精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

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第三部 第11章 野心について

 

 高位につきものの信用は、富と同じく、私達の苦を除き快を得させることができ、したがってまた、〔それらのための〕交換物とみなされ得る。それゆえ私が〔前章で〕貪欲について言ったことは野心にも適用できる。

(かしら)または王たちの特権が彼等のために自国の戦士が行う狩りの肉を食い皮を着ることでしかないようなあの未開諸民族においては、自分の必要品を確保したいという欲望が、野心家たちをつくりだす

生まれたばかりのローマで、偉大な行為への報いとしては、一人のローマ人が一日に開拓し耕作できる広さの土地しか与えられなかったとき、この動機は英雄たちをつくるのに十分であった。

ローマについて言うことを、私はすべての貧しい民族についても言う。彼等の下で野心家を形づくるのは、苦痛と労働から免れたいという欲望である。反対に、富裕な国民においては、高位を切望する者はみな、必要品だけでなくさらに便宜品をも得るのに必要な富は具えており、野心が生まれるのはほとんど常に快楽への愛の中にである。

しかし、緋色の布〔富と権威の象徴〕、〔教皇の〕三重冠、また一般に名誉のしるしすべては、快のどんな身体的印象もつくりださない、と言われよう。それゆえ野心はこの快への愛にではなく、評価と尊敬への欲望に基づいているのだ、それゆえ身体的感性の結果ではない、と。

私は答えよう。もし権勢への欲望が評価と栄光への欲望によってだけ点火されるのであるならば、野心家が起こるのはローマやスパルタのような共和国においてだけであろうと。そこでは高位はふつう、それが報いとなる偉大な徳や偉大な才能を示していたのだから。これらの民族においては、高位の獲得は自尊心を喜ばせ得た。ある人に同国民からの評価を保証したからである。この人は、常に偉大な企てを実行しなければならないので、要路を、自分の名をあげ他人に対する自らの優越を証明する手段とみなし得たからである。ところで野心家は、こうした権勢がそれにのぼる人々の選択によって最も卑しめられた時代、したがってまた、権勢の獲得が最も喜ばしくない時代においてさえ、やはりそれを追求するのである。それゆえ野心は評価への欲望に基づいていない。この点で野心家が自分自身を欺いている、と言っても無駄であろう。彼に惜しまず与えられる尊重のしるしで彼が絶えず知らされるのは、敬われているのは彼の地位であって彼ではないということである。自分が享受している尊重は人格的なものでないことを感じるのである。それは主人の死か失寵によって消え失せる。君主の老いでさえそれを破壊するのに十分である。そのとき、第一位の職務に上った人々は、主権者〔君主〕のまわりにいて、ちょうど日の出のときに現れ、星が地平線の下に沈むにつれて輝きが曇り消えるあの金の雲のようなものであることを、感じ取るのである。真価が名誉に導かない、ということを彼は千度も聞き、彼自身千度も繰り返した。顕職への昇進は公衆の目には、現実の真価の証明ではないと。反対に、陰謀、低劣さ、しつこい催促の報いと、ほとんどいつもみなされていることを。疑うならば歴史を、とりわけビザンツ帝国の歴史を開くがよい。ある人が、帝国のすべての名誉を担うと同時に国民すべての軽蔑を被っていることがあるのがわかるであろう。しかし私は、野心家が雑然と評価を渇望して、高位におけるこの評価しか求めないことは認める。これが彼を決心させる真の動機でないことを示すのはたやすい。またこの点で、彼が自分自身に幻想を与えているのを示すことは。なぜなら、私が自尊心の章で証明するであろうように、人が評価を求めるのは、評価自体のためではなく、それが得させる利点のためだからである。それゆえ権勢への欲望は評価への欲望の結果ではない

いったい顕職が熱心に求められるのは何のためか。みだらでぴかぴかのなりでしか公衆の前に出たがらない、あの金持ちの若者たちに倣って、野心家がなんらかの名誉のしるしで飾られてだけそこに現れたがるのはなぜか。彼がこうした名誉を、人々への一つの告知と考えるからである。つまりそれは、彼の独立や、彼が好むがままに若干の人々の幸不幸を決められる権力や、また彼等が彼にもたらしうるような快楽に常に釣り合った寵遇に値することに彼等すべてが持つ関心を示すと考えるからである。

しかし、野心家が欲しがるのはむしろ人々からの尊敬と崇拝ではなかろうか、と言われよう。事実において、彼が欲するのは人々の敬意ではある。しかしなぜそれを欲するのか。お偉方に払われる賞賛において、彼等の気に入るのは称賛の身振りではない。もしその身振りがそれ自体で快いならば、金持ちはみな、自宅から出ることも顕職を追い求めることもなく、そうした幸福を手に入れられよう。一ダースの無頼漢を雇い、彼等に壮麗な衣服をまとわせ、欧州のあらゆる勲章を下げさせ、毎朝控えの間に侍らせておいて、自分の虚栄として世辞と敬意の貢物を捧げに毎日来させれば満足するであろう。

この種の快に対する金持ちの人々の無関心が証明しているのは、人は尊敬を尊敬として愛するのではなく、他の人々の側の劣位の表明としてであり、彼等が、私達に対して好都合な意向を持ち、私達が苦を避け快を得るのに熱意を持つことの保証としてなのだ、ということである。

