精神論

                                                                                                                               エルヴェシウス著・仲島陽一訳


第二部 第四章 私達が他人の中に自分しか評価しない必然性について

 

 等しく強力な二つの原因が、私達がそうするように決定している。一つは虚栄心であり、もう一つは怠惰である。私が虚栄心と言うのは、評価されたいという欲望がすべての人に共通だからであって、称賛される喜びに称賛を軽蔑するという長所を加えようとしない者もそのなかにはいるからではない。もっともこの軽蔑は真実ではなく、称賛される者の目には称賛者はけっして愚かではない。ところで、もしすべての人が評価を渇望するならば、その各々が経験から学ぶのは、自分の観念が評価すべく、または軽蔑すべく他人にみえるのは、それが彼等の意見に従うか反するかの程度と同じにおいてにほかならないことである。したがって自分の虚栄心に動かされて、各人は他人の中に、彼等からの評価を自分に保証する観念適合を評価することを免れ得ない。また彼等の中に、彼等からの憎しみの、または少なくとも緩和された憎しみとみなされるべき軽蔑の確実な保証である、観念対立を憎むことを免れ得ない。しかし、ある人が真理への愛のために自分の虚栄心を犠牲にしたという想定においてさえ、もしこの人が学ぼうという最も強い欲望によって動かされていないならば、彼の怠惰のために、自分の意見に反する<に疎遠な>意見に対しては、言葉の上の評価しか持てないと、私は言おう。「言葉の上の評価」ということで意味するものを説明するために、私は二種類の評価を区別しよう。

 第一は、世論に対して抱かれる尊敬(a)または若干の人々の判断に対する信頼への結果とみなされることができ、私はこれを「言葉の上の評価」と呼ぼう。ごく凡庸な小説に対して、ただそれが著名な作家のものと思うがゆえに若干の人々が評価するような場合である。デカルトやニュートンのような人々に対する称賛もまたそうである。それは大部分の人においては、あまり啓蒙された称賛でないだけにいっそう熱狂的である。それには、こうした偉大な天才の功績についての曖昧な観念を形づくった後で、彼等の称賛者たちが、この観念において自分の想像力の産物を尊敬する場合もある。また自分をニュートンのような人の功績の審判者にしつらえておいて、彼に惜しみなく与える賛辞に自分を結び付けられると思う場合もある。この二種類の評価は、私達が無知のためにしばしば用いざるを得ないものであり、そのこと自体によって、いちばん普通である。自分で判断することほど稀であるものは何もない。

 他の種類の評価は、他人の意見から独立し、若干の観念が私達の観念に生み出す印象からだけ生じるもので、この理由から私はそれを「実感的評価」と呼ぶが、唯一真の評価であって、それゆえここで問題になるものである。ところで、怠惰のために、私達がこの種類の評価を認められるのは自分の観念と類比的な観念にだけであることを証明するためには、幾何学がはっきりと証明するように、未知の観念の認識に達するのは、既知の観念が未知の観念に対して持つ類比と密かな関係とによってであることを認めることで十分である。私達の観念とまったく類比を持たないような観念は、私達にとっては理解不能な観念であろうことが、ここから帰結する。そして一つの学問の終局点に高まることができるのは、こうした類比の進行についていくことによってであることを、認めることで十分である。しかし相互になんらの関係も必然的に持たないような諸観念はなく、そうした関係なしでは、諸観念は普遍的に未知になってしまうであろう、と言われよう。そうであるが、この関係は直接であることも離れたものであることもある。直接の場合は、各人が持つ学びたいという弱々しい欲望でも、似た諸観念の理解が前提する注意力を彼に与える。しかし離れている場合には、ほとんどいつもそうであるように、多数の観念と異なる諸見解の結果であるこうした真理が問題になるときには、学びたいという激しい欲望に動かされているのでなければ、またこの欲望を満たすのに適した状況の中にいるのでなければ、把握することを、したがってまた私達の意見にあまりに反する意見に対して「実感的評価」を持つことも、怠惰のためにできないであろう。

 <栄光に上るために四方八方にばたつく若者は、あらゆる分野の有名人の名前の響きに、熱狂的にとらえられる。彼がひとたび自分の研究と野心との対象を固定したならば、もはや自分の手本に対してしか実感的評価を持たないし、自分のとは違う経歴に従う範例には、言葉の上の評価しか与えないであろう。精神は同音にしか響かない弦である。>

