西郷隆盛

日本史 2018/02/14 00:14

西郷隆盛

仲島陽一

 

添付画像
【1 序】 西郷隆盛は、歴史上の人物の人気投票をしたら、おそらく十指に入る有力な候補である。西郷についての私の考察は、明治維新との関連が重きを占めることになろう。まず次の問いを立てたい。①西郷はなぜ倒幕を決意したのか。その際彼は幕府に替わるものとしてどのような政権(および政策)を思い描いていたのか。②明治維新における西郷の位置および意味は何であったのか。③西郷はなぜ「征韓論」を唱えたのか。④西郷はなぜ「西南戦争」の将となったのか。

 第一の課題は以上の四つであるが、ついでに「西郷人気」の理由についても考えてみなければならない。①「判官びいき」としての西郷人気はわかりやすい。「革命」の功労者でありながら「冷徹」な「権力者」によって賊の汚名をきて非業の最期、というのは九郎判官義経と同じ図式である。とりわけ勝者である岩倉・大久保政権が必ずしも「大衆の味方」とは言えないだけに、その敵となった西郷への同情はわかりやすい。しかし私ははじめからこうした講談的評価には同感しなかった。義経に対する頼朝の裁きを正当とみる歴史的認識を持っていたのと同様、西郷の立場が大久保よりも「右」であり、その反抗はより反動的な側からのものであったことを認識していたからである。(塩冶判官や伊藤に追い落とされた大隈には同情ができる。)②しかしまた西郷の人気は、その「人柄」へのものがある。これに対して一部はもっともと思う半面、警戒心も抱きたくなる。そのような「人柄」は、今日、保守政治家においてときにみられる、あるいは彼等において比較的「理想」とされるものだからである。それははたしてすんなりと受け入れてよいものか。また伝えられるその「人柄」はそのまま実像とみてよいのか。少し調べていくうちに、「謀略政治家」西郷という面も目に入ってきただけに、考え直してみたい問題ではある。

 【2 幼少期・青年期】 西郷隆盛は、1827(文政10)年、薩摩藩の鹿児島で生まれた。幼名は小吉、青年時代は主に吉之助、維新後は父と同名の隆盛を名乗った。父の隆盛は郷士で、勘定方小頭を勤めていた。家は貧しく、隆盛を第一子に七人の子を得た(三男が従道)。同じ町の三つ年下に大久保利通がおり、早くから仲良しだった。

 1844年、18歳で郡方書役助の職につく。のち書方に昇進し、27歳まで勤めた。農村を巡回して村役人を監督指導する役である。

 【3 斉彬のもとで】 1851年、薩摩藩では島津斉彬が藩主となった。幕末の藩主で最も開明的な人物である。言路洞開に努めた彼は、西郷をその意見書によって注目する。ペリー来航の翌54年、藩主としての最初の参府となった斉彬は、随行した西郷を庭方役につけた。外交的根回しの任であり、水戸・越前などとの交渉に用いられた西郷は、藤田東湖、橋本左内などと交わるようになり、識見を高めた。57年、斉彬は西郷らを伴い帰藩。西郷は途中京都で僧月照に合う。

【4 逆境の日々】 同年、開明派の老中阿部正弘が39歳で病没。再び江戸詰を命ぜられた西郷は、将軍の後継ぎに一橋慶喜をつけるために奔走した。しかしこれに対抗した彦根藩の井伊直弼が巻き返して58年、大老になり、通商条約に調印するとともに将軍後継ぎを紀州の慶福とした(同年就任家茂)。徳川斉昭(水戸)・松平慶永(越前)・徳川慶恕(尾張)を謹慎、彼等が擁立しようとした慶喜を登城停止として弾圧を始めた(安政の大獄)。島津斉彬は薩摩で病没した。絶望した西郷は帰郷して殉死を思ったが、月照に止められた。その月照に幕府の追及が及んだので、西郷は彼を薩摩に落とした。しかし斉彬後の新藩主忠義の父として実権を握った久光は幕府をはばかり、月照を見殺しにすることにした。死を覚悟した彼に西郷は責任を感じ、ともに入水したが、彼だけが生き返り、奄美大島に流された。

