床屋道話37 『徒然草』における共感について

二言居士

 

 近頃必要があって『徒然草』を読み返した。感じたことの一つに、動物愛護の心がある。

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第百十一段でこう言う。養い飼うものは牛馬である。「繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなわぬものなれば、いかがはせん」。必要悪としながらも、「繋ぎ苦しめる」ことを「痛まし」く感じている。虐待してならないのは言わずもがなであろう。「その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁ひ、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、〔サディストの独裁者〕桀・紂が心なり」(強調と補足は引用者)。こうした思想は仏教からくると一応は言えよう。しかし、飢えた獣のために我が身をさしだす「高僧伝」を描く経典などは、「利他」の論理倒れでかえってばかばかしさを感じさせるのに対し、兼好の論理は、自分の気持ちに基づけることで着実であるとともに、それぞれの生き物の生存環境に思いを寄せることでのびやかでもある。

第百二十八段は、動物愛護の人の実例を挙げた後で、こう言う。「大方、生ける物を殺し、痛め、闘はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残骸の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思い、親をなつかしくし、夫婦を伴い、妬み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、偏へに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪わん事、いかでかいたましからざらん。/すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず」。国家の暴君だけではない。同胞のなかでは強くもないうさ晴らしか、人間様としての力と知恵を悪用して、他の動物を苦しめて楽しむような者もいる。こういう心理が、しかし弱い人間へのいじめや、国家的な「劣等者」抹殺にもつながっていくのだ。

実際、兼好において、弱い者への同情は鳥獣だけでなく一般庶民へもつながっていく。第百四十二段で言う。「世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂い、望み深きを見て、無下に思いくたすは、僻事なり。その人の心になりて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人を縛め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の飢えず、寒からぬやうに、世をば行はましきなり。人、常のなき時は、常の心なし。人、窮まりて盗みす。世治まらずして、凍たいの苦しみあらば、科の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはんこと、不便のわざなり」(強調は引用者)。著者は世捨て人である。また仏者として、煩悩を去るべきことを説く。しかし彼は悟りの高みから、欲に動く俗人を嘲笑したり愚弄したりはしない。むしろ彼等の立場を思いやっており、また(親子夫婦のもののような)自然的人情を否定しない。そして(仏教でなく儒家の)孟子の「恒産恒心論」を引く。従来の『徒然草』解釈では、仏教が過大評価され儒家思想がほとんど無視されていたのではなかろうか。

兼好は美について「距離をおいてみる」ことを本質とした。「隠者」であっても、彼は現実逃避したのでなく、距離をおくことで卑俗な名利競争から逃れつつ、しかし生活者の切実な情には心を寄せた。暇人のオタクな文章と思ってはいけない。ふつうの現代人にはどーでもいい有職故実などへのこだわりも確かにあるが、『徒然草』の本領は、こうした共感と同情にみられるのではなかろうか。


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2017/06/19 12:57 2017/06/19 12:57
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