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2011/04/06 15:42 2011/04/06 15:42

≪創作短編≫ 笑顔が綺麗だよ


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 アメリカから時々日本に里帰りをした。里帰りをする毎に、彼に会う回数が増え、時には彼に会うために帰国した。私が渡米を決心した頃は、彼とはそれほど親しい間柄ではなかった。同じ職場ではあったが、別の部署だったので、偶にすれちがったら会釈を交わす程度だった。
 ショートケーキの上にのったイチゴの味のような彼との時間を過ごした後、私は姉と子供が待つボストンに戻る。ボストンでは国際取引・国際契約に関する業務について勉強中だった。

 ボストン大学ロースクール(LL.M.)で学ぶことにしたのは、夫との離婚がきっかけだった。
大学を卒業した後、中堅クラスの商社に勤め、その五年後に、大学のサークルの先輩であった夫と、妊娠を機に結婚した。結婚して五年間、妊娠・出産・育児に追われているうちに後輩に追い抜かれ、かなり焦っていた私は、子供が幼稚園に行くようになると、ようやっと本格的な仕事復帰を果たした。

 国際ビジネスの世界は日に日に情勢が変り、その分析力によってこの世界の勝敗がきまる。その最前線で活躍する後輩達は着実に先を進んで行って、その背中は段々と遠くなっていく。彼らを後で支える役割に回ってから五年間、世界は目まぐるしく変わってしまった。国際環境も、市場の流れも、以前とまったく変わってしまい、付いていくことが精一杯。このままではここで止まり、適当に働き、程々の給料をもらって、あとは夫に頼る、「女」に甘んじる生き方を選ぶ他にない。夫も、そうであるべきと、当たり前のように思っていたのだろう。

 夫は勉強する私に嫉妬していた。勉強をしていると、口実を探しては世話をやかせた。結婚前の夫は私のビジネス分析の能力を高く評価していたが、いつの間にか、それよりも女房の役割を要求するようになっていた。私はその傲慢にも近い夫の態度に失望していった。

 夫との別れを決心したのは、子供が夜、急に熱を出し、病院に運ばれた際の事だった。夫はこう言った。
「俺は明日、大事な仕事が在るから、悪いけど先に帰って寝る。」
 
 その言葉で私の気持ちは固まった。

 姉はアメリカ人と結婚していた。とても誠実なクリスチャンであるアメリカンの義兄と姉の間には、仲睦まじく暮らしていたが、何故か子供ができなかった。姉の寂しさを案じた義兄が私と子供をアメリカに呼んでくれた。丁度夫と別れ、仕事は後輩に追い抜かれ、子供を抱えながら日々の現実に苦しむ中で、私自身に自信を付ける機会を兄が作ってくれたのだ。私は姉の住まいに近いところにアパートを借りて、子供と新しい生活を始めた。姉夫婦に負んぶに抱っこの生活ではあったが、姉夫婦の愛を一身に受ける子供も、勉強が思う存分できる私も幸せだった。

 アメリカ行きが決まったために会社を退職したため、会社が催してくれた送別会の帰り、彼から声を掛けられた。
「先輩、よかったら先輩の行く先の住所を教えてください。」
今時、家の住所を教えてという人は珍しいと思った。
「住所ですか?メールアドレスじゃなくて?」
「いや、住所です。もしボストンへ出張があったら日本の美味しい物を持って行きますから・・・。」
私はこれから住む街、ボストンの住所をメモして渡した。

 渡米後、しばらくして彼から手紙が届いた。封を開けると青い便箋に万年筆で書いた彼の筆跡に、(今時珍しい人)と再び思った。


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 それからも手紙は続き、私も電子メールではなくて手紙を書いた。手紙が届くのを待つ間、時めきと切なさが交錯する胸の中、わたしたちはゆっくり、そして密かに愛を育んでいった。

 二年後、彼が交通事故で意識不明になったことを聞いたのは、偶々電話してきた、前の職場で仲の良かった友人からだった。その前日に、一週間前に彼が書いた手紙が届いたので信じられなかった。
彼と付き合っていることを会社の人には内緒にしていたので、彼女が知っていて、伝えたわけは無い。きっと彼の気持ちがそうさせたと思った。
私は急いで、日本に帰った。


