第二部 第2章 一個人との関係における徳義について

 

 この章で問題となるのは、真の徳義、すなわち公衆との関係における徳義ではない。単に各個人に関係して考察された徳義である。

 この観点の下では、各個人は、他人において、自分に有用な習慣や行為だけを「徳義」と呼ぶ、と私は言おう。私が習慣と言うのは、有徳な、あるいは精神的なものという称号を私達から受けるのは、ただ一つの誠実な行為ではなく、ただ一つの巧みな観念でもないからである。周知のように、一度もおおようでなかったような吝嗇漢はなく、一度もけちでなかったような気前のよい者もなく、一つもよい行為をしなかった山師もなく、一言も気の利いたことを言わなかったような愚か者はなく、要するに、人間は、その人生の若干の行為を寄せ集めれば、あらゆる徳と、その反対のあらゆる悪徳とを与えられているようにみえない者はない。人々の行いの中にもっと多くの一貫性があるためには、一連の注意が前提されるでろうが、それは彼等には不可能である。彼等は互いに五十歩百歩である。絶対的に首尾一貫した人間はいまだ存在しない。それゆえ地上には、悪徳においても徳においても、完全なものは何もない。

 それゆえ一個人が徳義という名を与えるのは、自分に有用な行為の習慣にである。私が行為というのは、人は意図の裁き手ではないからである。どうしてそうあることができよう。一つの行為が一つの感情の結果であることはほとんどない。私達はしばしば、自分を決定する動機でさえ知らない。ある富裕な人が、ある評価すべき貧しい人を富ます〔と想定しよう〕。彼は疑いなく善行をしている。しかしこの行為は、もっぱら一人の幸せな人をつくりたいという願いの結果であろうか。憐れみ、感謝への希望、虚栄心、これらすべての動機は、個別的または総合的に、彼の知らないうちに、この称賛すべき行為へと彼の心を決定し得なかったか。ところで、実にしばしば自分の善行の動機さえ知らないのなら、どうして公衆がそれを認めるであろうか。それゆえ公衆が人々の徳義について判断し得るのは、人々の〔動機や意図でなく〕行為によってだけである。

 こうした判断の仕方でもなお間違い得ることを、私は認める。たとえばある男が、徳に対して20度の情念を持っているが、彼は恋している。ある女に対して30度の恋を抱いており、この女は彼を暗殺者にしたがっている。こう仮定すると、徳に対して10度の情念しか持たず、この悪女に対しては5度の恋しか抱いていない男よりも、彼のほうが罪を犯しやすいことは確実である。そこから私は二人のうち、行為において誠実であるほうが、時に徳への情念が少ない、と結論する。

 だから哲学者はみな、人々の徳は、彼等がおかれている環境に無限に依存することを認める。有徳な人々が奇妙な出来事の不運な連鎖に屈するのは、いやというほどみられた。あり得るあらゆる環境において自分の徳をうけがう者は、詐欺師か愚か者であって、等しく警戒すべきである。 各個人との関係によって考察された、「徳義」というこの語に私が付与する観念を決定した後で、この定義の正しさを確認するために、観察に頼らなければならない。それは私達に、幸運な天性や、栄光と尊敬への渇望のため、人々がふつう権勢や富に対して抱くのと同じ愛を、正義と徳とに対してふきこまれるような人々がいることを教える。これらの有徳な人々に個人的に有用な行為は、正当な、一般的利害にかなう、あるいは少なくともそれに反しない行為である。

 こうした人々は実に少数であるから、私がここに言及するのは人類の名誉のためでしかない。最も数が多く、それだけでほとんど全人類を構成する階級は、もっぱら自分の利害に注意していて、一般的利害にはけっして目を向けなかった人々の階級である。いわば自分の安楽(a)に集中していて、こうした人々は自分に個人的に有用な行為にしか、誠実さという語を与えない。ある裁判官がある罪人を赦免し、ある大臣がふさわしからぬ臣下を高位に就ける。彼等に庇護される者の言うところでは、どちらも常に正しい。しかし裁判官が罰するとしよう。大臣が拒むとしよう。〔すると〕彼等は犯罪者や失寵者には、常に不正であろう。

 修道僧たちが、私達の王侯の生涯を書くことを第一の家門に課され、彼等の恩人の生涯だけを書き、他の王たちの治世を「何モ為サレズ」という言葉でしか記さず、とても評価すべき君主たちに「無為なる王」という名を与えたのは、修道僧が人間だからであり、人間はみな自らの判断において、自分の利害関心にしか耳を貸さないからである。

