床屋道話 (その28 実践理性の優位)
二言居士
「マイナスターズ」という歌集団があった。中身はコミックソングで、ボケた歌にサマーズの三村が「つっこみ」を入れて成り立たせている。「心配性」「ネガティヴ・ハート」などが代表作で、小生がカラオケで一つ歌うとすれば「デジタル時代」だが、ここでとりあげたいのは「じゃあ行かねえよ」だ。基本はデュエット。(ちなみにこのユニットで女声担当の「キムコ」は、歌唱力あり物真似もうまいので、もっと出でほしい。女版「ギャップスターズ」の一員などどうかと思うのだが。)男が、「おまえドライブだいじょぶかい? いい山道知ってるぜ」と言う。女が「山道ってどこのこと?」と聞くと、「じぁああ行かねえよ~」と男は即答。そこで三村がつっこむ。「なんでだよ。聞いてるだけじゃねえかよ、山道のことを。」すると男が言い返す(このパターンは小生の知る限り唯一である)。「お前なんだよ。全然ノッてないじゃねえか。『どこの?』と聞いた時点でもう行きかたがってねえんだよ。『えー、行きたい!』だろ、まず。『行きたい行きたい、どこどこ?』て聞くんだろう。まず行きたい意志が先なんだ」と。ぱっと聞いたときには三村のつっこみのほうがもっともに聞こえる。また実際歌全体としては、この「男」のマイナス志向や深層の「おそれ」を笑う視点もある。しかし全体から切り離して考え直すと、この「男」のほうがより深い真実に触れているのではなかろうか。初対面やそれに近い関係なら話は別だが、この男女をそう想定するのは不自然だろう。ドライブに誘うのに「いい山道」ってなんだよ、ってまずそのボケにつっこみたくなるが、いずれにせよどんな山道かはどうでもいいのだ。もっと言えば「ドライブ」自体そう問題ではないのだ。要は彼女と過ごしたいのであり、女にもその気があるかどうかを問うているのだ。だから女もその気なら「え~、行きたい!」が先行するはずなのだ。でもあまりにへんな「山道」なら、と思うかもしれないって? それは論理的には正しいとしても心理的には正しくない。「行きたい意志が先」に表明され、その後「どの」坂道か聞いて気に食わなかったら、でも別の坂道は、と変更させていけばよい。これももっと言えば、「行きたい!」と言った後で、でも、車に弱いから電車で○○に行きたいとか、いい映画(芝居でも開店セールでもいいが)やってるから今はそっちに行きたいとかで、「ドライブ」自体をなしにさせることもできる。まず「どんな」山道かを聞いてから、行くかどうか答えるというのは、論理的かもしれないが、男(誘う側)からはかわいげがない。てなことを言うと、女をばかにしているという声もあろう。そうした頭でっかちなフェミニズム(小生は男女平等という意味でのフェミニズムには反対でない)には、次のように答えておこうか。言葉にとらわれるのでなく、言った人の意図をとらえてそれに答え、またその中で巧みに自分の思いとも折り合わせていくすべてを知るのが、ほんとに賢いことであろう、と。
小生は悪の廃絶を志している。神仏でもスーパーマンでもないので、無論一人でできることでなく、人類全体での、過去現在未来に渡る営みのほんの一部ではあるが、自分なりにできる限りで貢献したいということに過ぎない。しかしそれを表明すると、そんなことができるんですか、と言う者が必ずいる。どうすればできるのかという純粋な疑問ではない。できるわけがないという反語である。それでもこれを疑問としてうけとめると、論理的な答えは「やってみなければわからない」である。つまり心理的には、「やってみましょう」である。だが問うものの心理は「できるはずがない」であるから、この答えに、「やりましょう」とは応じない。そもそもこのような者は、悪の廃絶が不可能というのは自明のように思い込んでおり、性悪説が一つのイデオロギーであることを、譲歩して言えば形而上学であることを、もっと譲歩すれば少なくとも素人には把握尽くせない多くの論議の支えを必要とすることを、自覚していない。どうして不可能と思うのか、と聞かれると、反問自体を意外とうけとめる。無論それを証明することはできない。