 しかし1860年に桜田門で井伊は斬られ、情勢は変わってきた。島津久光は大久保利通らを連れ、挙兵上京を策した。この策を成功させるため西郷に帰藩命令が下り、62年2月に鹿児島に戻り、3月に発った。京阪に先乗りしていたいわゆる尊攘激派の暴発を抑えるため大阪に向かった西郷は、もとから彼に反感を抱いており彼への讒言を受けた久光によって、徳之島送りに処せられ、8月、さらに沖永良部島に移された。

【5 復帰と活躍】 1863年8月、薩摩と会津を中心とする公武合体派は宮廷クーデターに成功し、長州派公卿を追放した。彼等は権力の新たな中心として64年、参与会議(久光のほか、慶喜、春嶽、容堂、伊達宗城、松平容保)をつくったが、結束できず久光は孤立した。大久保利通による再登用の提議が容れられ、3月、赦免を受けた38歳の西郷は入京し、軍配役に任じられた。6月、池田屋の変で、長州を中心とする尊攘派が新選組によって大きな打撃を受けた。激高した長州は三家老を立てて武装上洛した。朝廷は動揺し、内大臣近衛忠房は西郷を呼んで意見を求めた。彼が是とした慶喜の論により、長州討伐の方針に定まった。7月、長州軍は攻撃を開始(禁門の変)。宮廷を守る十余藩の主力である薩摩軍はおおいに活躍して長州勢は撃退され、久坂玄瑞も戦中で死んだ。指揮に当たった西郷は名を高めた。彼は朝命が下った征長で長州をたたきのめすつもりであった。

【6 勝との出会いで転換】 このとき西郷は1864年9月、勝海舟とはじめて会った。その第一印象を彼は、「実に驚き入り候人物にて、最初は打ち叩くつもりにて差越し候処、とんと頭を下げ申候」と大久保利通に書き送っている。「どれだけか知略の有るやら知れぬあんばいに見受け申候。……現事に臨み候ては、この勝先生とひどく惚れ申候」と告白させたこの幕府は、彼を軍艦奉行から罷免し、海軍操練所も閉鎖した幕府の腐敗ぶりをあけすけに話し、諸藩の尽力による改革も無益とした。ではどうしたらよいか。「明賢の諸侯四、五人も御会盟」して新政策を出せば「天下の大政も相立ち、国是相定ま」るという。これを聞いた西郷は「一度此策を用い候上は、いつまでも共和政治をやり通さず候ては相すみ申すまじく」と大久保に書いている。井上清によれば、この勝の「賢侯会議」、西郷の「共和政治」(無論本来の共和政のことではない)は、朝廷の諮問機関に過ぎなかった「参予会議」とは異なり、将軍を(最大の領主として相当の地位を与えつつも、)最高の執政権者とするのでなく、「雄藩連合」による日本全体を支配する政権(構想)であるという。それまでの西郷の意図は、薩摩藩が幕政に強力に参与することを通じた改革、であったろう。幕薩連合から、雄藩連合による政権へと、西郷の政治目標は変わった。これはいまだ倒幕論ではない。ただしこれによって長州をつぶすことや、それによって幕府権力を強化することはかえってよくない、という認識に転じた。10月、尾張藩主徳川慶勝が総督となり、その下で総参謀になった西郷は、戦わずに収拾する策を練った。11月広島に着く。三家老の切腹、藩主父子の謝罪などの成果をおさめた。尊攘派公卿の追放については、殺される覚悟で下関にはいり、この条件で征長軍を解兵させたほうが有利であることを高杉晋作や山県有朋に説いて容れられ、慶勝は12月に解兵した。

薩摩に帰る西郷に、勝は、操練所閉鎖で行き所をなくした門下生で、土佐脱藩の坂本龍馬を託した。坂本は西郷に紹介されたときの印象を勝にこう答えた。西郷は馬鹿である。その馬鹿の幅がわからない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。

