美学と芸術の歴史 第四章 北方ルネッサンス
【1 総論】 「北方ルネッサンス」は「アルプス以北(特にフランドルとドイツ)におけるルネッサンス」をいう。「ルネッサンス」とは、14-16世紀の欧州における文化の革新運動であり、その発生地および中心はイタリアであった(本稿第三章)。ここで問題になるのは、この「北方ルネッサンス」が、「北方におけるルネッサンス」として、「ルネッサンス」を種的同一性を持つものとして、「北方」を、イタリア中心のものに対する種差として考えるのか、それともそれを、イタリア・ルネッサンスに対応する北方の文化運動として、「ルネッサンス」を類比的統一性を持つものとして考えるのか、ということである。これは「ルネッサンス」の本質をどう規定するかということ、あるいは「イタリア」と「北方」との共通性と差異のどちらに力点を置くかということが問われているのである。裏を返せば、共通性と差異があること、まったく違うものでもまったく同じものでもないことはみなが認めているということでもある。両者の適度な関係性をどうみるかが、各人に問われるところである。西洋美術全般についてまだ多くを知らない者には、「ルネッサンス」の一環という大きなくくりでみるほうが有効であろうが、前章で「イタリア・ルネッサンス」を学んだ私達としては、その違いに注意することで、より興味深くみていくことができよう。
ルネッサンス一般にあてはまる特徴としては、「人間」と「個人」の重視ということがあり、この点では、イタリア・ルネッサンスにおいてみてきたことを北方ルネッサンスでもみることができよう。他方違いを列挙すれば、まず、イタリアでは「人間中心主義」が強いのに対し、北方では「自然の評価」がみられる。イタリアでは理想主義的であるのに対し、北方では一方では現実性、他方では幻想性の評価がみられる。イタリアでは美そのものが第一の価値とされるのに対し、北方では真や善の優位もみられる。相対的にイタリアでは世俗性がより強く、北方では宗教性がより強い。技術面では、イタリアにおける遠近法の完成に対し、北方では油彩法の高度化が注目される。
両者の差異の面に関して、当事者の言葉を一つの証言として引こう。ミケランジェロによる、北方ルネッサンスの風景画に対する否定的な評価である。すなわちそれは、外面的な視覚を欺くために目に快いものを描き、内容も力も、道理も技量も、均衡も比例も、選択も勇断もない、と( 166頁)。私達には驚くべき断罪だが、ここからまた「イタリア・ルネッサンス」がこだわっていたものについてもわかってくる。
【2 ファン・アイク】 ファン・アイク(Jan Van Eyck,c.1390-1441、文献⑩などでは「ヴァン・エイク」)。また兄(Hubert,?-1426、実在を疑う説もあり)とともにファン・アイク「兄弟」とも言われる。フランドルの人で、ソンブルク(ランブール)生まれか? 1422年頃、ホラント伯(ハーグ)の宮廷画家になっている。25年、ブルゴーニュ公フィリップの画家兼侍従となった。スペイン、ポルトガルに旅行した。32年、ブリュッヘに移住し、結婚。同地で没した。
古くは油絵の発明者とされたが、厳密に最初の者ではなさそうである。しかし乾燥油と樹脂や希釈剤を用いた新しい素材の改良者であり、油絵の技術を使いこなして歴史的な傑作を残した最初の者とは言えよう。深い宗教性と象徴性を持っており、この意味ではむしろ中世的な肖像画の完成とされるかもしれない(文献⑩項目「エイク」)。
「ヘント(ゲント)の祭壇画」(c.1426-32、ベルギー、シント・バーフ大聖堂)は、大きな三連祭壇画である。教義と、近代的写実との見事な融合がみられる。12枚のパネルに20の場面が描かれており、それぞれに見事であるが、なんといっても中央下の「神秘の子羊の礼拝」が印象的である。主題としては宗教画だが、自然が「背景」を超え、緑豊かな色彩美においても細やかな写実においても目をひきつける。「魂の救済を求める中世の人々にもまたゲント祭壇画で実現された新しい自然主義は、大いに訴えるところがあったにちがいない」(文献①55頁)。「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(1434、イギリス・ナショナルギャラリー蔵)は市民夫婦の肖像画である。作者の署名が入れられているのは近代的である。「宰相ロランの聖母」(c.1434、フランス・ルーヴル美術館蔵)は祭壇画である。「宰相ロラン」はこの絵の寄進者である。寄進者の姿が絵の中に描きこまれることはイタリア・ルネッサンスでもあるが、下のほうに慎ましくではなく、このように聖母子と向き合うかたちで大きく描かれるのはきわめて異例である。また風景が大胆に取り入れられている。橋の上から遠くを眺める後ろ姿の人物とともに、鑑賞者もまた実に細かく描かれた「背景」を見飽きない。この作品は、「宗教画」と「肖像画」と「風景画」の三要素の融合であるように感じられる。
