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  1. 2008/10/27 30年ぶりの再会<その③>
  2. 2008/10/15 30年ぶりの再会<その①>




結婚 

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 まる4年の韓国勤務中、軍事境界線からソウル竜山(ヨングサン)にある米第八軍司令本部へ配属変えとなったフランツは、本部内の売店に勤めているある女性に好意を持つ。長い間、募っていた家族のない寂しさからか彼女に対する気持ちは徐々に深まっていった。初めは彼の好意に戸惑いを見せていた彼女であったが、フランツの誠意が通じたのかデートの誘いに応じてくれた。父親を朝鮮戦争で失い、母親一人の手で3人の兄弟が育てられ苦しい生活を余儀なくされていた彼女を彼は心より力になってあげたいと思っていた。1963年末、アメリカ本国への帰国命令が下り、間もなく二人はアメリカで新婚生活を始める。新アメリカ人としてそして希望に満ちたアメリカンドリームの実現に向かった若いカップルとして。 1964年、旧ソ連はフルシチョフが解任されてブレジネフの時代となり、アメリカはジョンソンが大統領になった。


大統領宣誓するジョンソン    公民権法施行の文書に署名するリンドン・B・ジョンソン大統領
大統領宣誓するジョンソン(左)と公民権法施行の文書に署名するリンドン・B・ジョンソン大統領(右)
              


ヨーロッパへ

アメリカに戻ってからはボストン近郊の部隊に勤務をしていたフランツに今度はドイツの米軍部隊の配属命令が下った。ドイツとハンガリーの間にはオーストリアがあり、休日になるとフランツはドイツからオーストリアまで駆け付けてはハンガリーとの国境の検問所をただ遠くから眺めていた。ハンガリーとオーストリアの国境検問所は西側への脱出を防ぐ為か監視が厳しく近付くことさえ出来なかった。ドイツ勤務を命じられたときは故郷と同じ大陸の地を踏むことだけでも胸がいっぱいになっていた。ハンガリーの家族の便りを聞くことができるかも知れないという微かな期待が胸のとこかにあったからだ。だけどその期待は無残にも砕かれその募る思いは叶わなかった。フランツは2年間のドイツ勤務を終えてアメリカに帰って来た。帰りの軍用機の中で彼はハンガリーの家族に連絡を取り合う夢を捨てた。



 姉からの手紙

 その後フランツはベトナム戦で後方支援に関わり、ベトナム勤務が無事に終わると再び韓国に配属されるチャンスを得た。今回は先ず竜山本部に勤務し、後に富平の基地に移動した。今回の韓国勤務は妻の国ということもあったが、MDLを通じてもう一度ソ連側と接触することができるかも知れないという期待があった。 結果的にフランツにとって幸かも不幸かはさて置き、MDL勤務の機会が再びフランツに訪れることはなかった。当時、北朝鮮との軍事境界線内で米軍が北朝鮮の兵士に斧で殺害される事件が起きた事が大きく報道される。

 それから2年後アメリカに帰ったフランツはテキサス州に定住する決心をし、キルリンという所に家を持つようになる。キルリンは州政府があるオースチンの北にあり、車で30分ほど離れた所に位置する、アメリカ国内最大規模の陸軍キャンプがある場所でもあったからだ。
 ある日、夢のようなことが起きた。フランツにハンガリーに住んでいる姉のエリザベスから手紙が届いたのである。フランツが韓国の休戦ラインで渡したあのメモが回りまわった末、姉「エリザベス」の元に届いたからだ。姉の手紙によれば、結婚した彼女は夫とブダペストに住んでいるがその他の家族は政府の移住計画でどこかに移されたようだった。それからは連絡が途切れ、今はどこに行ったのか分からないとの事であった。姉の手紙に言及されてなかったが、ソ連の支配下の社会主義ハンガリーで西に亡命者を出してしまった彼の家族達は相当な苦しい立場になってしまったのかもしれない。家族を思うフランツの胸が熱くなった。国を脱出してから始めて声を上げて泣いて明かした夜がそこにあった。



