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 精神論〔1758年〕

 

第二部    24章 道徳学を改善する手段について

 

 このためには、私が〔前章で〕挙げた二種類の人々による、道徳学の進歩に対する障害を除くことで十分である。それに成功する唯一の手段は、彼等の仮面をはぐことである。無知の保護者たちが、人類の最も残酷な敵であるのを示すことである。人々は一般に、邪悪であるよりも愚かであることを諸国民に教えることである。諸国民をその誤りから癒せば、その悪徳の大部分から癒すであろうと教えることである。そしてこの点で彼等の治癒に反対するのは破廉恥罪を犯すことであると。

歴史上公衆の悲惨のありさま〔タブロー〕を考察する人みなにすぐ気がつくことは、地上の禍を最も多くひきおこしたのは、利害よりも野蛮なものである無知であるということである。この真理に心うたれて、常にこう叫びたくなったものだ。少なくとも、公民が利害による犯罪しか行わない国民は幸いだ! 無知がそれをどれだけ増やすことだろう! 無知はどれだけの血を祭壇に流させたことだろう(a)! と。しかしながら人間は有徳になるべくつくられている。実際、もし力が本質的に大多数の人々の中にあれば、また大多数に有用な行為の実践の中に正義があれば、明らかであるのは、正義がその本性によって、悪徳を抑え人々に徳を余儀なくさせるのに必要な権力で常に武装されていることである。

大胆で強力な犯罪がこんなにしばしば正義と徳を鎖につけ、またそれが諸国民を抑えつけているのは、無知の助けによってにほかならない。無知こそが各国民からその真実の利害を隠し、国民の力が一体となって働くのを妨げ、その方法で、罪人が公正の剣を免れるようにするのである。

それゆえ、諸民族を無知の闇の中にとどめておこうとする者は、軽蔑し断罪しなければならない。いままでこの真理は十分強く主張されなかった。誤りのすべての祭壇を一日でひっくり返すべきだというのではない。新しい意見を表明するにはどんな手管がいるかを私は知っている。誤りをこわしながらも偏見を敬わなければならず、一般に受け入れられている誤りを攻撃する前には、箱舟の鳩のように1)、偵察のために若干の真理を送り出して、偏見の洪水がまだ世界の表面を覆っているかどうか、誤りが流れ始めるかどうか、また徳と真理とが人々に伝わるために着地できる若干の島が世界のここそこに認められるかどうか、わからなければならない、ということを私は知っている。

しかし、多くの警戒がされるのは、ほとんど危険でない偏見とともにだけである。支配したがり、諸民族を専制支配するために愚かにしようとする人々に、どんな借りがあると言うのか。こうした悪事をなす霊の力に付帯した愚かさの守り札を大胆な手で破らなければならない。道徳学の真の諸原理を諸国民に開示しなければならない。見かけのまたは実際の幸福にしらずしらずにひっぱられて、苦痛と快楽とが道徳的世界の唯一の動力であることを教えなければならない。自己愛の感情が、有用な道徳学の基礎をおける唯一の土台であることを。

人々からこの原理の知識を奪えるとどうして思い込むのか。それに成功するためには、人々が自分の心を探り、行いを検討し、歴史の本を開くことを禁じなければならない。そうした本では、あらゆる時代あらゆる国の民族が、もっぱら快楽の声に注意し、自分達の同胞を、偉大な利害にとは言わないが自分達の官能と娯楽のために犠牲にするのがみられる。私が証拠とするのは、古代ローマの野蛮な美食家たちが、魚をもっとうまくするために、奴隷たちを放り込んでそのえさにした養魚池である。また残酷な主人たちが、弱い、老いた、病の奴隷たちを移し、飢えという罰で死ぬがままにさせたあの〔ローマを流れる〕ティベル川の島である。また人間の野蛮さの記録が刻まれている、あの広大でとてつもない闘技場の廃墟もまた証拠としよう。そこでは世界で最も開花した民族が、戦いの光景が生み出す快楽だけのために、数千の拳闘士たちを犠牲にしていた。そこには女性たちも大量に駆けつけた。女性たちはそこでは、贅沢と軟弱と快楽のなかで養われ、地上の飾りと喜びのためにつくられた快楽しか熱望してはならないように思われる。傷ついた剣士たちが、息絶えつつ、かっこよく倒れることを要求するまでに野蛮になった。こうした事実、また他の無数の似た事実は、あまりに明らかなので、人々からそれらの真実の原因を隠せるなどとは思い込めない。自分がローマ人とは別の性質を持ってはいないこと、教育の違いが見解の相違を生み出すのであり、ティベル川沿いで生まれたならば習慣によって疑いなく快くなったであろう光景が、聞いただけで震えさせるであろうことを、各人が知っている。怠惰で検討できないので欺かれ、自分を善良と思い込む虚栄に欺かれる若干の人々が、こうした光景をみて動かされるような人間的感情を、彼等の本性が特別に卓越しているおかげだと想像しても無駄である。分別ある人は認めるが、パスカルが言ったように(b)、また経験が証明するように、本性は私達の第一の習慣にほかならない。それゆえ人々から彼等を動かす原理を隠そうとするのは不条理である。

