精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著、仲島陽一訳
第三部 第3章 記憶の広さについて
疑いなく前章の結論は、人々の精神が等しくないことの原因は、彼等の記憶力が等しくないことのなかに求められる、ということであろう。記憶は、感覚、事実、観念がたまる貯蔵庫であって、これらのいろいろな組み合わせが、「精神」と呼ばれるものをかたちづくるのである。
それゆえ、感覚、事実、観念は、精神の第一の素材とみなされなければならない。ところで、記憶のこの貯蔵庫が広いほど、この第一の素材を多く含む。また精神に対してより適性があると言われよう。
この推論がどんなに根拠があるようにみえても、たぶん深く考えれば、もっともらしいだけだと思われよう。それにすっかりこたえるべく、まず検討しなければならないのは、五体満足の人々の記憶力において、広さの違いがみかけと同じくらい実際も大きいかどうかである。またこの違いが有意であると想定されれば、次に知らなければならないのは、それが精神が等しくないことの原因とみなされなければならないかどうかである。
検討する第一の対象に関して私が言いたいのは、注意力だけが対象のなかに記憶を刻み得るということであって、それなしでは、対象ははっきりしない印象しかもたらさず、それは著作の頁を構成する各々の文字から読者が順々に認める印象とほぼ似たものである。それゆえ確かに、記憶の欠如が人々において不注意の結果なのか、記憶を生み出す器官の不完全さの結果なのかを判断するためには、経験に頼らなければならない。人々のなかには、聖アウグスティヌスやモンテーニュが自分自身について言っているように、かなり貧弱な記憶しかないとみえるが、それでも知ろうという欲望によって、かなり大量の事実と観念を思い出の中におくことに至り、異常な記憶の持ち主とされる者もたくさんいる。ところでもし学ぼうという欲望で少なくともたくさん知るために十分であるならば、私がそこから結論するのは、記憶力がほとんど人為的であることである。だから記憶の広さは、①毎日の使用により、➁刻み付けたい対象を考察する際の注意力による。それなしでは、いま言ったように、すぐ消える軽い痕跡しか残らないであろう。③観念を配置する秩序による。驚くべき記憶はみなこの秩序のおかげである。そしてこの秩序は、観念すべてを一緒に結びつけ、したがって記憶に課すのが、それらの本性かそれらの考察法によって、互いに思い出させるほど十分な相互関係を保つ対象だけに存する。
同じ対象を記憶にしばしば登場させることは、いわば、鑿で刻む回数が多いほど深く刻まれるようなものである(a)。しかも、同じ対象を思い出させるのにとてもふさわしいこの秩序によって、記憶の現象すべてが説明される。ある人の聡明さ、すなわち真理を受け入れる素早さは、その真理とその人が習慣的に記憶している対象との類比にしばしば依存することを教える。別の人の精神がこの点でのろいのは、逆に、まさにその真理と彼が専心している対象との類比がほとんどない結果であることを教えるのである。彼がこの真理を把握し、その関係すべてを認められるのは、彼の思い出に現れる最初の観念すべてを退け、自分の記憶の貯蔵庫全体をひっくり返すことによってだけであろうし、そうやってこの真理に結びつく諸観念をそこに探すのである。以上の理由で、他の人々を強く触発するようなある種の事実や真理が示されても、それらが自分たちの思考の鎖全体を揺るがし、自分たちの精神の中で多数の思考を目覚めさせるからでなければ、多くの人は気にしない。それは彼等の観念の地平全体にす速く日を当てる閃光なのである。それゆえ聡明な精神はしばしば、また広い記憶は常に、秩序のおかげである。ある点では最も広い記憶に恵まれているような人々から他の点で絶対的に記憶を奪うのは、ある種の研究分野に対する秩序の欠如、無頓着の結果である。以上の理由で、年代学的秩序の助けで歴史上の言葉、日付、事実を記憶に容易に刻みまた保つ言語と歴史の学者が、道徳的真理の証明、幾何学的真理の論証、長い間考察したような風景の描写を、しばしば記憶に保てないのである。実際、この種の対象は、彼がその記憶を満たす他の事実や観念とどんな類比も持たないので、そこにしばしば現れることも、そこに深く刻印されることも、したがってまたそこに長く保たれることもできない。
これがいろいろな種類すべての記憶を生む原因であリ、ある分野で最もものを知らない者が、まさにこの分野で、ふつう最もものを忘れる人々である理由である。
それゆえ、最大の記憶はいわば秩序の現象であるようにみえる。また、五体満足と私が呼ぶ人々の間で記憶力があれほど大きく違うのは、それを生み出す器官の完全性が等しくないことよりも、それを陶冶する注意力が等しくないことの結果であるようにみえる。
しかし、たとえ人々のなかに認められる記憶の広さが等しくないのがまったく自然の産物であると想定し、みかけ以上に実際は大きいと想定しても、そのことは彼等の精神の広さに何も影響できないであろうと私は言う。なぜなら①偉大な精神は、この後示すように、とても大きな記憶力を前提しないからである。また➁人はみな高度の精神に高まるのに十分な記憶力に恵まれているからである。
これらの命題の第一のものを証明する前に観察しなければならないのは、完全な無知が完全な愚鈍をもたらすならば、才人がときに記憶を欠くようにみえるのは、ただこの「記憶」という語にほとんど広さを与えないからであり、ただその意味を、才人が好奇心を持たず、しばしば記憶もしない名前、日付、場所、人物に制限するからだということである。しかし、この語の意味を、観念かイメージか推論かの思い出に解すれば、そのどれも奪われはしない。そこから、記憶なしでは精神はないということが帰結する。
この観察がなされたところで、どんな広さの記憶を偉大な精神は前提するのかを知らなければならない。例として、ロックとミルトンのような、異なる分野の二人の著名人を選ぼう。彼等の精神の偉大さが、その記憶の極度の広さの結果とみなされなければならないか、検討しよう。
まずはロックに目を向けよう。そして、巧みな観念、アリストテレス、ガッサンディ、モンテーニュの読書によって啓発され、この哲学者が、感官の中に私達の観念すべての起源を認めたと想定しよう。そのとき感じ取られるであろうことは、この第一の観念から彼の体系すべてを引き出すためには、記憶の広さよりも省察における一貫性のほうが必要であったということであろう。最も広さのない記憶力でもすべての対象を容れるに十分であり、その比較から彼の諸原理が帰結するはずで、その連鎖を彼は展開し、したがって、偉大な精神〔の持ち主〕という称号に値したしそれを得もしたのである。
ミルトンに関しては、一般的意見から、他の詩人たちより限りなくすぐれているという視点からみることにしよう。もっぱら彼の詩的イメージの力、大きさ、真実味、そして最後に新しさを考察しよう。この分野での彼の精神の優越もやはり、記憶がとても広いことを前定しない、と私はうちあけざるを得ない。実際、彼の描写の構成は偉大であろう。(火の輝きを地の物質の硬さと結びつけて、固体の火で燃える地獄の領域を、液体の火で燃える湖のように描くときの描写がそうである。)彼の構成は偉大であろうが、こうした構成を形づくるのに適した、そして大胆なイメージの数は極度に限られなければならないのは明らかである。したがってこの詩人の想像力の偉大さは、記憶の広さよりも、彼の技術に関する深い省察の結果であるのは明らかである、と私は言おう。この省察によってこそ、彼は想像力の快の源を探りそれを認めることができた。偉大で真実で、よく釣り合った描写をするのに適したイメージを新たに集めることにおいても、いわば詩人の色彩となり、それによってその叙述を想像の目に見えるものにする、あの力強い表現を変わらずに選ぶことにおいても。
見事な想像力が記憶の広さをほとんど求めないことの最後の例として、私はイギリス文芸の一断片の翻訳を注で挙げよう(b)。この翻訳と、前の諸例とで、思うに、著名な人々の作品を分析する者には、偉大な精神が大きな記憶を前提しないことが証明されるであろう。前者の極度の広さは、後者の極度の広さを絶対的に排除する、とさえ私は付け加えよう。
精神とは新しい観念の集まりにほかならない、としよう。そして新しい観念はみな、若干の対象間に認められる新しい関係にほかならないとしよう。そのとき自分の精神によって卓越したい者は、必然的に、対象が相互に持ついろいろな関係の観察に大部分の時間を使わなければならず、事実や観念を記憶することには最小の時間だけ消費しなければならない。反対に記憶の広さで他人をしのぎたい者は、省察した対象を相互に比べることに時を失うことなく、新たな対象を絶えず自分の記憶に蓄えることに四六時中努めなければならない。ところで、時間の使い方がこんなに違うことから、二人のうち前者は後者に対して記憶において劣るが、同じくらい精神においてはまさっていることは明らかである。自分の精神を完成させるために、学習するよりも省察しなければならないといったとき、たぶんデカルトが気付いていた真理である。ここから私が結論するのは、とても偉大な精神はとても大きな記憶を前提しないだけでなく、前者の極度の広さは後者の極度の広さを排除する、ということである。
この章を終えるにあたり、また精神が等しくないのは記憶の広狭のせいでないことを証明すべく、私がなお示さなければならないのは、ふつうに五体満足の人はみな、最も高い観念に上るのに十分な広さの記憶力を恵まれている、ということである。実際人はみなこの点で、生まれつき十分に恵まれていて、その記憶の貯蔵庫が、観念または事実を絶えず相互に比べられるほどの数を含むことができるならば、常にそこに新たな関係を認め、常に観念の数を増やし、したがってまた、常に精神をより広げることができるであろう。ところでもし、幾何学が証明するように、三、四十の対象はとても多くの仕方で相互に比べられるので、長い人生においても、その関係すべてを考察することやその可能な観念すべてを引き出すことは誰にもできないならば、またもし、私が五体満足と呼ぶ人々の中に、その記憶が一言語のすべての単語というに及ばず、無数の日付、事実、名称、場所、人物を、そして最後に六、七千をはるかに超える数の対象を含むことができないならば、私は大胆にこう結論しよう。五体満足の人はみな、自分の観念を増やすために使用できる能力にまさる記憶の能力に恵まれていると。記憶が広いほど精神が広くなるわけではないと。またこうして、人々の記憶力が等しくないことを、その精神が等しくないことの原因とみなすどころか、この不等性はもっぱら、対象相互の関係を考察する際の注意力の大小か、または思い出に課される対象の善悪かの結果であると。実際、日付、場所や人物の名前やその他のような、記憶の中で場所をとるが、新しい観念も公衆に興味深い観念も生み出さない不毛な対象がある。それゆえ精神の不等性は部分的にはどんな対象を記憶するかによる。コレージュで最も素晴らしく成功した若者が、より年長になって必ずしも同様でないのは、よい生徒をつくるデポテル1)の規則の巧みな比較と応用とが、後に、まさにそうした若者が、公衆に興味深い観念が出てくるような比較の対象に目を向けるということを、まったく証明しないからである。そしてそのために、無数の無用なことを無視する勇気を持たないならば、めったに偉人にならないのである。
【原注】
(a)記憶は文字でできた銅板であり、時折そこに鑿を入れ直さないと時とともにその文字は知らずしらずに消えてしまう、とロック氏は言う。
(b)ある若い娘が恋に目覚め、暁前に谷に赴く。そこで恋人を待ち、日の出のとき、神々への犠牲を捧げる務めである。彼女の魂は、間近な幸せの希望によって甘い状況におかれ、それを待ちつつ、自然の美を、そして愛情の対象を彼女の傍らに連れてくるはずの日の出の美しさを眺める喜びを待ち構えている。次のように気持ちを言う。