 彼の体についた幾つものコード、喉に埋め込んだ人工呼吸の為のチューブ・・・。彼には意識もな、く一人では呼吸もできない状態で、病院の重患者室のスチール製のベッドに寝ていた。悲しくて胸がつまった。私も息ができないような気がした。
翌朝の夜明け、彼は息を引き取った。私の目の前で、いつまでも待ち続けると言った彼が、私の前を去っていった。

 彼を見送ってからアメリカに戻る途についた。
 泣いて腫れぼったい眼は、辛うじて前が見える程度、ほとんど開けられない状態で、サングラスを掛けずには外に出られなかった。

 アメリカへの入国審査の際に、サングラスを取るように命じられた。躊躇しながらサングラスをとった私を見て、黒人の審査官は言った。

   Lady!  please don't cry. A smiling face is beautiful for you.
   Look! This picture of passport. you are not crying. It’s  nice.

  レディー、泣かないでね。あなたは笑顔が綺麗だからね。
   見てよ、このパスポートの写真。泣いてない顔はなかなか素敵じゃないの。



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2010/09/08 14:30 2010/09/08 14:30


時  計


第三話

 2008年上期の芥川賞を受賞したのは、中国の民主化運動を背景にして青年たちの昂揚した情熱とその挫折を描いた、楊逸女史著「時が滲む朝」であった。読みながらわが青春の刻を思い出した。

 人生に偶然はいくつもあり、栄と三十年ぶりに再会したのもその偶然の中の一つであろう。
  ネット上で、文学の話や日常の話を書き物にして読み交わす仲間の集まりで、投稿の常連となっていたある書き手の作品の背景は釜山であった。コケティッシュな釜山の方言と、どこか懐かしい釜山の地名や町の様子からふと、学生時代の思い出が甦ったのである。

  思い立って、その書き手にメールを送った。「ひょっとしてK高校出身ではないか?」と・・・。 「どうして分かったのか?」とメールが返って来た。それは女の第六感だったのかもしれない。栄の事を訊ねると同窓会を通じて調べて、彼に連絡を取ってくれた。「栄君もあなたに会いたいと言っています。」とのことだった。

 五十路を迎えた二人ではあっても面影は残っていた。私は、彼に会う前に空港免税店で購入したセイコー時計を、栄に渡した。
 「これは何?時計?こんなの俺は要らないから他の人にあげなよ。親父さんだってまだ元気だろう。弟だっているんだし・・・。今は携帯電話もあるから時計はいらんからね。」と断る彼に、「あんたはマナーもないの?プレゼントは嬉しい顔して受け取るものでしょう?これは日本土産なんだから・・・。」と、無理に渡した。栄に会って昔の借りを返せたような気がして嬉しかった。二人の男の子の父親になっている栄は、平凡で良いお父さんになっているようだった。

 栄とは高校2年生の修学旅行の列車の中で友達になった釜山(ぷさん)に住む同年の男子で、二人はそれから7年に近い歳月を共有した。栄はお金が出来さえしたら釜山(ぷさん)からの遠い距離を会いに来てくれた。大好きな友達以上ではあったが、恋人未満の二人だった。


 1979年某月某日、高卒以上の液晶時計の組立ての工員を募集するという新聞記事を見て、私は履歴書を出した。

 まだ賃金の安い労働力が豊富であった当時の韓国には外資系企業の進出も多く、世界の生産工場の一つになっていて、今の中国のように環境汚染が大きな問題となっていた。ソウルの外れの九老洞には首都圏最大の工業団地である九老工団があった。

  その会社はそこにあった。整頓された工場の建物と周辺施設がとても印象的だったその工場で、当時では最新技術の電子時計が生産されていた。
 韓国初の電子時計メーカー、その会社の名はオリンポス電子株式会社。従来の発条(ぜんまい)を巻いて針で時を刻む時計とはまったく異なり、電池で動きデジタル液晶の文字盤に時刻を数字で表わす。まさにモダンでシンプルな洗練されたデザインの時計を生産する工場であった。
 面接日が決まり面接場に行くと、そこには数十人の若い女性が集まっていた。私は部屋の片隅の長椅子に小さく背を丸めて座った。
 朝鮮戦争が終わって(1953年)から10年間の間に生まれたベビーブーム世代である。どの場面においても激しい競争は避けられない運命にあった彼女たちは、誰もが皆、緊張のあまりか表情がない。

