美学と芸術の歴史 第三章 イタリア・ルネッサンス

 

【1 語義と外延】 「ルネッサンス」とは、その語義からすれば、古典古代の学芸の復興である。「古典古代」とは、古代ギリシャと、その継承者としての古代ローマを意味する。これを復興するとは、中世の学芸の否定または革新を意味する。ただし当事者がこの言葉(伊rinascita、たとえばヴァザーリ:1550)でこの事態を呼ぶことはあまりない。私達がこの言葉を負うのはむしろのちの歴史家にであり、用語としてミシュレ(仏La Renaissancec.1840)に、意味またはイメージにおいてはブルクハルト(文献④)が大きい。

「ルネッサンス」はフランス語の普通名詞としては「再生」「復興」一般であるが、歴史用語としては(また「○○ルネッサンス」のようなものを全部含むものとしてでなく、それらの派生用語の本家としては)、特定の時・所・分野で限定される。時代としては、おおまかには「近世」に属する。始まりは早い場所・分野では14世紀の初め、終わりは遅い場所・分野では17世紀初めまでの300年となる。場所はイタリアを中心とし、おおまかな意味での「西欧」である。「北方ルネッサンス」は次回でとりあげる。分野では造形芸術・文芸・思想に渡る。このうち文芸と思想は別稿で扱うこととし、本稿では造形芸術を主題とする。

【2 本質】 「ルネッサンス」は語義からは「復興」であるが、その本質は復興よりも革新にある。このずれは歴史上よくみられるものである。革新的な運動も、当事者には現状の否定が「古きよき昔」への復古として意識されたり、またそれを旗印にするほうがわかりやすかったりするためである。すなわちルネッサンスとは、西欧近世における、造形芸術・文芸・思想における革新運動である

いずれにせよ彼等はその現状、すなわち中世をなぜ革新したのか。ここで日本人にありがちな「ルネッサンス・イメージ」を反省したい。すなわちこのイメージでは、ルネッサンスとは、反中世=反キリスト教=反宗教=「人間中心主義」=「世俗的」「現世的」、というものである。しかしまず言わなければならないのは、ルネッサンスは反宗教でも反キリスト教でもなく、ほとんど反カトリックでもない、ということである。それは宗教-キリスト教-カトリックが、ルネッサンス芸術の大きな内容でありまた支え手でもあったことは、実際の作品を少し多く見れば、すぐにわかることである。バークによれば、絵画において世俗的主題のものの割合は、1420年に5%に過ぎず、1520においてさえ20%にとどまる。つまり宗教画のほうがずっと多いのであり、ダヴィンチの「最後の晩餐」やミケランジェロの「最後の審判」などもそうである。「中世」と「近世」の対照はもっと正確に考えられなければならない。そこで中世(a)とルネッサンス(b)との対照を次のように図式化したい。(1a)「神は尊く人は卑しい」。(1b)「神は尊く人も尊い」。(2a)「来世重視・現世軽視」。(2b)「来世を否定しないが現世も重視」。(3a)「救いのために禁欲」。(3b)「快楽追求を必ずしも罪としない」。(4a)「教会の一元的支配」。(4b)「教会を否定しないが、個人の経験や思想も重視」。(5a)「伝統と統一性」。(5b)「創造と個性(名誉心と競争心)」。(6a)「汎ヨーロッパ的(ラテン語)」。(6b)「民族的(近代語)」。

【3 芸術上の特質】 ルネッサンスの人々にとって芸術とは何か。その答えは前回のアリストテレスと同じ答えになる。すなわち「芸術とは価値ある対象の模倣(μιμησιςミーメーシス)である」と。では「価値ある対象」とは何か、と言ったときにキリスト教があがるのは古代とは違うところであり、他方、異教神話や世俗的な重要人物もかなり該当することは、中世と異なるところである。

以上は内容面であるが、技術面で言えば、中世よりも写実的になっているのがまず目につく。

形式的性格としては、初期は晴朗で健康的である。ギリシャ的な均衡論の蘇りがみられる。中期は調和的であるとともに優美である。遠近法の発達が確立し、「人間の視点」が次第にはっきりしてくる。後期は力動的で巨大趣味も現れる。世俗性も強くなる。

