精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

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第三部 第4章 注意力の不等性について

 

 人々の精神に大きな不等性があるのは、感覚器官や記憶器官の完全性の大小によるのでないことを、私は〔前章で〕示した。それゆえその原因は、人々の注意力が等しくないことのなかにしか求められない。

諸対象を記憶により深くまたはより浅く刻み、それらの関係をよりよくまたはより悪く認めさせ、真または偽の私達の判断の大部分を形づくるのは、注意力である。また私達のほとんどすべての観念は、結局この注意力のおかげである。だから人々の精神の力が等しくないのは、注意力が等しくないことによるのは明らかであると言われよう。

実際、不調という名しか与えられないような最も軽度の病気でも大部分の人から一貫した注意力を奪うのに十分であるならば、疑いなく、互いの大部分に認める注意力の完全な欠如と彼等の精神の案配が等しくないこととは、いわば感じられない病気と、したがってまた自然によっていろいろな人々に与えられる力が等しくないことに主に帰せられるべきである、とさらに言われよう。ここから、精神は純粋に自然の恵みであると結論されよう。

この推論はどんなにもっともらしくても、しかしながら経験によって確証されない。

慢性病に苦しみ、苦痛によって、全注意力を自分の状態に固定させざるを得ず、自分の精神の改善にふさわしい対象にそれを向けられず、したがって私が五体満足と呼ぶ人々の数に入れない人々は例外としよう。他のすべての人々は、弱くて虚弱で、前の推論に従えば五体満足の人々よりも少ない精神を持たざるを得ない人々さえ、しばしばこの点で、自然の中で最も恵まれているとみえるのがわかるであろう。

学芸に専心している健康で頑健な人々においては、体質の力が快楽の切迫した欲求を与えるので、体質の弱さで軽い頻繁な不調によって研究と省察から引き離される虚弱な人々以上に、そこから引き離されることが多いように思われる。次のことだけがはっきりと言える。研究に対する愛にほとんど等しく動かされている人々の間で、精神の力がはかられるもととなる成功をもっぱら拡大するようにみえるのは、興味、財産、身分の違いによってひきおこされる気晴らしの大小、扱う主題の選び方のよしあし、作成するために用いる方法の完全性、省察する習慣の大小、読む本、会う人々のみる目、そして最後に、偶然が日々私達の目の前に提供する諸対象である。才人を形づくるのに必要な諸々の偶然が合わさることにおいては、体質の力の大小が生み出せることもあろう注意力の差異は、まったく重要ではない。だから人々の身体構成の違いによってひきおこされる精神の不等性は感じられない〔ほど少ない〕。だから、どんな正確な観察によっても、天才を形づくるのに最適の種類の体質は今まで決定できなかった。また背が高いか低いか、太っているか痩せているか、胆汁質か多血質か、どんな人々が精神に最大の適性を持つか、いまだに知ることができない。

しかも、この要約的な答えはもっともらしさにしか基づいていない推論を反駁するのに十分であり得る。しかしながらこの問題はとても重要なので、正確に解決するためには、注意力の欠如は人々において、専心する身体的無能力の結果なのか、学ぶ欲望があまりに弱い結果なのかを、検討しなければならない。

私が五体満足と呼ぶすべての人は注意力を持つが、なぜならみんな読むことを学び、国語を学び、エウクレイデス〔ユークリッド幾何学〕の最初の諸命題を把握できるからである。ところで、こうした最初の諸命題を把握できる人はみな、すべての命題を理解する身体的能力を持っている。実際、他のすべての学問においてと同様幾何学においても、ある真理を把握する際どれだけたやすいかは、それを把握するために記憶に現前していなければならない先立つ命題の数の多さに依存する。ところで、五体満足の人がみな、前章で証明されたように、幾何学のどんな命題であれその証明に必要な数よりかなり多くの観念を記憶におけるとしよう。そして秩序の助けと同じ観念の頻繁な表象によって、経験的に証明されるように、苦も無く思い出すのに十分なほど、それらに慣れ親しめるとしよう。ここから帰結するのは、幾何学的な真理全体の証明についていく身体的能力を各人が持っているということである。また命題から命題へ、類比の観念から類比の観念へと、たとえば九十九の命題の認識にまで登った後では、人はみな百番目の命題を二番目と同じほどたやすく把握できるということであって、百番目が九十九番目から隔たっているのは二番目が一番目から隔たっているのと変わらないのである。