この後幕府(引っ張ったのは将軍家茂でなく慶喜か?)は6510月、条約の勅許を勝ち取り、この問題を主導権獲得に利用しようとしていた雄藩連合派をくじいた。同月勢いに乗じて長州再征の勅許も得たが、これには従わない藩も多く、むしろ苦境を招いた。慶喜らとしては、長州をつぶして一挙に徳川絶対主義体制をつくろうとしたのであろうか。長州は、木戸・大村を中心にこれに備えるとともに、薩長同盟を結ぶという運びになる。661月、坂本龍馬の仲介で成立するこの第一次同盟は、防衛のためである。幕軍に対抗して藩を守るとか、藩主らの復権を図るとかいうことは必ずしも「倒幕」ではない。このとき既に、場合によっては、という含みがあったとみられるのであろうか。ないとしたらもう一つの疑問は、(それまで経済的協力の積み上げはあったが)薩摩はなぜこの同盟に踏み切ったかである。幕府による長州つぶしを許せば、次は薩摩だ、と考えたのであろうか。6月、第二次征長開始。薩摩は出兵拒否。幕軍の敗北相次ぐ。7月、将軍家茂が急死し、これを理由として9月、休戦が成って幕府は撤兵した。12月、新将軍についた慶喜は攻勢を強めた。しかし直後に反幕派に有利な状況も生じた。幕府との融和を求めていた孝明天皇が急死し、少年の明治天皇に替わったことである。雄藩連合派は兵庫開港を問題化して四候会議で主導権を得ようとしたが、慶喜に跳ね返され、1867年5月、挫折した。この結果、薩摩は挙兵倒幕の方針に至り、長州のほか、土佐の中岡慎太郎などが一つになった。これを圧力として利用しつつ、大政奉還したうえで徳川家も重要な役割を持つ新体制の構想を出したのが、坂本龍馬らの公議政体派である。西郷らはこの構想に支持を与えたが、「其の策を持出し候ても幕府に採用されなくは必然に付、右を塩に幕と手切の策にこれ有り。」云々(『防長回天史』)という目論見であった。7月、西郷は英公使パークスの懐刀サトウと会った。このときサトウはフランスが幕府を助けているのに対抗して、英は倒幕派を援助しようともちかけこれに対し西郷は、「日本の国体を立て貫いて参る上に、日本政体変革の処は、いずれとも我々尽力致すべき筋にて、外国の人に相談致し候面皮はこれ無く」云々ときっぱりと拒絶した。明治維新が外国の干渉・植民地化を許さなかった直接の原因として評価されてきた姿勢であるが、近年では英国は中立であったという見解が強くなっている(文献⑥)

10月に土佐藩がこの建白書を出すと、幕府はこれに応じて、朝廷に大政奉還を申し出、許可された。

 ただしその狙いは土佐藩と幕府とでは異なる。6月の「薩土盟約」では、「将軍職に居て政柄を執る、是れ天地間有るべからざるの理なり。宣く侯列に帰し、翼載を主とすべし」という立場からの「諸侯会議」を構想している。これに対し徳川慶喜に近い西周の議題草案では、「公方様即ち徳川家時の御当代を尊奉し奉りて是が元首となし、行法の権は悉く此の権に属し候事。」など、大政奉還後も、徳川家が最も強い統治権を保持することになる。(以後この立場を「公議政体論」および「公議政体派」と呼ぶ。)

【7 宮廷クーデター】 いずれにせよ「大政奉還」が実行されてしまったわけで、倒幕派はさしあたり挙兵の「塩」を失ってしまった。当時は朝廷そのものも、公議政体派のほうが有力であったのである。そこで残る手だてとしては、宮廷クーデターに訴えることになる。67129日、前日からの会議で罪を赦されたばかりの岩倉具視らが宮中に入り、薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の藩兵が出動して宮門をおさえた。大久保・西郷・岩倉らの計画による。宮廷守備にあたっていた会津・桑名の兵は、抵抗せずに二条城にひいた。宮中では召命を受けた親王・公卿にさきの五藩の代表等が集まった夕方、「王政復古の大号令」により、幕府を廃止し、総裁・議定・参与の三職をおき、その任命が行われた。