 【4 社会的性格】 前節でルネッサンスの中世との違いを確認した。だがそれは近代とも異なる。中世との違いを過大に見積もると、近代との違いが見えなくなるが、これはいわばルネッサンスのロマン主義的解釈である。ロマン主義では芸術は芸術家の個性の自由な表現とされる。しかしルネッサンスでそれは稀でしかない。作品は注文主の指定によってつくられる。制作者は「芸術家」というよりいまだ職人であり、ギルド(薬剤師や印刷業など)に所属する。注文主は内容だけでなく費用にいたるまで細かく指示することも多く、それは個人の美意識によるよりも社会的・文化的な規範に大きく制約される。注文主をパトロン、注文行為をパトロネージと言い、「芸術家」が自分の美意識なり「霊感」なりで自由に制作して作品を市場に出し、それを気に入った者が商品として購入する、といったことはほとんど行われていない。ルネッサンスは中世との単純な断絶ではなく、中世の実りの秋という面も持っている。ブルクハルトはキリスト教に対抗的なバイアスが強い歴史観である。日本の中・高の歴史教育にはその影響が強く、ルネッサンスから新時代、というイメージを与える教科書が多い。

 それでもルネッサンスが革新でもあったことは事実だが、それは何によるのか。最大の要因は、文化の新しい担い手として、市民階級が成長してきたからである。それゆえルネッサンスは、まさに14世紀に、まさにイタリアに、そしてまさに都市において起こったのである。富裕な市民(個人としてのほかに、職業団体としてや、都市共和国としてのものもある)は、教会と並んで、芸術のパトロンになっていった。しかしこのバトロネージについても、いろいろな動機を含むことが注意される。つまりそれは①いわば純芸術的なものもあるが、他に➁名声欲、③公共心、④宗教心、によってもなされたのである。またパトロネージの形態も多様である。工房へのふつうの注文を別にすれば、①市場での売買もなくはないが、近代以降と違って稀であり、➁期限の定めのない庇護関係や、③(注文作品ができるまでの)限定的な食客関係も多く、さらに④半ば公的な「アカデミー」の会員とされたり、⑤都市共和国などから補助金を受けたりすることもある。

文化の担い手のうち制作者は、中世においてもまだ職人という一つの(そしてどちらかと言えば「卑しい」とされる)身分である性格のほうが強かった。より力動的に言えば、職人と芸術家の二つの側面が次第に強い内的対立になっていく過程が、ルネッサンス期の芸術制作者にみられる。自画像の誕生は、彼等がもはや自らを卑しい身分とみるどころか、自尊を抱いたことを示している。また職人は専門家であるが、ルネッサンスが理想像とするようになったのは何でもできる「万能人」であった。これは狭くは身分制、広くは分業がもたらす疎外に対抗する、人間性回復の要求を、近代的・大衆的な基盤においてではなく、少数の「天才」においてみようとしたものであった。

【5 ルネッサンス批判】 ルネッサンスに対して、賛美・謳歌だけがあるのではない。

宗教改革の立場からは、ルネッサンスの快楽主義が批判される。そこには道徳性が欠如しており、無秩序であり、虚飾である。ロレンツォ・メディチの有名な歌は刹那主義である。このような精神性は混乱と暴力を、すなわち力の支配を生み出すものである。実際ルネッサンスは戦国時代であり、テロも横行していた。離れた安全地帯で天才の作品だけ見る私達は黄金時代とも思いかねないが、ふつうの生活者にとっては暗黒時代であった。またそれはカトリック教会・大資本家・王侯など特権的強者に寄生したものであり、国民的文化ではなかった。

科学革命の立場からは、ルネッサンスの「学問」は科学の方法論の理解に至らず、スコラ学からプラトン的古代哲学に権威を変えただけである。

以上は外からの(ただし隣接し一面では重なりもする)地平からの批判であるが、内在的な、「限定性」への批判もある。まず分野においては、音楽が問題となる。パレストリーナやジョスカン・デブレなどすぐれた音楽家はいたが、前との断絶性といえば、次の時代のバロックのほうが強い(「バロックが音楽におけるルネッサンスだ」)ともされる。

