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  1. 2009/11/28 ルネサンスと女性 2

髪型とファッション

レダと白鳥
 ルネサンス期の女性像を見てみると、複雑な結び目を組み合わせてリボンや真珠の飾りをちりばめた華麗な髪型が登場してくる。フィレンツェにおいては、特に額の広いのが美しいとされたので、女性たちは、わざわざ前額部分の髪の毛を抜いて額を広げようとした。そして広い額には真珠や宝石などを飾ったりするのが流行になった。肖像画だけでなく宗教画にも、このような当時の流行が反映された。レオナルド.ダ.ヴィンチはミラノ時代、「レダと白鳥」の絵を描くために、複雑な女性の編み込みの髪型を考案したり、ミラノの貴婦人たちの髪型のデザインも心掛けたという。
←レオナルド.ダ.ヴィンチ「レダと白鳥」のための素描)

女性たちは髪のお手入れにも気を使い、当時のヘアケア技術には、いら草の種をアク汁で煮出したものが効果があると記録が残っている。煮汁で髪を洗って自然乾燥させた。その際顔が日焼けしないように頭頂部だけ穴のあいたつばの広い麦わら帽が考案されたという。

        
(フィリッポ.リッピ作1457年頃「聖母子と二天使」部分)  (ポラオウォーロ作婦人の肖像)


 イタリアの染色文化は15世紀は大柄なザクロ模様が中心であったが、16世紀になると、スペインの影響で花の模様が小柄になってくる。またボーダー柄も増えてきてすそ模様に取り入れられたりした。
 当時イタリアは流行の発信地で、ファッション.リーダーは、エステ家の姉妹でマントヴァ公爵夫人イザベッラ.デステ、ミラノ公妃のベアトリーチェ.デステなどの貴婦人だった。

エステ家の姉妹

(イザベッラ(右)とベアトリーチェ(左)ガローファロ画)

 ベアトリーチェは、婚儀の際、80着もの最新流行の金や真珠で豪華に縁どられたドレス、数々の宝石を所有しており、姉に見せびらかそうとした。
 イザベッラは、優雅な着こなしを個性的に考えたり、工夫したりして、それに対抗した。イザベッラはそれほど美しく生まれついたわけではなかったが、人々から優雅でセンスの良い美人だと思われていた。

 隣の国フランスでは、国王フランソワ一世が貴婦人に贈る服の参考にするためや、ルイ12世の宮廷の女官たちが最新のファッションを知るために、イザベッラに彼女と同じ服を着せ、同じ髪型にした人形を送ってくれるように頼んだりしている。こうした服装人形や流行のファッションを描いた版画がファッション雑誌の役目を果たした。またイザベッラ手製の香水や美容ポマードは、ヨ-ロッパ中に知られており、フランス王妃も彼女から送ってもらっていたという。



カテリーナ

カテリーナ.スフォルファの37歳~38歳のときの肖像(ロレンツォ.ディ.クレディ画)


 カテリーナ.スフォルファは、ただ美しいだけでなく政治的才能と残忍な激しさを合わせ持つ「イタリアの女傑」と言われた。特にフォルリの街ではカテリーナの人気は絶大で、彼女の肖像画を複製して売る店が沢山あった。複製画は飛ぶような売れ行きだったという。
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 そのカテリーナ.スフォルツァ伯爵夫人のスキンケアや化粧術が記録として残っており、カテリーナの死後、これらの記録を集めて「美しくなるための処方箋」という本が出版された。この本をいち早く取り寄せて研究したのは、イザベッラ.デステである。後にカテリーナの親族となったカトリーヌ.ド.メディチもフランス宮廷に嫁いだ時この本を持参しており、パリから全ヨーロッパの宮廷や社交会に長い期間広まったのだった。カテリーナの化粧瓶 (ロレンツォ.ディ.クレディ画)→

 カテリーナの本には、髪を金髪に染める方法も載っていたので、当時赤毛の女性が多かったフランス宮廷に、金髪の女性が増えたという。ほかにも次のような記述があった。
 
「肌を白く美しくなめらかにするには、新鮮な卵の白身を煮て、それをこした湯で洗顔する。顔のしみを取るには、さぎのふんをみじん切りにしてブドウ酒で煮て、こした汁で洗顔する。目の疲れを取るには川魚の油を陽にさらし、それを蜂蜜と混ぜたものを目の周りに塗る。....]