 これに基づき、同日夜から最初の三職会議が小御所で開かれた。公議政体派の前土佐藩主山内容堂が慶喜の参加を求め、これに対し岩倉らは幕政を非難し、まず慶喜が「忠誠の実証」として辞官・納地を行うことを求めた。これに容堂や松平春嶽(前越前藩主)らが反対し、公卿陣は動揺した。休憩となったとき、参与の岩下佐次右衛門(薩摩藩士)は西郷に相談したが、彼は「短刀一本あれば片付くことではないか。このことを、岩倉公にも一蔵〔大久保〕にも、よくつたえてくれ。」と言ったという。岩倉はこれを聞いて短刀を懐に入れた。しかしその決意を知った参与後藤象二郎(土佐藩士)が容堂と春嶽を説得し、彼等も抵抗を諦めたので朝議は慶喜への辞官・納地命令を決定した。宮廷クーデターは成功した。

 このクーデターにおける西郷の役割をどう評価すべきであろうか。第一に彼はけっしてイメージ通りの「大衆政治家」ではない。そうであったなら、もし「王政復古」あるいは幕府の廃止が正義だとしたら、そのために頼るべきは民衆であるはずで、宮廷クーデターではないからである。第二に、彼の「短刀一本」の一言によってこのクーデターが成功したというのは結果論に過ぎない。もし天皇の前で岩倉が容堂を刺すような事態になったとしたら、会議は、ひいては政局は大混乱になったかもしれないのである。もし西郷が主観的には民衆のために倒幕・王政復古が必要だと思っていたとしても、彼のやり方は、人民大衆を重んじず、一部陰謀家のクーデターやテロリズムを過大評価する点で、「極『左』冒険主義的」なのではなかろうか。「これまで、西郷にふさわしい、殺気を含んだこの一言こそが、新政府を生み出したと評されてきた」。しかし、と井上氏は言う、公議政体派(容堂)の「十分に根拠のある発言に対して、天皇の権威と藩の武力を背景にして押しつぶす、恫喝以外のなにものでもなかった」(文献⑥156頁)。

【8 西郷の撹乱と挑発】 小御所会議で一旦屈した公議政体派もただちに巻き返しに出、1230日の朝廷は、徳川家の納地は謝罪のためでなく、政府経費のためとし、また続いて他の諸侯にも同様の負担とし、辞官については「前内大臣」の称を許した。9日の決定の完全な骨抜きである。その間慶喜は大阪城に下がって兵の再結集を図った。ここで西郷が改めて「短刀」に訴えることとなる。

 先立つ10月、慶喜の大政奉還によって武力倒幕の「塩」を失った西郷は、江戸の薩摩藩士益満休之助・伊牟田商平、郷士相楽総三らに秘策を授けていた。彼等は倒幕をめざす志士(国学関係者が多い)や多数の無頼の徒、合わせて約五百名を配下に置いた。後者は相楽が毎晩市中で強そうな浪人やごろつきにわざと喧嘩を売り、羽織や金を与えては「食えなかったら薩摩屋敷へ来い」と言って糾合したものである。彼等は市中を横行して富豪等の家に押し入り、たかり・暴行・略奪をはたらいた。幕府兵力を江戸に釘づけにし、幕府の力の衰えを人々に印象づけ、かつ幕府を挑発して軍事行動へと導くという一石三鳥の策であった。しかしこうした撹乱・挑発策は「大衆政治家」の策ではなく、乱暴きわまりない暴力団的策である。「過激派テロリスト」にして「暴力団の親分」としての西郷! 1225日、ついに幕府側は庄内藩兵らを中心に薩摩藩邸を攻撃、焼き払い、この知らせは28日に大阪城にも着いた。慶喜らは68年正月1日「討薩の表」をつくり、2日、京都に向けて軍事行動を開始した。西郷の挑発はきわどいところで成功したのである。

【9 戊辰戦争】 正月3日、朝廷は、幕軍が撤退しなければ朝敵として討伐することを決定、同日両軍は京都の鳥羽および伏見で交戦状態に入ったが、6日に幕軍の総崩れになり、慶喜は大阪城から船で江戸に逃げ帰った。7日、朝廷は慶喜の大政奉還は名のみの詐謀であり、その「大逆無道」を責めて慶喜追討令を出し、内乱の公然化、全国化に進んだ。

