精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著・仲島陽一訳

 

第二部    26章 全世界との関係における精神について

 

 この観点の下で考察される精神は、前の諸定義にしたがって、教えられるものとしてであれ快いものとしてであれ、すべての民族にとって興味ある観念の習慣にほかならない。

この分野の精神は、異議なく最も望ましいものである。すべての民族によって「精神」と表される種類の観念が、この名に真に値しないようなどんな時代もない。一国民がときおり精神という名を与えるような種類の観念については同様でない。各国民には、愚かで卑しい一時代があり、その間は精神についてはっきりした観念を持たない。そのとき国民はこの〔精神という〕名をいつくかの流行の観念の寄せ集めに濫費するが、それは後世の目にはいつも滑稽である。こうした卑しさの時代は、ふつう専制の時代である。そのとき、神は国民からその知性の半分を奪い、隷従の悲惨と責め苦とに対して耐えさせる、とある詩人は言う。

すべての民族の気に入るのに適した観念の中には、教えられる観念がある。学芸の若干の分野に属する観念である。第一に、ホメロス、ウェルギリウス、コルネイユ、タッソー、ミルトンの若干の詩句の中で崇められている観念や感情がそうである。前述のように、それらのなかでこうした著名な著作家たちは、個別の一国民や一時代の描写にとどまらず、人類を描いている。第二に、これらの詩人たちがその著作を豊かにするのに用いた偉大なイメージがそれである。

どんな分野においてであれ、万人の気に入るのに適した美があることを証明すべく、私はまさにこれらのイメージを実例として選ぼう(a)。すべての人がそれに等しくうたれるというわけではない。描写の美に対し、調和の美に対してと同様無感覚の人々さえあり、この点で彼等を目覚めさせようとするのは、不当でもあるし無益でもあろう。彼等はその無感覚によって、自分が体験しない美を否むという不幸な権利を獲得したのである。しかしそうした人々は少数である。

 実際、あるいは、幸福を増す手段としてすべての完全性を望ませる至福への習慣的で待ちきれない欲望によって、眺めると自らの魂をより広め観念をより強くより高くするように思われるあの偉大な対象すべてが、快くなることがあろう。あるいは、偉大な対象はそれ自体によって、私達の感官により強い、より続く、より快い印象をつくりだすことがあろう。あるいは最後に、何か他の原因かもしれない。いずれにせよ私達が体験するのは、視覚はそれを狭めるものすべてを嫌うこと、峡谷や大きな壁の囲いでは窮屈に感じること、反対に広大な平原を見渡し海原を眺めやりかなたの水平線へと迷い込むのを好む、ということである。

 大きいものはみな、人々が見たり想像したりするのに気に入られる権利を持つ。この種の美は、描写において他のすべての美に勝るが、他の美は、たとえば釣り合いの正しさに依存するものであって、すべての国民が釣り合いについて同じ観念を持つことはないのだから、〔大きさの美ほど〕生き生きとまた一般的に感じ取られることはできない。

 実際、技術が釣り合わせる滝、技術が穿つ地下、技術が持ち上げる大地に、セント=ローレンス川の滝、エトナ山に穿たれた洞窟、アルプス山脈の上に秩序なく積み上げられた岩の巨大な塊を対置するならば、こうした異常性によって生み出される快、自然がそのすべての作品の中におくあの粗野な壮大さが、釣り合いの正しさから帰結する快より限りなくまさっていると感じないであろうか。

 これを確信するには、一人の人間が夜山に登り、大空を眺めるがよい。彼をそこにひきつけるのは、どんな魅力か。天体が並んでいる快い均整か。しかしここ天の川では、秩序なく互いに積み重なった無数の星がある。かしこには、広大な空無がある。彼の快の源はいったい何か。天の広大さそのものである。実際、炎上した諸銀河がエーテルの平原のあちこちに散らばった輝く点にしか見えない時、天空の奥にずっと深く入り込んだ諸々の恒星が苦労しなければ気づかれないとき、この広大さについてどんな観念がかたちづくられるか。これら最後の天球からのびていく想像力が、可能世界すべてを経巡るためには、諸天体の広大で不可測のくぼみの中に飲み込まれなければならないのか。魂を丸ごと占拠し、しかしながら疲れさせない対象の観想が生み出す恍惚の中に、身を投げなければならないのか。この分野において、技術は自然にとても劣っていると言わしめたのは、こうした舞台装置の大きさでもある。よくわかる言葉でいえば、これは、大きなタブローは小さいものよりも好ましくみえる、ということ以外のなにものも意味しない。

 彫刻、建築、文芸のような分野の美が受け入れる技術において、ロドス島の大柱とメンフィスのピラミッドを世界の驚異の列に入れる1)のは、量のとてつもない大きさである。私達がミルトンを少なくとも想像力において最も力強く最も崇高だとみなすのは、描写の偉大さによってである。だから彼の主題は、他の種類の美にはあまり富まないが、描写の美においては限りなく豊かである。この主題によって、地上の楽園の建築家になり、彼は、エデンの園の狭い空間に、無数の異なる風土の飾りとして自然が地上に撒き散らした一切の美を集めなければならなかった。まさにこの主題の選択によって、彼は混沌の形なき淵辺に赴き、宇宙を形づくるのに適したあの第一質料をそこから引き出し、海底を穿ち、太陽を動かしそれを輝かせ、そのまわりに天蓋を広げ、最後に世界の第一日の美を、そして彼の生き生きした想像力が新たに孵化した自然を美化したあの新鮮さを、描かなければならなかった。それゆえ彼は最も大きいタブローだけでなく、人々の想像力にとっては、快の二つの普遍的原因でもある、最も新しく最も多様なタブローをも、示さなければならなかったのである。

 想像力についても、精神についてと同様である。自然のタブローであれ、哲学的観念であれ、その観念と組み合わせによってこそ、詩人や哲学者が、自らの想像力ないし精神を改善することで、とても難しい分野において卓越することに至るのであり、また希少で、たぶん成功し難くもある分野においてもそうである。

 人間精神は、どの学問ないしどの技芸に適用されるのであれ、その歩みは一様でなければならないと、実際感じない者があろうか。フォントネル氏が言うには、もし精神を喜ばせるためにそれを疲れさせずに用いなければならないとすれば、もし精神を用いることができるのは、新しさ、大切さ、豊かさがその注目を強く引くあの新しい、偉大な、第一の真理を提供することによってだけであるならば、秩序よく配置され、最も適切な語で表現され、その主題が一つ、単純、したがって抱きやすく、真理が単純さと同一視されるような観念を提供しなければ、精神を疲れさせずにおかないならば、想像力の最も大きな快は、大きさ、新しさ、タブローにおける単純性と多様性という三重の組み合わせに付着しているのである。たとえば大きな湖を直接にか描写でかで見ることが快いならば、穏やかで果てしない海を見ることは疑いなくもっと快いであろう。その広大さは、私達にとってより大きな快の源である。しかしながらその景観がどんなに美しくても、その一様性はまもなく退屈になる。だからもし、黒雲に包まれ北風に運ばれ、詩人の想像力によって擬人化された嵐が、南風から離れ、動く水の山々をその前に転がすならば、海のさかまきが示す、恐ろしいタブローの急速で、単純で、多様な継起が、各瞬間に私達の想像力に対して、新たな印象を生み出し、私達の注意を強く引き、心を占めて疲れさせず、したがって私達をいっそう喜ばせることを、誰が疑おうか。しかしもし夜が来てまさにこの嵐の恐怖を二倍にするならば、またもしその津波が、連なりで水平線を画しまた曲げる各瞬間に、雷の繰り返す光によって照らされるならば、この暗い海が直ちに火の海に転じ、このイメージの大きさと多様性に結び付いた新しさによって、私達の想像力を驚かすのに最もふさわしいタブローの一つを形づくることを、誰が疑おうか。だから詩人の技術は純粋に描写家として考察されれば、動く対象だけを視覚に提供することにある。津波の、風のそよぎの、また雷光の描写は、さらに秘かな恐怖を、したがってまた、荒海の景観が体験させる快を、さらに増すことができないであろうか。春が戻り、曙がマルリ2)の庭に降り、花の孚を開かせるとき、この瞬間が花から発する香気、無数の鳥のさえずり、滝の瀬音は、この魔法にかけられた木立の魅力をさらに増さないであろうか。五感すべてが快い印象の入り口となり、それは私達の魂の中に入ってくる。それらを一度に開くほど、より多くの快が魂にしみこむ。

 それゆえ、教えられるものとして諸国民に一般的に有用な観念が(科学に直接属する観念がそうである)あるならば、快いものとして普遍的に有用な観念もまたあること、そしてこの点で徳義とは異なり、個人の精神は全世界と関係を持ち得ることが、みてとれる。

 この〔第二〕部の結論は、精神に関しても道徳に関しても常に、人々の側からすれば褒めるのは愛または感謝であり、蔑むのは憎しみまたは復讐であるということである。それゆえ利害関心が人々の評価の唯一の配分者である。精神はしたがって、どんな観点で考察されようとも、新しい、興味ある、したがってまた教えられるものとしてであれ快いものとしてであれ、人々に有用な観念の集まり以外のものではけっしてない。

 

【原注】

(a)大きなタブローが必ずしも強い印象を与えないとしても、この効果の欠如はふつうその大きさとは外的な原因のためである。それに関して私が観察するであろうことは、詩的描写を読む際、そのイメージの正確な鑑賞が私達に与えるはずの純粋な印象だけをもっぱら受けることはめったにない、ということである。すべての対象が、それが最もふつうに結びついている対象の美しさと同様に醜さにも参与している。私達の嫌悪と不当な熱狂との大部分は、この原因に帰さなければならない。広場での手あかのついた格言は、他の点ではすぐれていても、いつも低級にみえてしまう。なぜなら私達の記憶の中でそれを用いている人々のイメージに、必然的に結びつくからである。

同じ理由によって、妖怪変幻の物語は、夜間迷った旅人の目に、森の恐怖を倍加することを疑えようか。ピレネー山中や砂漠は、淵や岩のただ中で、巨人族の戦いの版画に影響された想像力が、そこにオッサやペリオンの山々3)を認めると思い、あの巨人たちの戦場を見て恐れることを。裸で、迅速で、激しい欲望に憑かれている精霊たちが、ポルトガル人たちの足元に降り、また恋がその目を輝かし、その血を巡る、また言葉がごたまぜになる、そして最後に幸せな恋のため息しか耳にしない、そのようなルカモン4)によって描写された、この茂みの思い出で茂みすべてがいつまでも美化されることを、誰が疑うであろうか。

ある対象の現前から受け取るまるごとの快から、いわばそれらが結びついている対象の側から反射した特殊な快すべてを分けるのがとても難しいのは、このような理由による。

(b)ある主張およびあるイメージにおける単純さは、私達の精神の弱さに比例して完全である、ということを注目するのがよい。

 

【訳注】

1)      エーゲ海のロドス島の大柱とエジプトのメンフィスのピラミッドは、古代の「世界の七不思議」に属する。

2)      マルリ(Marly)という名の地名はいくつかあるが、ヴェルサイユとともに王室の庭園があったところであろう。後にエルヴェシウス擁護の著作も出すジョルジュ・ルロワはその狩猟補佐官であり、その観察をもとに『動物の完全能力と知性についての哲学書簡』(1781)を著した。パリ南西郊外の町で、交際があるヴァセ伯爵夫人をエルヴェシウスが訪れることがあったマルリもそこか。

3)      オッサはギリシャの山。神話では巨人族アロアデスがオリンピア族攻撃のためにオッサの上にぺリオン山を積んだ。

4)      ルカモエンス(Le Camoëns,1524?-1580)はポルトガルの詩人。東洋に冒険旅行を行った。



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