精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著、仲島陽一訳
二種類の野心家が区別できる。不幸な生まれつきで、他人の幸福の敵となり、高位を望むが、それが得させる利得を享受するためでなく、人々を苦しめ彼等の不幸を享受するという、不運な者の快を味わうためだけである者がいる。この種の野心家たちの性格は偽信心家たちとかなり似ている。偽信心家たちというのは一般に邪悪とみなされている。自らが信仰告白する法が愛と慈悲の法でないからではなく、厳格な献身に最もふつうに赴く人々は(a)、明らかにこの現世に不満な人々で、あの世にしか幸福を望み得ず、陰鬱で臆病で不幸で、他人の不幸を眺めることに自分の不幸の気晴らしを求めるからである。この種類の野心家はごく少数である。彼等の魂には偉大なところや高貴なところは何もない。暴君たちとしか数えられない。そしてその野心の本性によって、すべての快を奪われている。
別の種類の野心家もいる。この種類に私はほとんどすべての野心家を含める。高位において、それにつきものの利得の享受だけを求めるものである。こうした野心家のなかには、生まれまたは身分によって、はじめから重要な地位に上っている者もいる。彼等はときおり、快楽を野心の配慮と結びつけることができる。昇らなければならない職歴の、いわば五合目に生まれながらにおかれているからである。クロンウェルのように、最も凡庸な身分から最高位にまで登ろうとする人はこれと異なる。ふつうはじめの歩みが最も難しい野心の道を切り開くために、彼は無数の策謀を行い、無数の腹心を操らなければならない。大計画を形づくる配慮と、その実行の細部とに同時に気を使う。ところで、すべての快楽の追求に熱心で、この動機だけに動かされているこうした人々が、どうしてしばしば快を得られないのか。それを解明するために、こうした快に飢え、お偉方の欲望が熱心に忖度されることに心を打たれて、この種の人が最高位に登ろうとすると想定しよう。この人が生まれるのは、人民が恩恵の配給者で、公共の好意は祖国に果たされる奉仕によってしかかち得ず、したがって真価が必要な国かもしれない。あるいはまさにこの人が生まれるのは、ムガールのような、名誉は陰謀の報いである、絶対的に専制的な統治においてかもしれない。ところで、どの場所で生まれるにせよ、要路に達するには、彼は自分の快楽にはほとんどどんな時間も割き得ない、と私は言おう。これを証明するために、私は例として恋愛の快をとりあげるが、単にすべての快のなかで最も強いものとしてだけでなく、文明社会のほとんど唯一のばねとしてである。なぜなら、ついでに観察するのがよいのは、各国民において、それがこの国民の普遍的な魂として考察されなければならない身体的欲求だからである。南半球の未開人においては、恐ろしい飢饉にしばしばさらされて、常に狩りと釣りとに忙殺されるので、すべての観念を生み出すのは飢えであって恋愛ではない。この欲求は彼等においてすべての思想の芽であるだから、彼等の精神のほとんどすべての組み合わせは、狩りと釣りの巧知と、空腹からの欲求に備える手段の上だけを動いている。反対に、女性たちへの恋愛は、文明国民においては、彼等を動かすほとんど唯一のばねである(c)。こうした諸国では、恋愛はすべてをつくりだしすべてを生み出す。贅沢の諸技芸の壮麗さと創造とは、女性たちへの恋愛と彼女等に気に入られたいという望みとの必然的な帰結である。富によってであれ顕職によってであれ男性たちを敬服させたいという欲望でさえ、女性たちを誘惑する新たな手段に過ぎない。だから想定しよう。財産なしだが恋愛の欲望に餓えた男が次のことをみてとったと。女性たちが愛人の欲望にたやすく降参するのは、この愛人がより高い地位にのぼり、彼女たちに対してそれだけ多く重要だと反省させることに比例することを。女性たちへの情熱によって、〔彼女等を得る手段として〕野心の情念に刺激されて、問題のこの男は将軍か首相の地位を願うであろう、と。こうした地位に昇るために、彼は、才能を獲得し陰謀を行う気配りにまるごと没頭せざるを得ない。ところで、巧みな陰謀でも功績ある人でも、それを形づくるのに達する種類の生活は、女性たちを誘惑するのに適する種類の生活とはまったく対立している。女性にふつう気に入られるのは、野心家の生活とは両立できないまめであることによってだけである。それゆえ確実に、青年時代、また彼が要路にまで達して女性たちが自分達の信用と引き換えに好意を寄せざるを得なくなるときまで、この男は自分の好みすべてを断念し、ほとんど常に、現在の快を、来るべき快の希望のために犠牲にせざるを得ない。私がほとんど常にというのは、野心の道はふつう達するのがとても長いからである。満たされるや否や増大する野心が待ち、一つの欲望を満たしてもまた常に新たな欲望がとってかわる人々について言わずもがなである。大臣になれば王になりたいと望む。王になれば、アレクサンドロスのように、全世界の君主になり、万人の敬意によって、世界全体が彼の幸福に専心することが保証されるような王座に上りたいと願うであろう。私が言いたいのは、こうした特別な人々のことは言わないが、穏当な野心を想定するにしても、女性たちへの情念によって野心家になるような男が、顕職に達するのはふつう、欲望すべてが隠遁してしまうような年になってからだけなのは明らかだ、ということである。