 他にも、髪をより早く長くするには、手を美しくするには、このような調子で美容、健康、堕胎方法にいたるまで細かく著わしていた。
 


          
       ピサネッロ「15世紀の男女の服装」        シニョレッリ「東方三博士の礼拝」部分1485~90年

 15世紀にはゴシック時代の美意識が残る細長いシルエットのモードが流行したが、細部の装飾は繊細で色彩は明るくて鮮やかだった。女性たちは競って奇抜なファッションを楽しむようになる。
 男性もおしゃれになり、若い人は身体にフィットした服を着てきれいに鬚を剃り長髪にしたので、同性愛が流行ったりした。特にカルツェと呼ばれたタイツがメンズ.モードのポイントだった。

 16世紀に入ると誇張されたファッションへの反動で節度と荘重さが時代の風潮になってくる。横長のボリュームあるシルエットが好まれるようになり、色では黒が最も流行する。女性の服も濃い色や、赤、青などが主流となる。

 ヴェネツィアでは、ティツィアーノの美女のような金髪がもてはやされ、怪し気な脱色剤をつけて何時間も日光をあびて脱色したり、厚底の靴が流行って両側から介添えされて歩く女性が増えたり、いつの世もおしゃれに振り回される女心とは同じものかもしれない。

 おしゃれ好きな女性の要求に答えて16世紀には、エレガンスの教師たちが活躍した。彼らは少女たちにエレガンスの作法を細かく説いた。外見に気をつけるのはもちろん、歩き方、テーブルでの座り方、教会や公的場所での振る舞い方、顔色に合うドレス、髪色にふさわしい髪飾り、化粧水やクリームの作り方まで伝授した。女性たちは、あまりにもおしゃれに熱中したため、信仰の厚い地域では、細かい規制が出たほどだった。

「高価な生地の衣服は、結婚してからにすべし。」とか「花冠や花輪で頭を飾ってはならない。」とか「真珠つきボタンは上衣前の5つのみ、フリルは胸、襟ぐり、袖口のみ許可する。」と言った具合である。

16世紀以降のイタリアは、フランス製の絹織り物工業の発展に押され気味で、イタリアのものは流行遅れと見なされるようになる。ジェノバは、カラー.ベルベットの産地として16~17世紀に一世を風靡した。

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ドメニコ.ギルランダイオ「ヨハネの誕生」1485~90年    
     

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ルネサンスの楽器

ルネサンスの時代の女性のたしなみのひとつはリュートの演奏であった。

また世俗的な楽器として、スピネットやチェンバロも愛された。




 ←ルネサンスリュート


チェンバロ(左)とスピネッティーノ(右)

※寄り道 <^!^> 音楽家としてのレオナルド.ダ.ヴィンチ。

レオ
ナルドは、決して「モナリザ」の画家だけではない。

 残された手記を見ても、絵画だけでなく、天文、地質、光学、力学、解剖学、機械工学、建築、土木、数学、音楽など、あらゆる分野への取り組みが伝わってくる。自然の姿に隠された法則を見極めようとするレオナルドは、自らを「経験の弟子」と呼んだ。彼の理想を実現させることができるのは、当時大勢力を持つ君主しかいなかった。レオナルドは常に理解ある君主を求めていた。

 レオナルドはミラノ公国のルドヴィコ.イル.モーロの許へ自作のリラ(ギターの前身)を携え、音楽家として売り込んだ。当時のヨーロッパの一流音楽家は、すべてミラノに集まっており、レオナルド.ダ.ヴィンチの音楽家としての名声も高かった。また土木、軍事技術にも詳しいと自薦状に書きイル.モーロの関心をひくことも忘れなかった。以後17年にわたってミラノ宮廷に仕える。1491年、イル.モーロとベアトリーチェの婚儀の演出も、レオナルドが手掛けた。楽隊の服のデザイン、自作の楽器で素晴らしい演奏、即興歌を披露したり、演劇の舞台装置と演出もレオナルドが全て行った。彼の楽器の演奏は素晴らしく、その美声は、当時の最高の歌手にも劣らないほどだったという。



1500年、世紀末的思想

 1480年半ば、イタリアのトスカーナ地方で、さまざまな不思議な現象が起こったという。例えば1482年4月ビッビエナに聖母マリアが現れ、多くの人が目撃したこと。その翌年、ファエンツァで一人の修道士が亡くなり、彼は死後もしばらくの間近くの川の上に姿を現して、聖母マリアと語り合っていた。1484年、7月にはフィレンツェ近くのプラートでやはり聖母の姿が現れた。当時のフィレンツェ市民の日記に「今や神の偉大な事跡に対する人々の期待が世界に満ち満ちている時代だ。」と書き記している。

 ランディーノという人文主義者は、1481年刊行したダンテの「神曲」注解のなかで、1484年に木星と土星が出会うから、その時から世界の終末と再生が始ると述べていた。1500年という大きな区切りを目前にして人々の間には世紀末的な幻想が渦巻いていたのだった。


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