 学ぶ閑暇を持つ人はほとんどいない。たとえば貧乏人は、反省することも検討することもできない。彼等は真理でも間違いでも、偏見によってしか受け入れない。日々の労働に追われて、観念のある種の領域に高まることができない。だから彼等は、サン=レアル1)、ラ=ロシュフコー、レス枢機卿2)の著作よりも、青本3)のほうを好む。

 だから見世物が無料で演じられる公的な祭典の日には、役者たちは、いつもと違い観客の娯楽のために、『ヘラクリウス』や『人間嫌い』よりも、『ドン=ジェファ』や『プールソニャック』を出す4)であろう。民衆について言ったことは、あらゆる種種の階級の人々に適用できる。社交界の人々は無数の出来事や無数の快楽で気晴らししている。哲学的著作が彼等の精神にほとんど類比を持たないのは、「人間嫌い」が民衆の精神に対してそうなのと同様である。だから彼等は一般にロックの著作よりも小説を読むほうを好むであろう。まさにこの類比の原理によってこそ、学者や才人でさえもが、それほど評価されない著者たちを、もっと評価される著者たちより優越させたことが説明される。なぜマレルブ5)は他のあらゆる詩人よりもスタティウス6)を好んだのか。なぜハインシウス7)とコルネイユは、ウェルギリウス以上にルカヌス8)を尊重したのか。どんな理由で〔ローマ皇帝〕ハドリアヌスはキケロの雄弁よりもカトーの雄弁を好んだのか。どうしてスカリジェル9)はホメロスとホラチウスとを、ウェルギリウスとユウェナリス10)とにひどく劣るとみなしたのか。それはある著者に対して抱かれる評価の大小は、彼の観念がその読者の観念に対して持つ類比の大小に依存するからである。

 どんな先入見も抱かれていないある草稿において、10人の才人に別々に、自分が最も注意をひかれた箇所を記すよう、課するがよい。その各々が別の所を強調するであろうと、私は言いたい。また続いてその賛同された所を各々の賛同者の精神と性格とに対照させるならば、その各々が自分の見方や感じ方に類比した観念しか称賛しなかったことが感じ取られようと、私は言いたい。そしてまた精神とは、<繰り返すなら>敢えて言えば、同音にしか共鳴しない弦であると、私は言いたいのである。

 もし学識のあるド=ロングリュ師11)が、自分で言ったように、トロイの木馬が戦争の道具であったことを除けば、聖アウグスチィヌスの著作について何も覚えていない12)ならば、またもし、クレオパトラについての小説の中で、ある有名な弁護士が、エリーズとアルタバンの結婚の無効性以外には興味あることを何もみいださなかった13)とすれば、この点で学者または才人と通常の人との間にある唯一の違いは、前者はより多数の観念を持っているので、彼等の類比の領域のほうがはるかに広いということだけなのを、うちあけなければならない。自分の精神ととても異なる分野の精神が問題ならどうか。他の人々と万事似て、才人は自分の観念と類比的な観念しか評価しない。ニュートン、キノー14)、マキャベリのような人を集めたまえ。彼等の名前を言わず、彼等が互いに、私が「言葉の上の評価」と呼ぶところのものを抱けないようにしたまえ。そうすれば彼等は互いに、しかし無益にも自分たちの観念を伝えようと試みた後で、ニュートンがキノーを耐え難いへぼ詩人とみなし、彼等はニュートンを予言者気取りの者ととって、そのどちらもマキャベリを非実際的な政客とみなし、最後に三人とも、互いを凡庸な精神として扱い、互いの軽蔑によって、互いに退屈させられることに報いるであろうことが15)、みてとれよう。

 ところで、もし自らの研究分野にまったく専心したすぐれた人々が、自分のとはあまりに違う精神分野には実感的評価を持ち得ないとしたら、新しい観念を公衆に提供する著者はみな、二種類の人々または若者からしか評価を望み得ないが、それは意見をまだ採用していないので、学ぼうという欲望と閑暇とを持っている者と、その精神が、真理の友で著者の精神と似ており、自分に提出されている〔既製〕観念の実在を既に疑っている人々とである。こうした人々は常にごく少数である。それだから人間精神の進歩は遅れ、それゆえそれぞれの真理が万人の目に明らかになるのはいつもとても遅い。