いまや、幾何学的真理の証明を把握するのに必要な程度の注意力では、ある人を著名人の列に入れるような真理の発見には不十分なのかどうかを検討しなければならない。このもくろみにおいて私がともに観察するように読者に願うのは、真理の発見であれ、単にその証明についていくことであれ、人間精神が行う歩みである。その認識が大部分の人には疎遠な幾何学からの実例はひかない。道徳学から例をとって次の問題を提示しよう。「盗みは個人の不名誉になるのに、なぜ不正な征服は国民の不名誉にならないのか」。

この道徳的問題を解決すべく、私の精神に最初に現れる観念は、私に最も親密な正義の観念である。それゆえ私は正義を個人間で考察するであろう。そして、社会秩序を乱し覆す盗みは、恥辱とみなされて正当であると感じるであろう。

しかし、公民間の正義について私が持つ観念を諸国民に当てはめることがどんなに有利であっても、しかしながら、万国で賞賛される諸民族によってあらゆる時代に企てられた、あれほど多くの不正な戦争をみると、一個人との関係で考察された正義の観念は諸国民に適用できない、とすぐに私は疑うであろう。この疑いは私の精神がもくろむ発見に至る第一歩となろう。この疑いを解明するために、私はまず、自分に最も親しみある正義の観念を遠ざけよう。自分の記憶を呼び起こし、そこから次々と無数の観念を追い払い、ついにはこの問題を解決するためには、正義についてのはっきりしたまた一般的な観念を形づくらなければならないことを、認めるに至るであろう。そしてこのためには、社会の設立にまで遡らなければならないが、その大昔において、その起源がよりよく認められるのであり、そのうえ、公民との関係で考察された正義の原理が、国民には当てはまらない理由をたやすく発見できるのである。

それは、敢て言えば、私の精神の第二歩になろう。したがって、法律と学芸の知識が完全になく世界のほとんど最初の日にそうあるはずであるような人々を思い描いてみよう。すると彼等が他の貪欲な動物同様森の中に散らばっているのをみる。獰猛な獣に抵抗する武器の発明前はあまりに弱いこの原初の人々は、危険、欲求、または心配に教えられて、集まって社会をつくり、共通の敵である動物に対する同盟をつくるのが各々の利害関心に属することを感じ取った、と私はみる。このように集まり、同じものを占有しようとする欲望によってまもなく敵になったこれらの人々が、互いに奪い合うために武装しなければならなかった、と続けて私は認める。最も強い者がまず最も精神的な者からそれを奪い取り、後者は武器を発明して同じ財を彼から取り戻すべく彼を罠にかけたと。力と器用さとがしたがって所有権の最初の資格であったと。大地は最初は最も強い者に、続いて最も鋭い者の所有になったと。すべての占有ははじめはこうした資格においてだけであったと。しかし最後に、共通の不幸によって明らかにされて、もし最初の信約に新たな信約を加えて、それによって、各人は力と器用さによる権利を放棄し、万人が一般に、自らの生命と財産の保全を互いに保障し、こうした信約の侵害者に対して武装するのを約束するというのでなければ、自分たちの結合は有利でなく社会は存続できないであろうと、人々が感じ取った、と認める。このようにして諸個人のすべての利害から、共通の利害が形づくられ、それがいろいろな行為に、正当な、許される、不当な、といった語を社会に有用か、どうでもよいか、有害であるかにしたがって与えたに違いない、と認めるのである。

いったんこの真理に達すると、人間の諸徳の起原を私はたやすく発見する。私がみてとるのは、身体的快苦の感性なしでは、人々は、欲望も情念もなく、万事に等しく無頓着で、個人的利害を知らなかったであろう、ということである。個人的利害なしでは、集まって社会をつくりはせず、互いに信約をつくらず、一般的利害はなく、したがって正当な行為も不当な行為もなかったであろう、ということである。またこうして身体的感性と個人的利害が、正義全体の作者であったということである1)(a)。