「もう太陽があの古い柏の頂を照らしている。そして岩間をほとばしるあの急流の波が、日の光に輝いている。草木の茂るあの山々の頂から、半ば空中に投げ出され隠者にすてきな隠れ家を提供するあの天井〔夜空〕がせりだしているのにもう気づく。夜よ、お前の帳をおろすのを終えよ。確信のない旅人を悩ませる鬼火どもよ、沼や泥の地に引き下がれ。そして大気を息づかせる熱で満たし、この牧場の花々に薔薇色の真珠を撒き、自然の多様な美に色彩を与える太陽よ、諸天の神よ、私の第一の称賛を受けよ。お前の道を急げ。お前か戻れば私の恋人も戻ることがわかる。祭壇の下になお彼をとどめている敬虔な配慮から自由になって、恋はまもなく彼を私のもとに戻す。すべてが私の喜びを感じるように! 私達を照らす天体の出現をすべてが祝うように! 冷たい夜が煮詰める香りを体内に閉じ込めている花々よ、蕾を開け。香ばしい気を空中に放て。魂を満たす快い酔いが、目に入るものすべてを美化しているのかどうか、私にはわからない。しかしこの谷の淵をうねる小川は、そのつぶやきで私を魅了する。風がそよいで私をいつくしむ。竜唌香の香る植物は、私の足に踏まれて、香水の気を私の嗅覚に運ぶ。ああ、幸せが時折は死すべきもの〔人間〕の住まいを訪れてくれるのなら、それが住まうのは疑いもなくこうした場所だ… しかしどんな秘かな混乱が私を動揺させるのか。もう待ちきれない気持ちが、待つことの快さに毒を混ぜている。もうこの谷は美しさを失った。いったい喜びはこんなにつかの間のものなのか。これらの植物の綿毛がそよ風に飛んでいくように、それほど私の喜びはたやすくうせるものなのか。喜ばしい希望にすがってもむなしい。時間ごとに私の混乱は増す… 彼は来ない! 誰が彼を、私から遠くにとどめているのか。恋する女の不安を鎮める以上に神聖な義務があるのか… でも、私は何を言っているのか。逃げ去れ、彼の誠実に不当な、妬み深い疑いよ、そして彼のやさしさを消すような事実よ。嫉妬が恋の傍らで増すなら、それを切り離さないならば恋を窒息させてしまう。嫉妬は、緑の柏に抱き着くが、その支えとして役立っている幹を枯らしてしまうきづたである。私は自分の恋人をよく知っているからその優しさを疑うことはできない。彼は私と同様、豪奢な宮廷から遠く、静かな田舎の隠れ家を愛した。私の心の美しさと単純さが、彼の心に触れた。官能的な私の恋敵たちが、その腕の中で彼を呼び起こそうとしても無駄であろう。若い娘の頬の上に、無垢の雪色と羞恥心の肉色を消し、技術の白粉と厚顔の紅料とで塗るコケット女の言いよりに、彼は誘惑されるだろうか。何を私が知ろう。彼が彼女らを軽蔑するのは、私に対する罠かもしれない。男たちの偏見を、そして私達を誘惑するために彼等が用いる技術を、私が知らないことがあろうか。女性蔑視の中で育った彼等が愛するのは、私達女性ではなく自分たちの快楽である。なんと残酷なことか! 彼等は復讐の野蛮な熱狂も、祖国への狂乱の愛も美徳の列に入れた。しかし美徳の中に忠実を数え入れたことはけっしてない! 無垢を傷つけても後悔しない。私達の苦しみを眺めてもしばしば虚栄心から喜ぶ。でも違う、恐ろしい考えよ、私から遠ざかれ。私の恋人はこうした場所で降参するだろう。私は千回も試みた。彼を認めると、動揺した私の魂は鎮まる。あまりに正当な苦情の種もしばしば忘れる。彼のそばでは、幸せであるだけだ… しかしながら、もし私を裏切るならば。もし、私の愛が彼を赦しているときに、別の女の腕のなかで、不実の罪を犯しているならば。自然全体が私の復讐のために武器をとることだ! 彼は滅びるがいい! 何を私は言うのか。宇宙の諸元素よ、私の叫びに耳を貸すな。大地よ、深淵を開くな。お前の輝かしい表面の上に、定められた時間、あの怪物を歩ませよ。彼はなお新たな犯罪を犯すがよい。あまりに信じやすい恋する女たちの涙をさらに流させるがよい。そして天が彼女らの仇を討ち彼を罰するのは、少なくとも別の不運な女の祈願のためであれかし」等々。
【訳注】
1) デポテル(Jean Van Despauterre,c.1480-1520)は文法家。ブラバンで生まれ、ルーヴァンなどで教える。彼の文法(教科書は1517年パリ出版)は長く使われたが、マルブランシュ、ニコルらの批判を受けた。
仲島先生の本を紹介します。
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