 今言ったことから帰結するのは、大部分の人々は、怠惰に屈して、自分に類比する観念しか把握しないこと、彼等はこの種類の観念に対してしか「実感的評価」を持たないことである。そしてここから、各人がいわば自分自身について持たざるを得ない高い評価が生まれる。もし上に確立された原理のより深められた知識を持っていたならば、モラリストたちはそれを自尊心に帰さなかったであろう。そのときには彼等は、孤独の中で、時に自分自身が浸っているのを感じる聖なる尊敬と深い賛嘆とは、私達が自分を他人よりも好意的に評価せざるを得ないことの結果でしかあり得ないことを感じたであろう。

 どうして人は自分について最高の観念を持たないであろうか。自分の意見が間違っていると思ってそれを変えないような人はいない。それゆえ各人は自分の考えが正しいと思うのであり、したがってまたその観念が自分に反する人々よりずっと正しく考えていると思うのである。ところでその観念が正確に同様である二人の人間はいないのであれば、各人がそれぞれ他の誰よりもよく考えていると思うことは必然的である(d)。ド=ラ=フェルテ公爵夫人16)はある日ド=スタール夫人17)にこう言った。「ねえあなた、うちあけねばなりませんが、いつでも正しいのは私だけだと思いますわ。」(e)大乗小乗の仏教僧、婆羅門、拝火教徒、ギリシャ正教徒、カリフ、回教修道士、<異端者>の言うところを聞こう。民衆の集まりにおいて、彼等が互いに反対して説教をするとき、彼等の各々はド=ラ=フェルテ公爵夫人のように言わないであろうか。「民衆よ、汝らに保証する、私だけがいつも正しいのだ。」それゆえ、各人は自分がまさった精神の持ち主だと思っており、愚か者もその信念がより少ないわけではない(f)。ここから人を納得させたのは四人の商人の寓話で、彼等は美、生まれ、地位、そして才気を売りに市場に来て、自分の商品の買い手をみなみつけたが、最後の者だけは少しも売れずに引き返したというのである。

 しかし自分以上に他人に才気を認める人も若干いる、と言われよう。しかり、そう告白する人々もみられると私は答えよう。そしてこうした告白は美しい魂に属する。しかしながら彼等は、自分たちよりまさっていると認める人々に対して、「言葉の上の評価」しか持っていない。彼等は自分たちの意見に対する優越を世論に与え、これらの人々がより評価されていることを認めるだけである。これらの人々がより評価されるべきであることを内面的に確信しているわけではない17)(g)。

 ある社交界の人は、自分が幾何学においては、フォンテーヌ18)、ダランベール、クレロ18)、オイラーといった学者にはなはだ劣ること、文芸においてはモリエール、ラシーヌ、ヴォルテールといった作家に劣ることを、苦もなく認めるであろう。しかしこの人は、ある分野においてはより多くの上級者を認めるだけに、それだけいっそうその分野を尊重しないであろうと、同時に私は言おう。そしてまた言いたいのは、彼は私がいま挙げた人々が彼に対して持つ優越を、学芸をつまらぬ技と思おうとしてであれ、こうした知識の多様性、良識、世間の慣習によってであれ、あるいはこれに似た何か他の利点によってであれ、おおいに償われていると思うので、すべてを量ったあげく、自分は誰とでも同じくらい評価されるべきだと思うであろう(h)。