しかしそれに成功すると想定しよう。どんな利点を諸国民はそこからひきだすであろうか。確かに粗野な人々の目には、自己愛の感情を見えなくするだけであろう。自分に対するこの感情の働きかけを妨げられないであろう。その結果は変えられないであろう。人々は現にあるものと別にならないであろう。それゆえこの無知は彼等に有用でないであろう。私はさらに、それは彼等に有害であろうと言いたい。社会が享受している大部分の利点は、実際、自己愛の原理の認識のおかげなのである。この認識は、いまだまったく不完全ではあるが、役人の手を権力で武装させる必要を、諸民族に感じさせた。徳義の諸原理を個人的利害の基礎の上におく必要を、立法者に雑然と気づかせた。実際他のどんな基礎の上に、それは支えられようか。まったく偽りではあるが、人々の現世的幸福に有用であるかもしれないと言われる(c)、あの偽りの諸宗教の原理の上にであろうか。しかしこうした宗教の大部分はあまりに不条理で、徳に同様の支えを与えられない。真の宗教の諸原理の上にもまた、それを支えることはできないであろう。その道徳学がすばらしくないとも、その格率が魂を聖性に高めないとも、内的な喜び天上の喜びのあらかじめの味わいで満たすことがないとも、言うわけではない。ただその諸原理が地上に広まった少数のキリスト教徒にしか適用できないであろうからであり、またその著作の中では常に〔全〕世界に語るものとみなされる哲学者は、徳を、すべての国民が等しく打ち立てられる土台の上におかなければならず、したがって徳を個人的利害という基盤の上に立てなければならないからである。有能な立法者が巧みに操る現世的利害の動機で有徳な人々を形づくるのに十分であるだけにいっそう、哲学者はこの原理に強く専心しなければならない。実例は、トルコ人で、その宗教において、宗教全体を破壊する教義である必然性〔運命〕を認め、したがって理神論者とみなされ得る。唯物論者である中国人の例もある(d)。サドカイ人は魂の不死を否認し、ユダヤ人のもとで特別の義人という称号を受けてきた例もある。〔インドの〕裸体修行者たちは、常に無神論と非難され、常にその知恵と節制とで敬われたが、最も正確に社会の義務を果たしていた。これらすべての、そして他の同様の無数の例が証明しているのは、有徳な人々を形づくるのに、将来の見通しにおいて考察され、犯罪的ではあるが目の前の快楽をその犠牲にするには一般に弱すぎる印象しか与えない、あの永遠の罰と快楽と同じくらい、現世的な苦痛〔刑罰〕の恐れと快楽の希望とが有効である、ということである。

世俗的利害という動機を選好しないことがどうしてあろうか。それは、私達の宗教が罰する(e)あの敬虔で神聖な残酷さのどれも吹き込まない。それは愛と人間愛の掟であるが、しかしこの掟の執行者たちがとても頻繁にその残酷さを利用した。その残酷さは永久に、過去の時代の恥で、来るべき時代には恐れと驚きになるであろう。