この内乱(戊辰戦争)の重要場面であり、西郷礼賛の一根拠になっているのが、勝との対面による江戸城開け渡しである。江戸に戻った慶喜は、まもなく「官軍」との抗戦姿勢から「謝罪恭順」に方針を変えた。それでも西郷らは、「是非切腹までには参り申さず候ては相すまず」(大久保あて書簡)という心づもりであった。それが慶喜はじめ抵抗しなかった幕府側は赦され、江戸市民が内乱に巻き込まれなかったのは、勝と西郷との「すぐれた人間的資質」によるものであったのか。井上清によれば、これは官軍強硬派が民衆の力を恐れたからである。すなわち一揆・うちこわしは、それを倒幕のために利用しようとした官軍の思惑を越える秩序変革へと動いており、官軍はむしろその弾圧にまわっている。しかるにその段階で謝っている慶喜を追い討ちにして戦争に持ち込むことは火に油を注ぐことであり、江戸民衆も、(勝の西郷あて書簡の脅迫的文句を借りれば)「今日の大変に乗じてなにをするかわからない」と思ったからだ、というのである。また石井孝は、西郷の方針変更の原因を英公使パークスの圧力に求める。すなわち勝・西郷会談の前日、パークスは(イギリスの利益のために)、江戸の戦乱を望まぬ意向を西郷に告げた。しかもこれには事前に勝がパークスに根回ししていたという(文献④209-212頁)。これに対し井上氏は、勝・西郷会談で決められたものと「基本的には同じ」条件は既に(3月9日)駿府で決められていたという論拠で、これを批判している(文献②102頁)。石井氏はパークスの力を過大評価しているとは言えそうであるが、パークスの言葉が講和の条件を徳川家にとって有利なものにした(④214215頁)ということは言えよう。江戸開城はこうした複雑な政治状況とかけひきの産物であって、けっして単に「両雄」の「至誠」と「度量」が生み出した「美談」ではなかった。

10 帰郷】 今まで私達は大陰謀家・策士としての西郷をみた。しかしこれがあたって政変の最大の功績者になったとき、彼は新政府の職につかず、あっさりと帰郷してしまう。これは彼が権力欲の強い政治家ではなく、むしろ通説のような彼の「無欲」さを、かなりの程度まで証明する。しかしこれと今までみた西郷の異常な頑張りとはどう調和させられるのか。ここから断案するならば、西郷は「狂信者」型の人間、己れの信念のためには己れおよび他人の犠牲も顧みず屈せずに働くが、利のためではないということである。①「狂信者」であり、②熱情と酷薄さを合わせ持つ、いささか冒険主義的、「小児病」的な「革命家」であり、③「身内」意識の相手には義理と人情に厚いが、そうでない者には冷淡か残酷な「やくざの親分」、である西郷! 内村鑑三が感心するのは①の西郷であり、井上清が共感を寄せるのは②の西郷であり、現代の保守的政治家が崇めるのは③の「大西郷」である。

11 征韓論】 まず注目すべきは、征韓論は西郷だけのものではないことである。木戸孝允はほとんど明治維新と同時に唱えていたし、西郷の征韓論に反対した大久保らも「内治優先」を唱えたのであって征韓そのものに反対ではない。また73年の征韓派仲間でも、板垣退助のそれは西郷のものとまったく同じではない。ここでは73年の西郷の征韓論だけを考えることにする。