【3 ボス】 ボス(Hieronymus Bosch,c.1450-1516、「ボッシュ」とも)はネーデルランドの人である。スヘルトヘンボスに生没とされるが、これは当時ネーデルランドの四大都市の一つであり、オルガンの製造など音楽文化の拠点であり、武器の鋳造工場もあった。ケンピスの『キリストに倣いて』(1472)を生んだ宗教運動devotio modernaが盛んな地であったともされる。早くから名声を得、スペイン王フェリッぺ2世などにより収集された。約30点の板絵が現存する。
人物表現は理想化されない。つまり「美しく」はない。寓意(アレゴリー)が多用されている。グロテスクな怪物が随所に活躍する。この点ではグリューネバルトと重なる。
「手品師」(c.1475-c.85)は寓意画である。「石の切除手術」(c.1475-85)も同工異曲である。人間の愚かさを風刺している。
「乾草車」(c.1485-c.1505、現プラド美術館)。
「愚者の船」(c.1485-1505、フランス・ルーヴル美術館蔵)はいわゆる阿呆船を主題としている。ドイツの詩人ブラントの同題の著作(1494)に直接の動機を得たものか。
「聖アントニウスの誘惑」(c.1485-c.1505)は宗教画である。しかし、悪魔の誘惑にうちかつ聖人のすばらしさよりも、作者の関心は、彼の幻想に現れる魑魅魍魎たちを生々しく描くことにあると感じざるを得ない。
「快楽の園」(c.1505-c.16、スペイン・プラド美術館蔵)は三連祭壇画である。いやらしさと美しさ、恐ろしさと楽しさが同居した、なんとも言えない作品である。
「十字架を運ぶキリスト」(ヘント美術館)。民衆の表情が生々しい。
【4 グリューネバルト】 グリューネバルト(Grünewart,c.1470/75-1528)はドイツの画家である。ただし間違ってその名で記録され定着したもので、本名はMatthias Neithard Gothartとされる。1485年頃からアシャッヘンブルクに住み工房を持ち祭壇画などを作った。1508年頃から、マインツ選帝侯・大司教の宮廷画家兼芸術顧問を務めた。1514年頃から「イーゼンハイム祭壇画」(現コールマール・ウンターリンデン美術館)を制作したが、彼の最大傑作である。イエスの痛ましい死体の迫真性が強烈である。もともと当時猛威をふるった病気の守護聖人を表に立てた教会のためのもので、参詣者はイエスの苦しみを自分達への共苦とうけとったであろう。奇怪な化け物たちの跳梁、復活するイエスの神々しさや天使の総額なども、彼の筆を通じて、私達の目にも印象的であるが、当時の人々には創作というより現実そのものと映ったであろう。彼自身、人々の苦しみに強く共苦する人だったのか、1525年、農民戦争が起こるとその側に立ち、選帝侯・大司教のアルブレヒトから追放された。そして異郷で寂しく死んだ。20世紀初めに再発見され、再評価が進んだ。
【5 デューラー】 デューラー(Albrecht Dürer,1471-1528)はドイツの画家である。ドイツ最大の画家とする者もいる。ニュールンベルクに生まれ、同地で没した。父は金細工師。1494年、結婚し、ヴェネチアに赴き、イタリア・ルネッサンスを研究した(05-07年にもヴェネチア行き)。95年に帰郷して工房活動を開始。ザクセン選帝侯らのため祭壇画などを描いた。
「イタリアの山」(1494-95)は水彩画である。きわめて早い風景画であることが注目される。
帰国直後の1498年、制作した木版画集の「黙示録」により名をあげた。宗教画であり、木版画を多く描いたことも彼の特徴の一つである。