実際、有徳な公民も、福音書であんなに勧められているあの慈愛の精神で貫かれたキリスト教徒も、過去の世界を一瞥するなら、どんな驚きにとらえられざるを得ないことか! いろいろな宗教がすべて狂信を呼び起こし、人の血を流し合っているのがそこにはみられる(f)。<ここには、ウォーバートンが証明しているように、偶像崇拝を破壊しようと思わなかったとしても、不寛容によって異教徒の迫害をひきおこす、自らの祭祀を実行する自由なキリスト教徒がいる。>かしこには、コンスタンティノープルの〔東ローマ〕帝国を引き裂く、互いに敵対して熱を帯びるキリスト教徒のいろいろな宗派がある。もっと遠くアラビアでは新たな宗教が起こる。それはサラセン人たちに命じて、手に武器と火気を持って地上を馳せ回らせるこうした蛮族の侵攻に続いて、不信心者たちへの戦争がみられる。十字軍の旗の下、諸国民全体がヨーロッパを荒らしてアジアに侵入し、道すがらその最も恐ろしい略奪を行い、馳せ参じてはアラビアとエジプトの砂漠に消えた。キリスト教の諸君主の手に武器をとらせるのは続いて狂信である。狂信がカトリック信者に異端者の虐殺を命ずる。ファラリス、ビュシリス2)、ネロのたぐいが発明したあの拷問を、地上に再現させる。スペインでは異端尋問の薪を準備して火をつけ、そのあいだ敬虔なスペイン人たちは港を離れ海を渡り、アメリカに十字架と荒廃とをもたらす(g)。世界の東西南北を見てほしい、いたるところで宗教の神聖な刃が女性、こども、老人の胸にあてられるのが見られる。大地は、偽りの神々や最高存在に捧げられた、犠牲者の血で生臭く、どこも、不寛容による広大でいとわしく恐ろしい墓場しか提供しない。ところで、有徳な人であれキリスト教徒であれ、魂がやさしく、福音書の格率からしみでる慈悲心に満ちているならば、不幸な人々の嘆きに無情でないならば、ときおり自らの涙を拭ったことがあるならば、この光景をみて、人類に対する同情に心動かされ(h)、徳義を基礎付けようと試みるのに、宗教と同じくらい敬うべき諸原理によってではなく、個人的利害のような、より濫用しにくい諸原理によりはしないであろうか。

私達の宗教の諸原理に反することなしに、これらの動機で人々を有徳にさせるには十分である。異教徒の宗教は、オリンポスを悪漢でいっぱいにしており、正しい人々をかたちづくるには、異議なく私達の宗教ほど適していない。しかしながら誰が疑い得るか、最初期のローマ人が私達より有徳であったことを。近衛騎兵隊が宗教以上に山賊を武装解除したことを。フランス人よりも信心深いイタリア人のほうが、ロザリオを手に、剣と毒とを使うことが多かったことを。そしてまた、信心がより強く統治がより不完全な時代には、信念はさめて統治が改善される時代よりも、はるかに多くの犯罪が犯されたことを(i)。

それゆえ有徳な人々を形成できるのはもっぱらよい法によってである(k)。それゆえ立法者の技術全体は、人々を、自己愛の感情によって、常に互いに対して正しくさせることにある。ところで、そのような法をつくるには、人間の心を知らなければならない。また最初に、人々は自分のことにだけ敏感で他人には無関心であり、生まれつき善良でも邪悪でもないが、共通の利害が結びつけるか切り離すかに応じて良くも悪くもなるということを知らなければならない。各人が自分に対して感じる優先の感情は、種の保存がそれに結びついているものであり、自然によって刻まれていて消せないことを。身体的感性が私達の中に快への愛と苦への嫌悪を生み出したことを。快と苦は続いて万人の胸中に自己愛の種を撒き芽を出させ、それが開花すると情念が生まれ、実になったのが私達の悪徳と美徳のすべてであることを。

 この最初の観念を考察することによってこそ、情念――禁断の樹というのはラビの巧みなそのイメージにほかならないが――がその家系に対して等しく善悪の実をつけるのはなぜかがわかる。私達の悪徳と美徳を生むのに情念が用いる仕組みが気づかれる。そして情念が徳と知恵の実しかつけないようにして、人々に徳義を余儀なくさせる手段を立法者が提供する。

