'革命'に該当される記事3件

  1. 2010/05/06 「よど号」事件40年 (1)
  2. 2008/10/15 30年ぶりの再会<その②>
  3. 2008/10/15 30年ぶりの再会<その①>


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※今年は2010年、この4月で、この事件はちょうど40年です。 私は40年前、この事件を韓国のテレビで見ていました。言わば、「金浦国際空港」が「平壌国際空港」を装いましたが犯人たちに見破られ、人質だけ降ろして北朝鮮への旅立ちを許すしかない、まさにその場面を、息を呑んでみていた親のそばからですが、子供ながら、えらい事になったと思っていましたので、記憶に鮮明に残っています。

その犯人達は北朝鮮に渡り、自分達の夢の実現に向けて頑張れたのでしょうか?それから何を思って今に至り、死んで行ったのか、いったいあの事件は何を残して、何を失ったのでしょうか?

 下記の記事は10年前、丁度30年になる年の2000年6月18日に放映された、放送日本テレビ『知ってるつもり?!』の「よど号」物語 事件が彩る数奇な運命によるものです。それからまた10年の年月が流れました。
 

「よど号」物語 事件が彩る数奇な運命
 

アメリカの空を伸びやかに飛ぶ、1機の美しいジェット機!!
機体は旧式ながら、内装は超豪華!!使っているのは、プロバスケットのマイケル・ジョーダンなど各界のスターが乗るVIP!!昔…このVIPチャーターのジェット機には、日本でこんな名前が付けられていた。 ──「よど号」!!

今からちょうど30年前…

1970年(昭和45)3月31日――羽田発福岡行きの日本航空351便ボーイング727「よど号」は、乗客131名と乗員7名を乗せて、定刻をおよそ10分遅れの7時21分、羽田空港を離陸した。機長は石田真二、飛行時間は1万時間を優に越える47歳のベテランパイロット。

そして離陸から10分後、富士山上空にさしかかったその時──!!体前方に座っていた男たちが一斉に立ち上がり、日本刀やピストル、ダイナマイトを振りかざして乗客を制圧、機長らに日本刀を突きつけ「北朝鮮のピョンヤンへ行け」と要求したのである。
ハイジャックの一報は、電撃的に日本中を駆け抜け、初めての事件に日本政府も対処の仕方が分からず、戸惑うばかりであった…。「よど号」は、石田機長の機転で福岡空港で給油しながら時間稼ぎをし、人質のうち女性や子供たちを解放させたものの結局、説得をふりきり、「よど号」は、一路北朝鮮を目指し、飛び立った。
しかし、なぜか韓国の金浦空港にいったん着陸。ここで乗客の身代わりにと、名乗り出た山村新治郎政務次官が搭乗し、ついに「38度線」を越えて北朝鮮へと飛んで行った。事件発生6日目の4月5日9時10分、「よど号」は山村政務次官を乗せて無事帰国をした。

だが、実はこの「よど号事件」、いくつもの謎と秘話が隠されていた。北朝鮮に飛び立ったよど号は、朝鮮半島を一路北へ進んだ。しかし、38度線を越えたところで、なぜか急旋回!レーダーに誘導されるがままに、よど号は15時16分、着陸した。
――しかし、そこはピョンヤン空港ではなく、ソウルの金浦空港だったのである!
「よど号」の北朝鮮行きを何としても阻止したい日本政府が、米国軍に解決を依頼し、韓国側に協力を要請したという一説も…!

さらに──金浦空港でピョンヤン空港までの地図を要求した石田機長に渡されたのは、何と中学生用の白地図のコピー1枚だけ!!その余白には「航路図なし。121・5MCをつねに傍受せよ」としか書いてなかったのである!──そして白地図1枚を頼りに、初めての北朝鮮・ピョンヤン空港へ…日の暮れたソウルを飛び立った「よど号」は、いっこうに無線の応答もないまま勘を頼りの有視界飛行を続けた。そんな時、石田機長の目に入った、照明もない草ぼうぼうの滑走路!!その滑走路は凸凹で、戦時中に旧日本軍が作って放置されていた飛行場であった。
そんな夜間の無人滑走路への無事着陸──!それを可能にしたのは、石田機長の過去にワケがあった。19歳で航空機乗員養成所に入った石田さんは、太平洋戦争が始まると、「夜間特攻隊」の教官に。それは、闇夜の中を飛んで敵に近づき体当たりをするというもの!──この飛行技術と体験が、よど号事件で活かされることとなったのである。