国際赤十字からの連絡

1977年、ジョージア出身のカーターがアメリカの大統領になると世界はそれまでの対立から和解へと転換していく。 70年代始め頃からアメリカと中国の国交が正常化されており、当時の世界の関心は中東問題に向けられていて、アメリカとキューバは相互に代表部を設置するまでに関係が回復し、世界の情勢は急速に変わりつつあった。
 フランツはもう一度母国の家族と連絡が取れるかも知れないと期待を持ち始めた。そしてフランツは国際赤十字を通し家族探しを始めた。それからほぼ10年後、国際赤十字を通して家族から連絡がフランツに届いた。ベルギーに住んでいる弟のマティアからの手紙が送られてきたのだ。家族はハンガリーから抜け出してベルギーに住んでいた。フランツが今までハンガリーにいると思っていた家族が実際にはベルギーに移り住んでいたのでびっくりした。信じられない連絡にフランツの胸はいっぱいになった。当然心は既に家族のもとに走った。

フランツは直ちに休暇届けを出してベルギーへと飛んだ。マティアが暮している所はベルギーで鉄と石炭が豊富で鉱山や製錬所が多いことでその名が知られているワルロニアだった。マティアはそこの製錬所に勤めていたのである。残念にも兄は行方不明で、夢にも見ていた愛しい母は亡くなっていて、やるせない気持ちを抑えられないフランツであったけど、80歳を過ぎた父と弟のマティアに会えた。兄思いの弟のマティアは涙を流して喜んでくれた。歳を老いた父にまた会えると思えなかったが、幸いに父は元気でフランツはその父を力強く抱きしめた。父子3人で何日も何日も募る話しで夜を明かした。今まで長い年月の間、父の面倒見てくれた弟にフランツは感謝の気持ちを伝えた。そして可愛い姪や甥、そして弟嫁と新しい家族に初対面の挨拶をした。まさに30年ぶりの再会であった。



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おわり


2008/10/27 10:52 2008/10/27 10:52


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PROLOGUE

 昨日、私は叔母に電話をした。アメリカのテキサス州司法監察官として長年勤めていて、先月定年を延長し勤務していた職場を退職したばかりの彼女に励ましの言葉でもかけたかったからだ。
その昔、地球の裏側まで言わば国際電話と言うものを架けるとするなら、音が遠くて雑音は入り、大きい声で互いに怒鳴るように会話し、高い電話代を覚悟しなければならなかった。何時も使用料を気にしながら慌てて電話を切ったものだ。この10年あまりで、海底ケーブルのお陰だろうと思うが、隣の宅に架けるように電話が出来るようになった。音も鮮明な上、料金も国内の市外電話に匹敵する程度だ。

  話を戻すと、叔母との電話は普通の日常の話から始め、家族の話、ペットの話、健康の話、そして国にいる親戚の近況にまで及ぶ。ひとは歳を取ると話が長くなるみたいで、最近彼女に電話をすると軽く一時間はしゃべり続ける。私は聞き役になっていて、内心電話代を計算したりするのだ。今回の電話も例外なく1時間も続いたので私がそろそろ電話を切ろうとする気配を見せると急に叔母が言い出した。


叔母 「あのさ、叔父さんにメールとかしないでね」
    「あ、最近してないけど、どうして急にそんな話をするの?」
叔母 「うん、しばらく別々に住むことになったの」
   「どうしたの?六十の半ばを超えて今更どうして?」
叔母「うん、そうなの。彼の希望だから、そうさせてあげることに決めたの」
   「それで叔父さんお家を出て行ったの?」
叔母「うん。」

  それからさらに話を聞くと、結局二人は離婚してしまったようだ。まさかとおもった。確か叔母は自己主張がはっきりしていて、かなり気の強いタイプの人ではある。でもそれは昨日今日の話ではない。40年以上も連れ添っていながら今になって離婚と言うのが信じられなかった。すでに他人になってしまった叔父の言い分は聞けないし、叔母からもそれ以上の詳しいことは聞いてないのでなんとも言えないけれど、叔父が大好きだった私は、ただ残念に思うのみで、とても寂しい。