 ところでこうした観念の吟味は人々を有徳にするのにふさわしいのだが、もしも前述の二種類の強い人々によって禁じられているならば、それゆえ道徳学の進歩を速める唯一の手段は、上に述べたように、あの愚かさの保護者たちが、人類の最も残酷な敵であることを示すことであろう。彼等が人々の無知のおかげで手にし、愚かにされた諸民族に命令するのに用いている権力を奪うことであろう。それに関して私は、この手段は思弁においては単純で容易だが、実行においてはとても難しいことを観察するであろう。広大で明敏な精神に、強くて有徳な魂を結びつける人々が生まれないと言うのではない。勇気のない公民は徳のない公民であると確信し、一個人の財産と生命さえも、自分の手の中にあるのは、いわば公共の救済が求めるときには常に返す用意ができている預かりものとしてにほかならないと感じている人々はいる。しかしそうした人々は常に公衆を啓発するにはあまりに少数である。それに、時代の習俗が、徳に滑稽というさびをつけるときには、徳はいつでも弱々しくなる。だから、私が同一の科学とみなす道徳学と立法とは、感じられないほどの進歩しかしないであろう。

 この二つの科学の完成の巧みな徴にほかならなかったアストライアまたはレの名によって示される3)あの幸せな時代を取り戻せるであろうものは、時の経過だけである。

 

【原注】

(a)あるメキシコ王は、寺院の聖別にあたって、4日間で5408人の者を犠牲に捧げた。ゲメリ・カレリ4)の報告、第6巻、56頁。

インドでニアガラ派のバラモンは、君主の保護を利用して、いくつかの王国で仏教徒を虐殺させた。それらの仏教徒は無神論者と他の〔バラモンでない〕理神論者である。バルタは最も多く血を流させた君主であった。この罪から身を清めるために、オリシャの海岸でいとも荘厳に身を焼いた。人間の血を流させたのが理神論者たちであったことは注目すべきである。イエズス会のポンス教父5)の手紙を見よ。

エチオピアのムロエ6)の祭司たちは、自分たちの都合がよいときに王に飛脚を差し向けて、死ぬことを彼に命じた。諸民族が言うには、天がその意志を告げるのはこの刺客によってなのである。シャルダンの報告では、ある説教家が知者のぜいたくを難詰して、焼き殺すべき無神論者だと言った。生かしておくのは驚かれると。一人の知者を殺すのは、十人の立派な人を生かしておくよりも神に嘉される行為であると。何度私達の間で同じ理屈がつくられたことであろう!

疑いなく、狂信によってこんなに多くの血が流されたのをみて、歴史をよく知るロングリュ師7)が、宗教が行った善と悪を天秤の両皿に置くならば、悪が善を凌駕すると言ったのである。第1巻11頁。

この件でペルシャの格言が言うに、「細民が無知で信心深い町に家を構えるな」。

(b)彼以前にセクストゥス・エンピリコスが私達の自然的原理はたぶん私達の習慣になった原理にほかならない、と言っていた。

(c)キケロはそうは考えなかった。なぜなら彼は要路にある人であったが、異教の滑稽さを人民に示さねばならないと思っていたからである。

(d)ルコント神父8)と大部分のイエズス会士は、学のあるものはみな無神論者であると認める。有名なロングリュ師はこの意見である。

(e)〔ピエール・〕ベールは言った。宗教ははじめの時代は謙虚で、忍耐強く、善行をしたが、その後野心的で血なまぐさくなったと。抗うものすべてを刃にかけたと。死刑執行人を呼び、体刑を考案し、諸民族を反乱に駆り立てるための勅書を発し、陰謀を活気付け、最後には君侯たちの殺害を命ずると。ベールは人間の業を宗教の業と解している。またキリスト教徒はふつう人間以上ではなかった。彼等は少数派のときには寛容しか語らなかった。数と信用が増すと寛容に反対して説教した。ベラルミーノ9)がこの件で言うには、キリスト教徒がネロやディオクレティアヌスのような〔迫害する皇帝〕の王位を奪わなかったのは、その権利がなかったからでなくその力がなかったからである。だからそうできるようになったら力を行使したことを認めなければならない、と。皇帝たちが異教を破壊し、異端と戦い、フリースランド人、サクソン人、および北方全体で福音を説いたのは、武装してであった。