 しかし、たとえば役場のつまらぬ仕事をしている人間が、コルネイユと同じだけの才気を自分がもっていると思えるなどとどうして想像するのか、と更に言われよう。私は答えるが、確かに彼はこの点では誰にも自信をあかさないであろう。しかしながら細心の吟味によって、私達が日々にどれだけの自尊心の感情に気づくことなく刺激されているのかを、また、自分の才気に対して抱く根深い評価を自他に認めるためにはどれだけの賛辞によって勇気づけられなければならないかを発見したならば、自尊心の沈黙はその不在をまったく証明しないことが感じられる。上に挙げた例に従うため、劇場から出て偶然集まった三人の法律家を想定しよう。彼等がコルネイユについて語ることになる。たぶん三人とも同時に、コルネイユは世界で最大の詩人だと叫ぶであろう。しかしながら、評価の厄介な重荷を降ろすならば、彼等の一人は、このコルネイユは確かに偉人であるが、しかし軽薄な分野においてであると付け加えよう20)。もし若干の人々が文芸に対して抱く軽蔑によって判断するなら、確かに他の二人の法律家も、最初の者の意見に倣うかもしれない。続いて自信をいっそう増して、もし彼等が法廷弁論を文芸と比べるようになれば、訴訟手続きの技術は、他のあらゆる技術同様、それなりの術策、洗練、組み合わせがあるのだと、他の一人が言うであろう。そして第三の者が答えるには、確かにこれ以上難しい技術はないと。ところで、きわめて妥当な仮定として、このとても難しい技術で、これら法律家の各々が自分を最も有能と思ったなら、その誰もが言葉には出さなくても、この会話の結果としては、各々が自分をコルネイユと同じだけの才気の持ち主と思うことになろう。私達は、虚栄心によってまたとりわけ無知によって、他人よりも自分を好意的に評価せざるを得ないので、各々の技術における最大の偉人は、各々の技芸家が自分の次とみなすものである。<(1)>テミストクレスの時代、自尊心が今日のそれと違うのはより素朴であっただけであるが、サラミスの海戦の後、すべての指揮官が、ネプチューンの祭壇で行われる投票で、勝利に最も寄与した指揮官を告げることを義務づけられ、各人が自分に第一位を与え、第二位にテミストクレスを宣した。そこで民衆は、第一の報酬を、各船長が自分の次とみなした者に配分しなければならないと考えた。21)

 それゆえ確実なのは、各人が必然的に自分について最高の観念を抱いているということであり、したがってまた、他人において人が評価するのは自分の似姿と類似だけであるということである。

 一個人との関係において考察された精神について私が言ったことの一般的結論は、精神とは、この個人にとって、教えられるものとしてであれ楽しいものとしてであれ、関心をひく観念の集積にほかならない、ということである。ここから帰結するのは、個人的利害が、私が示すことを企てた通り、この分野において、人々の価値の唯一の判定者だということである。

 

【原注】

 (a)ド=ラ=フォンテーヌ氏は、プラトンの哲学に対して、この種類の評価しか持っていなかった。ド=フォントネル氏がこの件で報告するところでは、ある日ラ=フォンテーヌが彼に言った。「あのプラトンは偉大な哲学者だと認めてくれたまえ…。でも彼の観念はとてもはっきりしていると思いますか。」フォントネルは彼に答えた。「いやいや、見通せない闇ですね…。首尾一貫していないと思いませんか。」ラ=フォンテーヌが続けた。「ああ、本当に、あれは詭弁家にほかなりません。」続いていましたばかりの告白を忘れて続けた。「プラトンは登場人物たちを実にうまくおいていますね! アルキビアデスが頭に花飾りをしているなら、ソクラテスは祭壇におかれている。ああ! あのプラトンは偉大な哲学者ですよ。」

  (b)ハインシウスは言った。「ルカヌスが他の詩人たちに対する関係は、誇らしくいななく名馬が、卑しい声で隷従への好みを漏らしている驢馬の群れに対して持つ関係と同じである。」

 (c)ハインシウスが古代の傑作としてひくホラチウスの第4巻の第17頌歌を、スカリジェルは嫌悪すべきものとしてひいている。

 (d)各人は自分の意見と闘う人すべて、著作すべてを、間違った精神〔の持ち主〕と悪い本とに数え入れることを、経験が私達に教える。できればそうした人に沈黙を課し、そうした著作を禁圧することを望むのである。それは、ほとんど啓蒙されていない正統派が、異端に対する彼等自身にときおり与えて来た利点である。もしある訴訟で、一派が他派に自分の権利を支えるべき事実を印刷させることを禁じるならば、この一派のこうした暴力は、彼等の名分が不当であることの一つの証明とならないであろうか、と異端の側は言う。

 (e)ド=スタール夫人の『回想録』をみよ。

 (f)「才人と呼ばれる人々の尊大さはなんたるものか!」と凡庸な人々は言う。「彼等は他の人々に対して、どんな優位があると思っているのか。」と。しかし彼等は答えられよう。「最も速いことを誇る鹿は、疑いなく自尊心が強いであろう。しかし慎みを傷つけることなく、この鹿は自分が亀よりもうまく走ると言うこともできよう。あなたは亀である。本を読んだことも省察したこともない。おおいに苦労して知識を得た人と同じだけの才気を、どうしてあなたが持てるであろうか。あなたは彼を尊大として非難する。しかしてあなたは、研究も反省もしないのに、彼の敵手として進もうとするのだ。あなたの意見では、どちらが尊大なのか。」と。

  (g)文芸においては、フォントネルは彼に対するコルネイユの天分の優越を苦もなく認めたであろう。しかし彼はそれを実感しなかったであろう。それを納得するために、まさにこのフォントネルに、文芸に関して、完全性に関して彼が形成していた観念を提示するように頼まれたと、私は想定する。彼がこの分野で、彼自身がコルネイユとまったく同様によく守った規則以外の繊細な規則は提示しなかったであろうことは確実である。それゆえ誰であろうと他人に劣らぬ大詩人であると、彼はきっと内心で思ったに違いない。そしてコルネイユに劣ると認めても、したがって自分の見解を公衆の見解のために犠牲にしただけなのは確実である。私が「実感的」と呼ぶ種類の評価を最大に持つのは自分に対してであることを認める勇気を持つ者はほとんどいない<が、それを否むにせよ認めるにせよ、この感情は彼等の中にやはり劣らずに実在している>22)

 (h)人は万事に自らを褒める。良識の名の下に自らの愚かさを誇る者もいる。美貌を誇る者もいる。自らの富に自惚れ、この偶然の賜物を、自分の才気と思慮とのせいにする者もいる。自らの料理人とともに夕食を考える女性は、自分が学者と同じくらい尊敬すべきものだと思う23)。二折版の印刷者に至るまで、小説の印刷者を軽蔑しない者はいない。そして前者が後者より自分がすぐれていると思うのは、二折版が仮綴じ本よりずっとすぐれていると同様だと思うのである。

  <(1)どの技芸、どの才能でも、それが他に対する優越に値するのは、楽しませるためであれ教えるためであれ、それが現実により有益である程度においてである。社交界で行われる比較や、惜しみなく与えられる独占的な賛辞は、相手に与えたいと思う優越をけっして決定しないが、なぜなら語ったり論争したりする相手は、常に内心では、自分の傾向または虚栄心の利害を最も喜ばす技芸または才能にしか、この優越を与えまいとしっかり決めているからで、またこの利害はあらゆる人において同じではあり得ないからである。>

 

【訳注】

1)サン=レアル(Saint Réal,1643-92)はフランスの歴史家。雄弁だがあまり正確ではない。

2)レス枢機卿(Retz,1613-79)はフランスの政治家。早くからなった聖職に反発して放縦な生活に耽った。野心家としてフロンドの乱に暗躍し、枢機卿(52)となる。マザランにより投獄されたが二年後に脱獄、パリ大司教(54-62)となり、外国を転々とした後、マザランの死後許されて帰国し、大司教職とひきかえに多くの利権を得て隠棲した。そこで著した『回想録』はフロンドの乱などの舞台裏を描き、鋭い性格描写と生彩ある文章とで文芸史上定評がある。

3)「青本」とは、民衆向けの安価な実用書や小説などを指す。

4)『ヘラクリウス』はコルネイユの悲劇、『人間嫌い』はモリエールの(芸術性が高く同時代には高い評価を得なかった)名作喜劇、『ドン=ジェファ』はスカロン(Scarron,1610-60)の、『プールソニャック』はモリエールの通俗的な喜劇。

5)マレルブ(Malherbe,1555-1628)はフランスの詩人。アンリ4世とルイ13世の宮廷詩人。明快純粋な語彙語法を選び、詩法の幾何学的均整を貴び、古典主義への道を開いたとされる。

6)スタティウス(Statius,c.60-c.100)は古代ローマの詩人。洗練された筆致がルネッサンスの文人たちに愛された。

7)ハインシウス(Heinsius,1580-1655)はフランドル生まれの人文主義 者。多くの古代作家を編集した。オランダ生まれのその子(Nicolas, 1620-82)も人文主義者でオウィディウスやウェルギリウスなど古代作家の編集を行った。