 エリートを思わせるどこか冷たい感じの若い面接官との、家族構成や応募の動機など在り来りの質問の後、私は彼の意外な試問に驚いた。高校教科書に載っている漢詩を暗唱して欲しいというのである。可憐な女の恋歌。李玉峰が書いた「夢魂」というものである。

近來安否問如何(근래안부문여하)
近頃如何がお過しでしょうかと安否を尋ねる

月到紗窓妾恨多(월도사창첩한다)
お月様が訪れる紗窓に切ない妾(おんな)の溜息多し

若使夢魂行有跡(약사몽혼행유적)
夢の中の魂が足跡を残すことが出来るなら

門前石路半成沙(문전석로반성사) 
門の前の石畳の半分は沙になったはず


 電子時計は、黒い基盤にメタルの時代に似合う液晶の文字盤とそこにくっきりと時の流れを数字で刻む。その新時代の時計に相応しく、洗練された身なりのその面接官が提示した2番目の試問は『最後の授業』や『星』という短編作品を書いたフランス人作家の名前を出してみろということだった。今考えてみれば、彼はハイテク会社の社員の割には文系だったようである。

 「アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)」

答えられたことでほっとして面接室を出て、次の指示を待つ他の大勢の中で一時間程度経過した頃、「この面接結果は一週間後に会社の掲示板に張り出される・・・」とかの説明があった。
 その後に、私一人だけが名前を呼ばれた。私は訳もわからず、再び面接官の向かい側に座った。

「あなたは私の質問によく答えてくれました。本来なら見せる事は無いのですが、面接の採点を見せます。今日の人達の中で最高点です。これから人事部で人選に入るのですが、あなたはたぶん採用にはなりません。」

唖然としている私を前に彼の話は続く。

「採用されないと貴方は納得できないでしょうけれど、私共が求めている工員はあなたのような勉強が出来て頭の良い人ではありません。はっきり言って、会社の言うことをよく聞いてくれて真面目であればいいのです。あなたは単純作業には向いてないかもしれません。こんなことあなたに伝える必要は無いとは思いますが、私個人としては、あなたと仕事が出来ないことを残念に思っていますので、此の事だけは伝えておきたいと思いました。採用者発表掲示板に名前が載って無くてもあまりがっかりしないでください。」

 結局、私は採用されなかった。友人は団地内の別の会社に応募し履歴書と面接を上手く潜り抜け、偽装就職が出来た。彼女は労働現場で労働者達と一緒に労働環境改善と労働者の権利の為に労働組合を作り戦った。

 私は現場に潜り込んで労働者を煽動して、労働組合を作るためにその会社に入りたかったわけではなかった。結果、学費が払えず、その春に休学届けを出し、そのまま学校には戻らなかった。
 
 貧しくても労働者にもなれなかった。当時、私は何も出来ない自分にただただ苛立っていた。

 オリンポス電子株式会社は1980年5月に不渡りを出し倒産する。同じ年、5月18日、光州事件注1が発生した。光州は封鎖され全国に戒厳令が布かれた。
 その時に兵役中の栄(えい)は戒厳軍の一員として漢江の河口に待機していた。

 
 光州の人々に哀れみを感じた私は、教会に集まった仲間と共に「光州の市民に役立つ事は何か?」と神父様に尋ね「献血だ。」と教えられ、集団で赤十字社に献血に出向いた。

 その年、クリスマスに合わせて休暇が取れた栄が釜山の実家に帰る前に私の所へ立ち寄った。下士官の階級章(かいきゅうしょう)を帽子と肩と胸に付けた、オリーブ色の軍服姿の栄は、肌が逞しく日焼けしていて、胸板が厚くなり、大人の男になっていた。
 彼が差し出した小さな包み。開けてみると中には電子時計が入っていた。 「何?これ?」と聞く私に「軍隊で給料貯めてPX注2で買った。」と答えた。私の誕生日に合わせてくれたとは言われなくてもわかっていた。兵役の義務を背負っている韓国の若者は、誰もが二十歳から二年間、お国のために務めなくてはならない。今も昔もそれは同じである。給料といっても一般兵で一ヶ月五千円程度。

