は何か?」と神父様に尋ね「献血だ。」と教えられ、集団で赤十字社に献血に出向いた。

 その年、クリスマスに合わせて休暇が取れた栄が釜山の実家に帰る前に私の所へ立ち寄った。下士官の階級章(かいきゅうしょう)を帽子と肩と胸に付けた、オリーブ色の軍服姿の栄は、肌が逞しく日焼けしていて、胸板が厚くなり、大人の男になっていた。
 彼が差し出した小さな包み。開けてみると中には電子時計が入っていた。 「何?これ?」と聞く私に「軍隊で給料貯めてPX注2で買った。」と答えた。私の誕生日に合わせてくれたとは言われなくてもわかっていた。兵役の義務を背負っている韓国の若者は、誰もが二十歳から二年間、お国のために務めなくてはならない。今も昔もそれは同じである。給料といっても一般兵で一ヶ月五千円程度。

「これって高いんでしょう。下士官の月給じゃ無理じゃないの?こんなもの買ってこなくたって・・・。」

 照れくさくて素直に有難うとは言えず、ついこんな口調になってしまったのはなぜだろう。

「PXで買ったからそれほど高くないよ。軍隊の中じゃ金を使うところないし、時間もないからさ。」と栄は笑って言った。
 その後、たった一度だけ彼のところまで面会に行った。除隊まであと半年を残した、秋が深まってきた日だった。

「おれ、それから色々と考えたけど、除隊したら俺達結婚しよう。色々あったけど、俺もお前も色々あったけど、やっぱりお前しかないと俺は思うんだ。」

 私は断った。彼はとても好きだけど、胸に燃える情熱を感じない。それに、私はまだ若すぎた。他の人が好きになっていたのである。
 その冬私は、警察に追われ地方を転々とする、とある社会革命家を夢見る男について行く為にソウルを離れた。好きな男の元に行った。

 その後で、栄は除隊した。実家へ帰る前に、いつものようにうちに立ち寄ったと弟が伝える。経済的に大変だった家庭の事情の中で大学を受験していた弟に励ましの言葉と幾らかのお金を置いて栄は帰ったと聞いた。その後30年間、互いに消息も知らずに生きた。

 あの電子時計をその後どうしたのか、あんまり覚えていない。 恐らく、そのうちに壊れて使えなくなったのだと思うが、栄の事はこの30年間胸の奥に重くのし掛かっていて、いつか返さなければならない借りとして尾を引いていた。

 色々と話を交わしてから帰り道の飛行機の中、見も心もとても軽くなった。それはまるで快感。「さようなら栄君。何時また会える日が来るかはわからないけど、元気で達者で何時までもお幸せに・・・」
    

  近來安否問如何(근래안부문여하)




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注1. 

光州(こうしゅう)事件は、1980年5月18日から27日にかけて韓国の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生した。民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件である。全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥の新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した(五・一七非常戒厳令拡大措置)。金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。 また、鎮圧部隊の空挺部隊も、かつては韓国軍のエリート部隊であったが、全斗煥の警護部隊的な位置づけに格下げされ、兵士たちには鬱憤がたまっていた。 5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊と学生が自然発生的に衝突した。軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体も学生から、激昂した市民に変わっていった。市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は地域の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


注2. 

PX [post exchange]軍の基地内にある売店。税金が負荷されない。




2009/09/03 15:58 2009/09/03 15:58


時  計


第二話


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 なっちゃん、お久しぶり。あのさ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど・・・ 覚えているのかな、同じクラスの昌子のこと。そうそう、丸顔でやさしい目をしていた子だよ、木村昌子って子。なっちゃんとも何回か彼女んちに一緒に遊びに行った事があるとおもうけど。もの静かで気立てのいい子だったよね。いま、何処にいるのかわかる人いないのかな・・・

 あのこ、確かにお兄さんと弟で3人兄弟だったよね。ご両親が熱心なクリスチャンで、昌子も教会に行っていたのは覚えている。私、クリスマスに彼女に誘われて教会に行ったことがあるのよ。小さい教会なのにパイプオルガンがあることには驚いたわ。昌子にクリスマス行事で何か歌って欲しいと言われてさ。そこで、私がなにを歌ったと思う?それがね、「ラ・ノヴィア」を歌ったのよ。いま思うと、本当に恥ずかしいわね。だってあれて失恋の歌でしょう?従兄弟の兄がよく歌っていたから覚えていたけどね・・・まさか、あの「アヴェ・マリア」が「グノー」と「シューベルト」のあれとあんなに違うとは大人になってからわかったわよ。笑う話でしょう?