事件によって「英雄」となった、「よど号」の機長、石田真二氏──5日後に羽田空港へ戻ってきた彼は、一躍脚光を浴び「時の人」と騒がれた。ところが、有名になったことで白日のもとに晒されたものがあった!!「愛人騒動」──一転してのスキャンダル。時に石田さん47歳、それが20年近い「流転の人生」の始まりであった…。女性問題で日航を辞め、その後、家族ともうまくいかず、自家用飛行機の雇われパイロットとして、大阪、札幌、岡山…と転々と一人で渡り歩いたものの、会社が倒産するなど、どこまでもうまくいかない人生──。エリートの機長時代には味わったことのない辛酸に石田さんは、「事件に人生を狂わされた…」と幾度も運命を呪ったという。しかし、石田さんを待っていたのは、捨てたはずの家族。何も言わず、全てを許してくれた家族のもとで、人生のやり直しを始めた。現在は夜間の警備員として職に就き、平穏に暮らしている。
──「今でも、よど号を操縦して空を飛んでいる夢をみるよ…」

そして乗客の身代わりとして北朝鮮に飛んだ、もう一人の「英雄」山村運輸政務次官──

韓国の金浦空港にて、緊張したこう着状態が続き、乗客たちの疲労もピークとなっていた「ハイジャック3日目」。“乗客を降ろす条件で自分が人質に”と提案…。結局、この提案を犯人グループも受入れ、乗客たちはようやく解放、よど号はこうしてピョンヤンへと飛び立っていった…。
よど号が日本へ帰ってきたのは、その2日後。──国民的英雄として、熱狂的に迎えられ、男を上げた山村氏は、その後の選挙でもトップ当選!!大臣のイスを歴任するなど、「男、山新」は政界の顔として活躍する。しかし、「事件」から22年後の1992年、自宅で実の娘に刺殺されるという、まさかの衝撃的な事件が!
その影に隠されていた、事件の複雑な波紋とは…

そして北朝鮮に亡命した赤軍派メンバー──当時、彼らは声明文で「我々は…あしたのジョーになる」と叫び、当時の人気漫画・「あしたのジョー」に自分たちをなぞらえ、“燃え尽きるまで戦うのだ”と叫んだ、当時20歳前後のメンバーたち。彼らは日本初のハイジャックを「フェニックス作戦」と命名。北朝鮮を夢の楽園と目指し、軍事訓練を積んで日本へ帰って武装闘争をしようとしていたのであった。
今や50歳を過ぎ、9人だったメンバーも現地で病死したり、海外で逮捕されたりして…今は4人。しかし、現地で結婚した彼らの子供たちは合わせて20人も…!!
──「僕たちも、20世紀中に起こしたことは、20世紀中にキチンと解決したい…。我々も日本に帰りたいのは、偽らざる心情…」海外に出た彼らに時効はない。日本へ帰る事は、刑に服することを意味するのである。彼らは今、30年目の「清算」を迫られる日々を過ごしている。

事件から30年たった今年、4月。ハイジャック犯人、赤軍派の隊長だった塩見孝也は、こう言っている。
「英雄性だとかあったかもしれないが…基本的には独り善がりだったと思う」

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同機に乗り合わせた乗客の中に聖路加国際病院の日野原重明理事長(98)がいた。2010年3月、「よど号」乗っ取り事件から40年というので、産経新聞に寄稿し、当時の様子を生々しく振り返っている。               

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事件は、私が59歳になる半年前のことであり、当時、私は聖路加国際病院の内科医長だった。ちょうど飛行機が富士山の噴火口の真上を飛んでいたとき、日本刀を持った一団からハイジャックの宣言を聞き、これは大変なことになったと胸騒ぎがした。自分の気持ちが動揺しているかどうか確認しようと思い、縛られた手の指で自分の脈拍を数えてみると、平素の脈拍数70が80にもなっていた。

尊敬するアメリカの医学教育の開拓者、ウィリアム・オスラー博士の講演集『平静の心』にある「医師にとって、沈着な姿勢、これに勝る資質はありえない」という文章や、新約聖書にある「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」というイエスのお言葉が頭をよぎった。私はあるがままに任せるほか仕方がないと観念した。

冷暖房が作動しない機内の温度は40度にもなり、韓国軍と赤軍側のやり取りで緊迫し、食料をめぐって騒然となったこともあった。だが、ハイジャック3日目に機内放送があり、山村新治郎代議士が乗客の身代わりになって赤軍とともに北朝鮮へ出発することが伝えられた。