「これって高いんでしょう。下士官の月給じゃ無理じゃないの?こんなもの買ってこなくたって・・・。」

 照れくさくて素直に有難うとは言えず、ついこんな口調になってしまったのはなぜだろう。

「PXで買ったからそれほど高くないよ。軍隊の中じゃ金を使うところないし、時間もないからさ。」と栄は笑って言った。
 その後、たった一度だけ彼のところまで面会に行った。除隊まであと半年を残した、秋が深まってきた日だった。

「おれ、それから色々と考えたけど、除隊したら俺達結婚しよう。色々あったけど、俺もお前も色々あったけど、やっぱりお前しかないと俺は思うんだ。」

 私は断った。彼はとても好きだけど、胸に燃える情熱を感じない。それに、私はまだ若すぎた。他の人が好きになっていたのである。
 その冬私は、警察に追われ地方を転々とする、とある社会革命家を夢見る男について行く為にソウルを離れた。好きな男の元に行った。

 その後で、栄は除隊した。実家へ帰る前に、いつものようにうちに立ち寄ったと弟が伝える。経済的に大変だった家庭の事情の中で大学を受験していた弟に励ましの言葉と幾らかのお金を置いて栄は帰ったと聞いた。その後30年間、互いに消息も知らずに生きた。

 あの電子時計をその後どうしたのか、あんまり覚えていない。 恐らく、そのうちに壊れて使えなくなったのだと思うが、栄の事はこの30年間胸の奥に重くのし掛かっていて、いつか返さなければならない借りとして尾を引いていた。

 色々と話を交わしてから帰り道の飛行機の中、見も心もとても軽くなった。それはまるで快感。「さようなら栄君。何時また会える日が来るかはわからないけど、元気で達者で何時までもお幸せに・・・」
    

  近來安否問如何(근래안부문여하)




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注1. 

光州(こうしゅう)事件は、1980年5月18日から27日にかけて韓国の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生した。民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件である。全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥の新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した(五・一七非常戒厳令拡大措置)。金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。 また、鎮圧部隊の空挺部隊も、かつては韓国軍のエリート部隊であったが、全斗煥の警護部隊的な位置づけに格下げされ、兵士たちには鬱憤がたまっていた。 5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊と学生が自然発生的に衝突した。軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体も学生から、激昂した市民に変わっていった。市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は地域の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


注2. 

PX [post exchange]軍の基地内にある売店。税金が負荷されない。




2009/09/03 15:58 2009/09/03 15:58

悲しいクリスマス <その⑤>


収容所の中は俺みたいに思想とかイデオロギーとかには
特別な信念を持たな連中も大勢いたが
社会主義者や革命家、人民解放軍の意識がはっきりしてる連中も多かった。
両勢力の捕虜達は互いに軽蔑し、憎みあった。
喧嘩も絶えなかった。


ある日は収容所の中で殺人事件まで起きてしまった。
それをきっかけに両勢力を別々に収容するようになった。
それから俺は連合軍の責任者の気に入られ
薬品とか備品などを管理する事になった。
同郷の人も何人か会えて仲間も出来た。
そうして三年の年月が流れていて、戦争は終わりに向かっていた。

休戦会談が行われていると噂が流れた。
後から収容所に送られた同郷の先輩に
両親がこの戦争で亡くなった事を聞いたのも

戦争が終わりに近いある日であった。

俺は一晩泣いた。
そして、これから自分ひとりで生きていかない現実を
受け入れなければならない事が分かった。
 

皆といる時は戦争の行方を占った。
それからどう生きて行くか皆は語り合ったが
将来自分たちがどうなるかは誰も知らない。
全員北に返されると噂をする人もいた。
一人になる時間は不安な未来に泣いた。




