床屋道話65 ゴッホかラッセンか?
二言居士
まず言えるのは、ゴッホは教科書に載るいわば権威ある芸術家であるのに対し、ラッセンの作品は通俗的とされるであろうことである。ということはゴッホよりラッセンが好きというのは芸術を解しない俗人ということになり、その告白は「自虐ネタ」として笑える、ということであろう(またその芸人はいかにもそれっぽい雰囲気をかもしだしている)。しかしこうも考えられる。では彼を笑う「我々」は本当にラッセンよりもゴッホが「好き」なのか。「我々」はゴッホが大芸術家であることを知っており(そのうちのどれくらいかはわからないが、むしろ「そう言われていることを」知っており)それよりラッセンが「ふつうに好き」など言うのは恥ずかしい、と感じているのかもしれない。世間が、特に「権威者」がどう「評価しているか」でなく、「自分」がどっちが「好き」かと言われればラッセンのほうかもしれない、と思う者も少なくないのではなかろうか。ちなみに小生はゴッホは「評価」するだけでなく全体としては「好き」な画家に入るが、たとえば経済的価値や他人の思惑などを一切考えずに自室に飾るとして、ゴッホの「ジャガイモを食べる人々」とラッセンのイルカの絵とでは、後者を選びたくなるであろう。つまりこのネタは、少なくない者が内心感じていたが口に出せなかったことを言われちゃったなと笑うしかない、と思わせたのかもしれない。いわば隠れアルアルネタという解釈である。
ところでゴッホの絵に芸術性があるとはどういうことなのであろうか。実用的でないという意味で精神的な快さを与えるというのは、芸術の条件であろう。しかし文芸・音楽・演劇などの大衆的・通俗的と言われる娯楽にもある楽しさやおもしろさとは異なる芸術的快とは何か。「深さ」がそれであろうか。娯楽は享受しているあいだの快さである。芸術は心に残るものである。あとからチクチクきたり、ときには享受者の精神や生き方をじわじわと、あるいはがらりと変えてしまうこともある。ある意味でのわかりにくさを伴うのも、このことに関係していよう。接してただちにああきれいだ、ああおもしろいと感じられるのは、心の表面での反応である。はじめから感動する名作もあるが、それが「名作」であるならば繰り返し接して飽きる、あるいは飽きないが同じ感動を味わうのでなく、新たな発見や味わいがあるということであり、それが作品の「深さ」であろう。岡本太郎は「とてつもないもの」や「なんだこれは」と言わせるようなものをよしとした。すぐ「わかる」「感動できる」「笑える」「泣ける」ようなベタな作品は「浅い」ということであろう。
しかしわかりにくければ芸術的というわけではあるまい。「鬼面人を驚かす」という表現があるが、「現代芸術(モダンアート)」「前衛芸術(アヴァンギャルド)」と称されるものにはありがちなように思われる。モナリザにひげを足したり、便器を「泉」と題しパイプの絵に「これはパイプではない」と題して展示するのはたいしたことなのか、実は小生は納得できない。権威への反抗と言っても、そういう仕方で既成権威の存在に寄りかかっており、新しいものを出さなければこどものいたずらの域を出ないのではあるまいか。「古典」をその知識だけで済ませてしまうのはありがちだが、「現代的」「最新」といった文句で「わかった」つもりになっただけの者も少なくないのではないか。それともこの疑問は、小生のほうが「古典的」美意識にとらわれていて、新しいものを吸収するしなやかさに欠けているということなのか。しばしば考え込んでしまう。
いずれにせよ、ある芸術作品がなぜうけるのかは、あるお笑いがなぜうけるのかと同様に、小生の関心を引く問題である。
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