  実は去年、あるところの依頼もあって、私はその叔父をモデルに短編をひとつ書いていた。彼にそれを見せる前、彼は私たちから離れ、別の人生を見つける旅に出てしまったようだ。私の母の三歳違いの妹である叔母はハンガリーを祖国とする叔父と40年前、国際結婚をしたのである。




第二次世界大戦後のハンガリー


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フランツ=アイマの故郷はハンガリーのブダペストである。ブダ市とペスト市が合併して出来たこの町は、1944年から45年にかけての冬、ドイツとの悽惨な戦地になり、旧ブダ市の中心部にずらりと並んでいた由緒のある建物の殆どは破壊されてしまった。
  1945
年、ハンガリーが旧ソ連の赤い軍隊によってドイツから解放された時、フランツは10歳であった。革靴を作る仕事を家業とする両親のもとに15歳になる兄リゲと13歳の姉エリザベス、7歳の弟マティア、そしてフランツの家族6人が、ブダ市とペスト市が合併する前のブダ市の旧市庁跡地付近、今は昔の繁栄からは程遠い寂れた市街地の一角で、小さな靴売場兼作業場付きの古い旧式建物で暮していた。 
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崩れかけた建物や空地が散在する市街地の片隅にあった2階建てのこの家は、破壊だけは免れたが壁には弾丸の跡が残っていた。旧市庁舎の角には知恵の女神アテネの石像があった。この都市の守り神であるアテネの盾にはハンガリー紋章が刻まれていて、左手には槍を持っていた。フランツはこの女神像が大好きで、見上げる度に胸がいっぱいになり、この女神に守られるハンガリー人である自分がとても誇らしく思えた。

 無愛想だが真面目な父と病弱だったフランツに特別に優しかった母のもとで、4人兄弟は貧しいながらも平穏に暮らしていた。母に優しくされるフランツを嫉んだ兄に苛められることもあったがいつも姉のエリザベスに助けられていた。姉のエリザベスは学校から戻ると、部屋を片付けたり乾いた洗濯物を畳んだりして母の手伝いをしていたがその間、フランツは弟のマティアを連れてゲッレールトの丘が見上げられるドナウ川の岸辺で遊んだ。複雑に分かれる小道を走り回ったり、川をさかのぼる小船を見て過ごしたりした。19世紀に葡萄の木の根を腐らす害虫に荒らされて以来、ぶどうの栽培をやめて放置されている昔からの葡萄畑があった。そこは時にフランツとマティアの良い遊び場であった。

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 フランツが8年間の初等教育と4年間の中等教育を終え17歳になると、貧しいながらも、真面目に働く父のお陰で大学へ進学することができた。 19559月、彼はブダペスト・ウェトベスィ・ローランド大学の法学部に入学することができた。それはいつか弁護士になるという希望に満ちた青春の門出であった。


 

ハンガリー革命


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1945年、第2次世界大戦が終盤に向かう頃、対ドイツ戦を勝利に導いたソ連は、それまでハンガリーを支配していたドイツに代わってハンガリー政府を任命し新たな支配者になった。それから10年余り、経済の崩壊と低水準が労働者の不満を引き起こした。農民たちは政府の土地政策のせいで悲惨な状況にあり、ハンガリー全域ではソ連の支配から自主独立を求める気運がみなぎってきた。 フランツも彼の学友達もそのような状況でソ連に対し良い感情を持っていなかったのは当然である。いよいよ19561023日、ブダペスト市全域で学生たちの蜂起が起き、多くの労働者たちもそれに加わった。30万人の市民や学生がデモ行進を行った。
その日、フランツは法学入門講義を欠席した。それは工科大の学生寮に使われている旧財務省建物の前で開かれた、ある反ソ集会に参加する為であった。彼は意気投合していた先輩や同級生らと行動を共にしたのである。そしてここから始まったデモは歴史に残る1023日革命の出発点となった。
この1956ハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対するこの反乱はソビエト軍によって残忍なやり方で鎮圧された。数千人が殺害され、それ以上の人たちが傷ついた。25万人近くの人々が難民として国を去った。 人々はそれをハンガリー革命と呼ぶ。


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つづく
2008/10/15 13:33 2008/10/15 13:33