「自画像」(1500、現ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)も注目される。自画像という分野の登場自体が「ルネッサンス」の大きな内容であり、またイタリア・ルネッサンスではそれは群衆の一人にまぎれこませるようなかたちで現れてきたことは前章で述べた。「自画像の誕生は、彼等〔画家〕がもはや自らを卑しい身分とみるどころか、自尊を抱いたことを示している」(前章)。自画像は四種に区分できる。①モデル代を払う必要がないので練習として描くもの、②端役の一人として描き入れるもの、③扮装をさせて(建前上は別人として)描くもの、があるが、④しかしここでデューラーは真正面からの本格的な自画像を描いており、画期的である。なおデューラーの人となりについて、ナルシシズムに近い虚栄心を指摘するものもあり、彼の場合に(一般論として「芸術家」の自尊心ないし虚栄心は検討課題となり得よう)それも一因と言えるかもしれない。
「アダムとエヴァ」(1507、現プラド美術館)は宗教画である。しかしおそらく宗教的動機に劣らず、人体の造形が彼を動かしている。そしてこれはドイツで最初の理想的裸体像なのである。
「聖三位一体の礼拝」(1511、現ウィーン、美術史美術館)は宗教画の大作である。
「メランコリア」(1514)は銅板による寓意画である。「メランコリア」(羅、英メランコリー)は、古代からの四体液論によれば、黒胆汁が優位な性格で、内向的な憂鬱質である。そしてもともとはのらくら者など否定的評価を伴うのがふつうであったが、まさにルネッサンスに逆転が起こる。学者や芸術家など、創造的天分と結びつけられたもので、書物ではフィチーノの「三つの生活について」(1505)などに現れている。デューラーのこの作品はその美術版とも言える。
1520-26年にフランドルに旅行。
「四人の使徒」(1526、現アルテ・ピナコテーク)は宗教画である。1517年、ルターによる宗教改革が始まった。デューラーも宗教改革とともに進むことになる。
またデューラーは草木や小動物のデッサンにも、きわめて見事な写実力とともに独特の魅力を持つものがある。彼は一木一草も神の被造物として価値あるものと考えたようである。これは地中海文化にはほとんどみられない、自然と風景への北方的関心である。しかし越氏によれば(文献②105頁他)、彼と同時代のインテリを魅したのは、風景よりも古典神話に裏付けられた寓意的人物像であり、彼も結局は人物像を最高とするイタリア的美意識に従ったのだという。
【6 クラナッハ】 クラナッハ(Lucas Cranach,1472-1553)はドイツの画家として最も名を成したが、半ばルネッサンス的「万能人」に属するとも言えそうである。クローナハで出生。父もおそらく画家であった。1501/02-05年、ウィーンで制作活動し、ドナウ派に属する。また当地の人文主義者たちと交わった。05年、ザクセン選帝侯フリードリッヒ(賢侯)の宮廷画家としてヴィッテンベルクに居住。08年、皇帝マクシミリアンへの使者としてネーデルラントに赴いた。1512/13年、ゴータの市参事会員の娘と結婚。17年、ルターが宗教改革を始めるが、19年、そのヴィッテンベルク市の参事会員になった(-45)。22年、ルター訳の『新約聖書』が出版されたが、その木版挿絵を描いたのが彼であった。24年、ニュールンベルクに行き、デューラーに肖像を描かれている。25年、「ルターとカタリーナの肖像」を描いた。30年、「ヴィーナスとミツバチ泥棒のアモル」を描いた。神話画である。33年、「ルクレティア」を描いた。歴史画である。34年にはヴィッテンベルクの市長に選ばれた(中断を経て44年まで)。46年「若返りの泉」を描いた。寓意画である。53年、ヴァイマールで没した。
デューラーの理想的人体と比べ、クラナッハの人物はより写実的である。小生のような下根の者は、古典的なプロポーションを持つが冷たいイタリア的・デューラー的裸婦には美しいのだろうが「ふん」と通り過ぎたくなるのに対し、生々しさを感じさせるクラナッハの裸婦のほうにひきつけられるものがある。美術「鑑賞」としてはいけないのでしょうか。対象に即して言っても、「若返りの泉」のような世俗的官能性と、ルターへの肩入れとがどう折り合えるのか、不思議な気がする。ルターは「酒と歌と女」を愛する人でカルヴァン以下の「禁欲的プロテスタント」と違うからかまわないのか。もっともクラナッハはカトリック諸侯の肖像も描いている。
【7 アルトドルファー】 アルトドルファー(Albrecht Altdorfer,c.1480-1538)はドイツの画家であり、建築家である。亡くなったレーゲンスブルクの生まれか。ドナウ派最大の画家とされる。1519年、レーゲルスブルク市会議員になり、26年からは同市の「公的建築家」として、城壁や塔(1535)の造営に携わった。
「聖ゲオルギウスのいる森」(1510)はいちおうキリスト教伝説に基づく主題だが、本質的には風景画である。森が生々しい。
