精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著、仲島陽一訳
第三部 第10章 貪欲について
金銀は見て快い物質とみなされ得る。しかし、それを保有することで、こうした金属の輝きと美によって生まれる快しか望まないならば、欲張りは、国家に積まれた富を自由に眺めることで満足するであろう。ところで、このように眺めただけでは彼の情念は満足しないであろうから、どんな種類のものでも欲張りは、あらゆる快に交換できるものとしてか、赤貧につきもののあらゆる苦を免れさせるものとしてか、富を欲するに違いない。
この原理を立てることで私が言うのは、人間はその本性によって感官の快にしか感じないから、したがってこれらの快が彼の欲望の唯一の対象だということである。ぜいたく、立派な身なり、お祭り騒ぎと家の飾りへの情念は、それゆえ恋のまたは食の身体的欲求によって必然的に生み出される、はなばなしい情念である。実際、どんな現実的快が、このぜいたくとこの立派さとを快楽的な欲張りに得させるであろうか。もし彼が女たちを愛するならば彼女たちに気に入られる手段として、またその好意を手に入れる手段として、それらを考慮するのでなければ。または男たちに偉く思われ、報いがあると漠然と思わせることで、すべての苦を自分から遠ざけすべての快を自分の近くに集めるように彼等に強いる手段として考慮するのでなければ。
本来は貪欲の名に適さないこうした悦楽的な欲張りにおいては、それゆえ貪欲は苦の恐れと身体的快への愛との直接的結果である。しかし、まさにこの快への愛、またはまさにこの苦への恐れは、真の欲張りにおいても貪欲をひきおこせるのか、自分たちの金をけっして快に交換しないあの不幸な欲張り〔けち〕においても、と言われよう。彼等が必要品の欠乏のなかで生活を送り、自分や他人において、金の保有につきものの快を過大評価するのは、誰も望まないが誰も心配しない不幸を考えないようにするためである。
彼等の行いと動機との間にどんなに驚くべき矛盾がみいだされようとも、彼等に絶えず快を望ませつつ、常にそれを禁欲せざるを得ない原因を、私は発見するように努めよう。
私がはじめに観察するのは、こうした種類の貪欲の源は、赤貧の可能性と、それにつきものの禍への、過度で滑稽な心配にある、ということである。欲張りは、いたるところに危険をみ、近づく者すべてが自分に損を与えるのではないかと恐れ、たえずびくびくしながら生きている心気症患者にかなり似ている。
こうした種類の欲張りに最もふつうに出会うのは、赤貧の中で生まれた人々の間である。彼等は貧しさが不幸からお供に何を引き連れるかを、身を持って体験したのである。だから彼等の狂気は、この点では、富裕のなかで生まれた人々の貪欲よりも許されるべきであり、後者においては、ほとんどただけばけばしく悦楽的な貪欲しかみられない。
前者において、必要物を欠くのではないかという恐れからそれを禁欲することへと、どうしていつも強いられるかを示すために、赤貧の重荷におしひしがれて、彼等の一人がそれを軽くしようという企てを思いつくと想定しよう。その企てを思い描くと、希望がやってきて、貧困によってうちひしがれた彼の魂がただちに活気づいてくる。希望によって彼は活発になり、保護者達を探しに行き、後ろ盾の控えの間にへばりつき、大臣たちの奸策に巻き込まれ、ついには最も悲しい種類の生活に身を捧げ、ついに貧困から自分たちを守ってくれるなんらかの地位を得る。その状態に行き着いたら、彼は快だけを追求することになろうか。私の想定では、臆病で警戒的な性格の人にあっては、体験した禍の強い思い出があるので、はじめは禍を減らそうと望むにちがいなく、またこの理由で、貧しさを通じて、禁欲する習慣によって得たいまある必要物まで拒もうと決意するに違いない。一度この必要を越えれば、もしこのときこの人が三十五か四十歳ならば、各瞬間がその激しさを和らげられる快への愛が彼の心に以前ほど強く感じられないならば、そのとき彼は何をするであろうか。快においてより気難しく、もし彼が女たちを愛するならば、もっと美しく、その好意がもっと価値ある女たちを必要とするであろう。それゆえ自分の新たな好みを満足させるために新たな富を得ようと思うであろう。ところで、この獲得に彼がおくであろう期間において、年とともに増し私達の弱さの感情の結果とみなされ得る警戒と臆病とによって、富においては十分はけっして十分でないことが示されるならば、またもし彼の貪欲が快に対する彼の愛と釣り合っているならば、そのとき彼は異なる二つの引力に服することになろう。両方に従うためには、この人は快をあきらめず、自分が少なくともより大きな富の所有者になって、将来を心配せずに現在の快にまるごと専心できるようになるときに、享受を先送りしなければならないと、自分に証明するであろう。こうした新たな宝を蓄えることに費やすであろう新たな期間に、もし年のために快にすっかり感じなくなるならば、彼は生き方を変えるであろうか。新たな習慣を身につけることができないので貴重なものになった〔従来の〕習慣を捨てるであろうか。疑いなく否である。そして、自らの宝を眺め、富がその交換物である快の可能性に満足して、この人は、倦怠の身体的苦痛を避けるために、日常の仕事にすっかり身を委ねるであろう。老いてそういう欲張りになりさえするであろう。かき集める習慣が享受する欲望ともはや釣り合わないで、反対に、常に不足することを機械的に心配することで老いが支えられるであろうから、いっそうそうなのである。この章の結論は、赤貧につきものの禍についての過度で滑稽な心配が、若干の欲張りのふるまいと彼等を動かす動機との間に認められる外見上の矛盾の原因だということである。こうして常に快を願いながら、貪欲さによって彼等は常に快を禁欲することができるのである。