床屋道話(その34:五輪音頭を聞きながら)
二言居士
開幕の日、小生はある会合に出た。二次会で組織の運営についての話が出、「声の大きい奴が勝つ」という説になった。そこでは小生は新参外様に近い位置で、主催者的な人がこの説を述べたので、(事実問題として)いちおうは肯定でうけて、「でもそれって悲しいですね」とつけた。でもそれはよくないことですよね、と道徳論を仕掛けたり、そういう状況をなくしていきましょう、と決起を迫ったりすることは遠慮して、個人の感情というかたちでの問いかけにとどめたのだ。この小生のコメントに、しかし中心人物もまわりの人々もノーリアクションだったのが残念だった。なぜならこれこそ小生の実存全体がかけられていることだからである。(小生が言外に含ませた)論議や思想を場の空気で敢て露わにしないまでも、「そうですね」とにやりすることくらいはできなかったのか。それともそんな感想そのものがまったく同感できないもので、なにをひよわで感傷的なことを言っているのか、ということだったのか。
何度も言うが、「声の大きい奴が勝つ」という状況をなくそう、というのが小生の根本の志であり、毎日毎日の仕事である。これはある種の矛盾を含んでいる。つまり場に応じて、その「なくそう」の言い方は多様で、きわめて間接的な、なかなか聞き取りにくい「小さな声」で言うこともある。しかしできる限り沈黙はしないように努め、そして「何度も何度も」いつも同じことばかり言っていることでもあり、つまりうるさい声でもあろう。それでもまた、お前の声は小さい、もっと大きく、もっと多くの人に聞こえるように叫べ、と責めるようにご注進する方々もいる。
小生はこの矛盾を生きるしかないと思っている、と言えばかっこつけていると言われるかもしれないが、それが実際のところなのだ。
ちなみに岩崎恭子の母の発言は、今回確認しようと思ったが、ネット上ではみつけられなかった。もしかすると他人のものと誤解しているのかもしれないが、誰かはどうでもよい。ただ、みんなの記憶に残らなかったか、競争への意欲をそぐ残すべきでない発言とされたかなら、残念だが。