その日はいつもと同じように夜が来た。
連合軍の監視兵はあくびをしながら自分の宿舎に帰った。
皆、寝たフリをして夜が深けるのを待っていた。
息を潜め子の刻が来るのを待っていた。
零時になるとこの捕虜収容所の難い門が密かに開く。

連合軍は自分らの捕虜達を連合側に連れてくるため、
このK島に収容所に収容されている全員を本人達の意思とは関係なく
戦争相手に返すと噂があった。
俺だって人民解放軍からの無断離脱者である。
このまま返されたらきっと批判の対象になるに違いない。
国に親はもういない。


捕虜たちそれぞれ事情も様々であった。
当人の意思など気にもせずその運命の鍵は連合軍が握っていた。
毎日変わる政策で収容所の人々は揺れていた。
噂が噂を呼ぶなかで、ある日、北に戻りたくない捕虜達を
収容所から逃がす計画が持ち上がった。
連合軍の考えに必ずしも納得できてない政府の首脳の決断であった。
そのDデイHアワーが今晩の0時である。
密かな伝達が俺にも回ってきた。

それにしても大量の脱出が、連合軍にばれないはずが無い。
その時は命は無いのと思わなければならないのだと
誰もがわかっていた。

夜が更けると扉の前で誰かのささやく声が聞こえた。

「今だ!!皆、起きてるのか?これから順番に出て行くんだ。
音を立てるな。銃声が聞こえても振り向くんじゃないぞ。
前を見るのだ、そして走れ!! 桟橋に向かって行くんだ。
国防軍の軍艦が海岸に近く来てるんだ。
軍艦はこれから3日連続夜中らが朝方にかけておい等を迎えに来る。
漁師さんたちがおい等を軍艦まで運んでくれることになっているんだ。
3日間だけだからそのいずれかの軍艦に乗れ、昼間は隠れて夜に移動しろ。
そして陸に着いたらそれからは自由だ。頑張りたまえ。幸運を祈る。」

いっせいに扉を目指して突進した。
誰もが口を噤んだまま。






2008/06/12 16:54 2008/06/12 16:54

<その④>

耳になれない言葉で何かを叫びながら
黒人の男が銃口を俺に向けてきた。
何人かの白人と黒人の軍服の男が俺を囲んだ。
頭が真っ白で、状況判断もできないまま俺は捕縛された。
俺は絶望で崩れ落ちた。
殺せと叫んだが彼らは俺を殺しはしなかった。

それから連れられて行ったところは大勢の若者がいた。
服は汚れきって、顔は北風の冷たさにやけて頬が赤い。
俺は連合軍の捕虜になった。
村の裏山のふもとにある畑には所々雪が残っていた。


雪の下には暖かい土があり、
その下にはきっと白菜の根っこが残ってるだろう。
白菜の根っこは甘くて辛い。それは冬のおやつだった。
畑に残った白菜の根っこを探したりしながら
元気で遊んだ幼頃の俺が俺に手を降って遠ざかっていた。


戦争中であることも知らなかった山の奥の村にも軍隊はやって来たのか。
村の子供たちは始めて見た白人や黒人の顔に驚き、
泣き出しただろう。
始めて聞いた意味の不明な言葉に、
村人達は息を潜んで隠れていたのだろう。

今になってはこんな事だって思うが
その時はこれで自分の人生は終わりだと思っていた。

それから長い道のりが始まった。
これからどうなるのかも分からないまま、果てなく歩く毎日だった。
夜は野原で雪が降ったら降られたまま、雨に濡れたら濡れたまま
寝具も無く過ごさなければならなかった。
日が昇る朝が待ち遠しい長い長い冬の夜を互いの体温で乗り越えた。
塩を塗しただけのご飯を手のひらにもらって動物のように口をつけて食べた。

連合軍は絶対に捕虜は殺さないと誰かが吐いた言葉だけを
すがる気持ちで信じて生き延びるために必死で耐えた。

何処に連れて行かれるのか分からない毎日、
それにしても日が経つに連れ段々暖かくなっていくような気がするのは
多分南に来てるからだろう。


一ヵ月後、南のある島に辿り着いた。
後でこの島は捕虜収容所で使われるようになったK島だと分かった。
今までと違ってそこではそれなりの生活が出来た。
頭は丸かりにされ全身にDDTをぶっかぶられたが、
収容所の中は寝袋も有ったし、食事も食器を使う。
時々キャンデーもチョコレートも貰えた。
死とうい絶望感は薄れていたがこの戦争の行方は気になるものだ。