これらの事実すべてから証明されるのは、神聖な宗教の原理がほとんどいつも濫用されるということである。

(f)[世界の幼年期において、人間がその理性をはじめて用いるのは、残酷な神々を造ることにである。人の血を流すことによってこそ神に嘉されると考えるのである。敗者の体が震えることにこそ、天命を読めると。恐ろしい呪いの後で、ゲルマン人は敵をすべて神へのいけにえとする。その魂はもはや憐れみに開かれず、共苦は涜聖のように思われよう。

〔海のニンフ〕ネレイデスの怒りを静めるため、開化した諸民族はアンドロメダを岩に張り付ける。ディアナをなだめトロイへの道を開くため、アガメムノンは自らイフィゲニーを祭壇に導き、カルカース10)は彼女を打って神々を敬うものと信じる。]

<異教徒たちははじめキリスト教徒たちを暗殺や騒乱で非難したのでなく、タキトゥスが言うには、非社交性という罪を立証したのである。この歴史家が言うには、この罪は、常にユダヤ人と共通であったが、ユダヤ人は頑固に自らの信仰に執着し、狂信の精神に貫かれているので、他の諸民族に容赦できない憎しみをもたらしていた。グロティウスに引用されている他の若干の作者も同じ証言を行っている。ペルシャの司教アブダスは、魔術師たちの神殿を崩壊させた。そして彼の狂信は、キリスト教徒に対する長い迫害と、ローマ人対ペルシャ人の残酷な戦いを引き起こした。>

(g) だからカール5世宛と想定されるある詩の中で、あるアメリカ人が次のように語らせられている。

  野蛮なのは俺たちじゃない。

  あんたがたのコルテスやピサロだ。

  彼等は俺たちを新式で教えるため

  俺たちに対抗する坊主と首切り人とを集める。

(h) 迫害に際して、元老院議員のテミスティオス11)は皇帝ウァレンス12)に宛てた著作で言う。「あなたと違うふうに考えることは犯罪ですか。キリスト教徒が互いに分かれているとしても、哲学者たちも同様です。真理には無数の面があって、どこからでもみてとれます。神はその諸属性への敬意を万人の胸中に刻みました。しかし各人には神性に最も快いと自らが信じるやり方でこの敬意を証する自由があります。その点でそれを邪魔する権利は誰にもありません。」

ナチィアンスのグレゴリウスはこのテミストゥスをおおいに評価していた。彼に次のように書いている。「文芸の退廃に対して闘ったのはあなた一人です。あなたは啓発された人々の頭です。最も高い地位にあって哲学し、研究を権力に、尊厳を学問に接合するすべをご存知です」。

(i) 宗教によって抑えられる人はごく少ない。救いの道へと私達を導く任にある人々によって犯された犯罪さえなんと多いことか! 聖バルテルミ、アンリ3世の暗殺、テンプル騎士団員の殺戮、等々がその証明である。

(k) エウセビオスは、『福音の準備』(第六編第10章)で、バルデザン13)という名のシリアの哲学者の注目すべき次の断片を報告している。「セール人の下では、法は殺人、姦淫、盗みおよびあらゆる種類の宗教祭祀を禁じている。したがってこの広大な地域では、寺院も、不義も、取り持ち婆も、淫売婦も、盗人も、暗殺者も、毒殺者もいない」。法が人々を制するのに十分である証明である。