また地域的には地中海世界の特殊性ということが問題になろうが、これついては次章の「北方ルネッサンス」でとりあげたい。

【6 ジオット】 ルネッサンス美術はジオットGiotto diBondono,c.1267-1337)から始まる。半ば伝説的な記録によると、彼は羊飼いの子であり、羊の番をしながら地面に杖で描いていた絵の見事さにガチマブエの目にとまり、その弟子にされたという。1290年頃独立し、1305年にフィレンツェで工房を組織したことは確認される。ローマにも滞在し、1329年から33年はナポリ王の宮廷画家であった。34年にはフィレンツェ大聖堂の造営主任に任じられ、いまも残る鐘楼を起工した。35-36年にはミラノのヴィスコンティ公のために働いている。在世時より高い評価を受け、同時代のフィレンツェ人ダンテも名を挙げている(『神曲』煉獄編11:94-96)。人となりも、単なる職人を超えた「芸術家」気質の片鱗があり、やはり同時代の文芸家サケッティが、自尊心あるその性格を示すエピソードを伝えている。

作品として最も有名なのは、「聖フランチェスコの生涯」(1297-1305)であろう。題材の聖人の地アッシジの教会に描かれたフレスコ画であり、小鳥たちに説教する場面などを含む。別人説もあるが、このような問題があること(工房として少なくとも部分的には関与した蓋然性は高い)自体、まだ「作者」の概念が確立していないしるしでもある。

パドヴァにある「スクロヴェーニ礼拝堂壁画」(1303-05)は、聖母とキリストの生涯を題材にした、見事なフレスコ画である。①宗教画であるが、力点は神の威厳よりも人間の精神や道徳の重さにある。②正面向きの紋切り型ポーズでなく、その場にふさわしい姿が与えられている。③約束事による象徴的構図でなく、写実的な劇的構成がとられている。④したがって見る者は図解的に意味を読み取るというより、登場人物の意志と感情を直接に伝えられる。⑤平面的でなく、短縮法による遠近法が用いられている。以上は中世との違いであるが、ルネッサンス内部で言えば⑥様式性を重んずるシエナ派と異なり、世界のリアルな描出というフィレンツェ派の特質が現れている。――私がここに入ってすぐ感じたことが二つある。一つは、「青」の美しさである。ラビズリーによるその色は、輝かしいが深みもあり、内容の精神性とよくシナジーしている。もう一つは、「聖なる」諸場面の前後左右につらなりに、曼荼羅を連想したことである。上に述べたように、よく見れば近代性が重要なのだが、近代のはじめだけに、最初の印象としてはむしろ中世精神の雰囲気を強く感じさせもするのである。――パドヴァを訪れる折がある人は、ガリレオが講義した大学とともに、この礼拝堂をぜひ見られたい。

ちなみに礼拝堂であるから当然宗教画であるが、パトロンは教会でなく大商人である。父が悪名高い高利貸しで、その贖罪のための私設礼拝堂なのである。そしてこの動機が「父親の贖罪以上に〔子の〕エンリコ[・スクロヴェーニ]自身の権勢の誇示にあったことは疑いを得ない」(文献 96頁)。実際、見事な礼拝堂を建てられて隣接する修道院が抗議したという。贖罪もポーズでなく本心、権勢誇示も本心、この並立がルネッサンスである。

【7 マザッチオ】 マザッチオMasaccio本名Tommaso di Diovanni Mone,1401-28/29)はフィレンツェの人で、父は公証人であった。兄ジョバンニ、その二人の息子、その孫、ひ孫も画家である。

フィレンツェの「ブランカッチ礼拝堂壁画」はフレスコ画である。モニュメンタルで厳格だが、説得力ある人物像が描かれている。緩やかなリズム、古典的に秩序付けられた構図も印象的である。ここも多くの場面からなるが、「貢の銭」では作者自身の像も登場人物の一人として描かれている。自画像の出現をルネッサンスの特質の一つに挙げたが、従来の価値観からはよくないことであるために、はじめはこのような「裏口から」のものであった。ブランカッチは富裕な絹織物商人である。スクロヴェーニ礼拝堂と同じく、名ある大聖堂などと違って、大規模でなく外はふつうに古びていて、意識的に探さないとみつからない。しかしのちのフィレンツェの巨匠たちがこれを学習素材としたというように、美術上重要である。私が見に行ったときはすいていた。やはりそうだったパドヴァは場所的にやむを得ないが、フィレンツェに来たら、いつも長蛇の列のウフィツィ美術館だけでなくこういうところも見たいものである。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「聖三位一体」(1427-28)は遠近法の教科書的代表である(私の美術史の教科書にもあった)。建築家のブルネレスキ(彼によるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はこの町の象徴である。丸天井の上からみた街並が美しい。)から一点透視図法を学び適用したものという。この聖堂は町の中心近くにあるが、入ってこの絵は意識的に探さなければならなかった。説明版も柵もなかったからである。そういうところにもすごさを感じてしまった。