北に社会主義の国が出来た時、

親父は持っていた小さな果樹園を取られた。
今まで勉強した外国語の英語もロシア語に変わった。
俺は可愛がられた担任の先生に密かに呼ばれて忠告された。

「君のために言うんだが、君の生活捜査表の宗教欄に宗教は無い事にした方がよさそうだ。君は成績もトップだし将来があるから進学もしないとね」

そのとき俺は納得出来なかった。
自分の利を得るために信念を曲げる事は

親父から教わった人間の生き方とは異なる。


親父もおふくろも兄弟も敬虔なカトリックであった家族は
信じる道に命を掛ける事を名誉と思ってきた。
俺は先生の忠告を聞き入れなかった事で進学が難しくなっていた。
教師になりたかった俺はその道も難しくなった事がなんとなく分かっていた。
俺は新しく出来上がった社会主義に迷っていたのかもしらない。
俺の心は社会主義が受け入れられなかった。

2008/06/03 15:54 2008/06/03 15:54

<その③>

軍服を脱いた。俺はもう軍人ではない。
俺は高等学校3年の学生なんだ。
夢が大きい青年なんだ。
理由も分からないまま誰かを殺し、そして殺される。
そんなの、俺は望んでない。

小屋を出るとき俺は既に軍人ではなかった。
老婆が持たしてくれた蒸したじゃが芋を胸に
いつか必ず恩返しをすると誓った。
老夫婦の息子さんが無事に両親の元に返って来るよう祈った。
 


冬の日は短く、俺はくれる日を向かって歩いた。
ここからしばらく西に向かってそれから北の方へと。

歩いても歩いても山道は続いていたが
山は低くなっていて時々村や畑も見えたりした。

思考の転回というのはこんなことを言うんだろうか、
瞬間頭に浮かんできたものは
この辺は今どちらの勢力の支配におかれてるのかと言うことであった。
俺的には何の意味もないことであるのにも関わらず、
俺の人生に大きく関わることになってしまったことが
しみじみとわかってきた。

とにかく畑が見えてきたという意味は人にも会える事である。
人に会うことがこんなにも慎重に考えなければならないとは
今までは一度も思った思ったことがない。
もうしばらく隠れて様子を見なければならない。
母の元に返ることすら許されない状況がわかってきたような気がしてきた。

「俺て一体何をやったんだ」

頭が混乱してきた。
ひと目につく夜道を歩くのは怪しく思われるのに違いない。
だからて昼間に等々と歩ける立場でもないのだ。
老人と女と子供以外に誰が昼間歩けると言うのか
こんな時勢に・・・・

取りあえず回りが闇に包まれるまで待つことにして
日が当たって雪が解け、そして乾いた岩に身よ寄せると
嫌な予感と同時に後ろから人影を感じた。

俺は振り向く勇気もないまま、心の揺れと襲い掛かる恐怖、
それは一瞬でありながら果てなく長い瞬間でもあった。

2008/05/30 10:01 2008/05/30 10:01

<その②>

気が付くと俺は山道を走っていた。
息が切れそうで止まると自分が何処にいるか分からなくなっていた。
微かに見える白い雪道は

自分の足跡と野生動物の足跡が混じって散乱していた。
頬が痛かった。
どこかですれ傷を付けたようだ。

家に帰らないと、母さんが待つ家に帰らないと・・・
俺はまた走った。

母さんは俺を秘密の部屋に隠していた。
村に若者の召集令が出されたとき、お袋は隠し部屋を作った。
母屋の脇に小さい物置を装って俺の居場所を作ってくれた。

何日も何日もその中で過ごすには俺は若すぎたのかもしれない。
外の様子が気になって隠し部屋を抜け出したその時
俺の家を見張り続けていた村の役場の人間に見つかってしまったのだ。
村の責任者に酷く批判されるお袋を後にして
俺は人民解放軍になって戦う身分となった。