「マクシミリアン帝祈祷書」の挿絵(c.1515)はデューラーとの共同制作である。
「アレクサンダー大王の戦い」(1529)は歴史画である。しかし俯瞰した大画面には、膨大な人馬が細かく細かくうじゃうじゃと描かれ圧倒される。本質的には歴史画というより地表の熱病的な煮えたぎりと越氏は言う(文献③149頁)。
「ドナウ風景」(c.1532)は、最初の純粋な自然風景画ともされる。それは、具体的な場所の実景に基づき人間抜きの風景画であるという意味においてである。ちなみに、特定できる現実の景観を描いた最初の作例とされるのは、ヴィッツの「奇跡の漁り」(1444、現バーゼル、無論少なくとも建前的には宗教画)のようである。西洋美術において基本的に多くない「風景画」のなかでも、まったく人がいない(家のような人工的なものもない)作品は現在に至るまできわめて少ない。一見そう見えても、寄って観ると、隅のほうに小さく人物ないし神の姿があったりしがちである。私はがっかりするとともに、どうしても人間なしにはいられないのかと、西洋の強迫観念を感じる思いがする。越氏は「人物の消失」に、魂の救いがすべての原動力であった「中世」の克服をみる(同書、155頁)。しかし私達日本人からすれば、自然への融解にこそ救済があるのではないか。「うつせみはかずなき身なりやまかはのさやけき見つつみちをたづねな」(大伴家持、なお家永三郎「日本思想史における宗教的自然観の展開」参照)。西洋でも特にゲルマン系には自然を評価化する精神はあり、それはロマン主義で前面に出て来る。しかしそれでも西洋との違いはある。夏目漱石は学生時代から、イギリスロマン派の詩と漢詩とにおける「自然」観念の比較研究などを行っていたが、「東西文学ノ違」について次のようなノートも残している。「nature.Wordsworthノnatureノinterpretationヲ見ヨ。Arnold,Browningノinterpretationヲ見ヨ。吾人はnatureヲnatureトシテ渇仰スルナリ花ヤ鳥其物ガ愉快デタマラヌナリ。其裏面ノ主意ヤontological meaningハ不必要デアル」(『漱石資料――文学論ノート』岩波書店、1976、197頁)。日本的本覚思想の行き着いた先としての草木非成仏論はこの精神をもっとも端的に表しているのではなかろうか(拙稿「自然成仏の思想と文化」『唯物論』第83号、東京唯物論研究会、2009、参照)。
なお中世の風景画として、ランブール兄弟による時祷書の挿絵がある。これはこれで美しく、また魅力的なものである。しかしそこでは人間が自然に持ち込んだ秩序というラテン的精神がみられるのに対し、アルトドルファーでは秩序に敵対する自然という、すなわち自然に「自由」や「崇高」をみるゲルマン的精神がみられる(文献③147頁参照)ことも興味深い。
【8 パティニール】 パティニール(Joachim Painir,c.1480-1524)はフランドルの画家で、アントウェルペンで活躍した。
純粋な風景画ではないが、物語の内容より自然の風景を強調して描き、デューラーから「よい風景画家」と呼ばれた。他の画家の風景部分も担当している。「聖ヒエロニムスの懺悔」(1515以降)などがある。
【9 ブリューゲル】 ブリューゲル(Pieter Bruegel,1525/30-1569)はフランドルの画家である。ブリューゲル村(現オランダ)の生まれか?1551年、アントウェルペンの画家組合に登録している。イタリアに旅行し、ローマ、ナポリ、シチリア島に赴き、55年までに帰国。旅中にものしたアルプスの素描を25枚の銅版画として刊行した。63年、結婚を機にブリュッヘに移住。69年、同地で没。
はじめは主にボス風の幻想的風刺画が多いようである。「大魚が小魚を呑む」(1557)、「七つの大罪」(1558)などがある。ボスと比べると、よりユーモラスで「楽しめる」要素がより多い。「謝肉祭と四旬節の戦い」(1559)などは宗教性はただのネタ元でマンガ的な作品に思えてしまう。「ネーデルラントのことわざ」(1559)は絵としてのおもしろさのほかに、謎解きのおもしろさが加わる。「こどもの遊び」なども同様で、こども好きだったのではないかと思わせる。「怠け者の天国」(1567)は見る者をにやりとさせないではいない。「農民の踊り」なども風俗画として楽しいが、風刺や謎解きといった知的な態度よりも、写実によってひきつける。