床屋道話45 感情論

二言居士

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 この春、経団連の中西宏明会長が、原発の早期再稼働を求める発言を行った。そのなかで、「エモーショナル〔感情的〕な反対をする人たちと議論しても意味がない。絶対いやだという方を説得する力はない」として、対話そのものに対しても消極的な姿勢を示した。これに対して、原発そのものの問題はもとより、再稼働を急ぐ財界の考えに対してもいろいろな意見が出ている。しかしここで扱いたいのは、「感情論」という非難で話し合いを「無意味」とするスタンス一般についてである。

 最終的な価値を決めるのは感情である。感情を排した議論に「意味がある」のは、価値観が一致しているときである。いやそのときに問題になるのは損得勘定だけであるから、どちらの計算が正しいかを検証することだけが残っており、それこそ「議論する」意味はないとも言える。

中西氏の発言の根底には、この問題に対する(客観的に)「正しい答」があるという想定がある。客観的真理であるから理性的検討が必要であり、「エモーショナル」なスタンスはそれを妨げるから無意味だというのであろう。だが原発再稼働で問われているのは客観的真理の問題ではなく、主体的選択の問題なのである。自分たちの価値観を「正解」として、その価値(たとえばGDP)に合わせた「最適解」を自分達は知っており、他方「感情的な大衆やそれを煽っている反体制インテリ」をディスるというのが、近年の「エリート」や自分はそちらの側だと思っている「保守派」と「改革派」である。(この際「リベラル派」と「守旧派」が攻撃対象となる。)

一ノ瀬正樹氏は、原発問題に関して、「お金より命」という言説を、経済によって命が守られる側面を見落とした幼稚な思考形態とする(『思想』2019年第3号)。その側面を持ち出すことで、しかし彼は、どこかでどちらかを選ばざるを得ない側面を隠蔽しているように思われる。一般的には経済的豊かさは善であろう。しかしたとえば経済成長にマイナスだったり電気料が高くなったりしても原発をやめるかどうか、根本の価値が問われることもある。彼は功利主義に立つようだが、それと異なる倫理説の一つとされる「義務論」との関係について、「同質化している」とか「融合している」など取り込みたい意向のようだが、我田引水ではなかろうか。彼は、高校に導入予定の新教科「公共」に関して、「多様な立場や意見をぶつけ合った上で、最適解を見つけて確定していく、という手順を学ぶ場」と位置付ける(下線は引用者)。立場や意見が異なっていた者が、討議を通じておりあっていくことが可能な問題や必要な場面ももちろん存在する。しかし彼はその可能性や必要性をあまりに性急に、かつ過度に言い立てているように思われる。小中学校の「道徳」の教科化に続く高校の「公共」科目の位置づけがここにあるとすれば、大きな不安を抱かざるを得ない。こうした「最適解」に納得できない者は、よくて劣等生、悪くすれば非国民にされてしまうのではないか。ここには功利主義と、それと癒着する現代国家主義の危険をみないでいられない。

感情には理由がある。中西氏などからすれば、「絶対嫌だ」という意見は「根拠のない不安」にしかよらないと言いたいのかもしれない。確かに絶対事故が起こるとは言えないし、事故が起こる確率や、事故のときの死傷者を数値で出せるわけではない。しかし絶対事故が起きないと言えるわけでもないし、何万年も危険な放射能が残るのを必ず被害を出さないと断定するほうがよほど不合理であろう。不確かさのために怖がることは合理的であり、明確な数値(「エビデンツ」)が出ないものは「無意味」だとしりぞけることは理に反した狂信である。

さらに大事なことがある。異なる価値感情に接することはけっして「無意味」ではない。人がどんな気持ちで反対(または賛成)しているのかを知らなければならない。そしてそれを知ることで自分の気持ちも変わるかもしれない。根本的な価値感情は、確かにそう簡単には変わらない。それでも異なる、または対立する相手と直接接することで、相手に対する見方や接し方が少しは変わることもある。どちらも変わらないにしても、少なくとも変わる可能性に対して自分を開いておくということはとても大切なことである。エモーショナルな相手に接するのは無意味だというのは認識としても浅薄だし、思い上がった感情の発露である。

こういう人々の「感情論だ」という非難に屈してはならない。特に、いじめられている者、不正や被害を受けている者は自分の感情をはっきり訴えよう。感情を言う訓練や、感情を聞く訓練もしよう。念のために言えば、感情「を」言うことは、感情「で」言うことではない。追い詰められた人がヒステリックになってしまうのを非難するのは大人げない。しかし感情「を」うまく表現する努力をまったくしない人が、都合が悪くなると黙り込んだり怒鳴り散らしたりする、いわゆる「感情的な」態度は、無論よいことではない。

しかし感情「を」言うことは必要であり、「人の気持ち」を聞こうとする態度は重要である。事実を知ることは必要である。これはあることに関してどれだけ知ることができるか、ということについての「事実」も含む。また確かに論理的でなければ意見は有効性を持たない。しかし事実信仰・論理信仰になってはならない。事実と論理からは価値はでてこない。こうした信仰が「感情論」を否定するとき、自分の価値を所与(逆らってはならないもの)として押し付けようとしているだけのことが多い。


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