3日目の夜には、乗客の1人がハイジャックとはどういう意味かと質問をしたが、田宮(高麿)代表も答えられなかったので、私がマイクをもらって「ハイジャックする人が説明できないのはおかしい」といったところ、一同は大笑いして、座が急に明るくなった。生きるも死ぬも皆が同じ運命にあるという意識から生じたストックホルム症候群という敵味方の一体感に一同が酔ったといえるのかもしれない。

乗客の1人が別れの歌「北帰行」を高らかに吟じ、それに対して赤軍一同が革命歌「インターナショナル」を歌うと、学生時代に左翼運動に参加したと思われる乗客たちが手拍子を取って一緒に歌ったりもした。

ハイジャック4日目の朝に解放されて金浦空港(韓国)の土を踏んだときの靴底の感覚を私は今でも忘れることができない。1969年にアポロの宇宙飛行士が月飛行を終えて無事に基地に帰り、大地を踏んだときの心境に近いものではなかったかと思った。

人生を還暦前と還暦後に分ければ、私は、後半の人生を誰のためにささげるべきかを深く考えさせる大事件に出会ったわけである。国の内外を問わず、人々のためにささげる生き方を始める人生の転換が与えられたのだと感じ、その後、いつまでもその覚悟を持って生活してきた。

赤軍のよど号グループのメンバーたちは、今にして無謀なことをやったと後悔はしていようが、帰国すると刑を受けるために、残留組は意地をはっていると思う。


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http://www.videonews.com/
動画は「今週のニュース・コメンタリー(2010年03月27日)」より




「よど号」ハイジャック事件の詳細が知りたい方は下記のサイトをご参照ください。


boro's space 無限回路
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yodo.htm


おちゃらけ社会派Chikirinさんのブログから
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080830







2010/05/06 15:28 2010/05/06 15:28

亡命


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フランツは逃亡中偶然会った大学の経済学教授と共にソ連軍に追われる身になってしまった。そして彼はその教授と船に乗り込みハンガリーから抜け出し大西洋へと脱出に成功する。ソ連軍に追われてその船に乗った者は全部で28人。船長の助けを借りて西側の各国に向けて亡命を要請する無線信号を送った。幸いにもアメリカ政府から亡命者を受け入れるという返事を得て、船はニューヨーク港へと向った。しかし、フランツには上陸が許されなかった。彼が未成年者であっため、亡命には彼の後見人になってくれる養父母を必要としたのである。フランツは船から降りられないままアメリカ国内のハンガリー民主運動支援組織が養父母を探してくれるまで待つしかなかった。一週間ほどすると彼を引き取ってくれる養父母が見つかり、アメリカは彼の亡命を受け入れた。英語を話せなかったフランツはそれから1年余り養父母のもとで英語の勉強をしながらアメリカ生活に適応する訓練をしたのである。その間、国の両親や兄弟たちに自分の安否を伝えようとあらゆる方法を探したが見つからず、家族の消息すらわからなかった。
 

入隊


  19歳になったフランツは自分のこれからの行き方を考えなければならない。祖国ハンガリーの風習と違い、アメリカと言う国は18歳を過ぎると自立を求められるのである。そしてフランツは養父母から独立を決心し、アメリカ軍に志願入隊をすることにした。まだ英語が自由に話せないフランツにとって入隊は、アメリカ市民として自立して生きて行くことができる数少ない選択肢の一つだったからだ。
 朝鮮戦争が終わってから未だ十年にもならない当時の世界は、イデオロギーの対立でアメリカを中心とする資本主義の西側とソ連を軸とする社会主義の東側の二つに分かれていた。 1960年代のソ連はスターリンの時代が終わりフルシチョフの時代に突入であり、アメリカは若い大統領ケネディの登場でアメリカの国民だけではなく、西側陣営全体が沸き立っていた。その後まもなくキューバ紛争の勃発でアメリカとソ連の神経戦は頂点に達したし、人工衛星の開発競争にまで及んだ。

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 1959年に入隊したフランツは新兵訓練を終えると、当時、緊張が高まりつつある韓国へ配属された。フランツが韓国に派兵されて暫らくすると、韓国で軍事クーデタが起きた。それは1961516日のことである。そしてケネディ大統領とフルシチョフの間で首脳会談が開かれたが、それは当時の朝鮮半島の緊張を加速させる要因と受けとられた。それから約2年、フランツは軍事境界線(MDL)あたりでケネディ暗殺のニュースを聞いた。当時の軍内の緊張は頂点に達し、軍には高いレベルの非常態勢が発動され、フランツは非常待機組みに組み込まれた。