それゆえ権勢への欲望は苦への恐れまたは快への愛だけに基づいている。もしこの欲望がそこに源を持たないならば、野心家の迷いを覚まさせる以上に簡単な方法が何かあろうか。野心家はこう言われよう。ああ、君は豪華で華々しい高官たちを眺めて羨みにやつれているが、思い切ってもっと高貴な自愛心に高まり給え。そうすれば彼等の輝きも君を威圧しなくなるだろう。君が他の人々にまさっているのは、虫けらが彼等に劣っているのと同じだ、とちょっと想像したまえ。そうすれば宮廷人たちのなかに、女王のまわりをぶんぶん飛ぶ蜂たちしか見ないだろう。王杖でさえ、君にはもはや虚栄以上のものには見えないだろう、と。

なぜ人々はこうした話に耳をかさないのか。非力な者をはほとんど重んじず、偉大な才能よりも大きな地位を常に好むのか。権勢が一つの福利であり、また富と同様に、無数の快楽と交換できるものとみなされ得るからである。だから権勢が人々に対するより広い権力を与え得るほど、またしたがって私達により多くの利得を得させ得るほど、それだけ熱心に追求される。この真理の一つの証明は、〔ペルシャの〕イスファハンかロンドンかの王位を選べるなら、イギリスの王杖よりもペルシャの過酷な王権を優先させないような者がほとんどいないことである。しかしながら誠実な人の目には、イギリスの王権のほうが望ましくみえることを誰が疑うであろうか。またこの二つの王権を選ばなければならないなら、有徳な人は、主権〔君権〕が制限されていて、幸いにも臣民を害することができないもののほうを好む決心をするであろうことを。しかしながらイギリスの自由な人民よりもペルシャの奴隷的な人民に命令することを好まないような野心家はほとんどいないのは、人々に対するより絶対的な権力が、私達を喜ばせることに彼等をより注意深くさせるからである。隠れた、しかし確かな本能によって教えられて、愛以上に恐れが常により多くの賛辞をもたらすのを知っているからである。僭主たちは、少なくともその生前は、善良な王たちよりも常に名誉を得るからである。感謝によって、豊穣の角を持つ善行の神々に豪華な神殿が建てられたが(a)、常にそれよりも多く、暴風や嵐の上に乗り、稲光の衣をまとい、雷を手にした姿で描かれる、残酷で巨大な神々に対して、恐れが神殿を捧げさせるほうが多いからである。要するに、自由な人間の感謝からよりも奴隷の服従から、より多くを期待しなければならないと感じるからである。

この章の結論は、権勢への欲望は、常に、苦への恐れか、官能の快への愛への結果であるということであり、それに他のすべての欲望は還元される。権力と尊重とが与える快は、本来の快ではない。それらが快の名を得るのは、快を得る希望と手段とが既に快であるからに過ぎない。身体的快の実在のおかげでだけ実在する快である(b)

計画、企て、予定、美徳および野心の輝かしい華々しさにおいて、身体的感性の産物を認めるのが難しいことは私も知っている。腕を殺戮に染め、合戦上のただなか、死骸の山の上に座し、勝利のしるしとして血の厭うべき腕を打つあの誇り高い野心家において、私は言いたいがこのように描かれた野心家において、どのようにして快楽の娘を認められるのか、と。戦争の危険、疲労、および労苦を通じて、追求されているのが悦楽であるとどうして想像できるのか、と。私は答えよう。放縦の名の下に、ほとんどすべての国民の軍隊を集めるのは快楽だけであると。人々は快を、したがってまたそれを得る手段を愛する。それゆえ人々は富と顕職とを欲しがる。そのうえできれば一日に財をなしたいと思い、怠惰が彼等にこの欲望を吹き込む。それゆえ人々は、遠い将来にしか富を約束しない農業の労苦よりも、戦争の疲労(c)により好んで耐えるに違いない。だからゲルマン人、ケルト人、タタール人、アフリカの沿岸住民とアラブ人は、土地の耕作によりも盗みと海賊において常により富裕であった。

小さな賭けよりも、破滅する危険さえある大博打が好まれるのも戦争と同様である。大博打は巨富の希望で私達を喜ばせ、それをただちに約束するからである。

私がいま確立した諸原理から、逆説らしくみえるところをすっかり取り除くために、私がまだ答えなければならない唯一の反論を、次章の題において示すことにしよう。

 

【原注】

(a)バンタン1)の町では、住民は悪霊に初穂を供えるが、偉大な神には何も供えない。偉大な神は、彼等によれば善良であるので、そうしたものを提供される必要がないのである。ヴァンサン・ルブランを参照。

(b)私達に野心を持たせるのが身体的快でないことを証明するためには、私達に幸福への道を開くのがふつう幸福への漠とした欲望であるとたぶん言うことになろう。これに私はこう答える。しかし幸福への漠とした欲望とは何かと。特定のどんな対象ももたらさない欲望である。どの特定の女も愛さずに一般にすべての女を愛する男は、身体的快の欲望に動かされていないのではないかと。幸福への愛という漠とした感情を苦労して分解しようとするたびに、坩堝の底に身体的快を常にみいだすであろう。もし金銭が快の交換物でも身体的苦を免れさせる手段でもないならば、金にがめつくことのない欲張りと、野心家は同様である。金銭が流通していないようなラケダイモン〔スパルタ〕の町では、彼も金を欲しがるまい。

(c)タキトゥスは言う。「休息はゲルマン人にとっては苦しい状態である。彼等は絶えず戦争を望む。そこで短期間名を挙げ、耕作よりも戦闘を好む」。

【訳注】

1)    バンタンはジャワ島西北にあり、当時は経済の要地であった町、現在は小村。




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