この真理は、「利害は人々の行為の尺度である」という法学の公理によって支えられ、そのうえ無数の事実によって確証されており、私に証明しているのは、個人的な情念または好みが一般的利害にかなっているか反しているかによって有徳であったり悪徳であったりするが、私達は必然的に自分の個人的福利をめざすので、神のごとき立法者自身も、人々に徳を実行させるためには、彼等は時折身を捧げないではいられない一時的快楽と引き換えに、ある永遠の幸福を約束しなければならないと信じた、ということである。

この原理が確立されると、私の精神はその帰結を引き出す。そして認めるのは、もし立法者が特に大きな報酬を常に提案しなかったなら、個人的利害が一般的利害と対立している信約はみな常に侵害されるであろう、ということである。すべての人を簒奪に向ける自然的傾向において、彼等は絶えず不名誉と体刑という防波堤にぶつからなかったであろう、ということである。それゆえ私は、刑罰と報酬だけが、人々がその個人的利害を一般的利害に結びつけておける紐帯であるとみる。そして万人の幸福のためにつくられた法律も、もし役人がその実行を保障するのに必要な力によって武装されていないなら、誰からも順守されないであろう、と結論する。この力なしでは、法律は、大多数によって侵害され、各個人によって破られる。法律の基礎には公的有用性しかないのであるから、一般的違反によって、無用になれば、それはもはや無であって法律であることをやめる。各人は原初の権利に戻る。自分の個人的利害の勧告だけを聞くが、それは彼に当然にも、一人だけ守っている者には有害になるような法律に従うことを禁ずる。大道の安全のため、武装して歩くのが禁止されるならばそのためである。憲兵隊がいないと街道に盗人が多くなるのはこのためである。この法律がしたがってその目的を果たさなかったであろうのはそのためである。人は武装して歩き、この信約またはこの法律を侵害しても不正でないだけでなく、それを守るのは狂っているとも私は言おう。

私の精神がこのように少しずつ、正義のはっきりした一般的な観念をかたちづくるのに至った後、正義が、共通の利害すなわちすべての特殊利害の総和がつくりあげた信約の正確な順守に存することを認めた後、残っているのは、この正義の観念を諸国民に適用することだけである。上に確立された原理に解明されて、私がまず認めるのは、すべての国民は自らが占領する諸地方と占有する財産の占有を互いに保障する信約をつくっていない、ということである。その原因を発見しようと思うならば、私の記憶では、世界の概要を描いてみせることで示されるが、諸民族が互いにこの種の信約を行わなかったことがある。諸民族は互いの信約なしでも存続できるし、諸社会は法律なしでも保たれ得るからである。そこから私は、正義の観念は、諸国民において考えられるのと個人間で考えられるのとでは極度に違わざるを得ない、と結論する。

教会と王とが黒人〔奴隷〕の売買を認めている。家族内に騒動と不和をもたらすものを神の名において呪うキリスト教徒が、黄金海岸やセネガルを駆け回って、アフリカ人が欲しがる商品と引き換えに黒人を買い込んでいる。貿易によって、ヨーロッパ人がこれらの民族間に果てしない戦争を続かせて後悔もしない。これらは、個別的諸条約と、万民法という名が与えられる一般に認められた習慣がなければ、諸民族は互いに他に対して、社会を形づくる前の原始人の場合にまさに当てはまり、力と器用さ以外の権利を知らず、互いにどんな信約、どんな法律、どんな所有権もなく、したがって、どんな盗みもどんな不正もあり得ない、と教会と王が考えるからなのである。諸国民が互いに結ぶ個別的諸条約に関してさえ、かなり多くの国民によって保障されたことがなく、ほとんど力によってしか保たれ得なかったと思うし、したがって、力なしの法律のように、しばしば実行されないままであらざるを得なかったことがわかる。

