科学と相対主義(哲学の現在 第五回)
第一回で私は、「哲学は科学ではない」と述べた。「それなら宗教や趣味と同じなのか」という問いが出るとしたが、これは相対主義の問題にかなり重なる。つまり伝統的には、(科学と違って)主観的な好悪は相対的でしかない、という観念が前提されているのだが、現代では科学そのものにおいても相対主義的立場が幅を利かせている。そして私はそれに反対である。
科学が客観的認識であることを否定する哲学的立場としては、実用主義(pragmatism)がある。またフッサールやハイデガーのように現象学的立場から、科学ははじめから特定の態度によって認識内容を仕立て上げるものだとするものがある。ニーチェにおける「すべては解釈」という主観主義とも結びついて、これは「ポストモダン」でかなり共有されている。ローティのように、これを実用主義と統合するものもある。さらにこうした哲学的動きを助長したのが、科学史論における「パラダイム」論である。科学を科学者の合意による間主観的認識とか、イデオロギーと同様とみる社会構築主義などもこの流れに乗っている。
パラダイム論のもっともなところは、科学の進展が、知識が増えるといった量的変化だけでなく、考え方の新しい枠組みの確立のような質的変化を持つことである。しかしこの変化は主観的な好みの変化によるのでなく、科学者は変えることを(客観的根拠で)余儀なくされる。新旧の枠組み(パラダイム)は別のスポーツやゲームの規則のような共役できないものでなく、その変化は「発展」である。たとえば相対性理論によればニュートン物理学は「厳密には」正しくないが、物体の速度が光速度に対して小さい場合は近似的には真理である。ニュートン物理学は自然の一側面の近似的な客観的認識である。アインシュタイン物理学は、自然のより一般的な認識であり、よって古典物理学からの単なる転換でなく発展なのである。同様に、非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学の拡張であり、後者は前者の限定された真理である。量子論の場合はもっと複雑だが、これは自然を(その階層性に即して)「より深いところから」認識したものと考えられる。等々。ただ、より「広い」とか「深い」とかいっても(カントや現象学者がうるさく言うように) 絶対的な自然「自体」の認識ではないので相対性を持つとは言える。しかしより広く、より深くという客観的方向性はあるので、相対主義は一面的な態度である。
近似的であれ客観的と言えるのは実験(実践)による検証による。これに対し、観念論・不可知論・懐疑論は、それは検証されたとあなた(方)が思って(言って)いる観念で(物自体でない)と、と言う場合がある。確かにその通りなのだが、これは同義反復的真理であり、「批判」として成り立っていない。私(達)が思ったり言ったりすることはすべて私達の観念であるが、ある観念について、それが客観的真理である、つまり私(達)がそう思っているだけではない、と思ったり言ったりすることには、何の矛盾もない。
社会構築主義者などは、科学における認識内容と認識活動との混同があると思われる。科学においても認識活動としては主観的関心が働いており、価値自由ではない。「2+2=4」も「水は水素と酸素からなる」も、数学や化学を役立てたいという、あるいは単にそうした知識自体を価値あるものとして得たいという欲求が生んだものではある。しかしそれは加算や化学組成の正しい認識内容が、それを人間が価値あるものとしているということではない。熱力学は、科学活動としては、産業革命時代の英国の産物と言ってもよかろう。しかしその認識内容としてのたとえば「エネルギー保存の法則」は、中世ドイツにも平安朝の日本にも、人類が生まれる前の地球でも、つまり客観的に成り立つ。「男女平等」は、古代ギリシャや先カンブリア紀の地球には成り立たない。これがどちらも「人間の観念」であっても、科学的認識とイデオロギーとの違いである。
ところでただし、以上の主張は科学そのものでなく「科学哲学」という哲学の一分野に属する。ゆえに(私としては残念ながら)「客観的真理」であると証明できない部分を含んでいる。こうした問題を含め、私とかなり重なる立場にあって、科学哲学の諸問題をわかりやすく解説している本として、戸田山和久『科学哲学の冒険』(NHKブックス,2005)は、お勧めできるものの一つである