 軍事境界線は1953727日に成立した「韓国軍事停戦に関する協定(停戦協定)」に規定された休戦の境目を意味することで、これがいわゆる休戦ラインである。その総延長は155マイル(250km)に達し、西には礼成江と漢江の川口の喬棟島から開城南方の板門店を通って中部の鉄原・金化を経って東海岸高城の名号里までに至る。当時、境界線を決めることにあたり両軍の主張が対立し、現実的に両軍の戦いの地、つまり最前線を軍事境界線と定めることで休戦協定が成立した。そして両軍は軍事分界線後方で南北両方2Kmに非武装地帯(DMZ)を設置していた。軍事分界線は200m間隔で設置された黄色表示板で示されていている。表示板は南側から北に向けたものにはハングルと英語で、北側から南に向けて設置されたものにはハングルと漢字でそれぞれ表記されている。その数は1292個に達し、この中には国連司令部が696ヶ所有り、フランツもそのなかの1ヶ所に配属されていたのである。その軍事境界線は国連主導の中立国監視団の監視の下で今日に至る。





希望を託した冒険

ある日、フランツは偶然にも中立国監視団の立場にあるソ連軍側監視団の中にハンガリー出身の兵士がいるという噂を聞いた。彼はハンガリーに残っている家族に自分の消息を伝えることができる唯一のチャンスだと考えたので、旧ソ連軍と接触する機会を狙っていた。ハンガリーでロシア語を学んでいたこともフランツを勇気付けたのである。板門店周辺巡回の当番だったある日、親しい仲間と意気投合したフランツはハングルとハンガリー語とロシア語で作ったメモを北側の兵士に秘かに渡した。
「私はハンガリー出身で国の家族に安否を伝えたい。ソ連軍監視団の中にはハンガリー出身の人が居るという噂を聞いたので誰かその人に伝言をしてくれる人を探している。私は明日も今日と同じ時間に同じ場所を通る予定である。誰か助けてほしい。良い返事があることを祈る。」
若い北朝鮮兵士は驚いた様子で、フランツにとっても大きな賭けだった。翌日、緊張して硬くなった表情で板門店を見回っているフランツに若い北朝鮮兵士がすれ違いながら落としたメモ紙にはハンガリー語でこのように書いてあった。
 「家族の住所は? 何を伝えれば良いか?
次の日、フランツは昨日と同じ兵士に会えた。震える胸を押さえながら準備していたメモを胸元から出してそっと落とした。胡麻粒のような細かい字で書かれた両親宛の短い手紙と住所を書いたものである。そして二度とその兵士に会う事はなかった。


 

つづく



2008/10/15 13:50 2008/10/15 13:50


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PROLOGUE

 昨日、私は叔母に電話をした。アメリカのテキサス州司法監察官として長年勤めていて、先月定年を延長し勤務していた職場を退職したばかりの彼女に励ましの言葉でもかけたかったからだ。
その昔、地球の裏側まで言わば国際電話と言うものを架けるとするなら、音が遠くて雑音は入り、大きい声で互いに怒鳴るように会話し、高い電話代を覚悟しなければならなかった。何時も使用料を気にしながら慌てて電話を切ったものだ。この10年あまりで、海底ケーブルのお陰だろうと思うが、隣の宅に架けるように電話が出来るようになった。音も鮮明な上、料金も国内の市外電話に匹敵する程度だ。

  話を戻すと、叔母との電話は普通の日常の話から始め、家族の話、ペットの話、健康の話、そして国にいる親戚の近況にまで及ぶ。ひとは歳を取ると話が長くなるみたいで、最近彼女に電話をすると軽く一時間はしゃべり続ける。私は聞き役になっていて、内心電話代を計算したりするのだ。今回の電話も例外なく1時間も続いたので私がそろそろ電話を切ろうとする気配を見せると急に叔母が言い出した。


叔母 「あのさ、叔父さんにメールとかしないでね」
    「あ、最近してないけど、どうして急にそんな話をするの?」
叔母 「うん、しばらく別々に住むことになったの」
   「どうしたの?六十の半ばを超えて今更どうして?」
叔母「うん、そうなの。彼の希望だから、そうさせてあげることに決めたの」
   「それで叔父さんお家を出て行ったの?」
叔母「うん。」

