床屋道話42 人生はリセットできない

二言居士

 

 話のはじめはあるスペイン人である。インターネット上で、十数年前の保険料滞納(後に滞納額は支払った)に関する記事が現れることについて、検索サイト「グーグル」の検索結果からの削除を求めて訴え、欧州連合(EU)司法裁判所が20145月、グーグルに削除を求め得る場合があるとの判断を示し、そのなかで「忘れられる権利」にも言及した

日本では、2011年に女子高校生に対する猥褻行為で逮捕され罰金刑を受けた男性が、グーグルに検索結果の削除を求めて訴え、埼玉地裁はこれを命じる仮処分を出した。この命令を不服としたグーグルの異議に対する決定理由の中で、地裁は1512月、「忘れられる権利」に言及した。しかしこれに対し東京高裁は、保全抗告審で、地裁の命令を取り消す決定を出した。「忘れられる権利」については、「法で定められたものでなく、独立して判断する必要はない」として認めなかった。最高裁は、これがプライバシーに属するが、児童買春が社会的に強い非難の対象とされ罰則をもって禁止されていることに照らすと公共の利害に関する事実であるから、この情報を提供する行為が違法になるとは判断されないとして訴えを退けた。

また約十年前に資格のない者に一部の診療行為をさせたとして逮捕され罰金刑を受けた歯科医が、その記事が表示される検索結果の削除をグーグルに求め、東京地裁は15年削除を命ずる仮処分を出したが、横浜地裁は請求を棄却する判決を出した。

「忘れられる権利」は、現在の法律では定めがないが、認めていくべきなのであろうか。しかしそれは何を意味するだろうか。上の事例からわかるように、本人がこのことはもう情報提供しないでほしいというならば、提供者がそれをやめる義務を課すということである。

まず問題にしたいのは、それがよくプライバシーとからめて論じられることであるが、両者は切り離すべきなのではないだろうか。そもそも情報が意図的な誹謗中傷の場合は「プライバシー」とは別問題である。また事実であるが不特定多数に知らせるべきでないことなら、はじめの報道が問題であって、もう時間がたったから伝えてはいけない、ということとは理屈が別である。「プライバシー」は今日自分の情報を自分で監督する権利とされているので、間違った情報を正させる権利(正す義務)はあるが、これも「古い事実だから忘れてくれよ」というのとは別だ。

犯罪事実などの場合、(刑期を終えたり罰金を払ったりして)「償った」人が、いつまでも忘れてもらえないのはよくない、という意見もあるようだ。反省した者や更生した者への差別や偏見は確かに好ましくない(そしてそれが違法な差別であればそのことの撤回や賠償を求めることは正当である)。しかしもとの事実を人々に忘れさせるような措置を情報産業や報道機関に義務付けるというのは行き過ぎであろう。当人が反省、更生した新たな事実を積み重ねることによって、そんな過去があったことなど自然に忘れられてしまうか、またはその過ちを糧にしてむしろ立派な人になったと評価されることを、めざして努めるべきであろう。

法的には、長谷部恭男氏(早稲田大学教授)は「忘れられる権利」を「わざわざ日本法の概念、観念とする必要はない」と述べているが妥当であろう。

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一般に倫理的にはどうか。自分や他人の過去について、もう問題にしないという意味でなかった「ことにする」ことはできる。しかしその事柄そのものがなかった「ことになる」ことはない。一度起こったことは、天地が滅びるまで、一点一画もなくなることはなく、黒歴史を「チャラ」にすることはできない。赦すことは忘れることと同じではない。「忘れられる権利」が持ち出されるようになった背景には、反伝統主義の、「その場その場で勝てばよいことにしたい」という動きがあるのではなかろうか。

「忘れられる権利」が公認されることで喜ぶのは、「〇〇はなかった」「××はなかった」と言いつのっている歴史修正主義者、都合よく記憶にあったりなかったりする政治家、公文書を簡単に捨てたり改竄したりする役人、のたぐいであろう。「リセット」して「ゼロから」始めるのは単細胞時代のゲームだけでよい。

小生もだんだん記憶力が衰えてきつつあるが、忘却の力に抗いつつ、「水に流す」ほうがよいものと、失敗に学んで改善や改革に取り組むべきものとを、しっかり分別するよう努めたい。

2018/09/08 18:50 2018/09/08 18:50
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