 自分たちに対して異教徒が行使する残酷さに、正当にも野蛮とか犯罪とかの名を与えたキリスト教徒達は、彼等のほうがまさにこの異教徒たちに行使した残酷さに、熱意という名を与えなかったか。人々を検討するならば、それが有用である社会にとって誠実な行為の列に入れられないような犯罪はなく、それが有害であるようなある特殊な社会から非難されないような公衆に有用な行為はない、とわかるであろう。

 実際どんな人が認めないであろうか。他人よりも有徳だと自分に告げる自尊心を、〔他人〕より真実であるという自尊心のために犠牲にし、細心の注意で自分の魂の襞の奥底まで探る(*1)ならば、自分が悪徳か有徳かは、もっぱら個人的利害がどういう仕方で変容するかにしかよらないことを(b)。すべての人が〔個人的利害という〕同じ力で動かされていることを。みなが等しく自分の幸福をめざしていることを。私達の徳と悪徳とが決定されるのは、多様な情念と好みとが、公共の福利にかなうか反するかであることを。悪徳な人々を軽蔑するのでなく彼等に同情しなければならず、幸運な天性を持ったことで自らを祝い、自分の幸福を他人の不幸の中に強いて求めさせたかもしれないようなあの〔悪い〕好みや情念を与えなかったことで、天に感謝しなければならない。なぜなら結局人は常に自分の利害に従うからである。そしてそこから私達の判断の不正が生じるのであり、同じ行為に対して、各人がそこから受ける利益あるいは不利益に関係して、正しいとか不正とかの名が生じるのである。

 自然的世界が運動の法則に従うならば、精神的世界はこれに劣らず利害の法則に従う。利害は、この世のあらゆる被造物の目に、あらゆる対象の形態を変える強力な魔術である。私達の平原で草を食むあの平和な羊は、厚い草の葉の中で生きている、あの気づかれない虫たちにとって、恐怖の対象ではなかろうか。彼等は言う、「逃げよう、一口で我々も我々の町も飲み込んでしまう、あの大食で残酷な動物、あの怪物から。どうして奴は獅子や虎を手本にしないのか。これらの善行する動物たちは、我々の住まいを破壊しないし、我々の血を貪らない。犯罪の正しい復讐者として、彼等は羊が我々に行使する残酷さのために、羊を罰するのだ。」このように、異なる利害が対象の姿を変える。獅子は私達の目には残酷な動物である。虫にとっては羊がそうである。だからライプニッツが自然的世界について言ったことは、精神的世界に適用できる。常に運動しているこの世界は、各瞬間に、その住民の各々に、新たな、そして異なる一つの現象〔phénomè ne〕を示すであろう、と。

 この原則はとても経験にかなうので、より長い検討なしで、私が結論する権利を持つと思うことは、個人的利害が、人々の行為の価値の唯一にして普遍的な評価者だ、ということである。またこうして、徳義とは、ある個人に関しては、私の定義に従えば、この個人に個人的に有用な行為の習慣にほかならない、ということである。

 

【原注】

(a)私達の愛憎は、自分が蒙る善悪の結果である。ホッブズは言う。「未開人の状態では、体力ある人しか悪人はなく、政治的状態では、勢力ある人しか悪人ではない。」強者は、この二つの意味で解されると、しかし弱者以上に悪いわけではない。ホッブズはそのことを感じていた。しかし彼は、邪悪さが恐るべきものとなる人々だけに悪人という名が与えられることも、知っていたのである。こどもが怒って拳固をふるっても笑いの種となり、しばしば彼をよりかわいらしくするだけである。しかし強いおとなに対しては苛立ち、彼が殴れば傷を受け、彼は乱暴者として扱われる。

(b)人間的な人とは、他人の不幸をみて耐え難く思う人のことである。そしてこの光景から離れるためには、いわば、不幸な人を救わないではいられない人である。非人間的な人とは、反対に、他人の悲惨の光景が快い光景である人である。〔後者が〕不幸な人々にどんな救助も拒むのは、自分の快楽を延長するためなのである。ところでこんなに異なるこの二人は、それでも二人とも自分の快楽を追求しており、同じばねに動かされている。しかしすべてを自分のために行うのなら、自分の恩人にまったく感謝しなくてよいのか、と言われよう。私は答えよう、少なくとも恩人はそれを要求する権利を持たない、さもなければ彼が行ったことは、契約であって恩恵ではあるまい。タキトゥスは言う、「ゲルマン人達は、贈り物をし合って、どんな感謝のしるしも求めず与えない。」公衆が正当にも、恩を受けた者に感謝の義務を課すのは、不幸な人々に有利であり、恩人の数を増すためである。

 

【訳注】

*1)テキストの fonde sonde の誤植と解した。
2015/05/07 21:17 2015/05/07 21:17
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