ことばへの情熱
『αρχη(あるけえ)』第60号(1991年11月3日)
若い人々の間で、ことばへの不信感が強いという。確かに、言葉は「事柄」や「心情」をまったく完全に表現できるものではない。また人間的真実は、常にことばを超えた向こう側にある。それらのことを全面的に認めたうえで、なおも私は言いたい。にもかかわらず、どこまで言葉で真実をとらえ、表せるか、これは実に試し甲斐のある挑戦ではないか、と。そしてもしもよい日本語を使っていこうという意識がなく、言葉への優しさや思いやりを欠くならば、それは人間関係を貧しくするばかりでなく、精神的な喜びのおよそ半分を捨て去ることになろう、と。
中学時代に私は、夜のラジオで、タイプライターを宣伝する次の文句を耳にとめた。
ときには、ただ一通の手紙が、君の運命を変える
ときには、ただ一つの言葉に、ひとは命をかける
ときには、ただ一台のタイプライターが、自由への武器となる
××タイプライター……
大袈裟な文句ではある。しかし真理だ。言葉というものがときに持ち得るとてつもない力を、否定することはできない。
また中学時代に、芭蕉のたとえば「山路来てなにやらゆかしすみれ草」という句を知った。そしてそれに対する池田亀鑑氏の、「山道に人知れず咲くすみれ草に、季節と人生の意味を感じ取っています」という解説を読んだ。これにはまったく参ってしまった。この句をつくった芭蕉もすばらしいし、解説を書いた池田氏もすばらしい。それこそ僕はここで、人生と文芸の意味を感じ取ったのかもしれない。
以来十有余年。私はなんらかの意味で(そしていくつかの意味で)、「言葉」にかかわって自らの道を進んでいきたいと思っている。また人々にも言葉の妙味、重さ、深さと魅力を感じさせたいと思っている。
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