若死にしたこの画家は、合理主義的で自然主義的なフィレンツェ・ルネッサンス精神を絵画で代表している。

【8 ボッティチェリ】 ボッティチェリBotticelli本名Alessandro di Mariano Filipepi,1444/45-1510)はフィレンツェの人であり、フィリッポ・リッピに学んだ。

」(c.1478)はギリシャ神話による美の三美神である。「ヴィーナスの誕生」もギリシャ神話を題材にしている。ともに形而上学的道徳の象徴である。後者の注文主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはメディチ家の統領イル・マニフィコの従弟で、(フィチーノの解釈による)プラトン哲学に強い関心があった。ただし画家は思弁に劣らず優美な女性美それ自体もめざしていることは疑えない。

題材が既にルネッサンス的であるが、中世に皆無だったわけではない。「春」の古代版・中世版と比べてみよう(図1)。まず目につくのは、中世版が厚い衣服を着していることである。なぜか。肉体は価値的に劣るものであり、したがってそれを「模倣(ミーメーシス)」することは美術の意図に反するからである。しかし肉体が価値的に劣るとは考えず、肉体的にも美を追求したのがルネッサンスである。とはいえ古代版が全裸であるのに対し、ボッティチェリの美神は薄物をまとっている。なぜか。ルネッサンスはキリスト教を否定したわけではない。肉体がそれ自体として醜いものではないにしても、それは人間が他の動物と共有するものであり、精神がより高い価値を持つという思想は、ルネッサンスがキリスト教から受け継いでいる。裸体を「恥じる」のはしたがって精神性の表れであり、美神は薄物で、ヴィーナスは自分の手でそれを隠す。それなしでは「獣の美しさ」になってしまう。他方で「隠す」のは精神を「表す」ためであるから、(均衡のとれた美しさを持つ)体の線を示すことは妨げない。また中世版の「三美神」は三者が金太郎飴である。単に作者が下手ということではあるまい。同一性に価値があるという中世的美意識と、個性的な者たちの調和を価値あるとするルネッサンス的美との違いを見るべきであろう。すなわちルネッサンスは中世の一面的な否定、古代の一面的に復活でなく、両者の弁証法的止揚なのである。

ボッティチェリの趣味にはマザッチオの合理的自然主義と違いもある。優美さを重んじときに装飾性も廃さない。ゴシック様式を部分的に復活させているところも、歴史的弁証法であろうか。

 15世紀末、フィレンツェはサヴォナローラの宗教政治が行われ、反宗教的な華美が排斥された。ボッティチェリも改心して、自らの作品を火中に投じたとも言う。このヴァザーリの報告は疑いの余地があるが、後の彼の作品の弱々しさを見ても、繊細でやさしい気質と思われる彼が、この出来事にかなりの影響を受けたことはありそうに思われる。またこの出来事を、国難(仏軍の進駐)において狂信者に煽られた愚集の集団ヒステリーと軽くあしらってはならない。前述のルネッサンス批判の観点からは、まさにその中心地において、ルターを20年先取りするような事態もあったとみなせる。

 ボッティチェリが今日のような高い評価と人気を得るのは、19戦期後半のラファエロ前派とペーターによるところが大きい。

 【9 ダヴィンチ】 ダヴィンチLeonard da Vinci,1452-1519)は公証人の庶子であり、14歳ころ、フィレンツェのヴェロッキオの工房に入った。79年頃独立。82年、ミラノに移住し、イル・モーロに仕える。1500年、フィレンツェに帰還。02年にはチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍した。13年、フランス王フランソワ1世の招きでフランスに行き、その地で没した。「万能人」の典型であり、その多才と自負はミラノ公宛の自薦状に明瞭であり、またその膨大な手稿が裏付けている。彼は絵画の学問的性格を強調した。