正義の一般的観念を諸国民に適用して、なぜ他の民族と結んだ条約を侵犯する民族が、社会とつくった信約を破る個人ほど有罪でないのか、またなぜ公衆の意見にしたがえば、不正な征服が一国民の不名誉になる以上に盗みが個人を卑しめるのかを続いて発見すべく、私の精神は問題をこの点に還元するであろう。あらゆる時代にまたすべての民族によって、破られたすべての条約の一覧を記憶に呼び戻すことで十分である。そのときわかるのは、条約を顧みず、国民が自利をみるために諸国を攻撃するため、あるいは少なくとも隣国に自国を害させなくするため、騒ぎと禍の時を利用するような大きな蓋然性が常にある、ということである。ところで各々の国民は、歴史に教えられて、この蓋然性はかなり大きいと考え、だから有利である条約の侵犯は、本来休戦でしかないすべての条約の暗黙の条項であると確信できるかもしれない。したがって、隣国をやっつけるのに好都合な機会をとらえると、彼等を邪魔するしかないと。なぜなら、すべての民族は、不正の非難に、さまなければ隷属のくびきに身をさらさざるを得ないので、奴隷になるか支配者になるかの二択に追い込まれるからである。

そのうえ、国民みなにおいて、現状維持はほとんど保てないものとしよう。帝国の拡大の終わりは、ローマ人の歴史が証明しているように、その堕落のほとんど確実な予言とみなされなければならないとしよう。そのとき、次のことは明らかである。たとえば第三の国民に対する二国民の保障において、個人が他の個人に対する彼の国民の保障においてみいだすのと同じだけの〔安全〕保障をみいださないので、条約はその実行が不確実であるだけにいっそう神聖でなくならざるを得ない、それと同じほど各国民は、不正と呼ばれる征服において権威づけられていると思いさえできる。

 私が自らに提起した道徳学の問題の解決を発見するのは、私の精神がこの最後の観念にまで到達したときである。そこで私は感じるが、条約の侵犯と、国民間のこの種の山賊行為は、未来の保障である過去が証明しているように、すべての民族、あるいは少なくとも大多数の民族が一時的信約を結ぶまで存続せざるを得まい。諸国民が、アンリ四世の、あるいはサン=ピエール氏2)の計画にしたがって、互いにその領有物を保障し、他の民族を服属させようとする民族に対抗して武装することを約束し合うまで、また最後に、偶然各個別国家の力と他のすべての連合した国の力とがつりあって、この信約が力によって保持され得、公民間に賢明な立法者が建てるのと同じ統治を諸国民が公民間に相互に確立できるようになるまでは。この時、善行には報酬が与えられ悪行には刑罰が科されて、この立法者は公民の徳義に支えとして個人的利害を与えることで彼等に徳を余儀なくさせるのである。

 それゆえ確かに、公衆の意見にしたがえば、不正な征服は、個人間の盗みほど公正の法に反するものでなく、したがって犯罪的でなく、盗みが公民の不名誉になるほどには国民の不名誉になるものでない。

 この道徳問題が解決されれば、私の精神がそれを解決するのにとった歩みを観察すれば、私に最も親しみある観念を最初に思い出したことがわかるであろう。それら相互を比べ、私の検討対象との関係でその適合と不適合とを観察したことが。続いてこれらの観念を退け、他の観念を呼び戻したことが。そしてまさにこの手続きを繰り返して、ついには私の記憶が、探している記憶が帰結すべき比較対象に及んだことが。

 ところで、精神の歩みは常に同じなので、ある真理を発見する仕方について言うことは、すべての真理に一般的に適用されなければならない。この件に関して、ある発見をするためには、その発見がこの真理を含む対象を記憶のなかに必ず持たなければならない、ということだけを注意しておこう。

 今与えた実例で私が前に言ったことを思い出し、したがって五体満足なすべての人が、最も高度な観念に高まるのに十分な注意力を実際に備えているのかどうか知りたいのであれば、精神が発見を行うとき、あるいは単にある真理の証明を単に追っているときに、精神の諸機能を比べ、またそれらのどれが最大の注意力を前提するかを検討しなければならない。