悪がなくせないと言えるのは、きわめて限定された個別例についてである。たとえばある悪は、再発防止はともあれ、ある結果はもはや防げないとか、私個人(あるいは若干の集団)ではなくせないとか、現在の法律制度や技術水準では防げないとか、誰かが(あるいは一般に)提案されている対策では無効と私は考えるとか、このような個々の問題に関しては、現実的な議論がありうる。しかし一般論としておよそ悪をなくすことはできないなどというのは、無意味で有害な論法である。では逆に、「悪をなくす」というのも空虚な抽象論にならないのか。なら「あなたはどんな悪をどのようになくそうとしているのですか?」と問えばよい。①これは論理的には妥当な問いであるから、私は答えるにやぶさかではない②が、心理的には正直に言えばあまり嬉しくない。人が志を述べるということは、それを認識してくれと求めているのでなく、聞かされた者の志がまず問われているのである。賛否や自分の反応(すばらしいとか驚いたとか)をまず出さずに、「あなたはどんな悪をどのように」という知的質問が先行するのは、少し変ではないかと思うのである。③だがまず理解しなくては賛否も反応もない、と答える者もいよう。しかしそれも後付けの理屈に思える。自分のまわりにもいくらでは悪はあるはずだ。何が悪か、にくい違いがあるかもしれないが、そんなことは具体論の後で調整していくべきことであって、悪の定義から始めようというのは、議論のための議論で、倫理学の授業中ででもなければ、感心しない。そこで小生が最もいいと思うような反応はこうなる。「まさにそうあるべきですね。私はこれこれの悪に対してこのように闘っています。ところであなたは…」。こういう立派な答えはそうないと思っているので、得られなくてもがっかりはしない。しかしせめて、「確かにそうあるべきなんでしょうが実際にはなかなかできないですね」のような反応で、当人なりに努めているような答えなら同感はできる。しかし頭から否定する者が思ったよりいるのが残念である。M氏もその一人であった。その後、小生はある文芸家の作品について話す機会があったが、そこに彼も来ていた。罪の意識を持ち、またそれをゆるしてくれるものがいないことに悩む主人公に関して、いくばくかの意見を述べた。質問の時間に彼が手を上げて、他の動物に対して人間は罪を犯していると考えるがどうか、と聞いてきた。この主人公の罪とは、たとえば約束した女を裏切って死に追いやったというようなことであり、他の動物のことはまったく問題になっていない。他の参加者は質問の意味がわからなかったであろう。彼は、悪をなくそうという小生に対し、それが不可能とする根拠として、他の動物に対する関係を持ち出したのである。この問題に関しても小生なりに考えており、いくつかの箇所で、話したり書いたりはしている。彼はそれを知らないので、とりあげることは悪くないが、そこまでしてというのにはがっかりしてしまった。勉強熱心な人というのは小生のまわりには必ずしも少なくない。しかし小生はそのこと自体はほとんど評価しない。肝心なのは志である。単なる知識欲にとどまるどころか、自分が悪をなくそうとしていないことの言い訳をみつけるためのように、学ぶ者さえいる。人間は、あるいは社会はこういうものだ、と「理解」して、だからこのような悪も生まれるのだと「説明」して終わりである。(M氏をフォローするならば、場違いもかえりみず挑んでくることは、問題として強く刺さったしるしとも言えるかもしれない。心に刺さりも触れもしない者たちよりずっと可能性があるのかもしれない。)
「悪をなくそう」という言葉に対して、さかしげな冷笑がよくないのは明らかだが、「どんな悪を?」「どのように?」とかの知的質問がまず先に来るのは実は転倒しているのではなかろうか。そうしたい、という気持ちが先なのではないか。「『えー、行きたい!』だろ、まず。『行きたい行きたい、どこどこ?』て聞くんだろう。まず行きたい意志が先なんだ」。
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