床屋道話 (その31 テロとことば)

二言居士

 

テロに屈してはならない。テロとたたかわなければならない。なるほどそれは正しいであろう。しかしテロとたたかうとはどういうことか。空爆などの軍事力で相手の殲滅を図ることか。それは米国同時多発テロ(2001年)でアメリカなどが行ったことであったが、それはうまくいったのか。テロを撒き散らしただけではなかったか。軍事力も必要だとしても、それが最も重要な対抗手段なのか。譲って重要だとしても、それだけが対抗手段なのか。ではどうするのか。ISとの話し合いができないかとテレビで口にした者に対して、右翼メディアは攻撃している。現に武力が行使されているところで、話し合いだけで穏やかに収まることは確かに稀である。しかし、××は相手にしないとか、△△とは取り引きしないとか、……とはこちらの条件をのまなければ話の席にもつかないとか、はじめから宣言してしまうのは、勇ましいが数々の失敗を生んだ愚策であった。

ISの問題に限定しよう。アルカイダとの特徴的な違いとして、欧米に住むイスラム系の若者で、ネットなどを通じてISに共鳴して、資金を援助したり自ら戦闘員になったりする者の存在が大きいという。彼等はどうしてそうなるのかを考え、そうならないように対策を行う必要があるのではないか。思えば彼等の不満は、パリ郊外での暴動などで既に現れていた。差別・偏見に加えて、グローバル化の中での格差拡大が背景にある。私達は彼等に耳を傾けようと努めてきたであろうか。暴力は一つの力である。ことばも一つの力になり得るとして、そこには「聴く力」も含まれる。言わせてもらえない者、聞いてもらえない者は、別の力に赴く。

われは知る、テロリストの/かなしき心を――/言葉とおこなひとを分かちがたき/ただひとつの心を、/奪われたる言葉のかはりに/おこなひをもて語らんとする心を、/われとわがからだを敵に擲()げつくる心を――/しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に持つかなしみなり。(石川啄木「ココアのひと匙」より)

啄木もテロを肯定しているわけではない。しかし自爆テロを思いつめるかなしい心に、武力でしかこたえないのはかなしすぎる。

明治末期の日本の青年、いまの欧米のムスリムの青年だけが問題ではない。いまの日本の青年はどうなのか。リーマン・ショックの後にある若手が、「希望は戦争」、入隊して、軍の中では一個の兵に過ぎない東大の教師「丸山真男をひっぱたきたい」とか、2チャンネルの書き込みなどではなく、中央の論壇誌に発表して話題になった。言論より暴力に活路を見出そうとするような若者が増えてはいないのか。あるいは思い切って声をあげた若者に対して、「極度に利己的」だとおしつぶそうとしていないか。

尾木ママは、乱暴なこどもには力で制圧する前に「どうしたの?」とおとなの「聴く力」を求めた。

暴力を乗り越える言葉の力に、私はなおも訴えたい。


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