 「岩窟の聖母」「聖アンナ」は、近年、実在の商人の妻をモデルとする肖像画であることがほぼ確定した「モナ・リザ」(1503-06)とともにルーブルでみることができる。「最後の晩餐」(1495-95)はミラノの教会の食堂に壁画として描かれたものであり、現在は予約が必要で総入れ替え制で見学させている。デッサンでは、幾何学的調和を追求した「ウィトルウィウス的人体図」や、「自画像」が有名である。

 【10 ラファエロ】 ラファエロRaffaello Sanzio,1483-1520)はウルビノ生まれで、父も画家であった。ペルージャでベルジーノの弟子になり、1504年、フィレンツェに出、08年、教皇ユリウス二世によってローマに呼ばれた。

 ヴァチカンの「署名の間」を飾る「アテネの学堂」(1511)は、古代の哲学者たちをそれぞれにふさわしい姿で描き出したもので、これがまさに教会の中心にあるというところにルネッサンスの象徴がみられる。

 ラファエロといえば何と言っても数々の聖母子である。図2をみられたい。聖母子は無論伝統的な宗教画であり、中世のものとラファエロのものを並べてみた。比べよと言われて素人がまず感じるままを口にすればラファエルのほうが上手ということたがが、ではなぜそう感ずるのか。彼のほうに立体感があることが大きい。ところで中世の聖母子が平面的なのは、遠近法が欠如しているということたが、これを単なる技術的未熟さに還元してはならない。中世人はたとえその技術があっても、聖母子にそれを用いる意志を持たなかった。遠近法は見る側の「視点」によるものであり、聖なる対象をそのような「人間的観点」から描くべきではないとしたからである。また素人がラファエロのものだけをみれば、聖母子でなくそこいらの母子の絵とも見るであろう。中世のほうはそれは不可能である。これは聖母子であるぞとの記号が含まれている。最も顕著なのは光輪である。実はラアァエロのものにもあるのだが、画集のかなり正確な図版だけでなく、本物でも意識しないと見逃してしまうほどかすかなのである。意地悪く言えばいいわけ程度であり、ラファエロは聖母子を超越的な神々しさによってでなく、晴朗な表情と内面的な気高さを持った健康的な人間の美しさとして描いている。これがまさにルネッサンスである。

 【11 ミケランジェロ】 ミケランジェロMichelangelo Buonarotti,1475-1564)はフィレンツェ近郊に生まれた都市貴族の出身である。14歳でメディチ家の保護を受けた。1496年、ローマに赴き、1501年フィレンツェに戻ったが、05年ふたたびローマに行った。

 サン・ピエトロ大聖堂にある彫刻「ピエタ」(1499)など、前半期は古典主義の完成がみられる。「ダヴィデ」像はフィレンツェに戻ったときの共和国の注文によるもので、市庁舎前におかれた(現在はアカデミア美術館)。個人的には彼が学んだドナテルロの「ダヴィデ」像のほうが、いろいろな意味でこれ見よがしのミケランジェロのものより好きだが。

 彫刻を本分と考えていた彼には、システィナ礼拝堂天井画(「天地創造」その他)は教皇の命令でいやいやながら成し遂げた傑作である。メディチ家の廟墓や「モーセ」像などもこのころである。「最後の審判」(36-41)が代表する晩年は神秘主義的傾向が現れ、内面的情念を強調する肉体表現はマニエリズムを予告している。好敵手のダヴィンチが調和のとれた静的完全性を示しているのに対し、力動的で複雑な構成に後期ミケランジェロの特徴が表れている。

 

文献案内

 

    『世界美術全集、11、イタリア・ルネサンス』小学館、2003

    ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』[1550]平川・小谷・田中訳、白水社、1982

    レッツ『ルネサンスの美術』鈴木杜幾子訳、岩波書店、1989

    『世界の名著56ブルクハルト〔イタリア・ルネサンスの文化〕』中央公論社、1979

    『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫(上下)、195458

    バーク『イタリア・ルネサンスの文化と社会』[1972]森田・柴野訳、岩波書店、1992

    羽仁五郎『ミケルアンジェロ』岩波新書[193919682

    高階秀爾『ルネッサンスの光と闇』[1966-69]中公文庫、1987

    コール『ルネサンスの芸術家工房』[1983]越川・吉沢・諸川訳、ペリカン社、1994

佐藤康邦『絵画空間の哲学』三元社、1992



添付画像
Sandro Botticelli (1445-1510)
The Birth of Venus
2020/01/11 22:14 2020/01/11 22:14
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