'父'に該当される記事3件

  1. 2012/01/30 不安を抱く
  2. 2011/05/16 父と絵とギター
  3. 2011/02/21 若き父の姿を見た、映画『戦火の中へ』

不安を抱く

ひとり言 2012/01/30 16:56

2012年になってもはや一ヶ月を過ぎていく。
2011年に大きな出来事は個人的にも国家的にも世界的にもやはり「地震」ではなかったのかと思う。

旧正月(今年は1月23日)は久しぶりに里帰りした。
父は以前より素直になっていた。
なんと言うかな、「強情」な性格の父からその「強情さ」が取れた感じで、
誰かを頼らないと生きていけない子供のようにとも言えよう。

親父は「うん」しか言わないんだよ。
親父に「違うよ」と言わせる質問をするようにしていると弟は言った。

お父さんは干し柿が大好きで、お正月にテーブルに出された干し柿のほとんどを食べたと思う。

私は干し柿が嫌いで、弟の嫁さんが出してくれた出来の良い高そうな最高級の干し柿をほとんど残してテーブルの上に放置。

父は珍しく、私が実家に居る間、いつもの自分の部屋のベッドではなく、リビングのテーブルの前に座って昼の時間を過ごした。

父はお砂糖を少し多めに入れたコーヒーをのみ、睡眠障害を心配した私は日本から持っていった玄米茶入り緑茶を父に飲ませまた。

多分干し柿のせいだと思うけど、便秘になった父
連休中の夜、慌てて開いている薬局を探し回って便秘薬を買ってきた末っ子の弟

その日私は、生まれて初めて父の足を洗ってあげた。父の誕生日だった。
足湯用のバケツに暖かいお湯を入れて父の部屋で足を洗って、きれいにタオルで拭いて、ボディーローションも塗って足のマッサージもしてあげた。
父は何も言わなくても幸せな笑顔を見せてくれた。

薬を飲んでベッドで横になっている父に、明日早い飛行機だから挨拶できないかも知らないと、しばらくのお別れを言いに行った。

「お父さん、お腹痛いの?」
「ううん、痛くないよ」

否定の返事をもらって、笑ってしまった私

翌朝未明、未だ5時だったのかな、目覚ましに起こされた私はトイレーから出てくる父に「おはよう」と声を掛ける。

「うん」・・・返事がおかしい・・・異常に気づいた私は父の箪笥の引出しから下着をズボン下を探し出しトイレの便座を洗い流し、弟を起こした。

弟は父を風呂場に連れて行き、洗ってあげて着替えをさせた後、私を車で空港まで送ってくれた。お互いに「体に気をつけてね」と言って空港でお別れ。


その朝、私は洗顔のところか、歯磨きも出来なかった。


日本に戻ったら、また地震の恐怖が待っていた。
首都圏直下型地震が4年以内に70%の確率で起きるということが報じられたようだ。
東京大学地震研究所の発表だったらしい。

韓国で感じた兄弟との国際政治全体に及ぶ考え方の違いも私を自問自答させた。
私の生き方、考え方は正しいのか。

父が聡気のままでいたなら聞いてみたかった。
父は頭の痛いことはもう考えないことにしたように見えた。




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2012/01/30 16:56 2012/01/30 16:56


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 父はギターを弾いていた。
 幼い記憶の中にはいつも部屋の何処かにギターがある。
 狭い長屋、六畳一間の部屋で五人家族が全員で暮らしていたあの頃も、ギターはもう一人の家族としてその部屋にいた。

 その部屋の壁には、父が模作していた老いたるギター弾き(The Old Guitarist)というピカソの絵が壁に掛かっていた。本物と区別が付かないほどよく出来ていた絵、父はどういう心境でこの絵を真似て描いていたのだろうか。

 父にとってギターは何だったのだろうか。父に聞いたことは無いが、音楽や美術や演劇やと才能に恵まれていた夢多き青年だった父は16歳で戦争にかい出され、二度と故郷に戻る事ができないまま、親兄弟に別れたまま、60年の間、生きるために夢を捨てざるを得なかった心のよりどころだったのかもしれない。

