精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著・仲島陽一訳
序文
私がこの著作で検討しようともくろんでいる対象は、興味深いものである。新しくもある。現在まで精神は、そのいくつかの相の下においてしか、考察されなかった。偉大な著作家たちも、この題目は、ちらっと眺めやっただけである。そこで私が扱おうと、大胆になったのである。
精神という語をその広がり全体において解するとき、その認識は人間の心情と情念との認識にきわめて密接に結び付いているので、道徳学の、あらゆる国民に共通であらゆる政体において公共の利益〔le bien publique〕以外の目的を持ち得ない、あの部分について語らずには、この主題について書くことは不可能であった。
この題目に関して私が確立した原理は、思うに、一般的利害〔l'intérest général〕と経験とに従っている。私が原因へと遡及したのは、事実を通じてである。道徳学はあらゆる他の学問と同様に扱われるべきであり、経験的自然学のようにつくられるべきである、と私は考えた。私がこの観念に身を委ねたのは、その原理が公衆に有益な道徳全体は、人間的道徳の完成にほかならない宗教の道徳に必然的に従う、という確信によってにほかならない。さらに、もし私が間違い、そしてもし、期待に反して、私の原理のいくつかが一般的利害に従わないならば、それは私の精神の間違いであって私の心情の間違いではない。そしてその間違いを否認することを、私は前もって宣言する。
私が読者の御厚情を願うのは一つだけ、私を断罪する前に私の言うことを理解してほしい、ということである。それはつまり、私の観念すべてを結び合わせる鎖をたどることである。私の相手方〔論敵〕になることではなくて、〔中立的な〕私の裁き手になることである。この依頼は愚かな自信の結果ではない。私はあまりにしばしば、朝よいと信じたことを夕べには悪いと思ったので、自分の知識についてたいそうな考えを抱くわけにはいかない。
たぶん私は力を越えた主題を扱ったであろう。しかしどんな人が、自らを過信しないほどによく自分自身を知っているであろうか。少なくとも私は、公衆の称賛に値するべく全力を尽くさなかったことで自分を咎める必要はない。この称賛を得ないとしても、苦しくはあるが驚きはしない。この分野においては、それを得るためには望むだけでは駄目である。
私が述べたすべてのことにおいて、私は真実しか求めなかったが、それを言うことが名誉であるだけでなく、真実は人々に有益だからである。そしてもし真実から離れれば、私の過ち自体の中に、慰めの動機をみいだすであろう。フォントネル氏(*1)が言うように、「もし人々が、どんな分野であれ、まさにその分野で、考えられるあらゆる愚行をし尽くした後でなければ、なにか合理的なことには達し得ないのであるならば、」私の過ちは同国民に有益になろう。私が座礁したことで浅瀬を示したことになろう。フォントネル氏は更に言う。「もし古代人たちが、私達の前に多くの愚かなことを既に言い、いわば私達からそれを除いてくれたのでないならば、どれだけ多くの愚かなことを、私達が今言うことであろうか!」
それゆえ私は繰り返す。私は自分の著作について、意図の純粋さとまっすぐさとをしか保証しない。しかしながら、この意図についてどんなに確信していても、羨みの叫びは、自分に都合よく耳に入り、その頻繁な美辞麗句は、啓蒙されているというよりも誠実である魂〔の持ち主〕を誘惑するのにとても適しているので、いわば震えながらでなければ筆がとれない。しばしば中傷である非難が、天分ある人を落胆させてしまったことは、無知の時代への回帰を既に予告しているように思われる。あらゆる分野において、羨む者たちの追求に対する隠れ家がみいだされるのは、自分の才能の凡庸さの中しかない。凡庸さは今では一つの防御となり、この防御を私はたぶん意に反して慎んでしまった。
さらに私は、羨みのために私が同国民の誰かを傷つけようとしている、と非難することは難しいであろうと思う。どんな個人も考慮せず、人々と諸国民一般とを考察しているこの著作の分野が、あらゆる悪意の嫌疑から私を守ってくれるに違いない。この論述を読めば、私が人々を愛していること、彼等の幸福を願っていること、その誰も個人的に嫌ったり軽蔑したりしていないのが気付かれるであろうこと、も付け加えておきたい。
私の観念のいくつかは、たぶん大胆と思われよう。もし読者がそれをまちがいと判断するならば、それを断罪しつつも、最も偉大な真理がしばしば発見されるのは、試みの大胆さによってにほかならない、ということを思い出すようにお願いしたい。そして誤りを言う心配が、真理の探求から私達を遠ざけてはならないことを、思い出して戴きたい。下劣で卑怯な人々が、真理を追放し、それに何度も放縦という汚名を与えようとしても無駄である。真理はしばしば危険であると繰り返しても無駄である。それがときに危険であったと想定しても、無知の中に溺れることに同意するような国民は、より大きなどんな危険に身をさらすことであろう。知識のない国民全体は、未開で野蛮であることをやめるときには、堕落した、そして遅かれ早かれ従属に陥る国民である。ガリア人にうちかったのは、ローマ人の勇気よりも軍事知識である。
こうして真理の認識が、あるときにはなんらかの不都合を持つとしても、そのときが過ぎれば、まさにこの真理は、ふたたびあらゆる時代、あらゆる国民に有益になる。
結局それが人事の定めである。あるときには危険になり得ないような事柄は何もない。真理が享受されるのは、この条件においてなのである。この動機によって人類から真理を奪うような者に、禍いあれ。
ある真理の認識が禁止されるようなときには、もはやどの真理も言うことが許されまい。権勢のある、そしてしばしば悪意でさえある無数の人々が、真理を黙らせることが時には賢明であるとの口実の下に、真理をすっかり世界から追放するであろう。だから、真理の価値全体を知る啓蒙された公衆だけが、真理をたえず求める。真理によって得られる現実的な利益を享受するために、不確かな禍いに身をさらすことを心配しない。人々の性質の中で、嘘を拒む魂のあの昂揚を最も尊重する。すべてを考えすべてを言うことがどれだけ有益かを、知っている。そして反論が許されているときには、間違いでさえ危険でなくなることを知っているのである。そのときにはそれはまもなく誤りと認められる。それはまもなく忘却の深淵の中におのずから沈み込み、真理だけが、諸々の時代の広大な広がりの上に浮き上がるのである。
【訳注】
(*1)フォントネル(Fontenelle,1657-1757):フランスの文芸家・思想家。『死者たちの対話』(1683)を書き、のち優雅な機知を湛えて進歩的科学思想や迷信打破の啓蒙思想を平易に解説し、『世界の多数性に関する対話』(1687)や『神託の歴史』(1687)を著して名声を博し、また「新旧論争」に介入して進歩説を支持した。18世紀の啓蒙思想を準備した人である。
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