神の観念がないが、立法者が程度の差はあるが巧みであるので、社会の中で、少なかれ幸せに暮らしているすべての民族の一覧表をつくろうとすればきりがあるまい。

最初に私の記憶に提示されるであろう民族の名前だけをひこう。

イエズス会士のヨビアン神父が言うには、マリアナ諸島の人々は、福音を説かれる前は、祭壇も寺院も供儀も聖職も持たなかった。将来を予言するマカナと呼ばれるペテン師しか持たなかった。けれども地獄と極楽は持っていた。地獄は大窯であって、悪魔が魂を、炉の中の鉄のように槌で打つのである。極楽は椰子の実、砂糖、女でいっぱいの場所である。地獄極楽を開くのは罪でも徳でもない。暴力的な死に至った者は地獄で、他の者は極楽である。ヨビアン神父がさらに言うには、マリアナ諸島の南に32の島があり、その住民は宗教も、聖なるものの認識もまったくなく、飲み食いすることなどだけに専心している、と。

彼等の改宗に雇われたラボルドの報告では、カリブ人は僧侶も祭壇も供儀も神性の観念も持たない。自分たちをキリスト教徒にしようとする者からたっぷり金を受け取りたいと思う。ロンゴという名の最初の人間には大きなへそがあって、そこから人々が出てきたと信じている。このロンゴが第一原因である。山のない土地を彼がつくっていて、山は、彼等によれば、洪水の産物であった。「欲望」は最初に創られたものの一つであった。彼女が多くの禍を地上に広げた。彼女は自分がとても美しいと思っていた。しかし「太陽」を見て、隠れに行ってもはや夜にしか現れないという。

シリガン人はどんな神聖も認めない。Lett.édiff.recueil 24.

ジャグ人はカヴァシによれば、物質と区別されたどんな存在も認めず、その言語には、その観念を表現する単語さえない。彼等の唯一の祭祀は、いつまでも生きていると彼等が信じる先祖へのものである。彼等は自分たちの君主が雨を自由に降らせると想像している。

イエズス会士のポンス神父が言うことでは、ヒンドスタンにあるバラモンの一派が考えるには、精神は物質と結びついてそこで動きがとれなくなる。魂を清める、そして真理の学問にほかならない知恵は、分析という方法で精神の解放を生み出す。ところで精神は、これらのバラモンにしたがえば、次の三つの真理によって、あるいは一つの形で、あるいは一つの答えで救い出される。「私はどんな事物の中にもない、どんな事物も私の中にない、自我は存在しない」。精神がその形態すべてから解放されるときには、世の終わりになる。彼等がさらに言うには、精神がその諸形態から救い出されるのを〔自分たちの哲学がするように〕助けるどころか、宗教諸派は精神が動きがとれなくなる紐を締めることしかしない、と。

(l) 兵士と私掠船は戦争を望むが、誰もそのために彼等を犯罪者とはしない。この点では彼等の利害が一般的利害に十分結びついていないと感じられる。

 

 

【訳注】

1)      創世記

2)      ブュジリスはギリシャ神話におけるエジプト王。

3)      アストライア(Astraia)はギリシャ神話でゼウスとテミスの娘。

4)      ゲメリ・カレリ(Gemelli Carreri)はイタリアの旅行家。エジプト、パレスチナ、ペルシャ、インド、中国、フィリピン、メキシコに行った。Giro del monde,1699

5)      ポンスは(Antoine de Pons,1510-86)か(Jean-François de Pons,1683-1732)か?

6)      ムロエ(Meroé)はハルツームとアルバラの間のナイル川右岸のスーダンに位置する、ヌビアの昔の町。

7)      ロングリュ師(Abbé de Longuerue,1652-1733)は博識なフランスの批評家・歴史家。

8)      ルコント(Louis Le Comte,1655-1728)はフランスのイエズス会士。ルイ14世の派遣した科学伝道団の数学者として中国に入った。典礼問題に関する書は、後教皇庁により禁書にされた(1762)。

9)      ベラルミーノ(Bellarmono,1542-1621)はイタリアのカトリック神学者。イエズス会士。枢機卿。

10)  カルカースはギリシャの占い師。イリアスによれば、トロイの攻囲で、アガメムノンにイフィゲネイアの犠牲を命じた。

11)  テミスティオス(Themistius,c.317-388/9)は哲学者。コンスタンティのポリスの元老院議員。著書『寛容について』他。

12)  ウァレンス(Valens)は古代ローマの東皇帝(位、364-378)。

13)  バルデザン(Bardesane底本はBardezanes)は二世紀にシリアで生まれた有名なグノーシス派。



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