  父のその気持ちは、子供も女房も分かってくれなかったのであろう。
 母は父の気持ちを胸で受け止めるほどの女性ではなかった。理想と現実の間で、父よりもっと激しく揺れていて、神経衰弱症状まで見せていたからだ。父は、母性不在の家庭で育つ幼い私たち兄弟を心配してやまなかった子煩悩な人だったのである。


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 5月のゴールデンウィーク中に里帰りをした。4月の1ヵ月間、福島原発の更なる爆発を恐れて実家に疎開させていた息子の面倒を見てくれた義理の妹(長男(弟)の嫁さん)に御礼を言って、地震の事で心配しているはずの親に元気な顔を見せる事が第一の目的で、行ったついでに友達にも会ってくるのが次の目的だった。

 親に顔を見せて、弟の嫁さんには御礼を言い、友達に会うたびに色々とご馳走になって、一部のほうれん草などの葉っぱ物から放射性物質が検出された事で日本では躊躇って食べられなかった野菜を山ほど食べてた。

 父は、顔いっぱい笑って見せてくれた。
 父の手を取ると、爪が伸びていて、爪の下に黒い垢が詰まっていた。臭いもする。
昔から父はお風呂が嫌いだった。お風呂に入らない父の事で困っていた弟の嫁さんの為に父を日本の温泉に連れて行く目的で韓国から呼んだ事もある。今も弟が銭湯に連れて行かない限り、お風呂にも入らないうえ、お手も洗わないらしい。

 35年も前から、母とは別居している父、今は一日中話す事も無く、ベッドの上で寝て起きて、長男の嫁が「お父様、ご飯ですよ」と言えば、居間に出て、食卓の前に座る。ご飯が終ったら、また自分の部屋のベッドに戻り、テレビを見ながらタバコを吸う。それから眠くなったら寝るの繰り返しのようだ。話す事も無く、出かける事も無く、食事とトイレ意外には部屋から出ない。私が買ってあげたフリスを着たまま、寝て起き、起きては寝ている。

 最近、弟嫁さんが歯医者につれて行っているようだが、歯があんなに駄目になっているとは知らなかったという。元々は歯がとっても丈夫な人だったが、何せよ80という歳と歯磨き嫌いな怠け癖があるのでしょうがないかなと思う。嫁さんは入れ歯にしてあげたいと思うが、こまめに手入れしないと駄目なので、果たしてそれが出来るかどうかと、心配しながらため息をつく。

 父の手をぬれたタオルで綺麗に拭き、爪を切ってあげた。爪の下の垢も取ってあげた。お手からは臭いもとれたようだ。

 手の裏がとても柔らかくなっている。昔は手のひらがもっと硬かったと覚えている。左の指の先端も柔らかい。これじゃもうギターは弾けないな・・・


 弟の嫁さんが、帰りに仁川空港まで車で送ってくれた。車が空港に着く頃、私は彼女に言った。
「色々大変なのは分かっているけど、父をよろしくお願いします。」

 義理の妹は次のように返事した。
「よろしくと言われても、よろしく出来るかどうか・・・」

 出来る事ならば、父を引き取りたい。
 今のようなマンション暮らしではなく、陽がよく当たる山のふもとに平屋を立て、庭に花とトマトとキュウリとトウモロコシとサツマイモを植えて、犬と猫と鶏を放し飼いにしたい。父は土いじりと動物が大好きだからきっと毎日ベッドから降りてて庭に出て来てくれると思う。

 平屋の離れに大きくて気持ち良いお風呂を造って、汗を流した父が毎日入れるようにしてあげたい。

 自分の生活を守るために、それが出来ない私が、今、父の面倒を見ている弟夫婦に何もいえる資格はない。


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 遠藤さんがメールマガで韓国人にとって「恨(ハン)」について書いている。

 私にとって父の「恨(ハン)」はブルースのようなものである。
 父を思うと青の時代のピカソと老いたるギター弾き(The Old Guitarist)の絵が重なる。






2011/05/16 13:27 2011/05/16 13:27


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 私の父は平壌の外港である鎮南浦(今の南浦直轄市)出身である。16
歳の父は学徒義勇軍という名の下で戦場に連れ出された。高校2年の父を私はこの映画で観た。