 父の会社が倒産してさ、おまけに私は大学受験に失敗。散々の思いでうちは田舎に引っ込んだからさ。それでしばらく会えなくなったけど、それはみんなこちらの都合だけどね。

 とにかく、私にとって田舎は性分に合わなかったのよ。農地借りて百姓でもするといったって、都会育ちでしょう。経験もない人間が出来るわけないし。結局、親戚の果樹園の手伝い。うちの父さん、すっかり自信喪失で、母さんは鬱(うつ)になっていたわよ。妹がまだ中学3年生だったけど、私には何も出来ることがなかったわ。アルバイトでも何でもして自分で生きると言い残して家を出たわよ。東京に戻って、連絡が出来たのは昌子だったの。だってあなたはその頃、私と同じ浪人生活だったもんね。毎日図書館と予備校通いで電話しても家になんかいなかったよ。

 昌子のうちはそのままだった。たった一年のブランクがその時の私にはものすごく長く感じられたのよ。田舎から帰京したら何もかもが変わったような気がしてね。だから、前と同じようにそこに彼女(あのこ)のうちがその場所に在っただけで感動したわ。久しぶりに電話したら、昌子、とても喜んでくれたの。そのとき、彼女は歯科衛生士専門学校に行っていたよ。今頃、あのこは歯医者さんの奥様にでもなっているのかしら。

 その晩、私は昌子の家で泊めてもらったの。晩御飯ご馳走になって、色々話し込んで夜明かしだわよ。いつの間にか寝たみたいで、目が覚めたらすっかりお昼頃でね、家には誰も居なかった。
 テーブルの上には昌子のメモと共にご飯の仕度がしてあったの。「よく寝ていたので起すのは可愛そうだから、そのまましておくね」て。「もし、別の用事がなかったら家でのんびりしていていいよ。もし、出かけるのなら鍵は玄関先の傘立ての下に入れておいて」と。
 
 昌子、相変わらず熱心なクリスチャンで日曜日は教会の礼拝に行っていた。携帯電話がある時代じゃないからね。午後4時過ぎまで待っていたけど、誰も帰って来なかったわよ。その間に、部屋を掃除して、テーブルも片付け、流し台の洗い物も終わった。

 一人でひとのうちでのんびりしている時間は不思議に色々と考えさせられる。私は今ここで何しているのだろうとか、これからどうすれば良いかとかさ。急に焦る気持ちになってさ、このままここに居るにも行かないと慌てて家をでたわ。

 その日は、遅くまで仕事を捜し歩いたのね。新宿辺りをうろうろしてさ、従業員募集の貼紙を見つけては、どうすればいいかわからなくてさ。今ならバイト探しとか派遣社員募集とかの専門雑誌があるけど、東京育ちとはいえ荒川区の下町しかわからない私に新宿は怖かった。結局、どの店にも口聞けずじまいだった。その晩は池袋のどこかの下宿に泊まったけど、困ったことに気が付いたわ。それがさ、昌ちゃんの腕と時計をしたままだった。昌子のうちで彼女を待ちながら机の上に置いてあった腕時計をはめていた。彼女の帰りを待ち遠しいと思いながら時計を見ていたのよね。

 その晩おそく、公衆電話から電話をかけたの。前の日、泊めたもらった事にお礼を言って、帰りを待たないで家を出たことを謝ったわ。そして、彼女の時計を持ったまま家を出たことも。「明日にでも返しにいくからね」と言ったら、彼女こう言うの。「時計はほかにもあるから慌てなくて良いけど、あなたは大丈夫なの?しばらくうちにいるのかなと思ったけど、何とかなりそう?」てね。

  翌日、時計を返しにいけなかった。何とか勇気を出して店のアルバイト募集に応募はしても、何処からも聞かれる連絡先が私にはないことに気が付いたわけだよ。下宿に居所を決めて、仕事が決まるまでは時間が掛かった。手持ちの金は既に底ついて、昌子の時計も質屋に入れてしまったわけだよ。

  給料は下宿の家賃と食べることに精一杯で、まさちゃんの時計が気にはなったものの、やはり自分に甘かったのね。そのまま流してしまったわ。一年後、何とか、お金を貯めて質屋に行った時はもう遅かったわよ。

 それから25年、結局、彼女とは連絡出来なかった。今何処で何をしているのかわからないけど、彼女に謝りたいの。だからわかったら教えてよ、彼女の連絡先。誰か知っている人いないか、聞いてみてもらえる?宜しくお願いします。