 幾何学のある命題の証明についていくために、多くの対象を精神に呼び起こすことは不要である。提起されている問題を解決するのに適した対象を生徒の目に示すのが先生の役割である。しかし、ある真理を発見することであれ、その証明についていくことであれ、どちらの場合も、自分の記憶が先生によって示される諸対象が互いに持つ関係も等しく観察しなければならない。ところで、特別な偶然がなければ、ある真理の発見に必要な観念をもっぱら表象したり、それらを互いに比べなければならない局面だけを正確に考察することはできない。だから明らかに、ある発見を行うためには、探究対象には疎遠な大量の観念を精神に呼び起こし、無数の無駄な比較を行わなければならない。その大量さによって嫌気を催しかねない比較をである。それゆえある真理を発見するためには、その証明についていくよりもはるかに多くの時間を消費せざるを得ない。しかしこの真理の発見は、どの瞬間にも、一連の証明が前提する以上の注意の努力を要求しない。

 これを確信するために、幾何学の学生で観察してみよう。先生によって目の前に出された幾何の図形を考察するのに多くの注意を払わなければならないのは、その対象が彼の記憶が示すような対象ほど親しいものでないので、彼の精神が二重の配慮に専心して、それらの図形を考察もするし、それらが互いに持つ関係を発見もすることになるだけにいっそうそうなることがわかるであろう。幾何学のある命題の証明についていくのに必要な注意力は、ある真理を発見するのに十分であることが、ここから帰結する。確かに真理発見の場合、注意力はより連続的でなければならない。しかしこの連続性は本来、注意の同じ行為の反復にほかならない。しかも、すべての人が、前に言ったように、母国語を読み学ぶ能力を持つならば、彼等はみな、生き生きした注意力を持つだけでなく、真理の発見が要求する連続的注意力をも持っている。

 どんな連続的な注意が必要であろうか。その文字を知り、それを集め、その音節を形づくり、その語を構成するためには。または、表現されている観念、イメージ、感情とのどんな現実的関係も持たない、「柏」「大きさ」「愛」といった語のように、互いに恣意的関係しか持たない、異なった本性を持つ諸対象を記憶のなかで結び付けるためには。それゆえ確実なことであるが、もし注意の連続性、すなわち注意という同じ行為の頻繁な反復によって、すべての人が一言語のすべての語を記憶の中に次々と刻むようになるならば、彼等はみな、その発見によって著名な人々の列にはいれる、あの偉大な観念に高まるのに必要な注意の力と連続性とを備えているのである。

 しかしこう言われよう。もしすべての人がある分野で卓越するのに必要な注意力を備えているとしても、不慣れだからそうできなくさせたのでないとき、この注意力がかけさせる労苦が人によって違うことはやはり確かであると。あるいはこの注意がどれだけ簡単にできるのかの差は、身体組織の完全性以外にどんな原因によるのかと。

 この反論に直接答える前に観察したいことがある。注意力は人間の本性に疎遠でないことである。一般に、注意を保ちにくいと思うとき、それは退屈で辛抱できないことからくる疲れを、専心することの疲れととりちがえるからだということである。実際、欲望のない人がいないならば注意力のない人はいない。その習慣がつくられると、注意は一つの欲求にさえなる。注意を疲れさせるのは、そこに私達を向ける動機である。それは欲求か、貧苦か、それとも心配か。注意はそのときは苦痛である。快楽の希望か。そのときはそれ自体が快楽になる。解読しにくい二つの著作を同一人物に示すがよい。一つが調書で一つが恋文である。注意するのに第一の場合は辛く、第二の場合は快いことを誰が疑おうか。この観察にしたがえば、注意力に費やされる労苦になぜ差があるのかを簡単に説明できる。この場合、身体組織の差を想定することは、この件では必要ない。この分野では、注意力の苦痛の大小は、その報いと各人がみなす快楽に常に比例していることを、認めることで十分である。ところで、同じ対象が人によって同じ価値にみえないならば、明らかに、いろいろな人に報いの同じ対象を提示しても、実際には同じ報いになっていない。また注意の同じ努力をしなければならないとしても、その努力はしたがって人によって辛さの違いがある。それゆえ注意力の容易さの違いという問題は、それを生み出す器官における完全性が等しくないといった神秘〔的な説〕に頼らずに説明できる。しかし、この件で、人々の身体組織にある違いを認めるとしても、すべての人が持ち得る学びたいという強い欲望をそこに想定することで、ある技芸において卓越するために必要な注意力という能力を備えていないような人は一人もいない、と私は言おう。