 紙数の制約で大要だけを述べる。①朝鮮の日本への「無礼」というのは、征韓論の原因ではなくて口実であり、少なくとも戦争の理由としてはまったくのいいがかりである。②征韓論(73年の、また西郷のに限らず)の真の原因は、維新以前から少なくとも日清戦争(94年)に至る、倒幕勢力の思想構造自体の中にみいだされなければならない。③73年における西郷と大久保の対立は、征韓それ自体の問題ではなく、今征韓するか内治を優先するかというものであった。内治優先論の論拠の一つが、岩倉遣欧使節による、わが国の大きな遅れの自覚にあることは明らかである。では西郷はなぜ今征韓しなければならないと思ったのか。このままでは士族が没落するか、あるには既に始まり出したように彼等の反乱を招くであろうからである。西郷はそのどちらも望まなかった。(前者を望まなかった理由は、筆者もまだ納得できるところまで分析しきれていない。勉強不足のせいもあるが、結局西郷の政治理想が何であったのかがいまひとつつかめないのである。義理人情の「親分」的政治家には、自分の政治理想を意識化することは難しいのかもしれないが。)そこで西郷は士族を生かすために(殺すためにではなく)征韓を行い、返す刀で(この戦略がまたすこぶる不明瞭だが)士族により厚い政権へと第二の政変を狙う意図であったと考えられる。すると征韓論争は外交論争ではなく、実は新政権そのものの路線を争う政治闘争であったということになる(井上氏の表現だと大久保の「官僚独裁」路線と西郷の「士族独裁」路線)。

12 西南戦争】 73年、征韓論に敗れて下野した西郷は、77年、西南戦争でついに倒れた。維新の英雄は、十年後にして「逆賊」として討たれた。この戦争に西郷は積極的ではなかった。「不平士族」にひっぱり出される形で、西郷は起たされた。大久保政権を倒す気が下野後の西郷にあったとするならば、その実際行動は、「戦略家」西郷としてはあまりに無策である。したがって彼の立場は他の「不平士族」ほど頑迷ではない。しかしまた大久保らと組んでいけるほど「近代的」でもない。西郷は「政治の道徳的理想」については強烈なものを持っていたと思われるが、明確な「政治理想」は一貫して持たなかったのではなかろうか。

13 西郷の評価】 西南戦争では、気の毒な面はあるとはいえ、彼を評価するものはほとんどいないが、妥当であろう。征韓論と西郷との関係については、一部異論もあるが、否定的な評価のほうがかなり多く、私もそう考える。政治家としての西郷を評価するのに最も挙げられるのは、明治維新の大たてものとしてである。しかしこの面でも私は彼をあまり評価しないが、それは明治維新をそう肯定的には評価しないからである。なぜなら第一に明治維新は市民革命ではないからである。それは近代化ないし絶対主義化とも同一視できない。それらは徳川家主導でもできた。明治維新とは、この改革を誰が主導するかという権力争いであった。そして私は、それは薩長・朝廷中心でなく、公議政体派の、つまり坂本龍馬や横井小楠の線で行われたほうがよかったと考える。薩摩がその路線に乗ることも不可能ではなかったと考える。西郷らがその路線を選ばなかったのは誤りであったと考えるが、しかしその要因としては慶喜の「不徳の致すところ」のほうが大きいように思われる。彼がめざしていたところは倒幕派に劣っていたとは思われないが、徳がなく策と力に頼りすぎた。越前・土佐はもちろん、うまくやれば木戸や大久保も取り込めたのではなかろうか。しかし幕臣勝(彼は家茂とはうまくやっていた)にさえ、愛想をつかされるところがあり、長州だけでなく西郷らも敵に回して自滅したのではなかろうか。西郷は「近代政治家」としては私は評価しないが、この点で、巧みな軍略家としてだけでなく、私心を離れた徳望を持っていたことによって、大きな仕事と影響力とを残したように思われる

 

        【参考文献】

  小西四郎『日本の歴史、19、開国と攘夷』中公文庫、1974

  井上清『日本の歴史、20、明治維新』中公文庫、1974

   同 『西郷隆盛』(上)(下)中公新書、197O

  石井孝『明治維新の舞台裏』岩波新書、196O

  猪飼隆明『西郷隆盛――西南戦争への道――』岩波新書、1992

  井上勝生『幕末・維新』岩波新書、2006

  内村鑑三『代表的日本人』岩波文庫、1941


添付画像


仲島先生の本を紹介します。
-----------------------------------------------------


2018/02/14 00:14 2018/02/14 00:14
この記事にはトラックバックの転送ができません。
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST