床屋道話36 四人のピコのはなし
ピコ・デラ・ミランドラはイタリアの思想家である。著作『人間の尊厳について』(1496)はルネサンスの精神を表している。「尊厳」とは他と比べて二倍とか5パーセントとかでない、絶対的な価値のことである。中世においては、人間は卑しいもの、罪深いもの、無力なものと思われ、値打ちあるもののように言うのはむしろ赦しがたい傲慢さとされていた。人間にそういう「面」があることは否定できないが、もっぱらそれしかなく、ただ神の恵みと力を望むことだけがよいとは、ピコは考えない。ではどこに人間の尊さがあるかといえば、彼によれば自由意志にである。知識や力においては、神ならぬ人間はたいしたことはないが、善を少なくとも意志することは自由であり、この点に他の被造物とまったく異なる人間の尊厳があるとしたのである。確かにこれはすべての出発点である。
クロード・ピコはフランスの哲学者である。近代哲学の祖の一人であるデカルトの支持者で友で、デカルトの『哲学の原理』(1647)がラテン語で出ると、その仏語訳を行った。これに対しデカルトは「序文」を付けたが、本文は読まなくてもこちらは読むべきものである。たとえば、こういった難しめの本の読み方について、とても役立つ指南がある。また諸々の学問がどのように結びつくかについての、興味深い考えが示されている。デカルトも自由意志を説いたが、知識と能力についても、ルネサンスより踏み込んだ、前向きの評価をした。これについては、(神に対してではないにしても自然に対して)人間を傲慢にさせてしまったという批判もある。もっともな面もあるが、そうならないための歯止めに関しても、この「序文」のなかにみいだすことができる。すなわち不完全な認識しか持たない人は(ということは実質的にはすべての人はと言っているに等しい)「何をおいても」道徳を立てることを試みるべきだ、「それは後からでは間に合わず、また私達は何をおいても、正しく生きるように努めるべきだから」と、デカルトは言っている。知識・学問に対して道徳・倫理が先立たねばならないとの指摘である。近代社会がそうならなかったのはデカルトのためでなくデカルトに反してである。
フランソワ・ジョルジュ・ピコはフランスの外交官である。イギリス代表マーク・サイクスとの間でサイクス=ピコ協定を結んだ(1916)ことで歴史に名をとどめた。これは後にリザノフによってロシアも加わった。第一次大戦中のことで、この三国の共通の敵であるオスマン=トルコ対策であり、戦勝後、トルコが支配している中東を三国で切り取る境界を取り決めた。秘密協定であったが、翌年革命を起こしたソヴィエト=ロシアが暴露した。近代以降増大した「知と力」を悪用した「列強」による、帝国主義政策の典型である。特にイギリスはいわゆる「三枚舌外交」の一環として不道徳のかぎりである。また、戦後独立した中東諸国の国境がこれに影響され、現地の事情や住民の意見をよそに、こうした「強国」の都合でできたので、その後の紛争の種になった。いまのISの大義名分の一つも、サイクス=ピコ協定の打破なのである。むろんそこに三分の理があるとしても、彼等のやり方はとうてい認められるものではない。しかし、それを単に力づくで押しつぶそうとするだけでは、帝国主義は終わらない。ある宗教やある国に属するというだけで一括してテロ容疑者扱いにし、攻撃したり排除したりすることは、敵意とテロをむしろ拡散するだけである。いま世界中で、そういう権力者が増えたり、それを支持したり望んだりする人々や運動が勢力を増していることは、絶望的な気持ちにさせられる。
しかし絶望してはなるまい。自分には自分なりにできることをしていこう。そしてピコ太郎とともに次のように言って、自分を励ましていこう。”I have a pen !”