床屋道話69 遠回りか近道か
二言居士
朝飯前に町内の決められた道を走ってくるのが、こども時代の星飛雄馬の日課だった。ある朝工事の関係でいつもの道が通行止めになっていた。迂路として、一方は帰宅に近道となり、他方は遠回りとなる。飛雄馬は近道を選んだ。その終わりに父の一徹が待ち構えており、飛雄馬を殴り倒し、説教した。「なぜ遠回りを選ばん!」と。これからの人生においても、迷ったときには遠回りを選べと。おとなになりプロになった飛雄馬は、オズマの挑戦によって危機に陥ったとき、この教えを思い出す。当座はしのげる監督の対策を敢えて蹴って、いろいろな意味でより苦しい回り道をすることで、彼はオズマに完全勝利を遂げる。

ところが今の学生は、語学の授業でも(いくら言っても)辞書を持って来さえしないのが多い。なんでもかんでもスマホで済ませようとする。それの何が問題なのか。便利すぎることである。「翻訳ソフト」の場合は説明不要だろうが、辞書機能の場合もそうである。(電子辞書は、学習用としては紙の辞書に劣るがスマホよりは以下の点でまだまし。)たとえば動詞の場合、本来の辞書では見出しは原則として原型(不定詞)であり、「過去分詞の女性形」だとか「条件法現在三人称単数形」などでは出ない。そこで学習者はまずこれは動詞だろう、とあたりをつけ、なら原型は何だろう、と考えて辞書で探し、それがこの形になっているのはなぜかを確認する、という作業が必要になる。辞書によっては、また語や形によっては「何々を見よ」のような矢印で原型の「あたりをつける」手間だけは省ける場合があるが。いずれにせよこうした作業をすることによって、品詞を理解し、たとえば動詞ならその変化の仕組みと変化形の意味を理解し、それを文脈に戻すことではじめて正しい「訳」ができる。しかし今のスマホでは変化形でもいきなり「日本語訳」が出て来もする。文脈抜きなのでその場の「訳」としては当たらないこともある。が問題は当たっているとしても、その際学習者が「理解」していないことである。品詞を聞いても答えられなかったり、動詞と答えるので原型は何と聞くと答えられなかったりする。いわんや文全体の訳となると、「できて」いても「わかって」いないことが多い。いや「できて」いればいいのではと言う実用主義者がいようか。それでいい場面もある。観光なり商売なりで外国人と言語伝達をするのに翻訳ソフトを使い、それでことが足りるような場合である。その際なぜこの語を使うのか、こういう表現が適切なのか、人間が理解しているかどうかは二の次である。いや学習においてさえ、そうしたツールを使うのは絶対悪ではない。たとえば自分で考えたうえで、わからなかったところや疑問なところを調べるために翻訳ソフトを使い、(思いがけず違ったところがあればそれも含めて)違いの理由をさらに自分で考えるならば、学習を助ける道具である。前にも後にも自分は考えず、課題をこなすために使うならば、学習を妨げる道具である。
むろん語学だけではない。同じ課題のレポートを、ある者たちには生成AIでつくらせ、他の者たちにはウェブの検索ソフトだけを使ってつくらせ、第三の者たちにはどちらも使わせないでつくらせたという。そこで(その出来を問題にするのでなく)提出者が「自分の」レポートをどれだけ理解しているか調べたという。第一のクループが最も劣り、第三のグループが最もよい結果であった。
むろん学習だけではない。ひろゆきあたりが現代の処世術(「ライフ・ハック」)としてさかんに勧めるのは近道(「ショート・カット」)である。たしかに、無駄な、あるいは有害とわかった努力を精神論で美化するのはばかげている。しかしたとえば当面の宿題をこなすという目標には近道でも、それだけでは、外国語を習得するという目的からすると、時間とお金の膨大な無駄にもなってしまう。
「近道」人生ははたして「お得な」人生か。