夜が明けようとしていた。
このままでは家にたどり着く前、捕まえてしまう。
だって俺は軍服を着たまま。
このままじゃ軍隊から逃げ出したのがすぐばれてしまうだろう。
現実の自分に戻ると怖くなった。
これからどうすれば良いのか・・・
朝になればみんなは俺がいなくなったことに気が付くだろう。

とにかくその日は山の岩の影に隠れていた。
寒さと怖さと極度の緊張で空腹感すら感じなかった一日だった。

夜になってまた歩いた。
今度は激しい空腹感で吐き気がした。
離れた群から俺を追っかけてくる気配はなかった。
何処かで食べ物を調達しなければならない。
ふらふら一晩歩くと回りがやや明るくなってきた。
もう歩けない。疲れた。おなかが空いてどうにもならない。
残雪を手に取って食べてみた。
これからどうするのか俺にも分からない。


その時、ふと煙の匂いがした。
もしかしたら他の軍隊の群ではないかと思い、怖くなった。
山の高い所に登り、隠れて様子を見ると

火田民の部落が闇の中で微かに見える。
朝ご飯の準備に掛かってるらしかった。
俺はその煙が昇る小屋に向かった。

俺に選択の余地なんかが有る訳がない。

小屋には老夫婦がいた。
早朝の尋ね人に大変驚いた様子、当然の事だ。
だって俺、山ですべて転んで傷だらけの人民軍服の姿であったから。
しばらく俺の顔を見ていた老夫婦は
幼い少年兵の疲れ果てた姿に同情をしたらしく、
色々と聞いて来た。

老婆は黍(きび)のお粥を持ってきてくれて
兵隊に連れて行かれた息子の服を出してくれた。
老人は布団を敷いてくれた。

「疲れた様子だね。食べてひと眠りして、
それからお家に帰りなさい。ご両親が待ってるんだろう?」

眠った、久しぶりに。
満腹で暖かい部屋で眠った。
軍服ではなく民服。
心が和んで深い深い眠りに襲われた。

2008/05/28 17:11 2008/05/28 17:11

悲しいクリスマス

                                  

<その①>

今日、俺に子供が生まれた。女の子だ。
外は寒くてあらゆる物を凍らせてる。
ここで俺は根をおろす。
俺はもう独りぼっちではないのだ。
こんな寒い夜、故郷の町は
灯した明かりまで凍りつく寒さだ。


今、戦争は終わって世の中は平和が訪れようとしてる。
この平和は何時まで続くのだろうか。

俺は17歳で故郷を離れた。
俺は戦争を望んではない。
だけど、世の中は俺の意思とは関係なく、
全ての人を巻き込んでいた。狂ったように・・・・
その時俺は自分の納得の出来ないその状況から逃げたかった。

たった一週間の訓練で
俺には恐ろしくも人を殺せる許可が与えられた。
本当に俺は人が殺せるのか。

戦場に向かう群れの列は百メーターを超えるくらいで
何人か同じ学級の友人もその群れにいて
その中の何人かは俺に手を振った。
寒い冬の日差しは有り難い物だ。

山道は険しく、太陽はもう隠れようとしている。
今晩は多分この辺で野営だろう。
寒い冬の日没は悲しいものであった。


どのくらい寝ていたのか寒さと膀胱の圧迫感に目が覚めた。
この行軍はもう一週間も続いてる。
みんな疲れ果てて、寒さにもめげず死んだように眠ってる。
このように寝られるのも後、幾晩だろうか
後2,3日で戦線に着くのは誰もかが予測していた。


用を出すため野営地から離れた。
圧迫されていた膀胱が元に戻る快感を感じながら
体を振るって一瞬空を見上げると、
山々に隠れて狭くなった空に月もなく星が見えた。

雪が止んだ空は綺麗。とても綺麗。
人間は戦って死んでいくのに、星は変わらなく今夜も出ていたのだ。
瞬間、星は涙を流していた。


母さん・・・ それは母さんの涙の様だ。



 

2008/05/28 16:57 2008/05/28 16:57