8)ルカヌス(Lucanus,39-65)は古代ローマの叙事詩人。カエサルとポンペイウスの内紛を扱った『内乱』が有名。ネロ帝暗殺の陰謀に加わったが露見して殺された。

9)スカリジェル(Julius Caesar Scaliger,1484-1558)はイタリアの古典学者。フランスに来てエラスムスを批判した。『ラテン語論』(1540)『詩学』(1561)など。

10)ユウェナリス(Juvenalis,c.50-c.130)は古代ローマの風刺詩人。機知と修辞に富む。

11)ド=ロングリュ師(Abbé de Longuerue,1652-1733)はフランスの歴史家、批評家、博識で知られた。

12)「私はアエネアスとかいう者の漂流物語を暗記し」、「あのような無益なものを愛好し〔…〕て罪をおかした。〔…〕武装した兵士がいっぱい入った木馬と、トロイの炎上と、『ほかならぬクレウサの亡霊』とは、虚栄心をそそる最も楽しい見物であった。」アウグスチィヌス『告白』(第一巻第十三章)

13)ラ=カルプルネードのバロック小説『クレオパートル』(1646-58)の登場人物アルタバン(ブリマトール)はポンペイウスの遺児、エリーズはその恋人でパルティア王女という設定になっている。

14)キノー(Quinault,1635-88)はフランスの劇詩人。特に歌劇の台本作家として知られる。

15)マキャベリがイタリア演劇史上一時期を画した喜劇『マンドラゴラ』 の作者でもあることを、著者は知らないか忘れている。著者の原理が仮に支持され得るとしても、例が不適切であろう。

16)ド=ラ=フェルテ(De La Ferté)元帥(1600-81)の妻か?

17)ド=スタール夫人(Mme de Staal,1684-1750)はフォントネルの庇 護を受けたフランスの作家。摂政時代を記録した『回想録』(1755)など。

17)「これは真実ではない。私は長い間ある主題に関して考察し、全注意力を払った上で、私がそこにおくことができたいくつかの観点をひきだした。私はまさにこの主題をある他人に伝え、私達の対話の間、この人の頭脳から、まさにこの主題に関する新しくて偉大な大量の観念が出てくるのをみてとったが、それは私にはほとんどなかったものであった。こうした観点やこれらの観念が私のよりまさっているのを感じないほど、私は愚かではなかった。それゆえ私はこの人が私以上の才気を持っていることを内面的に認めざるを得ず、私が自分に対して抱いているのにまさる実感的評価を心中で彼に認めざるを得なかった。フェリッペ2世がアロンソ=ペレスの才気に下した判断がそうしたものであり、そのために後者は自分が失寵したものとみなしたのである。」Rousseau,notes sur <De l'esprit>, uvres complètes,t,4,Gallimard,1969,p.1125Antonio Perez はフェリッペ2世の秘書。死刑を宣されてフランスのアンリ4世のもとに亡命した。)

18)フォンテーヌ(Fontaine Des Bertins,1705-71)はフランスの数学者。

19)クレロ(Clairaut,1713-65)はフランスの数学者。微分方程式論、地球楕円体の偏平率を求める公式などに功績あり。

20)「評価の重荷! なんたることだ! 評価より甘美なものは何もな い、自分よりすぐれていると思う人々に対するものでさえ。」  Rousseau,op.cit.,p.1126

21)ヘロドトス『歴史』第八巻第123節参照。

22)「規則が問題なのではない。偉大なイメージと偉大な感情をみいだす天分が問題なのである。フォントネルはこうしたすべてについて自分がコルネイユよりもよい判定者であると信じ得たであろうが、しかし同じくらいよい創造者とは思えなかったであろう。彼はコルネイユの天分を感じ取るためにつくられたのであって、それに対抗するためにではない。もし作者が、人が自分自身の分野における他人の優越を感じ取れると信じていないなら、確かに彼はおおいに間違っている。私自身、彼と同じ意見ではないが、彼の優越を感じている。彼は私以上の才気を持つ人として間違っている、と私は感じる。彼は私より多くの、そして明快な観点を持っているが、しかし私の観点は彼よりも健全である。フェヌロンはあらゆる点で私にまさっており、これは確実である。」(Rousseau,op.cit.,p.1125

23)「彼女は実際おおいにいっそう評価されるべきである。」(ibid., p.1126


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