そして彼の写実は、超絶的な技術による客観的再現というだけでなく、対象への感情移入の力にもよると思われる。ランブールの月暦の農民はそれとして興味深いが、画家は農民も自然の一部である「光景」として突き放して描いているように感じられる。ブリューゲルは踊り、あるいは飲み食いする農民に共感しており、私達はそれを「眺めている」というよりそこに「居合わせている」感じを抱く。イタリア・ルネッサンスの「理想化」ともボス風の「戯画化」とも違う、リアリズムの本道があるように思われる。「雪中の狩人」(1565、ウィーン、美術史美術館) も庶民の生活を描いているが、風景画としての「美しさ」や風俗画としての「面白さ」を超えた深みを感じさせる。獲物が乏しかった狩人たちの、また共にした猟犬たちもの、疲れが重い足取りとともに伝わってくる。それでも帰っていかなければならない。生きることの重さも感じさせられる。遠くではこどもたちが無邪気に氷遊びに興じている。彼の宗教性についてはどう考えるべきなのか。「バベルの塔」(1563)はまずその精緻な描写で見る者を圧倒するが、技術力のすごさだけでない何かによって私達を考えさせる。塔(建築)や各種の船(商業や戦争)等に示される人間の生活欲や果てのない創造力に改めて感嘆するとともに、しかしそれがとんでもない愚かしさや虚しさと結びついているのではないかという疑念もわかせる。「イカロスの墜落」(1555、ベルギー王立美術館)はギリシャ神話に基づく絵である。しかし一見して神話上の形象は見られず、風景画のようである。大船も行き交う海の果てには日が沈もうとしており、遠くに高い山が連なる。手前の岸では農夫が馬で耕し、羊飼いもいて風俗画の要素もある。天に迫ろうと塔を建てたバベルの人々のように、太陽と競ったイカロスは熱で翼を溶かされて海に落ちるのであるが、――よくよく見ると右下の隅に、足だけ水面上に出した「犬神家」状態になっているのがイカロスなのである。主題が中心に描かれず、探さないとわからないような端っこにある。もしかしたらそれが本当の悲劇なのかもしれない。重大な出来事に人々は気づかず、いわば眠っている。農夫は足元を見つめ、羊飼いは空を見上げているようだが、ばたついているイカロスには背を向けている。近くの岸の赤帽の男も、目の前のイカロスでなくて手元に気をとられている。「十字架を担うキリスト」(1564)でも、群衆の中にキリストは埋没しており、探すのに苦労する。これに立ち会った人々の大部分にとってこれは救済史的な、人類と自分に決定的な出来事ではなく、「ユダヤの王」としてかつがれた反体制派の首領の処刑として、ありがちな、いっときは煽情的だが間もなく忘れられるような「事件」の一つだったのかもしれない。「幼児虐殺」「ベツレヘムの戸籍調査」(1566)も新約聖書の挿話を描いている。雪が積もった村の光景はパレスチナというよりフランドルである。ヘロデ王の虐殺の史実自体疑わしいが、画家は事柄の普遍性を見抜いているようである。独裁者は自らの権力を脅かす存在に脅え、それを絞め殺そうとする。そしてその巻き添えで多くの無垢な者たちが殺されてきた。まさにこの時期、スペインのアルバ公は、フランドルの新教徒の大弾圧を始めるのである。「二匹の猿」(1562)は鎖につながれ、窓の外の、海を行く船や空を飛ぶ鳥に目を向けず、背を丸めている。
文献案内
① 『世界美術大全集、第十四巻、北方ルネサンス』(責任編集 勝国興)小学館、1995
② ベネシュ『北方ルネサンスの美術』岩崎美術社、1971
③ 越宏一『風景画の出現』岩波書店、2004
④ 掛下栄一郎『神の狂気の美を求めて――ヒエロニムス・ボッスの旅――』成文堂、1992
⑤ デューラー『自伝と書簡』前川誠郎訳、岩波文庫、2009
⑥ 中野孝次『ブリューゲルへの旅』[1976]文春文庫、2004
⑦ 『土方定一著作集2ドイツ・ルネサンスの画家たち』平凡社、1976
⑧ 土方定一『ブリューゲル』美術出版社、1963
⑨ クラーク『風景画論』[1949]佐々木英也訳、岩崎美術社、1967
⑩ 『世界美術辞典』新潮社、1985
Die Schlacht zwischen
Alexander dem Großen und dem Perserkönig Darius III. bei Issus im Jahre
333 v. Chr. beendete das Vordrängen der Perser. Alexander siegt und
Darius wendet sich zur Flucht.