 夜、遅い時間まで、しゃべりすぎてしまったわ。ごめんごめん。あんたは良いが、ご主人に悪いわね。謝っておいて。あなたに電話できてよかった。また電話するね。では、おやすみ・・・


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おわり




2008/10/15 13:30 2008/10/15 13:30



時   計 



 第一話

 

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 亡き祖母が大切にしていた時計がありました。それは、家族の未来を背負い22歳の若さでアメリカへ渡った叔母、つまり私の母の妹から、祖母へ贈られたものでした。10年ぶりの帰国に際し、彼女が母親へのお土産に選んだ腕時計は、うれっこ女優のマニキュアをした美しくしい爪のような楕円の形をしていました。それは上品な金色で、輝く小粒のダイヤモンドの飾りが眩しい豪華なものでした。

 物にも運命(さだめ)というのがあるのかと思うときがあります。アメリカから遥か遠いアジアの東端に来る事になってしまいましたこの時計も、それからその時計が出会うことになる主になる人も、きっとそれぞれの運命(さだめ)の中で出会と別れを繰り返すのかも知れません。ニューヨーク5番街を優雅に歩く素敵な貴婦人の色白でしなやかな腕にふさわしそうなこの時計が、代わりに戦争で夫を亡くし、行商で三人の子供を養ってきた黒く日焼けした太い腕の祖母のところにやって来たのも。
 叔母の里帰りは私が小学4年になった春の出来ことでした。上を向けばそこには満開した桜がいっぱいで、ちらほらと顔におちてくる花びらで頬がくすぐったかった、叔母と手をつないで見ていたあの花見を私は覚えています。

 その豪華な叔母の贈り物のおかげで、私は生まれて初めて自分の時計を持つことになりました。祖母が今まで持っていた、叔父が初めもらった給料で母親にプレゼントした思い出の品を、娘である私の母ではなく、未だ小学生の孫娘(まご)に譲ったのでした。
 田舎町の小さい学校の中で、自分の腕時計を持っている子供は私一人だけでした。私はすぐに『時計をはめた子』と呼ばれるようになりました。35年ぶりに行われた同窓会で私は隣のクラスの子に「あなたはもしかしたら時計をはめていた子じゃない?」と聞かれました。何だか懐かしくて、亡き祖母を思い出し、涙が出そうでした。とにかくその当時は時計が貴重品とされていたのです。

 祖母から譲ってもらったその時計を、私は翌年の夏休みが終わる頃、失くしてしまいました。エアコンのないあの頃の暑くて長い夏を、子供たちは町の近くを流れる川辺で水遊びをしながら過ごしていて、私も兄弟と一緒にほとんど毎日のように泳ぎに行っていました。水遊びに夢中になっている間、私の時計を羨ましく思った誰かが、脱いでおいた私の服のボケットから、それを持っていったのだと母は推理していますが、私も物をきちんと管理できる、しっかりした女の子ではありませんでした。時計を川に持っていかなければ良かったと後で後悔しました。エアコンはおろか、冷蔵庫もそれほど普及していなかった時代で、もちろん我が家にはテレビもありませんでした。 ブローバ(BULOVA)のブレスレット時計、叔母(祖母には次女)から贈られたアメリカ土産のこの時計を祖母は片身離さず、大切にしていました。


 ブローバの時計は当時のアメリカを代表する名品でして、1875年、チェコからの移民であったジョセフ=ブローバ Joseph Bulova (ジョセフ・ブローバ)という人がニューヨークの Maiden Lane にジュエリーショップを開いたのがブローバの起源だそうです。彼の商売は順調に推移し、ジュエリーと共に扱っていた時計も売れ行きが良かったので1911年より掛時計や置時計などの製造をアメリカ国内でスタートしました。それから懐中時計の開発や製造する一方、腕時計の製品開発に取り組みました。

 1926年、ブローバはクロックラジオを製品化、世界から多くの引き合いを受けたようで、日本にその名を知られたのもこの頃のようです。1930年代から40年代にかけては腕時計のメーカーとして黄金期を迎えます。次々と発売した金張りスクエアケースの腕時計が爆発的に売れたことで、ブローバ(BULOVA)はメジャー時計ブランドとして知れ渡ります。