 実際、幸福への欲望が万人に共通ならば、それが彼等において最も強い感情ならば、明らかに、この幸福を得るために、各人は常に自分の能力でできることすべてをするであろう。ところで、人はみな、私がいま証明したように、最も高い観念に上るのに十分な程度の注意力を備えている。それゆえ彼は、自国の立法、個人的趣味、あるいは自分の教育によって、幸福がこの注意力の報いとなるときには、この能力を用いるであろう。特にもし、私が証明できるように、ある分野ですぐれた者になるには、備えている注意力全体をそこに注ぐことさえ必要でないならば、この結論に抵抗するのは難しいであろう、と私は思う。

 この真理にどんな疑いも残さないように、経験に諮ってみよう、文士たちに尋ねてみよう。彼等の文芸の詩の美しい行、彼等の小説の最も独特な状況、彼等の哲学的作品の最も光に満ちた原理は、注意の最も辛い努力のおかげではない、とみな体験した。こうした驚くべき状況や偉大な哲学的観念は、偶然が彼等の目の前におくか、彼等の記憶に示すかする若干の対象と、彼等の見事な詩句が由来するそれらの比較との、幸運な出会いのおかげだと、彼等は認めるであろう。それらの観念を精神は、常にそれらが真実であり一般的であるほどいっそうすばやくまた容易に、把握するのである。ところでもし、すべての作品において、こうした見事な観念が、どんな分野であれいわば天分の特質であるならば、もしそれを用いる技術が時間と忍耐の産物に過ぎず根気仕事と呼ばれるものであるならば、天分は注意力の報いであるよりも偶然の恩恵であり、それはこうした巧みな観念をすべての人に示すが、そのうちで栄光に敏感でこうした観念を把握するのに注意深い人が利用する、ということはそれゆえ確実である。もし偶然が、ほとんどあらゆる技術において、大部分の発見の作者に一般に認められているならば、またもし、思弁的学問において、偶然の力はそれほどはっきり認められないとしても、その力はたぶんそれでも同様に現実的である。偶然はその最も見事な観念の発見を支配している。だからこれらの観念は、私が言ったように、注意の最も辛い努力の報いではない。また断言できるのは、観念の秩序が要求する注意力、観念の表現の仕方、そしてある主題から他の主題へ移る技術(b)のほうが、ずっと疲れさせるものである。また最後にすべての注意のなかで最も辛いものは私達に親しみのない対象の比較を前提するものである。だから哲学者は、六、七時間、最も高度な省察をできても、注意力の極度の疲労なしでは、ある手続きの検討であれ、ある草稿を忠実かつ正確に写すことであれ、その時間を過ごすことはできない。だからどの学問でははじめは常に骨が折れる。だから若干の対象を考察する際、それらをたやすく比べるだけでなく、それら相互について正確で迅速な比較ができるのは、習慣のおかげにほかならない。だから画家はある絵を最初の一目で、素人には見えないデッサンないし色彩の欠点に気付く。だから自分の羊を考え慣れている羊飼いは、それらの間の類似と差異を発見してそれらを区別できる。まただから、本来思いのままにできるのは長い間省察した題材だけなのである。まさにこの主題に関して持つ観念が表面的か奥深いかは、それを省察する際、どれだけ変わらずに省察したかによるのである。長い間省察され長時間で構成された作品は、それだけ力強いように思われる。また才気ある作品は、機械においてと同様、時間において失うものを力において得るように思われる。