しかしもし彼の欲望が冷める一方であるならば、この男はこの終局に達するや否や自分が切り立って滑りやすい岩の上にいると思う。自分が四方八方から羨む人々の標的になっているのをみてとる。彼等は彼を射貫こうとして、そのまわりに常にぴんと張った弓を構えている。そこで彼は恐ろしい深淵が開いているのを見て恐れる。そこに落ちれば、権勢には悲しいつきものだが、彼はみじめになり同情もされないだろうと感じとる。彼の自尊心によって侮辱された人々の侮辱の的となり、競争相手たちの軽蔑の的となるが、これは侮辱以上に残酷な軽蔑となる。目下の者たちに嘲笑されるが、彼にはときおりはうるさく思われたかもしれないような敬意の貢物を、彼等はいまや免れる。しかし習慣によって彼には必要になってしまったいま、その喪失は彼には耐え難いのである。それゆえ彼は、自分が味わった唯一の快楽を奪われ、また衰え果ててしまい、自分の権勢を眺めて、欲張りが自分の富を眺めるように、それが彼に得させるすべての享受の可能性をもはや享受しないであろう。
それゆえこの野心家は、退屈と苦痛への恐れから、快への愛が彼に入り込ませた経路にとどまる。それゆえ保ちたいと思う欲望が、彼の心中で、得たいという欲望に続く。ところで、顕職にとどまるために、またはそこに達するために必要な配慮の範囲はほとんど同じなので、この男が、常に自らに拒んだ快楽を得る手段としてもっぱら欲望される、こうした顕職の追求あるいは保持に、青年時代と壮年時代をあてなければならないことは明らかである。このようにして、新しい分野の生活をうけいれられない年に達して、自分の古くからの関心事にまるごと身を委ねることになり、また実際そうせざるを得ない。なぜなら激しい心配と希望とで常に揺すぶられ、強い情念に絶えず動かされた魂は、穏やかな生活の味気ない凪よりも野心の嵐のほうをいつまでも好むであろうからである。北風がもはや動かないとき波がまだ南仏海岸に向ける舟に似て、人々は青年期に情念が与えた方向を老年にもたどっていく。
女性たちへの情念によって権勢へと向かった野心家が、どのようにして荒れた道に入り込むかを、私は示した。たまたまそこで若干の快楽にでくわすとしても、そこには常に苦さが混じっている。それを味わって喜べるのは、それがそこでは稀でそこここに撒き散らされているからだけである。リビアの砂漠でときたまでくわす樹木とほぼ同然である。その枯れた葉が快い影を提供するのは、そこで休む焦げたアフリカ人に対してだけである。
それゆえ、野心家のふるまいと彼を動かす動機との間には明らかな矛盾が認められる。それゆえ野心は私達の中で快への愛と苦への恐れとによって点火される。しかし、もし貪欲と野心が身体的感性の結果であるならば、少なくとも自尊心はそこら源を持たない、と言われよう。〔その検討が次章でなされる。〕
【原注】
(a)経験が証明するところでは、一般に、若干の快楽を自制し、ある種の献身についての厳格な格率と実践を採用するのに適した性格〔の持ち主〕は、ふつう、不幸な性格〔の持ち主〕である。多くの宗派の信者が、宗教の原理の神聖さとやさしさに、多くの邪悪さと不寛容とをどうやって結び付け得たのかの、これが唯一の説明の仕方である。不寛容〔の実在〕は、多くの虐殺によって証明されている。自分の情念に敵対しない青年時代が、ふつう老年期よりも人間的で寛大なのは、不幸と弱さとが彼をまだ頑なにしていないからである。幸せな性格の人は陽気でお人よしである。
ここにいるみんなが私の喜びで幸せになるように
というのはこうした人だけである。
しかし不幸な人は邪悪である。カエサルはカッシウスについて言った。「俺はやつれてやせこけた奴は信じない。自分の快楽にもっぱら専心しているアントニウスのような連中は違う。彼等の手は花を摘んでも剣を研がない」。カエサルのこの観察1)は実に見事で、思う以上に一般的である。
(b)野心とは、敢て言えば、彼等にあっては、障害によって刺激されすべてにうちかつ強い情念であるよりも、身分の適合である。
(c)他の動機によって私達の野心に火が付くことがない、というわけではない。貧しい国では、前に言ったように、自分の必要物を備えたいという欲望で、十分に野心家ができる。専制的な国では、暴君の気まぐれで私達が受けるかもしれない体刑への恐れから、やはり野心家が形つくられ得る。しかし文明民族においては、最もふつうに権勢への愛を吹き込むのは幸福への曖昧な欲望であるが、それは私が既に証明したように、常に官能の快楽に還元される欲望である。ところで、こうした快楽のなかで、私は疑いなく女性たちへの快楽を、すべてのなかで最も激しく最も有力なものとして選ぶ権利がある。実際に私達を動かすのがこの種の快楽であることの証明は、最高位に昇るのにときおり必要な、大きな才能の獲得が可能で絶望的な決心を受け入れられるのは、青年期、すなわち身体的欲求が最も強く感じられる年頃においてだけだ、ということである。しかしどれだけ多くの老人が、要路に上るのを楽しむことか、と言われよう。然り、彼等はそれを受け入れ、望みさえする。しかしその欲望は情念の名に値しない。なぜなら彼等はそのときもはや、情念を性格づける、あの大胆な企てやあの驚くべき精神的努力ができないからである。老人は、若いときに切り開いた道を習慣によって歩むことはできるが、新たな道を切り開くことはできない。
【訳注】
1) プルタルコス『対比列伝』カエサル篇第62節参照。