 とにかく後日、私がアンティークショプで見かけた祖母の時計に似たようなブレスレット時計は14Kで17万円の値が付いていました。下手な英語しか話せない二十歳そこそこの娘はこの時計を買うために、一日何時間ミシンに向かい、どれほど頑張ったことか。そして故郷(くに)の家族への仕送りの為に、口に合わないハンバーガーで空腹をしのぎ、どんな思いで我慢の日々を過ごしてきたのか、幼い私にはもちろん、故国(くに)の大人達も全くわかっていませんでした。
 祖母は「いずれ、あなたが大学生になったらこの時計を譲るからね。その時までおばあさんが大事に持っているよ」と口癖のように言っていました。大人になればその時計が自分のものになると思い込んでいた私は、祖母の時計とはいえ、私にも大切なものに思われました。自分のものを、祖母に預けているつもりでいたのです。 

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 わが家にもモノクロではありましたが、テレビがやってきた頃、叔母の2度目の帰国があり、今回も叔母は帰国土産に腕時計を買ってきました。今度の時計は丸いフェイスの婦人用オメガでした。 雪の結晶を思わせる、透明感のある澄んだ14金ホワイトゴールドで、やはり名品中の名品といわれるものでした。しかし私の関心は、祖母の手首に3年半の間、休むことなく時を刻んできた、ブローバの時計の行方で、きっとお祖母さんはこの時計を私にくれるものだと信じていました。

 いつになれば、その時計を貰えるのか待ちに待っていたある日、叔父と結婚したばかりの光枝おばさんの手首からキラキラと輝くダイヤモンドの飾りがついたその金色の時計を見て私は自分の目を疑いました。そして私はショックのあまりに泣いてしまいました。

「おばあさん、あの時計は私にくれると約束したじゃないのよ」と泣いて抗議する私に祖母は言いました。「まだ中学生のあなたにあの時計は相応しくないから今回は光枝さんにあげたけど、このオメガ時計は何れあなたにあげると約束するから、もう泣かないでね」と。私は祖母のブローバ時計が本当に好きだったのです。


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 それから父は中学生の私にシチズン(CITZEN)の時計を買ってくれました。今にして思えば、父と母が何件もの時計店に足を運び、慎重に選んだのに違いないそのシチズン時計はブラックフェイスのロレックス型で格好良いものでした。けれども、心の底からブローバに惚れていた私にはそれ程うれしくはありませんでした。それでも毎朝欠かさずシチズンのゼンマイを巻いていました。たまに忘れて遅刻をすることもありましたが、もちろん、時計のことばかりが原因で遅刻をしたわけではありません。

  それからの私はブローバの時計はあきらめ、オメガ(OMEGA)に希望を託す事にしました。他のひとからブローバよりオメガの方が格上だと聞かされ、多少慰めにもなりました。やはりこれからはブローバよりオメガの時代だと自分に言い聞かせながら、街の時計店のショーウィンドウに出ている看板を見掛けるたびに祖母のオメガを思い浮かべました。『ロレックス・オメガ修理専門』 『ROLEX』『OMEGA』


 大人になって分かったことですが、1970年代、ブローバは音叉(おんさ)式の腕時計を開発した事で技術的に世界の時計業界をリードしました。しかしながら、このことが逆に仇となり、この技術に固執したため水晶発振の実用化で日本のメーカーに遅れをとってしまったのでした。すなわち音叉機構のパテントを公開しなかったために、セイコー(SEIKO)は水晶発振の開発に向かわざるを得なくなり、このことが結果としてブローバの衰退を招いたことになったというわけです。NASAの公式時計の納入においてオメガ社のスピード・マスターと競うことになりました際、結果的に採用されることはなかったようです。後にオメガ社のスピードマスターでブローバ社のメカニズムを採用する機種も存在したと聞くとなんだか皮肉に思われます。

 それから、二十歳になった私は恋愛も思うようには行かず、希望していた大学への進学にも失敗し、大人には裏切られ、傷だらけになりました。何もかも信じることが出来ず、どうやって生きていけば良いのか迷っていた頃、祖母は脳溢血で倒れてしまいました。光枝おばさんの献身的な介護のお陰で、寝たきりでは有ったが3年間生き、それからあの世に旅立ちました。

 祖母のオメガはそれ以来、見たことがありません。おそらくブローバ同様に光枝叔母さんに渡されていたことでしょう。けれども、光枝叔母さんの三年間に渡る献身的な介護は誰にも出来るとではなく、もしもオメガの時計が彼女の介護に対する祖母のささやかな気持ちであるならば、当然のことだと今の私には思われました。ねえ、おばあさん、そうでしょう?


おわり


 

2008/10/15 13:25 2008/10/15 13:25