 主人公のオ・ジャンボム(多分、呉長範)は戦闘で死んでしまうが、父は連合軍(UN軍)の捕虜になり、16歳から三年間を捕虜収容所で過ごす。やがて戦争が終り、捕虜交換の交渉の最中、北に返される事を拒み、収容所を脱出した。
(父の話を元に、私は短編『悲しいクリスマス』を書いた。このブログの創作の部屋に載っている)

 それから、19歳の父はたった一人で韓国で生きる事になった。母は父の初恋で、父の24歳の時、私は生まれた。だから父と私は同じ干支である。今年、父は77歳になる。出来る事ならば、未だ元気のうち、61年前、無理やり連れ出された故郷、生き別れて二度と会うことができなかった両親の墓参りに行かせてあげたい。

16歳の若い父がこの映画の中に居た。多分、この写真の主人公オ・ジャンボム役のTOPのように、初々しい高校生だったはずだ。
 
 この映画は朝鮮戦争勃発60年を記して、昨年の夏、韓国で封を切った。8月には韓国語をそのまま訳した『砲火の中で』というタイトルで、このブログにこの映画について書いたが、その時、まだ映画を見ていなかった。
 通勤の時いつも通る赤坂見附駅の構内に貼られたポスターを見て、ようやっとこの映画が日本にやってきたと思った。封切りから始めての休みの日、2月20日の日曜日、有楽町の門川シネマでこの映画を見る事ができた。

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 朝鮮戦争で戦った学徒兵たちの悲劇を描く戦争秘話は、韓国映画らしい“母への思慕”をベースにした悲壮なドラマだ。1950年の韓国。北朝鮮の猛攻で首都ソウルまで陥落した韓国軍は、追いつめられ、最後の砦である洛東江の戦線を守り抜くために全兵力を投入しようとしていた。そんな中、戦略上の要地である浦項の軍司令部が置かれた学校を託されたのは、戦闘経験がほとんどない学徒兵たち。オ・ジャンボムをリーダーとする71人は、明らかに劣勢の状況の中、命懸けで戦いに挑んでいく…。

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 16歳の学徒兵の遺体から母親に宛てた手紙が発見され、そこに綴られた痛切な思いが、戦争アクションとして映画化されたのが本作。主人公ジャンボムは、本来、物静かな性格で、地獄のような戦闘光景を見たときのショックがぬぐえないのに、少年兵の中で唯一“戦闘経験がある”とみなされてリーダーに任命され激しく戸惑う。生まれて初めて見る無残な死、同じ民族同士が殺し合う矛盾、母への想いなどが彼の内側でせめぎあうが、それらにゆっくりと答えを出すような猶予はどこにもない。

 否が応でも戦争の最前線に立たねばならなかったジャンボムが、短期間にリーダーとして成長するプロセスはやや不自然なのだが、敵の襲撃から逃げず、まして降伏などせず、必死の思いで正面から戦うことを決意する姿は、悲壮感に満ちている。ジャンボムと対立し、やがて心を通わせていくのは不良少年ガプチョ。演じるクォン・サンウは、いくらなんでも学徒兵役には年齢的に無理があるのだが、少年院送りにされる代わりに志願兵になるという設定は、当時の韓国軍の追いつめられた状況を上手く表している。

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 日本でも学徒出陣という悲劇があり、それは強大な敵・米国との戦争の、敗戦の象徴なのだが、朝鮮戦争時、浦項で命を散らした学徒兵の戦いは、北朝鮮軍の南への侵攻を遅らせ、韓国軍の立て直しと、後の連合軍の反撃に大きく寄与した。しかしそのことが、結果的に朝鮮半島を決定的に二分してしまうのだから、歴史というのは皮肉なものである。映画は政治的な側面には踏み込まず、あくまでも少年たちの友情や家族への思いを軸にする情緒的な演出だ。これは監督のイ・ジェハンの嗜好なのだろう。学徒兵たちの表情は皆、まだあどけない。彼らが軍服ではなく学生服を着ていることが、悲劇をより際立たせた。


(原題「71 Into the Fire」)
(韓国/イ・ジェハン監督T.O.P、クォン・サンウ、キム・スンウ、他)


2011/02/21 14:42 2011/02/21 14:42