  それからさらに話を聞くと、結局二人は離婚してしまったようだ。まさかとおもった。確か叔母は自己主張がはっきりしていて、かなり気の強いタイプの人ではある。でもそれは昨日今日の話ではない。40年以上も連れ添っていながら今になって離婚と言うのが信じられなかった。すでに他人になってしまった叔父の言い分は聞けないし、叔母からもそれ以上の詳しいことは聞いてないのでなんとも言えないけれど、叔父が大好きだった私は、ただ残念に思うのみで、とても寂しい。

  実は去年、あるところの依頼もあって、私はその叔父をモデルに短編をひとつ書いていた。彼にそれを見せる前、彼は私たちから離れ、別の人生を見つける旅に出てしまったようだ。私の母の三歳違いの妹である叔母はハンガリーを祖国とする叔父と40年前、国際結婚をしたのである。




第二次世界大戦後のハンガリー


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フランツ=アイマの故郷はハンガリーのブダペストである。ブダ市とペスト市が合併して出来たこの町は、1944年から45年にかけての冬、ドイツとの悽惨な戦地になり、旧ブダ市の中心部にずらりと並んでいた由緒のある建物の殆どは破壊されてしまった。
  1945
年、ハンガリーが旧ソ連の赤い軍隊によってドイツから解放された時、フランツは10歳であった。革靴を作る仕事を家業とする両親のもとに15歳になる兄リゲと13歳の姉エリザベス、7歳の弟マティア、そしてフランツの家族6人が、ブダ市とペスト市が合併する前のブダ市の旧市庁跡地付近、今は昔の繁栄からは程遠い寂れた市街地の一角で、小さな靴売場兼作業場付きの古い旧式建物で暮していた。 
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崩れかけた建物や空地が散在する市街地の片隅にあった2階建てのこの家は、破壊だけは免れたが壁には弾丸の跡が残っていた。旧市庁舎の角には知恵の女神アテネの石像があった。この都市の守り神であるアテネの盾にはハンガリー紋章が刻まれていて、左手には槍を持っていた。フランツはこの女神像が大好きで、見上げる度に胸がいっぱいになり、この女神に守られるハンガリー人である自分がとても誇らしく思えた。

 無愛想だが真面目な父と病弱だったフランツに特別に優しかった母のもとで、4人兄弟は貧しいながらも平穏に暮らしていた。母に優しくされるフランツを嫉んだ兄に苛められることもあったがいつも姉のエリザベスに助けられていた。姉のエリザベスは学校から戻ると、部屋を片付けたり乾いた洗濯物を畳んだりして母の手伝いをしていたがその間、フランツは弟のマティアを連れてゲッレールトの丘が見上げられるドナウ川の岸辺で遊んだ。複雑に分かれる小道を走り回ったり、川をさかのぼる小船を見て過ごしたりした。19世紀に葡萄の木の根を腐らす害虫に荒らされて以来、ぶどうの栽培をやめて放置されている昔からの葡萄畑があった。そこは時にフランツとマティアの良い遊び場であった。

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 フランツが8年間の初等教育と4年間の中等教育を終え17歳になると、貧しいながらも、真面目に働く父のお陰で大学へ進学することができた。 19559月、彼はブダペスト・ウェトベスィ・ローランド大学の法学部に入学することができた。それはいつか弁護士になるという希望に満ちた青春の門出であった。


 

ハンガリー革命


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1945年、第2次世界大戦が終盤に向かう頃、対ドイツ戦を勝利に導いたソ連は、それまでハンガリーを支配していたドイツに代わってハンガリー政府を任命し新たな支配者になった。それから10年余り、経済の崩壊と低水準が労働者の不満を引き起こした。農民たちは政府の土地政策のせいで悲惨な状況にあり、ハンガリー全域ではソ連の支配から自主独立を求める気運がみなぎってきた。 フランツも彼の学友達もそのような状況でソ連に対し良い感情を持っていなかったのは当然である。いよいよ19561023日、ブダペスト市全域で学生たちの蜂起が起き、多くの労働者たちもそれに加わった。30万人の市民や学生がデモ行進を行った。
その日、フランツは法学入門講義を欠席した。それは工科大の学生寮に使われている旧財務省建物の前で開かれた、ある反ソ集会に参加する為であった。彼は意気投合していた先輩や同級生らと行動を共にしたのである。そしてここから始まったデモは歴史に残る1023日革命の出発点となった。
この1956ハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対するこの反乱はソビエト軍によって残忍なやり方で鎮圧された。数千人が殺害され、それ以上の人たちが傷ついた。25万人近くの人々が難民として国を去った。 人々はそれをハンガリー革命と呼ぶ。


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つづく
2008/10/15 13:33 2008/10/15 13:33