 しかし主題から離れないために、それゆえ私が繰り返したいのは、もし最も辛い注意が、ほとんどなじみのない対象の比較が前提するものであるならば、またもしこの注意が、まさに言語の研究が要求するものであるならば、すべての人は母国語を学べるのだから、したがって誰でも、著名な人々の列に高まるのに十分な注意力の力と連続性を備えている、ということである。

 この真理の最後の証明のためここで思い出すことが残っているのは、誤りは、第一部で述べたように、常に偶有的であって若干の人々の精神の特殊な本性に内在するものではない、ということだけである。すべての人は本性によって等しく正しい精神を備えている、ということがそこから帰結する。ところでこの「正しい精神」という語は、広義にとればすべての種類の精神を含むので、上に言ったことの結果は、私が五体満足と呼ぶすべての人は生まれながら正しい精神を持っているので、最も高い観念に上る身体的能力を自らのなかに持っている、ということである(c)。

 こう反問されるかもしれない。それではなぜ著名な人はこれほどわずかしかみられないのかと。研究が少々苦痛だからである。研究への嫌悪を克服するには、既に示唆したように、ある情念〔情熱〕に動かされなければならないからである。

 幼少期の若者に勉強を強いるには、罰の恐れで十分である。もっと年が進んで同じ取り扱いができなくなると、そのとき専心する疲労に身をさらすには、たとえば栄光への愛のようなある情念に燃えなければならない。私達の注意力はそのとき私達の情念の力につりあう。こどもたちを考察しよう。母国語においてのほうが外国語においてよりも進歩の度合いがより等しいのは、ほぼ同様の欲求によって刺激されるからである。すなわち、食欲によって、遊びへの愛によって、自分たちの愛憎を知らせたいという欲望によって刺激されるのだが。ところで、ほぼ同様の欲求はほぼ同等の結果を生み出すに違いない。反対に、外国語における進歩は、先生が用いる方法、彼等が生徒に呼び起こす心配、両親がこどもに持つ関心に依存する。だから感じ取れるのは、働きかけがこんなに多様に組み合わされるとてもいろいろな原理に依存する進歩は、この理由で、極度に不均等にならざるを得ない、ということである。ここから私は、人々の間に認められる精神の大きな不等性は、たぶん、学ぼうという彼等の欲望が等しくないことによる、と結論する。しかしこの欲望は情念の結果だと言われよう。ところで、もしも私達の情念の力の大きさの違いが自然だけによるならば、精神はしたがって自然の恩恵として考察されなければならないことが帰結する。

 この問題全体は、真に微妙で決定的なこの点に還元される。これを解決するには、情念とその結果とを認識し、またこの主題において、深く詳しい検討に立ち入らなければならない。

 

【原注】

(a)生得観念を認めることなしにこの命題を否認することはできない。

(b)カクモ案配ト接合トハ有効ナリ。〔ホラティウス『詩論』242

(c)常に思い出さなければならないのは、第二部で述べたように、観念はそれ自体は高尚でも偉大でも卑小でもないということである。卑小と呼ばれる観念の発見は、しばしば偉大な観念の発見に劣らぬ才気を前提することである。ある人の滑稽さを巧みに把握するには、ときおり、ある政府の悪弊を認めるのと同じだけの才気を要することである。また後者の〔政治〕分野での発見に優先的に偉大な観念という名を与えるのは、「高尚」「偉大」「卑小」という形容句によって、多かれ少なかれ一般的に利害関心をひく観念を示しているからだということである。

 

【訳注】

1)    「著者のように推論するなら、もし人々が生きなかったら彼等は働きかけなかったであろうし、行動がなければ正義等はなかったであろう、と言える。ここから彼のように、人生が正義全体の作者であると結論できてしまう」(J.-J.Rousseau,notes sut <De l’esprir>,Oevres complètes,t.,Gallimard1969,p.1130)。

サン=ピエール(Abbé de saint-Pierre,1658-1743)はフランスの僧侶。ユトレヒト講和会議に出席(1712)したことを契機に「永久平和論」を構想。これはルソーの抜粋によりはじめて世に出、カントをはじめのちの平和思想に影響を与えた。


仲島先生の本を紹介します。
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2017/09/11 00:48 2017/09/11 00:48
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